#5・「マンションの一室で」 1 紹介  今日も、部屋の中で、わたしは彼を待っていた。  彼は、朝、家から出かけていくと、夜になるまで帰ってこない。  帰ってくるまで、わたしは一人でマンションの一室で待っている。  部屋の中を歩きまわったり、窓から外をのぞいてみたり、でも、大抵は日の差し込む 暖かいベッドの上で居眠りをしている。  彼の家に来るまでは、わたしはこの窓の外を自由に歩き回っていたのだ。  彼の家に住むようになってからは、一度も外に出ていない。  時々、窓の外を見て出て行きたくなる事もある。何だか無性に懐かしくなって……。  でも、わたしは彼が好きだし、このマンションが好きだ。  外で鳴く鳥を見ても車や人や猫や犬を見ても、無理に外に出たいとは思わない。  今、壁の時計が五つ鳴った…あの時計が七つ鳴る頃、彼は帰って来る…。  それまで、もうひとねむりしよう…。 2 日曜日  日が昇って明るくなり始める頃、わたしは彼の横で目を醒ます。  今日はまだ彼も寝ている。  彼が家でゆっくり休めるのは、一週間に一度だけ。  その日には彼はゆっくりと寝る。わたしも彼を起こさないことにしている。  毎日朝早く起きて、夜にはすっかり疲れて帰って来る。  そのおかげでわたしもちっともかまってもらえない。  だから、彼と一緒にいられる時間は、朝と、今日のような日だけなのだ。  もうすぐ、鳥が鳴き始める……。  わたしは、彼の顔を覗きこむ。  髪には白髪が混じりはじめており、疲れと年のため、やつれかけているようにもみえ る顔。  それでも、きりりとした顔立ちと鋭い目つきは昔とちっとも変わらない……もっとも、昔といっても、わたしがここに来てから、まだ二年ほどしか経ってはいないのだが…。  彼は時々、銀色の箱を大切そうに持って来る。  そういう時には、とても恐い顔をしていることが多い。  その中を二度だけ見たことがある。  一度目の時、中にはうすっぺらな紙の束が、たくさん入っていた。  二度目には、きらきら光る綺麗な石が、木でできた小さな箱の中にたくさん入ってい た。  彼の働く宝石商で、預けられたものらしい。  ようやく彼も目を醒ます。  座っているわたしを見て「おはよう」という。  まだ眠そうだ。  食事をしてから、彼は出かけてゆく。  とはいってもすぐに帰って来る。  手にはたくさんの食べ物を抱えて。  そして、わたしと話をしてくれる。  彼は、わたしに話しかける。  わたしの頭を撫でながら、店でのこと、町でのこと、いろいろなことをとめどなく話 し続ける。  わたしは、じっと聞いている。 こうして、彼といるだけでわたしは幸せなのだ。  彼と出会う前は不幸だったというわけではない。  その頃は、今よりずっと自由だったし、あちこち好きなように歩き回っていた。  食べたいときに食べていたし、寝たいときに寝ていた (こっちは、今と変わらないか)。  でも、今はどうだろう。  このマンションから離れた生活など、彼のいない生活など、 考えられないではないか。  今日も彼は話し始める。  わたしはかたわらでそれを聞いている。  この上ない幸せを感じながら……。  今日も、時間はゆったりと、それでいて驚くほど早く流れていった。  気がつけばもう、日は傾き、空はだんだん夜の色に変わっていった。 3 悲しい出来事  土曜日、夜遅く帰ってきた彼はなぜかとても嬉しそうだった。  いつもなら疲れてちっとも口をきいてくれないのに、今日はとてもたくさんしゃべっ ている。  ご飯を食べながらなのに、にこにこと笑いながら、わたしに話しかけて来る。  今日は土曜日なんだけどな…。  でも彼の嬉しそうな表情を見ていると、わたしはとても嬉しくなるのだった。  いつもは早く寝る彼も、この日は、なかなか眠らずに、ずっとしゃべり続けていた。  おかげで、わたしの方が先に眠りこけてしまっていた。  次の日、彼はいつもより早く起きていた。  何だかそわそわとして、しきりに腕の時計ばかり見ている。  「いつもは日曜日には時計なんかはめないのにな」 わたしは思った。「なんだかおかしいな」と  出かけるのもいつもより早かった。  帰って来る時の足音を聞いて(わたしは彼が帰って来ると足音でわかる)わたしは変 だと思った。  家に入って来たのは、彼ではなかった…ように思えた… …正確にいうと、彼一人ではなかったのだ。  彼は帰ると必ず「ただいま」と言う。  それがこの日は言わないばかりか、後からついてくる人に一生懸命話しかけているの だ。  後から入って来たのは、見慣れない女の人だった。  その人はわたしと彼の部屋に入って来て、わたしの好きなクッションに座った。  彼は熱心にその人に話しかけていた。  今までに見たこともないような、嬉しそうな顔だった。  その顔を見ていると、その女の人を見ていると、わたしは、今まで感じたことのない 感情が込み上げて来るのを感じた。  とても嫌な気持ちがした。  感情をかき乱された。  わたしは敢えて二人の前に出てゆかなかった。  