ファレイヌ2 第12話「吸血鬼」中編 5 帰還 「どうだ、首尾は?」 アジトの教会堂に戻ってきたエレクトラをカライスが出迎えた。 「失敗よ」 エレクトラは素気ない口調で答えた。 「失敗だと−−」 カライスが目を細める。 「血を集めるのには成功したわ。でも、その血を収めたトルコ石を キティに奪われてしまったのよ、回収する前にね」 エレクトラはそう言って、事情を簡単に打ち明けた。 「奪われた−−か。それでおまえは何もせずに戻ってきたのか」 「ふふ、私が何もせずに戻ってくるとでも思って?あのトルコ石は 私が特別に作った魔法石よ。まあ、見てなさい。まだまだあの石は 人を襲うから。回収はそれからでも遅くないわ」 エレクトラは不敵な笑みを浮かべて、言った。 6 青い石 午前2時。美佳とエリナはそれぞれの布団で、眠っていた。 エリナは眠りにつく前も後もそれほど変わらず、枕を頭の下にし て、仰向けにまっすぐ寝ているのに対し、美佳は眠っている間は、 枕を抱きしめ、右に左にごろんごろん寝返りを打っている。 二人ともいびきはかかないが、美佳の場合、寝言が多く、悪夢に うなされることも少なくない。エリナは時々、美佳の声で起きてし まうことがある。 この夜もエリナは美佳の声で目を覚ました。 「姉貴!!姉貴」 美佳は眠りながら、譫言のように言っている。 美佳さん−− エリナは布団から出ると、隣の布団へ行き、寝ている美佳の前に 座って、美佳の右手を両手で握った。美佳も無意識のうちにエリナ の手を握り返す。 しばらくそうしていると、美佳の寝言もやみ、小さな寝息をたて て静かに眠るようになった。 「まだ子供なんですよね−−」 エリナは美佳の寝顔を見て、微笑んだ。 最初に美佳と行動を共にした頃、エリナは美佳のことを軟弱な人 間だと思った。早坂秋乃の時も、河野の時も、ジェシカの時も、美 佳は自分が命を狙われているのにも関わらず、彼らを殺すどころか 、逆に助けようとした。それはこれまでファレイヌとして生きてき たエリナにとっては衝撃的なことだった。やられたらやり返すのが 、ファレイヌのやり方であり、そこには同情や慈愛などと言うもの は全くなかったのである。 しかし、美佳はファレイヌの性格とは全く正反対であった。復讐 を嫌い、復讐のために戦うことはしなかった。そして、友情に対す る考え方も、美佳は与える友情であり、もらう友情はなかった。戦 いの時は常に一人で戦おうとし、決して頼ることはなく、その割に 友情のためには自分の命を投げ出して、助けようとする。 エリナがそんな美佳の性格を理解するようになったのは、ファレ イヌの頃より人間になってからの方が強かった。自分がファレイヌ の頃は一心同体のように戦っていた美佳が、人間になってからはす っかり一線を引くようになってしまった。大事な人を失いたくない 。美佳の心にはこの気持ちが異常に強いようにエリナは感じていた 。恐らく美佳を知らない人間が美佳を見たら、他人を信用しない自 分勝手な人間に写るだろう。 「美佳さん……」 エリナはそっと美佳の手を放した。 パサッ その時、壁のハンガーに掛かっていた美佳のジーンズが落ちた。 ?−− エリナはその音に振り返った。見ると、落ちたジーンズのポケッ トの辺りが青白く光っている。 「確かあのジーンズにはトルコ石が−−」 エリナはジーンズを拾い上げ、ポケットの中をそっと覗き込んだ 。 パシュッ!! その時、突然、青い石がポケットの中から飛び出した。 「はっ!」 エリナは反射的に身をかわす。 「これは−−」 エリナは眉を寄せた。 床に落ちたトルコ石は緩やかな点滅を繰り返しながら、エリナの 方へ向きを変えると、再びエリナに襲いかかった。 7 朝 翌朝、美佳は目覚まし時計の音で目を覚ました。 