第三章 第一次ゲームと第二次ゲーム  ──ゲームは二種類に大別される──  「ゲーム=競技」という図式に立ってゲームを見直すと、常識的 なゲームに対する見方(ゲーム=遊び、という見方)では分らなか ったことが見えてきます。これから述べる第一次ゲーム・第二次ゲ ームという区別もその一つです。一口にゲームと言っても、その中 身によって二種類に分けられるのです。いや、分けなければならな いと言った方が当たっているかも知れない。この章ではその区別に ついて述べ、次の章では実際の第二次ゲームについて述べることに しましょう。  第一次ゲーム・第二次ゲームというのはもちろん私の命名で、他 のゲームの本を見ても恐らくこのような区別や解釈は載っていない ことでしょう。というのも「ゲーム=競技」ということが分らない とゲームを論理的に述べることなど不可能だからです。「ゲーム= 競技」という観点から本書はゲーム理論を確立するという前代未聞 の試みを行っています。何せ前代未聞なので、一度に第一次・第二 次の区別を説明せずに、順を追ってこの区別を見ていきたいと思い ます。しかしとりあえず、こういうふうに仮の説明をしておきまし ょう。  第一次ゲーム……本来のゲーム、正真正銘の「競技」  第二次ゲーム……二次的なゲーム、競技的要素の薄いゲーム          厳密には競技とは言えないもの  ──複数競技者によるゲーム(≒第一次ゲーム)──  では最初として、複数の人数で行うゲームと一人で行うゲームと の違いに注目してみましょう。 大まかに言って、本来の競技である第一次ゲームはほとんど複数 の競技者によって競われます(理由は後述)。それと対照的に第二 次ゲームには一人で行われるゲームが多い。ファミコンのゲームな どは競技性が薄く、ほとんどが第二次ゲームであると言えるでしょ う。例外も無論ありますが。 それでは複数競技者によるゲームを解剖してみましょう。まず例 によって図解することから始めます。  先手──勝利──後手 これは連珠(将棋でも囲碁でも可)を図示したものです。この場 合、複数と言っても競技者は二人だけです。プロ同士の試合になる と時計係や記録員なども競技にかかわってくるのですが、それらは 競技者ではないから勘定には入れません。この型は更に次のように 一般化できます。 個人──勝利──個人  この型のゲーム(競技)にはどんなものがあるでしょうか。囲碁・ 将棋の他にはオセロゲーム・チェス・チェッカー・バックギャモン 等が挙げられます。これらはみな頭を使う知的ゲームです。体力を 競うゲームに目を転ずると、相撲・ボクシング等があります(相撲 のことをゲームと呼ぶのが変に感じられるという方は「ゲーム=遊 び」という常識を捨て、「ゲーム」という言葉を「競技」という言 葉と入れ替えてお考え下さい。「ゲーム=競技」なのですから、本 来そういうふうに考えるのが正当なのです)。第二章で例に出した 「ジャンケン」も(二人で行えば)個人と個人によるゲームである といえましょう。もっともジャンケンでは力を競うでなく知恵比べ をするでもなく、ただ運のみを競っているように思われますが。 Lチーム──勝利──Bチーム  右はペナントレースのある一戦です。このありふれた野球の一ゲ ームも複数の人間の争いです。しかし前の連珠の図と比べるとちょ っと違う所があります。お気付きのように先の図における「先手」 「後手」がそれぞれ一人ずつだったのに対し、この場合の「Lチー ム」「Gチーム」はそれ自体複数の人間からなっていることです。 したがって一般化するとこうなるでしょう。  団体──勝利──団体  こういう型のゲーム(競技)には野球・サッカー・バレーボール などがあります。テニスはシングルスなら「個人−個人」の型、ダ ブルスなら「団体−団体」の型です。 改めて強調する必要も無いことですが、この型の場合、一つの「団 体」内の利害は一致しているはずです。だから一つの団体を一つの 「個」とも考えることができます。つまり「個人−個人」型と「団 体−団体」型はその本質において相違するところはありません。し たがって以上二つの型を次のような図にまとめることができます。  個──勝利──個  では次の例を見てください。      個 人      |  個人──勝 利──個人      |      個 人 これは麻雀を図示したものです。この場合四人の個人(競技者) が勝敗を競っています。四人はそれぞれが対立していて利害関係は それぞれ別々です。モノポリーを四人で行えば当然この型になりま す。トランプの「コントラクト=ブリッジ」というゲームを御存知 でしょうか。少し前に「ブリッジを覚えよう」というような題のテ レビ番組が放送されたのでそれを見たという方もいらっしゃるかと 思います。