今出ていったら、何をしてしまうかわからない、何か恐ろしいことをしてしまうかも 知れない、と、そう感じたからだ。  このまま見ていることも耐えられない!、わたしは、奥の部屋に入って、ベッドで無 理に寝ようとした。  でも、なかなか寝られない。目を開けたら、大粒の涙がこぼれ出て来て、止まらなか った。  わたしは、初めて、ここにいたくないと感じた。とてもとても嫌だった。  もうここにいられない、 ここにはもう、わたしのいる場所はない、 外に、広い外の世界に帰りたい、 そう感じた。 4 鞄  今日もまた、彼は銀の鞄を持って来た。  でも、今日はいつものような恐い顔ではなかった。なんだか、嬉しそうな、他のこと を考えているようなぼうっとしているような顔をしていた。  わたしは、今は嬉しくなかった。  その理由を知っているからだ。  あの人のせいで、彼は楽しそうにしているのだ。  そう思うと、いても立ってもいられなかった。  あの人がここに来るようになってから、もう何日が過ぎたろう。  慣れるどころか、ますます辛くなって来た。  もう、彼と一緒のベッドには寝られなかった。  できるだけ彼から離れた場所を探して、結局、ソファーの上で、丸くなって寝ること にした。  翌日、彼が出かけた後、わたしはやっと食事をした。隠れていて、彼に見つからない ようにしていたので、体が痛かった。  彼が用意してくれた食事を食べたが、なかなかのどを通らなかった。  窓の外を眺めて、外に出たいと感じた。  彼がいなくなったベッドに今更乗って、日差しの当たるとこを探して目を閉じる。  涙がこぼれたのに気付いて目を醒ます。  もうすぐ彼が帰って来る。  そう思うと落ち着いていられなくなって、わたしは部屋の中をそわそわと歩きまわる ようになる……と、入り口のドアがが少しばかり開いていることに気が付いた。  わたしは、何年ぶりかに外の世界に出ていった。 5 外の世界で  久しぶりの外の世界で、わたしははしゃぎながら歩いていった。  というより駆け回った。  嬉しさで、全てを忘れて、はしゃぎまわった。  そして日も暮れた頃、疲れ果てたわたしは、知らず知らずのうちに彼の部屋のあるあ のマンションへと歩いている自分に気が付いた。  寂しい道を歩きながら、わたしはまた憂鬱になってきた。  あの部屋へ帰るということは、とても嫌なことだった。  かといって、他に行くあてがあるわけでもない…。  考えながら歩いていると、後ろから近づく足音に気付きはっとした。  彼が帰って来たのだ。  わたしは思わず身を隠した。  彼が歩いて通り過ぎて行くのを横目に見ながら、 とてもつらい気持ちになった。  彼は今日もあの銀の鞄を持っていた。  突然、彼が立ち止まった。  わたしはびくっとしてそちらを見つめた。   街灯の明るすぎる光のしたに、一人の男が見えた。  男の手には、白く光るものがあった。  それを振り上げて、男は彼に襲いかかった!。  わたしはどうすれば良いかわからなかった。  恐ろしさに全身に鳥肌が立ったようだった。  気持ちが乱されて、足がすくんで、動けなかった。  でも無理に動かねばならなかった。  男のナイフが彼のそでを赤く染め、彼は悲鳴を上げた。  彼は逃げようとしていたが、足がもつれて転倒した。  男はナイフを持ち変えた。  もう一刻の猶予もなかった。  わたしは彼の体を飛び越えて、男の顔めがけて飛びかかった。  爪で、顔を思いっきり引っ掻いた。  男は悲鳴を上げた。  男の顔からサングラスが落ちた。  男は、わたしの体めがけてナイフで切り付けた。  わたしは、男の腕にかみついたが、男はわたしを振り払おうとした。  壁にたたきつけられて、意識がもうろうとした。  男はわたしの首を持って、力一杯壁にわたしをたたきつけた。  ぐったりしたわたしの首に、男はナイフを近づけた!。  だがわたしはすばやく起き上がり、男の右腕に鋭い牙を食い込ませた。  ナイフが音を立てて道路の上に落ちて、男は逃げ出した。  わたしは、大好きな彼を守ることができたのだ…!。  わたしは、彼の腕の中で、 意識のもうろうとする中で、 とても幸せだった。 6 エピローグ  その猫は、突然獣医のもとへと運ばれて来たが、身体中の骨は折れ、内臓まで破裂し ていては、さすがに手の施しようがなかった。  その猫は、血を吐きながら、けいれんを起こしながら死んでいった。  飼い主の男は、泣きながら、猫を最期まで見ていた。  獣医が聞くと、「死ぬなよ…絶対死ぬなよ!…」と呟いていた。  「うまい餌をたくさん食わせてやるからな!…また一緒に風呂に入ろうな!… …だから…だから…絶対死なないでくれよ!」  いつまでも、彼は、猫の体を撫でていた。  彼の目からは、涙が流れていた。  猫は、苦しみながらも、でも安らかに、静かに…幸せそうに死んでいった。  獣医は、しばらく、そこから動けなかった。  夜は静かに更けていった……。  何事も、まるで、なかったかのように。 <<おわり>>