ひたすらブーブーと鳴く豚の目覚まし時計を壁に投げつけて、止 めると、美佳は起きて、両手を上げてうーんと伸びをした。 「ふわあぁぁ、今日も朝がやってきたかぁ」 美佳は台所へ行くと、冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップで飲ん だ。 「はぁ、やっぱ冷たい牛乳はいいわ」 美佳はコップを置いて、大きく息をした。 「ねえ、エリナも飲む?」 美佳が居間の方を見ると、エリナは薄いかけ布団を頭から被って 、寝ていた。 「あれ、エリナ、どうしたの?」 美佳はエリナに声をかけた。 「……」 「?」 美佳はエリナの布団に歩み寄った。 「エリナ、起きてる?」 美佳はエリナの布団を揺さぶった。 「ええ……」 布団の中からエリナの小さな声が聞こえた。 「そう、どっか具合でも悪いの?」 美佳は少し心配になって、尋ねた。 「ちょっと寒気がして……でも、大丈夫ですわ」 エリナは布団から顔を半分出して、笑顔で言った。しかし、彼女 の顔には血色がなかった。 「それならいいけど、今日は私一人でスタジオに行くから、エリナ は休んでていいわよ」 「いいえ、そう言うわけにいきませんわ」 エリナは布団から出た。 「たまには休みなよ」 美佳は着替えをしながら、言った。 「でも−−」 「大丈夫だって。さあ、ほら寝て。お粥作ってあげるからさ」 美佳は無理矢理、エリナを布団に寝かせると、台所へ行った。 この時、美佳はまだ事の重要性に気づいていなかった。 8 最終電車 午前零時。一人の若い女がプラットホームに立っていた。 女は年の頃は20代前半、OL風の服装をしていた。 女は手元の腕時計ではなく、駅の大時計を何度も見やりながら、 最終電車の来るのを待っている。 「暑いわね」 女はハンカチで首の汗を軽く拭いた。 プラットホームには駅員を除けば、他に人はいなかった。いくら 終電とはいえ、これだけ人気のないのも珍しかった。 次列車到着の表示板が点灯した。 女は列車の来る方向を見た。 二つの光が遠くに見える。 客のほとんど乗っていない列車はまるで光に包まれた列車のよう であった。 電車はプラットホームに到着する。 ドアが静かに開いた。 女は降りる客がいないと思い、待つことなく電車に乗り込もうと した。だが、女がその一歩を踏み出した時、背後から何者かが女の 両肩を掴んだ。 「?」 ふいのことで女は何が何だかわからなかった。 「だ、誰?」 女は振り向こうとした。 その瞬間、背後にいた吸血鬼がうなり声を上げながら、口を大き く開け、鋭い牙をむき出しにして、女の首に噛みついた。 9 留守 「うひゃあ、遅くなっちゃったよ」 美佳はアパートへの帰路を全速力で走っていた。 −−全くこういう日に限って、電車がストップするのよね。 今日の美佳は、朝一番の新幹線で大阪へ行き、そこで半日CD− ROMゲームのアフレコの仕事をやっていた。普段の美佳なら大阪 で一泊するところだが、エリナが心配な美佳は、仕事が終わると、 すぐに新幹線に乗り込んだのだった。 しかし、その日に限って、信号故障が起こり、美佳の乗った新幹 線は駅と駅の間で3時間、停車を余儀なくされた。 「はあ、はあ」 美佳はアパートの自分の部屋の前まで駆けて来ると、立ち止まり 、その場で大きく深呼吸をして呼吸を整えた。 「もうこんな時間じゃ寝てるよね」 美佳は鍵をリュックから取り出し、ドアの鍵穴に差し込んで、ま わした。 「あれ、鍵がかかっちゃった」 ドアの鍵がロックされる音に美佳は声を上げた。 「おかしいな、朝、鍵はかけたんだけど−−」 美佳はドアのロックを解除して、ドアを開けた。 部屋は真っ暗だった。しかし、慣れた部屋なので、美佳はそのま ま靴を脱いで、部屋に入った。 居間にはエリナの布団がしいてあった。 「エリナ、ただいま」 美佳はそっとエリナの布団に歩み寄り、布団をめくった。 「!?