第47話「ミレーユの最期」中編 6 死の制裁 北条隆司のアパート−− ジリリリーン、ジリリリーン、ジリリリーン−− 黒電話がけたたましく鳴った。 布団をかぶって寝ていた北条隆司は電話の音に気づいてからもし ばらく無視していたが、あまりのしつこさにやっと目を開けた。 「何だよ、全く」 北条は近くの目覚まし時計を見た。「まだ2時半じゃないか、も う」 北条は文句を言ったが、電話は鳴り止まない。 「この寒いのに、しょうがないな」 北条は布団にくるまりながら、受話器を取った。 「はい、もしもし」 『あっ、隆司ね』 受話器から美佳の声が聞こえてきた。 「美佳か。こんな時間に何だよ」 睡眠を邪魔されて、北条は機嫌が悪い。 『遅い時間にごめんね。でも、隆司、大変なの』 「大変?」 『部屋に鍵を掛けて、すぐに警察を呼んで』 「警察?何でまた?」 『殺し屋が来るのよ。殺し屋が』 美佳は声を荒げて、言った。 「来るってどこに?」 『あなたのところによ』 「俺のところに?どうして」 『理由なんか説明してる暇なんかないわ。私もすぐにそっちへ行く からそれまで絶対に開けちゃ駄目よ』 「ああ」 ピンポーン その時、玄関のベルが鳴った。 「あっ、玄関のベルが鳴った」 『開けちゃ駄目よ、絶対!』 「あ、ああ」 ピンポーン、ピンポーン ベルが続けて鳴る。 『私、電話を切るから、すぐに警察に電話をして』 「一体、何て言って警察に電話するんだよ」 『そんなの何とでも言えるでしょ』 「わかった、電話してみるよ」 ピンポン、ピンポン、ピンポン…… ベルの音が間隔を置かずに連続で鳴った。 「おい、何か変だぜ」 北条は急に不安になった。 『落ち着いて。慌てちゃ駄目よ』 美佳は穏やかな口調で言った。 ガチャ、ガチャ、ガチャ−− 今度はドアを激しく開けようとする音がした。 『美佳、どうなってるんだ、異常だよ』 北条はドアの方を不安げに見ながら、受話器をぎゅっと握り締め 、声を絞って言った。 『隆司、警察へ電話するのよ。電話切るからね』 「待ってくれよ、美佳。これじゃあ、警察が来るまで待てないよ」 『勇気を出して!それじゃあ、切るわよ』 ドーン!! その時、鍵が壊れてドアが開いた。 『隆司、今の音は……』 「美佳、もう手遅れみたいだ」 北条は覚悟を決めて、電話を切った。そして、そばにあったテニ スラケットを手に取った。 そして、静かな足取りで玄関の方へ行った。 ちょうどその時、チェーンロックされたドアの隙間から黒い手袋 をした手が現れた。黒い手はチェーンを掴むと、手がほのかに光り チェーンを一瞬で切ってしまった。 −−何なんだ 北条は息を飲んだ。北条は慌てて奥の居間に戻ると、入り口のす ぐ横の壁に背中を付けた。 ドアが静かに開き、中へ誰かが入ってくる。北条はラケットを両 手で握り締め、息を顰めた。 ミシッ、ミシッという床を踏む音が暗闇の中から聞こえてくる。 北条はゆっくりテニスラケットを頭上へ掲げた。 −−何とか奴を殴り倒して、その間に外へ逃げよう 北条は体の震えを懸命に抑え、賊が来るのを待った。こんな緊迫 した場面に遭遇するのは北条自身初めてだった。 やがて黒い影が居間の方へ足を踏み入れた。 −−今だ!! 入り口で待ちかまえていた北条は一気にテニスラケットを黒い影 目がけて、振り下ろした。 ビュン! 鋭く風を切る音がした。しかし、その一撃は空振りだった。 「そんな振りじゃ豚も殺せはしないわ」 暗闇の中から声がした。見ると、北条のすぐ目の前には右手に水 晶の付いた杖を手にした黒い法衣の女が立っている。 「畜生ぉ」 北条は法衣の女に向かってテニスラケットを振り回した。しかし 、女は巧みにスエイで、北条の攻撃をかわす。 狭い居間にも関わらず、北条の攻撃は全く法衣の女には当たらな かった。 「はぁ、はぁ」 何度となくラケットを振り回しているうちに北条は幾分呼吸が乱 れてきた。 