このトランプゲームは四人で行い、テーブルを囲んで四 人が座るところなど全く麻雀と同じです。麻雀牌をカードに持ち替 えるとそのままブリッジができるでしょう。けれども両者には大き く違う点があります。ブリッジは麻雀のように個人対抗戦ではなく、 向い合った同士が組んで戦う競技なのです。したがって図解すると、 団体(向い合った二名)──勝利──団体(向い合った二名) こうなります。麻雀の図解とどう違うか、またそれは何故かという ことは一々説明しません。  それでは次のゲームは何でしょうか。     団 体    団 体      |     |  団体──勝………………利──団体      |     |     団 体    団 体 実はこれはプロ野球なのです。六つの「団体」はリーグの中の六 球団であり、真ん中の「勝利」は個々の試合における勝利ではなく リーグ優勝という勝利を示しています。野球の一試合一試合は、 Lチーム(団体)──勝利──Gチーム(団体)  (右図の「勝利」はあくまでその試合における勝利の意) というふうに表現できる。この方法で各チームが百三十試合を終え た時にいちばん勝率の高いチームが前記のリーグ優勝を得ることに なるのです。それを表したのが六つの団体に囲まれているさっきの 図です。つまり真ん中の「勝利」の意味合いによって同じ競技でも 図が変わってくることになる。このことでもゲームにとって「勝利」 というものが非常に重要であることが分ります。 ──第一次ゲームとは── ところでなぜ複数で行うゲームのことを「第一次ゲーム」「純粋 なゲーム」と(僅かな例外を除いて)表現するのかといえば、ゲー ムとは競技なのであり、少なくとも利害の対立した二人の(複数の) 競技者が参加しなければ競技にはならないからそう表現するのです。 逆に言うと利害の対立した複数の競技者が勝敗を競えばそれは必ず 第一次ゲーム(本来のゲーム、純粋な競技)だと言えます。つまり 第一次ゲームの一般的な図解は次のようになるでしょう。      個    |   個──勝 利──個       |       個  この図の「個」とは前のところで触れたように「個人または利害 を同じくする団体」を意味します。図ではその「個」が四人分(四 団体分)表示されていますがこれはあくまで例であって、第一次ゲ ームである為には「個」が二つ以上あればよいのです。例えば将棋 の場合「個」は二つです。麻雀では「個」が四つ。マラソンでは参 加競技者(単に参加者といわずこう表現すべきです)の数だけ「個」 が存在することになる。そして強調しておきたいのはそれら「個」 と「個」の間には勝利に対して公平かつ平等な関係があるというこ とです。この関係がなかったらゲームとは言えません。これについ ては第二章で詳述しました。  要するに本来のゲーム(競技)たる第一次ゲームとは、勝利から 対等な位置にある競技者(個人または利害の一致する団体)による 競い合いなのです。すると当然、前の図から考えても、第一次ゲー ムは複数の競技者によるゲームであり、そうでないものは二次的な ゲームなんだなと結論づけたくなります。が、実はそう簡単に片付 かないのです。矛盾するようですが、たった一人で行うゲームのな かにも第一次ゲームが存在し、複数競技者で行うゲームの中にも第 二次ゲームが存在するのです。それは何故でしょうか。また具体的 にはどんなゲームがその例外にあたるのでしょうか。それを見てみ ましょう。  前の図解で示したように、第一次ゲーム(本来の競技)である為 にはどうしても複数の競技者が必要になってきます。 個──勝利──個  この図の「個」がそのまま個人である場合、この第一次ゲームの 競技者は二人です。そしてこの場合が最小限の競技者の参加する第 一次ゲームであることは疑いを挟む余地はありません。にもかかわ らず一人で行う第一次ゲームが存在する……。実は単純な話で、要 するに人間以外のものがどちらかの「個」の立場にあってくれれば いいのです。人間以外というのは具体的にいうとコンピューターで す。つまり一人で行う第一次ゲーム(本来の競技)とは、人間対コ ンピューターによる対戦競技のことです。  個(人間)──勝利──個(コンピューター) 例えば右の図解はオセロゲームをコンピューターと対戦している ところです。もちろん他の競技、将棋や囲碁・連珠でも構いません。 こういう「対コンピューター型」の第一次ゲームの特徴は、ハンデ ィが多用されることです。理由はもちろんコンピューターが人間に 比べて弱い為に。コンピューター麻雀によくある法外なツキやコン ピューター将棋・囲碁などで人間側に課せられる制限時間がそのハ ンディにあたります。