山村 僕がI県のN村に着いたのは、もう日が半分昇った時だった。僕 の理想は夜明け前の到着だったのだが、何せこの9月という月はま だまだ夜が短い。真っ暗な山道を自転車で夜通し走り続けたにもか かわらず、結局はその努力は無駄だった。 「あーあ」 僕は自転車に乗ったまま、太陽を前にして、体をいっぱいに伸ば し、大きな欠伸をした。 「ううん……」 後ろの席で僕の背中を枕に寝ていた妹が目を覚ました。 「お兄様、もう着いたの?」 「おう。でも、残念なことに夜明け前には着かなかった。せっかく 、美代に日の出を見してやろうと思ったのにな」 僕はがっかりして言った。僕は日の出を見て感動する妹の笑顔が 見たかったのだ。 「明日、見ようよ」 妹は別にがっかりした様子はなかった。 N村の村人に声をかけ、宿を紹介してもらうことにした。 「この村には宿はねえよ」 と村人は言った。 「なぜぇ?」 僕は詰め寄った。 「ねえもんはねえんだ。いやなら、帰れ」 「来てしまって、すぐ、帰るのは何とも寂しいじゃないですか」 「おまえさんはどうしてこの村に来たの?なんにもねえのに。この 村は人口100人しかいねんだよ。毎日の生活だって、大変なんだ 。おまえさんがたのようなリッチ者とは違うんだ」 「では、あなたのところへ泊めてもらいましょう」 「そうしましょう」 妹も僕に賛成した。 村人に有無を言わせず、僕と妹はその村人の家にやっかいになる ことになった。 村人の名前は彦六さんといって、一人で傘を作って、生活してい た。傘と言っても紙の傘で、傘を作れるのはこの村で彦六さんだけ だから、雨が降るたびに他の村人が食べ物を持って、傘を買いにき たのだった。 だから、彦六さんは僕のビニールの傘を見ると、すぐにばらして まった。まあ、これはこれで彦六さんには彦六さんなりの生活があ るのだから、仕方がないなと僕は思った。 今夜の宿も決まった僕は妹を連れて、村を見物することにした。 なるほど、彦六さんのいう通り、面白いものは何にもなかった。古 い民家と田畑だけ。温泉でもあればと期待したのだけれど、ぼちゃ ん湖と呼ばれる池に近いような湖があるだけ。このぼちゃん湖の名 前の由来は昔、坊さんが穴の開いた船で湖へ釣りに行き、溺れて死 んだため、坊さんと船から水に落ちるぼちゃんという音をかけて、 ぼちゃん湖と呼ばれたということである。ところで、この村の人は 風呂はどうしているのかと聞いてみると、井戸水を汲み上げ、それ をドラムカンに入れて、カンの下から薪をくべて、火を炊く。そし て、あったまったところで、下駄を履いてカンの湯につかるという ものだった。要するに五衛門風呂のようなものだった。 僕も妹も経験がないので、そのドラムカン風呂は楽しみだった。 それから、僕は眠いのも忘れて、村人たちと話をした。人口が1 00人という事なので、村人に会うたびに妹と数を数えていった。 そうして、その夜、僕たちは彦六さんの家で食事を御馳走になっ た。食事といっても、山芋と林檎だけという貧しいものだったけれ ど、それぞれ6個ずつあったので、腹だけはいっぱいになった。 その後、僕たちは風呂に入れてもらった。 僕が先に裸になって、ドラムカンに入った。今まで立ったまま、 風呂に入った経験がなかったので、妙な感じだったが、全身に一度 に伝わってくる温かさは中々良かった。 「おまえさん、なにしに来たのかね」 彦六さんが薪をくべながら聞いた。 「遊びにです」 僕はしごく当然のように答えた。 「やっぱりおまえさんはリッチだね」 「でも、僕には両親がいないのです。帰る家もないし、お金も三桁 しかないのです」 「およ?」 彦六さんはちょっと意外といった顔をした。 「では、おまえさんは放浪の旅をしているのだね」 「そうなんです」 「そいつは不遇だね」 「はい、不遇です」 「だったら、この村で暮らすかい?」 「そんなことをしたら、彦六さんはベリィプアーになってしまいま す。それに妹は世間知らずで働けないのです」 「そうか」 「でも、僕は妹と励まし合って生きてるので、大丈夫です」 「大丈夫です」 妹も賛同して言った。 「仲のいい兄妹だな。せいぜい、しっかりやれよ」 彦六さんは涙ぐんで、言った。案外、情にもろいのかもしれない 。 「彦六さん?」 妹が尋ねた。 「何だ?」 「お兄様と一緒に入っていいですか」 「そんなことしたら、湯がなくなっちまうよ」 「いいんです。ね、お兄様」 「そだね」 僕は否定しなかった。 「あんたら、やっぱり変わってるな」 彦六さんは呆れた様子で言った。 彦六さんの家で一晩泊まり、翌朝、僕たちは出発した。彦六さん は林檎をお土産にくれ、来年もまた来いよ、といってくれた。冬に なると道が雪で断たれてしまうのである。僕はまた来るという約束 をして村を出た。 しかし、その後、僕も妹もあの村へ訪れることはなかった。翌年 、N村はダムになってしまったのである。