「あら、もうおしまいかしら」 法衣の女はあざ笑った。 「くそぉ」 北条は再度、女に向かってラケットを振り上げた。しかし、その 瞬間、今度は女が鋭い蹴りを北条のみぞおちに入れた。 「うぁっ」 北条はラケットを落とすと、体を二つに折って、その場に両手で 腹を押さえて蹲った。 「脆いわね、たったの一発よ」 法衣の女・ケイトは北条を見下ろした。 「さあ、立つのよ」 ケイトは北条の髪を引っ張って、強引に立たせた。 「女に負けるのが悔しくないの?」 ケイトはそう言うと、左フックで北条の腹をえぐった。臓器がク シャッと潰れるような音がした。 「うあぁっ」 北条は苦しそうなうめき声を上げ、血を吐き出した。 「それでも椎野美佳の彼氏?そんなことじゃ女一人守れないわよ」 ケイトはさらに左アッパーで北条の顎に一撃を加えた。北条はよ ろよろと後ろへ下がりながら、バランスを崩して倒れた。 「さあ、かかってきなさいよ。死にたくなかったらね」 ケイトはゆっくりと北条に近づいて行く。 「くっ、このままじゃ……」 北条は必死に立とうとしたが、ケイトの一撃は想像以上に強く、 足が全く言うことを聞かなかった。 「終わりみたいね」 ケイトは小さく溜息をついた。「これだから、雑魚は嫌なのよ」 「この野郎……」 北条はケイトの足にしがみついた。何とかケイトの足を取ろうと したが、北条の力ではケイトは全く動かなかった。 「あなたには消えてもらうわ」 ケイトは北条の寝巻きの胸ぐらを左手で掴み上げた。 「この殺人鬼め」 ケイトと目の合った北条は彼女を睨み付けながら、最後の言葉を 吐いた。 「あら、ありがとう」 ケイトはそう言うと、大きく振りかぶって、北条の体を思いっき り窓へ投げつけた。 ガシャン!!! 北条が窓を突き破って、アパートの外へ投げ出された。 「ヴェル・デ・ドート!!」 ケイトが呪文を唱えると、杖の先端の水晶玉が黄色く光り、鋭い 光線が北条に向けて発射される。 光線は落下する北条に命中し、その瞬間、北条の体が爆発した。 「ふふふ、これで焼く手間が省けるでしょ」 ケイトは窓に背を向けた。 その時、電話が鳴った。ケイトは電話を取る。 『隆司、大丈夫?警察には−−』 美佳の声が受話器から聞こえてきた。 「残念だけど、あなたの彼氏は死んだわ」 『あなたは誰?』 「私はフォルス・ノワール総統親衛隊のケイト。どうご両親の方は ?まるで粘土みたいだったでしょ」 『あんたがお父さんとお母さんを−−』 美佳の声に力がこもる。 「そうよ。そして、たった今、北条隆司もね。次は誰にしようかし ら」 『あんた、汚いわ。狙うんなら私を狙いなさいよ』 「いずれ狙うわ。ものには順序があるのよ。そうね、次は河野がい いわね」 『そんなことはさせないわ』 「間に合うかしらね。楽しみにしてるわ」 ケイトはそう言うと、電話を切った。 7 最後の面会 それから1時間後、長野県T警察署では−− 牧田奈緒美は留置場の接見室で椅子に座って待っていた。 「警部補、連れてきました」 仕切りのプラスチック板を挟んだ向かいの部屋に河野と看守が現 れた。 「ありがとう」 「今回は特別ですよ。10分だけですからね」 看守が注意するように言う。 「わかってるわよ。だから、二人にしてくれる」 奈緒美の言葉で看守は部屋を出て行った。 河野は両手に手錠をしたまま、プラスチック板の仕切りの前にあ る椅子に座った。 「どう、よく眠れて?」 「あんたに起こされて、目が覚めちまったよ」 「それは悪かったわね」 「それでこんな夜中に何の用だい」 「ちょっと顔を見にね。明日から警視庁へ護送されて本格的な取調 でしょ。不安になってるんじゃないかと思って」 「不安なんかないね。ここでも毎日、取り調べだからな」 「そう。でも、警視庁ではもっときついわよ。