:1−0  われはほろびをつかさどるもの。  むひのちからをえたくば、われをもとめよ。  かみのみこころにそむきつくられしいきたるはがね。わがなはあれふ。  ちっちゃなアレフ そのいち。  少女には、それは大柄な人にみえた。長いコートをまとった姿は彼女の傷ついた目ではそれ以上には判別がつかなかったし、実際、彼女にはそれ以上必要がなかった。  その動きは、ある種の舞いのようだった。暴漢たちにくらべ、その動きは小気味よく、素早く、圧倒的に動きの無駄がすくなかった。  それはまるきり取り囲まれていたが、暴漢たちはそこから決定的な距離に近づくことができなかった。暴漢とそれの間には人の腕ほどの空間があり、その空間の中ではまるで、暴漢たちの腕が半分に縮んでいるようにみえた。そしてその空間に体ごと侵入しようとするたびに、暴漢はその数を減らしていった。  最後の暴漢がうめき声をあげて倒れるまでに、たいした時間はかからなかった。  それはまず褐色の厚手のコートの前をあわせて、きっちりと体をおおった。それでますます、体の線がみえなくなった。  「こういうとき、どうしたらいいのか、ぼくはよく、わからないのだけれど……」それの声はやさしかった。大柄な割には、子供のような澄んだ声でもあった。  「だいじょうぶ……ですか?」実際、つい数十秒前の疾風のごとき動きをみせたそれと同一のものにしては、それは拍子抜けのするような声だった。  少女は乱れた服をなおしたかったが、体に力がはいらなかった。仕方がなかったから、せめて服の前をあわせようとした。そしてそれは、恐らくはそれにできる一番優しいやりかたで、彼女の肩に手をふれた。  黒い革手袋ごしに届く手の感触に、少女はまた少しぞっとした。厚い革手袋ごしとはいえ……それはあまりにも固く、あまりにもふしくれだっていて……およそ生身の人間だとは思えない冷たいものを感じさせたのだ。思わず身をかたくしてしまい……そして少女には、その身じろぎでそれが傷ついたのが、わかった。視力がないに等しかったし、肌をふれあわせる商売だったから、そういうことには敏感だった。  「ごめんなさい、ぼくはあなたをたすけたかったんだけれど」それはすこし身をひいた。「ごめんなさい、ぼくはあなたをこわがらせるつもりはなかったんだけれど……やっぱり、うまくいかなかったですね。ごめんね、もういくね。」  少なくとも、これ以上警戒していてはいけなかった。なんとか、手をのばすことができた。  「あたしこそ……ごめんなさい。どう……おれいを……」手をとろうとして、失敗した。体が前におよいで、倒れそうになった。慣れていたはずだったが、それでもやはり輪姦されかけ殺されかければ、思ったより消耗ははげしかった。それは腕をのばして、少女をだきとめてくれた。こんどは怖くなかった。  「また手をだしてしまったね……ごめんね。ぼくはまだ、こういうとき、どうしたらいいのか、わからないんだ。いいんだろうか、ぼくは、ここにいて、いいんだろうかって……」  分厚いコートはあちこちすりきれていて、この厚みでなければとうの昔にぼろ屑になっていただろうと思えたが、意外なくらい清潔だった。慣れてきてしまえば、その巨躯にそぐわない、妙におどおどとした態度はむしろ可愛らしかった。  「いいの。ありがとう……。そうね、もし、あたしを家までつれていってもらえるなら、少しはお礼できるんだけれどな」  恐らくそれが可能なもっとも優しいやりかたで、それは彼女を両手にと抱え上げた。布地ごしのその体はやはりおそろしく固かったが、その指ほどの違和感はなかった。ほんの少し、温かかった。  しかし……その距離でも少女の目では、その頭巾の奥の顔が判別できなかった。だから、それはしかたがなかったのだ。 :2−0  206自体は優秀かつ安価なシステムだが、優秀さと表裏一体の欠点を抱えていもした。情動システムに人間を模倣したことがシステムの不安定につながるのは、むしろ当然の結果といえた。人間の「意思」を制御する自律回路を、そのまま未だ人間にくらべれば圧倒的に単純なシステムに実装すれば、情動の基本となる正フィードバック系が破綻して当然だからだ。実際、YF−32A戦闘機の事故からすでに致命的な欠陥が指摘されているシステムを、性能を求めて安易に無人機に搭載してしまうこと自体、乱暴な話ではあった。  ちっちゃなアレフ そのに。  湯のでないシャワー、人の形にへこんだマットレス。それでも、最下層の階級のねぐらとしては、それは上等なものだった。そして、どちらも少女の商売には必要なものだった。  