ハンディキャップが多用されるということは それだけ純粋な競技性が失われることになり(ハンディキャップを 加えるとはゲームバランスを崩す方法です──第二章参照)「第一 次ゲーム」の名に値しないような気がしますが、コンピューターが 将来もっと賢くなりハンディが不必要になるときのことを考えて第 一次ゲームの仲間に加えておくことにします(もっともコンピュー ターオセロやチェスは現在でも相当強いように思いますが)。  では次なる例外、「複数で行うにもかかわらず厳密には競技と言 いがたいもの(第一次ゲームと言えないもの)」について述べまし ょう。何度も図解したように、第一次ゲーム、すなわち正真正銘の 競技には勝利を挟んだ次のような関係があります。 競技者──勝利──競技者  そして逆に言うとこういう関係があればそれは必ず第一次ゲーム であるといえるのです。では複数で行うにもかかわらず第一次ゲー ムと呼べない例外的な存在とはどういうものでしょうか。それは複 数の競技者が参加していても、その競技者全員の利害が一致してい る状態で行われる形態のゲームを指していうのです。 「利害の一致している複数の競技者」というのは例えば野球の同 一チーム内の選手がそうでしょう。もちろん野球自体は利害の対立 する複数の競技者で勝敗を競う「第一次ゲーム」なので、チームが 一つだけでは野球はできません。けれどもゲームのなかには利害が 一致している団体が一つだけで行うゲームがあるのです。あたかも 野球の一チームだけで競技をするようなものが存在するのです(代 表的なのは会話型ロールプレイングゲームと呼ばれるもので、これ については第四章で解説します)。競技者全員の利害が一致した状 態でゲームが行われるということは、要するに「個」が一つしかな いということです。そしてこの、「『個』が一つしかない状態で行 われるゲーム」こそ「第二次ゲーム」とでも呼ぶべき、厳密には競 技とは言えない二次的なゲームなのです。第二次ゲームには一人で 行うゲームが多いという理由もこれで明らかでしょう。  ここで第一次ゲームと第二次ゲームの正確な定義を記しておくこ とにします。  第一次ゲーム……「個」が二つ以上で行われる正真正銘の競技  第二次ゲーム……「個」が一つしかない状態で行われるゲーム          したがって厳密には競技とは言えない それでは次からは「第二次ゲーム」について、その性質や特徴を 解説することにします。 ──第二次ゲームについて── 第一次ゲームとは純粋な競技であり、正真正銘のゲームです。そ れに対して第二次ゲームは競技性に欠けるところの多い「二次的な」 ゲームであり、「準ゲーム」とでも表現するべきものです。しかし 二次的であるにせよ「ゲーム」の内に含めて考えるのにはそれなり の理由があります。 何度も強調したように、ゲームとは競技であり「ある規則に従っ て勝敗を競う」ものです。ところが「個」が一つしか存在しない状 態では、勝敗を競おうにもその相手がいない。そこで第二次ゲーム (「個」が一つしかないゲーム)では、いかにもゲームらしく見せ かけるために「人工的な敵」を設けています。そしてこれある故に、 純粋な競技性に欠けていても「第二次ゲーム」をゲームの仲間とし て扱いたいのです。 ゲームアーケード(いわゆるゲームセンター)にある「シューテ ィングゲーム」と呼ばれるゲームにはたいてい飛行機か宇宙船が主 役として登場します。けれどもそれだけではゲームにならない。飛 行機や宇宙船が登場するだけではゲームとは言えません。ゲームの 本質とは「勝敗を競うこと」ですから何者かと競わなければゲーム にはならないのです。そこで人工的な敵が登場する。こちらを撃墜 するべくミサイルやレーザー砲を放ってくる「敵機」がそれです。 プレイヤー(遊戯者ではなく競技者)は敵弾をかいくぐって敵機を 撃ち落とし最終最後の要塞までたどり着き、それをも撃破しなけれ ばならない──このように、人工的な「敵」が存在することによっ て一人でも、つまり「個」が一つでも、ゲームを行う(といっても あくまで二次的なゲームですが)ことが可能になるのです。 ところでこの場合、別な二人がある同じシューティングゲームを 同時に行って、ゲーム終了時に得点の多かった方を勝ちとするとい う取り決めをしたとするとどうでしょうか。これだと話はまるで違 ってくる。なぜならこの場合、そのゲームを用いて二人が純粋な競 い合いをしたことになりますから、第二次ではなく第一次ゲームに 属することになってしまうからです。図解すると、  個────勝利────個 (勝利の条件=ゲーム終了時に得点がより多いこと) となる。「個」が一つしかない状態で行うゲームが第二次ゲームな のに、この図解では「個」が二つあります。