何せ逮捕した他のフ ォルス・ノワールの隊員は何一つ喋らないんだからね」 「そりゃそうさ。奴らはそういう教育をされてるんだ」 「教育?」 「あんたはどこまで知ってるか知らんが、フォルス・ノワールの隊 員の育成はほとんどの場合、子供の時から行われるんだ」 「それは知ってるわ。病院や施設から子供を誘拐して、秘密の養成 所で教育するんでしょ」 「そう。だから、組織への忠誠は絶対だ。組織を裏切るくらいなら 、奴らは死を選ぶだろうぜ」 「私もそう思っていたわ。あなたに会うまではね」 「そいつはどういうことかな」 「あなたはなぜ組織を裏切ったの?これまでフォルス・ノワールの 隊員で自分から裏切った人間は全くいなかったわ」 「ふふ、ただの心境の変化だよ」 「隊員にとって組織は絶対じゃないの?」 「俺も半年くらい前まではそう思っていたんだがね、どういうわけ か組織よりも大切なものが出来ちまったんだ」 「大切なものって?美佳のこと……」 「さあ、あんたには関係のない話さ」 河野は思いに耽けるような様子で言った。 「そう……」 奈緒美は河野から目を逸らして、呟いた。 「話はそれだけか?」 「え−−ああ、もう一つあるわ。もう聞いてると思うけど、昨日の アメリカ軍の攻撃で、フォルス・ノワールの基地が落ちたわ」 「そのようだな」 「あなたの言った通りになったわね」 「ふふ−−」 河野は俯いて、微笑した。 「何がおかしいの?」 「フォルス・ノワールがあんなに簡単に壊滅すると思うかい?」 「わざと壊滅したって言うの?」 「そうさ。米軍あるいは自衛隊が参加したら、すぐに降伏する手は ずになっていたのさ」 「随分自信を持って言うのね」 「当然のことだからさ。みすみす敵に武器をくれてやるほど馬鹿げ た話はないだろ。恐らく基地の中をいくら探したって、ろくなもの は出てこないと思うぜ。一月前に攻撃してれば、間に合ったかもし れないがね」 「厳しいこと言うわね」 「仕方ないさ。日本はフォルス・ノワールの雄姿を一月間もテレビ で流し続けたんだからな。全くいい宣伝だよ」 河野の言葉を奈緒美はムッとして聞いていた。 「悪かったわね、どうせ日本の警察は無力よ」 「そうだな。これじゃあ、何のために命をかけて自首したかわから ないよ」 「何ですって!!」 奈緒美はカッとなって、椅子から立ち上がり、机に身を乗り出し た。 「どうした、怒ったのか」 河野はちらっと奈緒美を見て、言った。 「そうよ。会いに来て損したわ」 「落ち着けよ、KGBの姉さん」 「あなた……」 「ふふ、心配するな。誰にも言わないよ」 「……」 奈緒美は黙って、椅子に座った。 「あんた、リトビノフの部下だろ。いつからやってるんだ?」 河野の言葉に奈緒美はしばらく間を置いてから、話し出した。 「3年前よ。ポーランドからワルシャワ警察の幹部が日本の警察組 織を見学に来てね、ポーランド語とロシア語が得意だった私が通訳 と案内をかって出たの。その時、ワルシャワ警察の幹部から誘われ たのよ。KGBのスパイをやらないかってね」 「随分単純な動機だな」 「ほんの出来心ね。つまらない情報でも結構お金くれたから、何と なく続けてるのよ」 「この俺が言うのも変だが、あまり深入りするなよ。所詮スパイは いつだって組織の捨て石なんだからな」 「心配してくれるの?」 「経験者の助言だよ。それにしてももう10分過ぎてるんじゃない のか。警察もいいかげんだな」 「いちいち文句をつけないでよ。でも、遅いわね」 奈緒美は腕時計を見た。もう20分は過ぎている。「きっと気を きかせてくれてるんだわ」 「ありがたいね、そいつは」 「ちょっとそこで待ってて。呼んでくるから」 奈緒美は接見室のドアを開け、廊下へ出て行った。 一人部屋に残った河野は机に頬杖を付いて、目をつむった。 しばらくうとうととして、ふと河野は目を開けた。 接見室にはまだ河野一人である。 