いない」 布団の中はもぬけの殻だった。 美佳は布団をさわってみた。 「あんまり温かくないわね−−」 美佳は立ち上がって、電気をつけ、部屋のあちこちを回って、エ リナを探したが、見つからなかった。 「おかしいわね、どこへ行ったのかしら」 美佳が首を傾げている時、玄関のドアの開く音がした。 美佳がはっとしてすぐに玄関に行くと、そこにはエリナが立って いた。 「エリナ、どこ行ってたの?」 美佳は自分のことは棚に上げて、エリナに尋ねた。 「ちょっと暑かったんで、散歩してたんです」 エリナは伏せ目がちに言った。エリナは朝よりも顔色が悪く、体 もだるそうだった。 「そう、それならいいけど、脅かさないでよね」 美佳はエリナに手を貸して、彼女を布団に寝かせた。 「ねえ、何だか、今朝より顔色悪いけど、大丈夫?」 美佳は心配そうに言った。 「ただの風邪ですわ。薬も飲みましたし、一晩寝れば、大丈夫です 。それより、お仕事の方はどうでした?」 「仕事の方はいつもの通りよ。ただ、帰りの新幹線が止まっちゃっ て、遅くなっちゃったけどね」 美佳は苦笑して、言った。 「泊まってくれば、よかったのに」 「ホテルになんか泊まったら、エリナが心配で逆に一晩中眠れなく なっちゃうわよ」 「仕方ないですね、美佳さんは」 エリナは溜息をついて、言った。 「何よ、せっかく帰ってきてあげたのに」 美佳はちょっとふくれた。 「美佳さん−−」 エリナは少し考え込んでから、言った。 「何?」 「いいえ、何でもないですわ。明日も仕事ですし、美佳さん、早く 寝て下さいね」 エリナはそう言うと、静かに目をつむった。 10 スタジオ 翌日、美佳は病気のエリナをアパートに残して、一人でラジオ番 組の収録に出かけた。 「あら、ナオちゃん、おはよう」 いつものように番組の収録が終え、録音室から出た美佳は、廊下 で奈緒美の姿を見つけ、挨拶した。 「仕事がないといいながら、結構やってるじゃない」 奈緒美は皮肉っぽく言った。 「甘い、甘い。週2本のレギュラーじゃ、ナオちゃんの給料の半分 にもならないんだから」 と美佳はハンカチで汗を拭きながら、言った。 「全くよくそんな厚着してられるね、私なんかTシャツ一枚だよ」 美佳の服装はだぶだふのシャツとジーンズだけである。ちなみに 奈緒美は紺のダブルスーツである。 「あんた、ブラジャーぐらいしなさいよ。汗ですけすけになっても 知らないわよ」 「残念でした。このシャツはタオルみたいに厚手だから、見えない のよ」 「あっそ。あんたは開放的でいいわよ」 「それで何か用?お金ならまだ返せないからね」 「別に返してもらうことなんて期待しちゃいないわよ。それより、 また事件が起こったわ」 「事件って?」 「例の吸血鬼よ」 「え!また、出たの」 美佳は声を上げた。その声にまわりの人間が美佳を見る。 「ちょっと声がでかいわよ」 「ごめん、ごめん。それで襲われたのは?」 「会社帰りのOL。昨日の午前零時頃、Y駅のプラットホームで最 終電車に乗ろうとしたところを、犯人に襲われたの」 「随分具体的ね。目撃者でもいたの?」 「駅のモニターカメラがね、写していたのよ、犯行の瞬間を。犯人 の顔まではわからないけど、女だったわ」 「被害者は死んだの?」 「ええ、全身の3分の2の血を吸われてね。おかげで昨日はその捜 査で私も徹夜よ」 「それはごくろうさま。それで、犯人は捕まったの?」 「捕まえてたら、ここへは来ないわよ」 「どういうこと?」 「手がかりをもらいに来たの。美佳、この間、アエローがどうとか 言ってたじゃない」 「よく覚えてるわね、そんな昔のこと」 「昔って、一昨日でしょ」 「あ、あれは映画の話よ。映画にアエローって言う吸血鬼が出てき たの」 美佳は慌ててごまかした。 「何だ、そうなの」 奈緒美はがっかりした。 