このような競技方法は 第一次ゲームに含まれることですからここでは問題にしません。主 に一人で行う第二次ゲームでは「何者かと競う」といっても対等な 相手を設けて競技を行うわけではありません。それをすると第二次 ゲームとは言えなくなります。「対コンピューター」型の対戦ゲー ムも先に述べたように第二次ではなく第一次ゲームだと見るべきで す。したがって第二次ゲームにおける「人工的な敵」は、今の図の ような「競い合う相手」つまり自分以外の「個」としてではなく、 こちらの進行を邪魔するような存在として現れます。シューティン グゲームに出てくる「敵機」などは正にそういう存在です。「やら れ役」という表現も面白いかもしれない。そういう「人工的な敵」 の例を次に二つばかり挙げてみます。 数年前に大ヒットしてファミコンの名前を一躍高めた「スーパー マリオブラザーズ」も「個」が一つで行うゲーム(この場合「個」 はそのまま個人です。交互に一人ずつ行うというのはつまり一人で 行うのと差はありません。画面に一度に二人分のキャラクターが出 てくる「二人同時プレイ」ならば話は別で、「個」は二人を意味す ることになります)つまり第二次ゲームであり、人工的な敵がたく さん登場します。要するにプレイヤーはマリオを操って画面を右に 右にずっと進んで行けばいいのですが、ただでは通してくれません。 いろいろな「敵」が登場してこちらの邪魔をしてきます。地形も複 雑で、だだっ広い谷間があったり特定の順序を守らないと抜けられ ない迷路があったりと、マリオが目的地に着くのを大いに妨げてく れます。後半になると厳しくなる制限時間も人工的な敵の一つとい えるでしょう。「人工的な敵」が野球での相手チームのような「対 等な立場にある敵」ではなく、単に競技者が目的を達するのを邪魔 する存在であることがよく分ります(この場合、マリオに向ってく る「敵」は確かに「やられ役」と言えます。けれども迷路や制限時 間などはそうは言えない。しかし、どちらも「人工的な敵」の内に 含まれます)。  一時大変なブームになって専門誌まで発行されたゲームブックも 第二次ゲームの一種です(但し例外もあります)。故にゲームブッ クには人工的な敵、すなわちプレイヤーが目的を達成するのを邪魔 してくる人工的な障害物が存在するはずです。然り。ゲームブック を一度でも試してごらんになった方は御存知だと思いますが、ゲー ムブックにはあちこちに罠が仕掛けられていて、競技者が容易に「真 の結末」にたどり着けない仕組みになっています。時には突然現れ た怪物と戦わなければならないこともある。もちろん負ければ(勝 敗はサイコロを振って決めることが多い)その場で主人公は悲劇的 な死を迎えたことになってゲーム終了です。全く厄介な障害物です が、これが存在するゆえに「ゲーム」ブックだといえるのです。 ──なぜ障害物が存在するとゲームらしく見えるのか──  いま私は「これ(人工的な障害物)が存在するゆえに『ゲーム』 ブックだといえる」と書きました。これをゲーム一般に広げて書き 直すと「何らかの障害物が存在する故にゲームだと言える」という 文になるでしょうか(正確には障害物が存在するだけでは不十分で、 ゲームであるためには整ったバランスが必要不可欠です。第二章参 照)。このことはよく考えれば当たり前のことなので説明は不用か もしれませんが、ゲーム性の根幹にかかわってくることなので、第 二次ゲームのことはひとまず置いて、説明を加えておくことにしま しょう。  こちらの進行を妨害する「敵」の存在によって初めてゲームらし くなるということは、逆に考えると、何ら邪魔する存在もなく目的 を達成できるようなものはゲームではないということです。例えば 読書がそうでしょう。本を読む場合、とにかく投げ出さずにずうっ と読んでおれば自然と結末まで進むことができます。一方「ゲーム」 ブックの場合は普通の読書と異なり、目的(真の結末)まで進もう と努力しても「敵」の攻撃を受けて途中で挫折してしまうこともあ り得ます。──もちろん普通の読書の場合でも途中で飽いてしまえ ば中途で挫折してしまうことはあるのですが、自分自身が嫌になっ て投げ出したのでは何事も成就するはずはなく、こういうのを「敵 の妨害にあった」とは言いません(注)──。 「敵」の妨害を受けて目的を果せないことがあるというのは何も ゲームブックだけの話ではなく、およそゲームというゲームに言え ることでしょう。勝とうと思って麻雀をしても、どうもツキがなか ったり相手の方が実力が上であったならいくら奮闘しても勝利を得 ることは難しい。その逆に横綱が格下の力士に負けることだってあ り得る。ゲームとは競技です。勝敗を競っているのですから、懸命 になろうと実力差があろうと必ず勝てるとは限らない。