「遅いな、何してるんだ」 河野は椅子から腰を上げ、留置場側のドアの方へ歩いて行った。 そして、ドアのノブに手をかける。 ガチャ、ガチャ−− 鍵がかかってる。 その時、仕切り板の向かい側の部屋のドアが静かに開いた。 「おい、いつまで待たせる……」 河野は言葉を切った。中に入ってきたのは奈緒美ではなく、杖を 持ち、法衣を着た女だった。 「誰だ、おたくは」 河野はとっさにこの女がフォルス・ノワールの殺し屋であること を悟った。 「私はフォルス・ノワール総統親衛隊NO.8、ケイト・ランデリ ック。裏切り者のおまえを始末しに来た」 ケイトは法衣のフードの部分をめくり、素顔を曝した。 「総統親衛隊最強と言われたあんた自らおいでになるとは光栄だな 」 「相変わらず口だけは達者だな、河野。だが、悪運の強いおまえも これで終わりだ」 「ふふ、どうやって殺すつもりだ。拳銃か、それとも爆弾か」 「そんな物騒なものは必要ないわ。水で充分」 ケイトが指をパチンと鳴らすと、突然河野のいる部屋の右側の壁 に直径30センチほどの黒い穴が開き、そこから水が勢いよく流れ 出してきた。 「これは、一体……」 河野は自分の目を疑った。しかし、自分の足下を流れる水は紛れ もなく本物の水だった。 「水死というのも変わっていていいでしょ」 ケイトはニヤリと笑った。 「一体、何をしたんだ」 「魔法よ」 ケイトはこともなげに言った。 「ちっ」 河野は椅子を折り畳んで手にすると、目の前のプラスチックの仕 切り板に何度も叩きつけた。しかし、仕切り板はびくともしない。 「無駄よ、ここはあなたの夢の中。私の意識に勝たなければ、破壊 できないわ」 「夢の中だって」 「そう、あなたの夢の中よ」 そう言っている間にも河野のいる部屋の水かさはどんどん増え、 河野の膝辺りにまで達している。 「俺の夢の中だと。それなら、俺の自由に出来るわけだな」 河野は強く何かを念じると、彼の手にサブ・マシンガンが現れた 。すかさず、河野はマシンガンのトリガーを引く。 ダダダダッ!! 弾丸が仕切り板にあられのように命中する。だが、弾丸は全て下 に落ちてしまう。 「無駄だと言ったでしょ。この世界はあなたの夢でも、意識は私の 方が上よ」 「くっ」 河野はドアに向かって、体当たりしたり、ノブを引っ張ったりし た。その間にも水かさは胸の辺りまで来る。 「あなたは夢の中で死ねるのよ。最高でしょ」 ケイトは椅子に座り、仕切り板の向こう側の河野をあざ笑った。 河野は思い付く限りの物を何でも出して、ドアの破壊を試みたが、 徒労に終わった。水かさは既に彼の首まで来ている。仕切り板にあ る声を通すための無数の穴からは夢の中であるため、全くケイトの 部屋の方に水が流れてくることはなかった。 ケイトは向かいの部屋が水でいっぱいになるまで見ていた。河野 は水中でもがきながら、ケイトを睨み付け、仕切り板を叩いている 。 「さて、そろそろ一人で泳ぐのも飽きたでしょ。魚をそこに入れて 上げるわ」 ケイトは再び指をパチンと鳴らした。 すると、河野のいる部屋にたくさんのピラニアが放たれた。ピラ ニアは獲物を狩るように河野に襲いかかる。 「うごおぉぉ」 河野は一斉にピラニアに噛み付かれ、水中で激しく暴れた。水槽 と化した部屋の中は一瞬にして血で真っ赤に染められる。 「面白いショーをありがとう」 ケイトは席を立ち、向かいの部屋の河野に軽く手を振って、部屋 を出て行った。 「ちょっと何寝てるのよ」 奈緒美は看守席で腕を枕にして机に向かって眠っている看守を揺 り動かした。 「あっ」 看守は目を覚まし、顔を上げた。 「け、警部補」 看守はびっくりして席を立つと、慌てて敬礼した。 「職務中に寝るなんて、懲罰ものよ」 「も、申し訳ありません。いつのまにか寝てしまって」 「いつのまにか?」 「はい。