「そうがっかりしなくたって、手口も犯人の特徴もわかってるんだ し、現場周辺を虱潰しに当たれば簡単に捕まるんじゃない」 「あのね、あんたはそう言うけど、調べる方は大変なのよ」 「それが仕事なんだから、仕方ないでしょ。とにかく、頑張ってね 」 「少しは手伝いなさいよ」 「私はエリナの看病とかで忙しいから、駄目。じゃあね」 美佳は奈緒美の肩をぽんと叩くと、エレベータの方へ歩いていっ た。 11 夜間の外出 その夜、美佳は、エリナが病気で寝ているせいもあって、9時に はもう床に入ってしまった。1LKの辛いところである。 真夏の蒸し暑さの中、最初は全然眠れず、何度も寝返りを打って いた美佳も、1時間後には、寝息をたてながら、眠ってしまった。 エリナは、美佳が寝たのを確認すると、静かに布団から出た。 そして、衣装ダンスを開けて、中の服に着替え、そっと部屋を抜 け出した。 カチャッ−− しかし、エリナが外からドアを閉めた音に美佳は目を覚ました。 美佳自身、最初は何が原因で目を覚ましたのか、わからなかった 。ただこの時は目覚まし時計で無理矢理起こされた時のような眠気 はなく、意識がはっきりしていた。 「今、何か物音がしたような」 美佳は体を起こした。 周囲を見回すが、特に何も異変はない。薄闇の中、扇風機だけが 静かに回っている。 「普段、早寝なんてしないから、たまにするとこういう時間に起き ちゃうのよね」 美佳は頭をかきながら、布団を出た。 そして、台所へ行き、水を一杯、飲む。 「はぁ、本当に暑いわね。エアコンの部屋に住んでた頃がなつかし いわ」 美佳はコップを流し場に置くと、また居間に戻った。 「ん?」 自分の布団に入る前に、ふとエリナの方を見ると、布団が平たく なっている。 「まさか……」 美佳はエリナの布団をめくった。中にはエリナの姿はなかった。 「また散歩へ行ったのかしら。でも、二日続けて夜になんて」 美佳は急に心配になった。美佳は部屋の電気をつけると、すぐに 自分の服に着替え、外に出た。 「全く、昨日もこの近くで通り魔事件が起こってるのに−−」 美佳は夜道を走りながら、エリナを探し回った。 美佳は1時間あまり公園や駅を探し回ったが、エリナを見つけら れなかった。 「おかしいなぁ、どこへ行ったんだろ」 美佳は汗を拭きながら、呟いた。 「誰か、助けてぇ!!!」 その時、遠くの方で女性の金切り声が聞こえた。 「悲鳴だわ」 住宅街の道を歩いていた美佳は、声のした方へ向かって、懸命に 駆けた。 この辺りの住宅街はきちんと区画されていて、脇道がなく、現場 へ行くにも大回りしなければならなかった。 間にあって!! 美佳は直線の道をひた走り、目前の十字路を左に曲がった。 バタッ!! その途端、誰かとぶつかり、美佳は尻餅をついた。美佳は小柄な ので、誰とぶつかっても飛ばされてしまう。 「いたた、何よぉ」 美佳は腰をさすりながら、前を見た。「エ、エリナ!!!」 美佳は目の前に立っている女性を見て、驚きの声を上げた。 「美佳さん……」 美佳を見るエリナの方も驚いた様子だった。 「エリナ、どうしてこんなところにいるの?」 「わたくしは……」 エリナはその時、美佳ではなく美佳の後ろの方を見ていた。 「大丈夫ですか?」 「ちょっと腰を打ったわ」 美佳はエリナの手を借りて、立ち上がった。 「美佳さん、こんなところで何をしてるんですか」 「何をしてるって、エリナを捜しに−−そんなことより、大変よ、 さっき、女の人の悲鳴が−−」 美佳がエリナにそう言いかけた時、エリナの走ってきた方向から 二人の警官が走ってきた。 警官は美佳たちを見つけると、息を弾ませながら、尋ねた。 「失礼ですが、今、女が走ってきませんでしたか?」 「女?」 美佳はちらっとエリナの方を見た。「いいえ、誰も来ませんでし たけど、何かあったんですか?」 