ここがゲー ムの大きな特色です(第二章の「勝敗の行方が見える」「見えない」 を参照)。ゲーム=遊び、と把握していたらこのことは分らない。 ゲーム=競技、と気付いてこそ理解できることです。 「走る」という同じ行為であっても、ジョギングとマラソンとは 性質が違います。マラソンは競技でありつまりゲームですが、ジョ ギングはゲームではありません。その違いは何か。ゲーム=遊び、 などと考えていたらとても説明などできません。──例えば一キロ ほど先にある大木のところまで走らなければならないとする。走る ことをやめなければ何分後かにはその大木までたどり着けるでしょ うから、これはゲームではありません。努力さえすれば自然と目的 を達成できるようなものはゲームとは言いません。しかし同じ大木 のところまで走るにも、何人かで競走をして一番にならなければな らないとすると話は違ってきます。この場合、いくら努力しても、 つまり全力で走っても、自分より足の速い人がいたらどうにもなら ないことになる。つまりゲームになってしまうのです。        個        |    個──勝 利(条件=一番に大木までたどり着くこと)        |        個 ある一定の距離を走ることが目的であるジョギングは、走ること さえ止めなければ、いつか必ず目的を達成できる。しかしマラソン は競技ですから、他の競技者、つまり「敵」に勝たねば目的を達成 することはできない。つまり、ゲームである為には(第一次であれ 第二次であれ)競技者の行手を阻むような何かがなければならない のです。ゲームブックをなぜ「ゲーム」ブックと呼ぶのかといえば、 「敵」を倒しながら真の結末へと進むという競技的性質を持つ故に 「ゲーム」ブックと呼ぶのであって、ゲームブックが「遊びの本」 だからではありません。いろいろな遊び道具が満載されているカタ ログ的な「遊びの本」というのがありますが、ああいうのはゲーム ブックとは言わない。子供が漫画本を読んでいると「またマンガな んか見て遊んでる!」と母親に叱られることがある。正に子供にと って漫画は遊びの一種であるけれども、だからといって漫画本をゲ ームブックとは誰も言いません。本自体に競技の要素が含まれてい るからこそ「ゲーム」ブックと呼ばれるのであって、遊びとは一切 関係ない。だから遊びの要素の無いゲームブックがあっても差し支 えないと思います。例えばゲームブック形式の教材(情報量が少な いので学習参考書などには向かないでしょう。「会社のマナー」「茶 道の礼儀」などという類なら面白いかも知れない)などがあっても 構わないと思います。こういったことからも「ゲーム=遊び」では なく「ゲーム=競技」ということが確認できるように思います。  注釈……ここは誤解されそうなので、第二次ゲームにおける「人 工的な敵・障害」の意味をもう少し詳しく説明することにします。 ある本を読もうと思って手にしても、いつもいつも意志の通りに 読み終えることができるわけではありません。読書に限らず、何か を成そうとするとその反対に作用する力が生ずるものです。それは 目的の前に立ちはだかる障害といえるでしょう。けれども第二次ゲ ームについての「人工的な敵」「障害」とはそういう障害を指して いるのではありません。初心を妨げようとする類の「障害」とは多 くは己身に生ずるもので、個人により程度の差が激しい。例えば学 術書を読まねばならぬとき、余りその分野に興味を持たない学生が 課題として取り上げなければならない時と、知識豊富な専門家が検 証しながら読むのとでは全く状況が異なるでしょう。前者の場合に は恐らく読破するにあたって大きな「障害」(面倒である、書いて あることが分らなくて読む気が起こらないなど)があるでしょうが、 後者の場合はほとんど障害らしい障害もなしに読了してしまうでし ょう。そのほか一般的に、意志薄弱な人と意志堅固な人では何かを 成し遂げる場合の「障害」が全く異なってくることは容易に想像で きます。 これに対し、第二次ゲームにおける「障害物」とはゲーム自体に よって設置される「人工的な敵」であり、本人の意志力などとはま るで無関係なのです。例えばゲームブックをするとき、目的に達す るのを邪魔する「人工的な障害物」はそのゲームブックをする人に は関係なく一定です。文中に出てくる「敵」の強さがゲームをする 人によって変わるなどということはあり得ません。これに対し、何 事も最後まで成し遂げるのは大変だという意味の「障害」の大きさ はその人の意志力によって変わってきます。──「普通の読書には 人工的な障害物など存在しない」とはゲームブック的な障害物を指 して「存在しない」と言っているのです。……注釈終わり。