自分は10年間、看守をやっていますが、今まで勤務中に 寝たことはありません。こんなことは初めてです」 「言い訳なんか聞きたくはないわ」 「お願いします、どうかこのことは署長には−−」 看守は自分のミスにかなりショックを受けているようだった。 「いいわ、今回は見逃してあげる。それより、接見室の鍵を貸して 」 「はい」 看守は奈緒美に鍵を手渡した。 「警部補、本当に今回のことは−−」 看守は奈緒美の後についてきて、心配そうに言った。 「わかってるわよ。今回のことは私にも責任があるしね」 奈緒美は接見室のドアのロックを解除し、ドアを開けた。 「河野さん、遅くなったわね−−か、河野さん」 奈緒美は部屋の床にうつぶせに倒れている河野を見て、びっくり した声を上げた。 「どうしたの、大丈夫?」 奈緒美は河野に歩み寄り、彼の体を起こした。 「ひいぃぃ!!」 看守が河野の顔を見て、悲鳴を上げた。奈緒美も思わず顔をしか める。 「ただの責任問題では済みそうにないわね」 奈緒美は白骨と化した河野の顔を見て、重苦しく呟いた。 8 対面 翌朝、美佳はタクシーでT警察署に駆けつけた。 しかし、受付では、河野との面会を求める美佳の要求をきっぱり と断った。 「どうして会わせてくれないんですか」 美佳はテーブルを強く叩いた。他の警官が一斉に美佳を見る。 「彼は重要参考人で、現在誰とも会わせられません」 「大変なのよ、彼が殺されるかもしれないのよ」 「誰に殺されるというんです?」 受付の警官は美佳を見て、言った。 「それは−−」 美佳は言葉に詰まった。 「あなたは河野とはどういうご関係で?」 警官は美佳を怪しんだ。 「もういいわよ」 美佳は慌てて帰ろうとした。 「ちょっと待ちなさい」 美佳の後ろからそっと近づいた他の警官が美佳の腕を掴んだ。 「ちょっと放してよ」 美佳がもがく。 「少し話を聞かせてもらおうか」 警官が美佳を連れて行こうとする。 「やだ、やめてったら」 美佳は暴れたが、警官は美佳の腕を強く握って、放さない。 「放してあげて」 その時、女性の声がした。 「ナオちゃん」 美佳は奈緒美を見て、喜びの声を上げた。 「しかし−−」 警官は渋る。 「私の親友の妹なの。後は私に任せて」 「は、はい」 警官は美佳の腕を放した。 「あんたってデリカシーがないのね」 美佳は警官をキッと睨んだ。 「美佳、来なさい!」 奈緒美は強引に美佳を会議室へ引っ張って行った。 「あんた、何しに来たのよ。あれほど、仕事場へ来るなって言った のに」 「河野さんに身の危険を知らせに来たのよ」 「身の危険……」 奈緒美は表情を曇らせた。「どういうことなの?」 「フォルス・ノワールの殺し屋が狙っているのよ。既に私のお父さ んもお母さんも、隆司もやられたわ」 「えっ!おじさんとおばさんが−−本当なの?」 「そうよ、昨日の夜ね。そして、私たちが仙台に行ってる間に隆司 がやられたわ」 「どうして教えてくれなかったの?」 「教えようにも連絡が取れなかったでしょ!」 美佳は思わず声を大きくして、言った。 「そうだったわね、ごめん」 「別に謝ることじゃないよ、ナオちゃんは仕事なんだから」 美佳も大声を出してしまったことを気にしていた。 「やられたって言ったけど、一体どういうことなの?」 「仙台から直接こっちに来たから隆司の方はわからないけど、お父 さんたちの方は……」 美佳は病院の霊安室で見た両親の遺体のこと、これまでの経緯な どを話した。 「そう、そんなむごい死に方を−−」 奈緒美は頭を振った。 「ケイトは次に河野さんを狙うって言ったわ。お願い、ナオちゃん 、河野さんに会わせて。駄目ならせめて危険だとを伝えるだけでも 」 「美佳」 奈緒美は美佳をじっと見つめた。その目には普段の奈緒美からは 考えられない涙が浮かんでいた。 「ナオちゃん−−ど、どうしたの」 美佳はなんとなく嫌な予感を奈緒美の表情から受けとった。