「通り魔が出たんです」 「通り魔?」 「ええ、巡回中に女性の悲鳴が聞こえたので駆けつけてみると、女 性が路上に倒れていまして、その百メートルぐらい先に逃げていく 不審者の姿が見えたんです」 「それで追ってきたってわけ?」 「ええ」 「私たち、これからコンビニへ買い物に行くところだったんだけど 、通り魔がいるなんてどうしよう」 美佳は不安げに言った。 「ご自宅まで送りましょうか」 「いいんですか?」 「ええ」 「それじゃあ、お願いします」 美佳は頭を下げた。「エリナ、あんたも頼みなさいよ」 「は、はい。よろしくお願いしますわ」 エリナも頭を下げた。 美佳はその際、エリナの耳元で囁いた。 「エリナ、あんたには後でじっくりと話を聞かせてもらうわよ」 12 否定 「エリナ、病気って言うのは嘘ね。今日も、昨日も何をしていたの ?」 美佳は警官に送られ、自室に戻ってから、エリナに厳しい口調で 尋ねた。 「……」 エリナは黙っていた。 「何で黙ってるの?私には言えないわけ」 「……」 「まさか、さっきの通り魔事件と関係あるんじゃ……」 「違います。わたくしは−−」 エリナは何かを言いかけたがすぐに目線を下げて、「散歩してた だけです」 「エリナ!!」 「美佳さん、信じて下さい。今はそれだけしか言えません」 エリナは静かに言った。 「そう、あくまで本当のことを言わない気ね。わかったわ」 美佳はぐっと拳を固めると、そのまま部屋を出ていこうとした。 「美佳さん、どこへ行くんですか?」 「エリナ、私たち親友じゃなかったの?悩みがあるんなら、相談し てよ。私はエリナのためなら、何だってするし、今までだってお互 い助け合って生きてきたじゃない」 「本当にそうでしょうか」 「え?」 「今まで美佳さんはわたくしを助けてはくれても、わたくしの助け は拒否してきましたわ」 「そんなことないよ。エリナにはマネージメントとか家計のやりく りで助けてもらってるし−−」 「そんなのは助けのうちに入りませんわ。わたくしは美佳さんと一 緒に戦いたいんです」 「エリナ……そのことは前にも言ったじゃない。私はエリナを失い たくないのよ」 「そんなの、自惚れですわ」 「え……」 「美佳さんは自分がガイアールの戦士だから、ファレイヌの使い手 だから、さぞわたくしが無力な人間に見えるんでしょうね。弱い人 間を助けるのは気持ちのいいことですものね−−」 「エリナ!!」 美佳はエリナの頬を平手で打った。 「反論できないと、暴力を振るうんですか」 エリナは頬を手で押さえながら、潤んだ目で言った。 「私は……エリナだけは私のこと、わかってると思ってたのにっ! !」 美佳は部屋を飛び出した。 「美佳さん……」 エリナは布団の上に座り込むと、ぽつりと呟いた。 13 美佳の気持ち 午前1時、通り魔事件の捜査を一時離れ、牧田奈緒美は自宅のブ ルーナイトマンションに帰宅した。 「たまには一晩くらい家で寝かせて欲しいものよね」 7階でエレベーターを降りると、奈緒美は大きく溜息をついた。 白い床の通路を通って、701号室の方へ奈緒美は歩いていった 。 「あれは−−」 自室の701号室のドアの前に座り込んでいる若い女性を見て、 奈緒美は足を止めた。「美佳?」 奈緒美は小走りに美佳の方に行った。 「美佳、何やってるの?」 体育座りをして、顔を膝に埋めている美佳を奈緒美は揺り動かし た。 「う、ううん、ああ、ナオちゃん」 美佳は顔を上げた。美佳の目の回りは真っ赤であった。 「泣いてたの?」 「ううん、違うよ」 美佳は腰を上げた。「ねえ、今夜、泊めてくれない?」 「別にいいけど、エリナと喧嘩でもしたの?」 「……」 美佳は黙り込んだ。 「まあ、とにかく入りなさい」 奈緒美は美佳を部屋の中へ入れた。 奈緒美は美佳を居間に連れていき、キッチンでレモンティーを入 れて、戻ってきた。 