冷たい水で体を流すと、すこし気持ちがはっきりした。まだ下腹部の異物感はなくならなかったが、ありがたいことなのか、慣れていることではあった。  部屋は明るく作ってあった。そうすれば、少女の瞳でもおぼろげな形の判別はできるからだ。それで、それがコートも脱がず、部屋のまんなかにつったったままなのが、わかった。  「その暑苦しい服をお脱ぎなさいな……よければ、シャワーも使って。水しか出ないけれども」いったいこの人は、娼婦の部屋に誘われて何をするつもりなんだろうか?  「あ、ごめんなさい。ぼくは、シャワーは必要ないです。自律型だから、もうしばらくはメンテナンスも必要にもならないと思います」それの返答もまた、いまひとつ要領をえなかった。  「ふぅん、まぁ、いろいろな人がいるわよね。私はかまわないけれど……」少女の顔色が少し変わった。「ひょっとしたら何か面倒な病気でも?」  「いや、病気というのとはちょっとちがいます。他の人にうつしたりはしないですけれど……」それは少し身をふるわせた。狼狽しているのが、わかった。  「そか。聞かないほうがよかったのかな、ごめんなさいね。だいじょぶ、わたしはどうせ、目はほとんどみえないから、多少ひとと違っても嫌がりはしないわ。いらっしゃい」  それはコートは脱いだが、まだ自分の腕をみつめてもじもじとしていた。どうにも、いまひとつ要領を得ない相手ではあった。  「ごめんなさい、ぼくはえーと、何をしたらいいのかよくわからない。なにかしてくれようとしているのはわかるんだけれど……」それは娼婦という概念自体を知らないようだった。知恵遅れかなにかだろうか。もっともそれはそれで、おもしろそうな話だった。精神的優位に立つ経験は、少女にはまだほとんどなかったからだ。  「いらっしゃいな、すてきなことを教えてあげるから。えーと、まだ名前を聞いていなかったわね」ベッドから上体をおこして、せいいっぱい大人っぽい表情をつくって、でもちょっといたずらっぽい笑いを浮かべた。  「あぁ、これは失礼しました。ぼくはプラン・インフィニティの……いえ、アレフ……アレフ・ヌルです」少し口ごもったが、さすがにこれはちゃんと答えた。  「アレフ、ふぅん、変わった名前ね。アラビアあたりの人?」  「いや、アレフはシリーズの名前で、ええと、兄弟はみんな、アレフなんです。ぼくの個人名称は、ヌル」  「アレフのほうがいいな。アレフって呼ぶわ」それは少し不服そうだった。もっとも不服そうというよりは、悲しそうに感じられた。  「いや、でも、アレフは兄弟の名前なので……なさけない話なんですけれど、ぼくの弟たちはみんな、ぼくより優秀でして、弟が軍務についてから、ぼくはなにもできなくて、ぼくをアレフと思われてしまうと、弟たちの立場が……」  「……軍務って、あなた軍人なの?航宙軍の兵隊さんなの?」焦って身を起こす。それから、あわててシーツを胸までたくしあげた。  少女の精神的優位はあっさりと打ち砕かれた。航宙軍は戦争にこそ負けたとはいえ、それなりに近代的な戦力を温存している。いずれにせよ彼らの仕事場が数百万キロの虚空である以上、彼らは誰もがエリートであるはずだった。それは実際には誤解だったが、彼女はそう思っていた。エリートはきれいなベッドで、清潔な女を抱く。  「航宙軍……?あぁ、国連宇宙軍のことですか。いえ、ごめんなさい、ぼくはちがいます。オストワルド月面駐留軍の……」  「オストワルド機構軍!」壁まで身をひいて、そのまま絶句した。オストワルド機構軍。地球圏と隔絶した技術に裏打ちされた、圧倒的な経済力。地球にいられなくなった敗残者たちの寄り合い所帯にもかかわらず、彼らは劇的な経済成長を遂げ……国連宇宙軍は地球人の資産を保護するため、彼らに宣戦を布告。講和といっているが、実際にどちらが勝者であるかは明らかだった。  太平洋には、単艦ですら師団規模の兵力と充分に交戦できる二隻の強襲揚陸艦が浮かんでいる。水中は宇宙空間で建造され、カプセルに封入されて地球に投下された潜水艦が支配する。目のよいものが月を見上げれば、わずかに青く変色した領域と、ひょっとしたらそれにまとわりつく無数の光点をも、みわけることができるだろう。  第一、この戦争までは、少女のような孤児はいなかった。少なくとも、その数はずっとすくなかった。少女の母親だって、戦争一年目までは生きていたのだ。  もちろん少女は、そんな詳しい状況はわからなかった。彼女の認識は、現実よりずっと単純だった。オストワルド機構とは、宇宙からの侵略者。