しか し、それを言葉に出すことは美佳に出来なかった。 「ついてきて」 奈緒美はスッと席を立って、ドアの方へ歩いて行った。美佳もす ぐに後に続く。 奈緒美は会議室から廊下に出ると、真っ直ぐ廊下を進み、階段の ところで下へ降りると、またしばらく歩いて、ある部屋の前に辿り 着いた。 「霊安室−−それじゃあ、まさか」 美佳は部屋のドアに取りつけられたプレートを見て、言った。 奈緒美は黙ってドアを開け、中へ入った。美佳も一瞬間をおいて から、中へ入る。 霊安室の中は冷たい雰囲気に包まれていた。冷たいといっても、 それは普通の冷たさではなく、何か全身をゾクッとさせる冷たさ− −そう、両親の遺体を見た時と同じ冷たさだった。 美佳の目の前には1台のベッドが置かれていた。その上には白い 布を顔に被せた人間が眠っている。 「河野さんよ」 奈緒美は死体から顔を背けて、言った。 美佳は静かにベッドに歩み寄ると、そっと遺体の顔に被せた布を 取った。 「か、河野さん……」 美佳は声が震えた。目の前には真っ白い頭蓋骨があった。それは まるで理科室の人体模型のようであった。 「本当に河野さんなの?」 美佳は布を元に戻し、奈緒美を見た。 「そうよ。私が接見室からちょっと離れている間に−−」 奈緒美は俯いたまま、事件の経緯を話した。 「……」 美佳は奈緒美の話を黙って聞いていた。河野との短い思い出が頭 の中を駆け巡る。初めての出会い、喫茶店での河野との会話、KG Bから救ってもらった時のこと、そして、最後にフェッツと戦った 時の夜。どれもまだ鮮明に記憶に残っている。美佳にとって彼は心 の支えだった。恋とか愛とか言った感情ではなく、世界で唯一、自 分を守ってくるナイトのような存在だった。美佳は北条に悪いとは 思いながらも、河野のことを一時も忘れることができなかった。そ の河野が今は無残な白骨死体と化している。もう口を聞くことも微 笑みかけてくることもない。もう美佳とは隔絶した別の世界へ飛び 立ってしまったのだ。 「ううっ」 奈緒美は突然、その場に膝と両手をつき、泣き崩れた。 「ナオちゃん」 美佳はふっと我に帰って、奈緒美のそばに歩み寄った。 「どうしたの、ナオちゃんらしくないよ、泣くなんて」 美佳は今まで忘れていた涙が自分にもこみ上げてくるのを感じた 。 「好きだったのよ」 奈緒美はぽつりと呟いた。 「え?」 美佳は耳を疑った。 「ホンの少しの間だったけど、彼と話していくうちに彼を好きにな ってしまったの」 「ナオちゃん……」 「おかしいわよね、刑事の私が容疑者に恋なんて」 「そんなことないよ」 「初めてだった、こんな気持ち。彼と会う度に胸がときめくの。彼 は口は悪かったけど、これまで出会った男性とは違ってた。何か生 と死の狭間を生きてきた男の強さを感じたの」 奈緒美は涙混じりの声で言った。 「……」 美佳は奈緒美の意外な一面を見て、当惑した。 「でも、河野さんは美佳のことを好きだったみたいね……ごめん、 美佳」 「何で謝るの?人を好きになることは罪じゃないわ、自然なことよ 」 「美佳……」 奈緒美は美佳を見る。 「折角の恋だったのにね」 美佳は奈緒美の肩に手を置いた。美佳はジーンズのポケットから 財布を取り出すと、そこから一枚の写真を出した。 「この写真、大事にして」 美佳は奈緒美に写真を手渡した。 「これは−−」 その写真には河野が写っていた。 「遠くから撮ったものなんだけど、すごく自然でしょ。これ、ナオ ちゃんにあげる」 「い、いいの?」 「今時、写真なんて古いかもしれないけど、でも初恋の思い出って 大事でしょ」 「……」 「後は任せたわ」 美佳はスッと立ち上がった。 「これからどうするの?」 「敵を討つわ。相手はわかってるもの」 美佳はそう言うと、拳をぎゅっと握り締めた。 続く