「どうぞ」 「ありがとう」 美佳はテーブルの上に置かれたカップを見つめながら、言った。 「さあ、事情を話して」 「話さなきゃ、駄目?」 美佳は元気のない声で言った。 「嫌なら無理には聞かないけど、話した方がすっきりすると思うよ 」 「うん……」 美佳は先程までのエリナとのやりとりを奈緒美に話した。 「そんなことがあったの」 「私、どうしていいのかわかんない。私はただ大事な人を失いたく ないから戦ってただけなのに。エリナにあんな風に思われてたなん て」 「エリナも美佳と同じ気持ちなのよ。美佳がエリナを失いたくない と思うようにね」 「そんなこと、わかってるよ。でも、現実は−−」 「コラッ、美佳、それがいけないんだぞ」 「え?」 「戦う気持ちがあれば、能力の差なんて関係ないんじゃない。エリ ナにとっては、美佳に守られるより、美佳と戦うことの方が幸せな のよ。その気持ちを押さえつけることは、かえってエリナを傷つけ ることになるわ」 「でも、もしそれでエリナが死んだら−−」 「それが彼女の生き方よ。彼女の人生だもの、美佳にそれを押さえ つける権利はないわ」 「ナオちゃんの言ってること、わかるよ。でも、私は嫌なの。エリ ナには将来、好きな人と結婚して幸せになってもらうんだから」 「それはあなたの夢でしょ」 「そうよ。でも、私には出来ないもの……」 美佳の目がまた涙で潤んだ。 「やれやれ、困った子だわ」 奈緒美はふうっと息をついた。「今夜は泊めてあげるけど、明日 は帰るのよ」 奈緒美はソファを立つと、寝室の方へ歩いていった。 一人居間に残った美佳はしばらくソファで考え込んでいた。 −−私って本当に短気だなぁ。すぐにカーッとなっちゃって。明 日、どんな顔でエリナに会えばいいんだろ。 美佳は冷めてしまったレモンティーを飲んだ。そして、ティーカ ップをテーブルに置くと、何気なくジーンズのポケットに手を入れ た。 −−ん? 美佳はその時、はっとした。 −−あれ、何もない。ポケットには確かトルコ石を入れておいた はずなのに。 美佳はもう片方のポケットと、後ろのポケットにも手を入れて、 調べてみた。 −−ない。トルコ石がないわ 美佳は急に心配になって、テーブルや椅子の下も覗き込んだ。 −−いつなくしたのかしら。昨日、今日は忙しくて、石のことな んかすっかり忘れてたけど、一昨日の寝る前までは間違いなくあっ たわよね。このジーンズのポケットは底が深いしから、意図的に出 さない限り、なくすはずないし。 まさか、エリナが?そういえば、昨日の朝からエリナの様子はお かしかったし、もしかしてエリナが私のジーンズのポケットから盗 んだってことも−−でも、何のために?自分で事件を調べるため? それとも、エリナ自身が吸血鬼に…… 美佳はそこまで考えた時、急に恐ろしくなった。 −−もしエリナがあの石のせいで吸血鬼になったんだとしたら、 エリナが急に病気になったり、二日続けて深夜に外出したのも…… 昼間、外出しないのは日の光を浴びるのを避けるためだとして、深 夜の外出は血を吸うためと考えれば、納得できるわ。そして、さっ き、路上でエリナとぶつかった時、エリナは現場の方から走ってき たのよね。だとすると、昨日、今日の通り魔事件はエリナの仕業っ て事?でも、もしエリナが吸血鬼なら、なぜ私を襲わなかったかし ら。昨日も今日も意識ははっきりしていたし。ちょっと待って…… そうだわ、笠間刑事の遺書に書いてあったことと似てる。彼の婚約 者の清水晶子もだんだん自分を抑えられなくなって、彼を襲わない ように自分の部屋に入れないようにした。もしエリナも彼女と同じ に考えたとしたら、私にあんなことを言ったのは、私を部屋から追 い出すため…… 「もしそうなら、こんなことしてられないわ」 美佳はソファを立つと、慌てて玄関へ向かって駆け出した。 続く