慣れない電話    あなたは自分の家の電話から自分の家の電話番号に電話をかけた ことがあるでしょうか。 もし、かけたことがあるなら、そんな時、どんな気持ちでしょう か。例えつながるはずかないと分かっていても、もしもつながった ら、と言う時のことを多かれ少なかれ考えてしまうのではないでし ょうか。そして、そんなことを考えている時に、本当につながった ら−−− その夜は、私にしては珍しく眠れなかった。別に蒸し暑いわけで もなく、といっても寒いわけでもない。また、寝る前にコーヒーを 何杯も飲んだわけでもない。 午前2時5分−−私を無視して先に寝てしまった妻を横に、私は 読み飽きた雑誌に何度となく目を通していた。 いっこうに眠気のささない自分にイライラしてきた時、ふと電話 が目に入った。ふと私にある考えが浮かんだ。 ”もし家から自分の家に電話をかけたらどうなるだろう” その時の私はよっぽど暇だったようだ。私は受話器を外し、自分 の家の電話番号を押した。 当然のことながら、つながるはずはなかった。 私はつながるはずもない電話に期待していた自分が馬鹿馬鹿しく 思えた。 不機嫌に電話を切ろうとした時、電話のプツッというつながる音 がした。 「え!?」 私は喜びいさんで、受話器を耳に当てた。 しかし、私に耳に飛び込んできた声はあまり喜ばしいものではな かった。 「誰か、助けて!!!」 私の耳をつんざいたのは女性の悲鳴であった。 「お母さん、恐いよぉ」 次には子供の泣き声が聞こえた。 「いったいどうしたんですか。何があったんです?」 しかし、電話の主には私の声が聞こえないらしく、今も見えない 人影に脅えているようだった。 「どうか子供だけは助けてください」 「へへ、へへへ……」 男の気味の悪い笑い声がした。途端に、バサッという小さな物音 が聞こえた。何か物を投げているらしい。 「お金なら持っていってください」 なおも彼女の懸命な説得が聞こえる。 「へへへ、金なんか要らないさ。俺が欲しいのはな、”血”だよ」 男のじりじりと詰め寄る物音がよく聞こえてくる。果たして、刃 物を持っているのだろうか。 「コラッ!!貴様、やめろ!奥さん、早く逃げるんだ」 私は思わず叫んだ。 その瞬間、 「きゃあ」 という悲鳴が聞こえた。私は思いあまって電話を切った。 辺りが急に静まり返ったようだった。あの奥さんは大丈夫だろう か、と不安を寄せながら額の汗を拭いた。 ふと見ると、妻の亜紀子と息子のあつしが起きている。 「おい、どうして起きてるんだ」 と尋ねると、 「あなたの迫真の演技で思わず目が覚めちゃったのよ」 と妻が呆れた顔で言った。 全く夫の気持ちを分かっていない妻である。 結局、その夜は全く眠れなかった。そして、仕事に出ても電話の 女性とその子供の安否が気になって、仕事が手に付かなかった。し かし、かといって私には恐くて電話をかける気になれなかった。 また、夜がやって来た。 その日は睡眠を取ろうと早退した私だったが、電話をかけようか どうしようか迷っているうちに眠れなくなってしまった。 「よし、かけるぞ」 私は思い切って受話器を取り、再び自分の家の電話番号を押した 。どうかつながらないでくれ!と思うやいなや、無情にも彼女の悲 鳴が聞こえてきた。 「きゅあああ」 私は耳を覆ってしまった。途端にグサッと物を刺す音がいともリ アルに聞こえてきた。 「ふふふ、お前を一発で仕留める真似なんかしないぜ」 男は楽しそうに言った。 「奥さん、お願いです。場所だけでも教えてください」 私の声も空しく、争う声がなおも続いた。彼女や子供に次々と切 り付ける音が耳に響く。そして、それに交じって、けなげな悲鳴が 聞こえてくる。 「お母さん、痛いよぉ」 その言葉を最後に子供の声が受話器から消えた。 私は堪らなくなって再び電話を切ろうとした祖の時、 「あなた、うちまで来て……」 という彼女の声がした。と同時にグサッというナイフの突き刺す 音が聞こえ、人が倒れる音がした。 「しっかりしてください!!」 と私は叫んだものの、それきり電話からは彼女の声が消え、静か な物音だけが聞こえた。しばらくして、 「次は、お前の番だ。へへへ」 という男の声で電話は切れた。 私はその場で茫然としていた。そして、顔から血の気がひいてい くのを感じた。 「あなた、どうしたの?」 私の顔を見ながら、亜紀子が尋ねた。 「女と子供が殺された……」 「ふうん」 と亜紀子はうなずきながら、「昨日といい今日といい、あなた、 刑事ドラマの見過ぎね。いっそ俳優にでもなったら」と暢気に言っ た。 全く人の気持ちを分かっていない妻である。 三日目の夜が来た。 その日は彼女が電話で最後に言った「あなた、うちまで来て…… 」という言葉が気になって考え続けたため、仕事が手に付かず、遅 くまで残業する羽目になってしまった。 私は、しかし、仕事をしながらもずっと考えていた。 思えば自分の家の電話から自分の家へ電話をかけてしまったこと から起こったことだが、それにしても、なぜ彼女の家の電話につな がったのだろう。それに、新聞にも殺人事件の記事は載っていない 。いや、待てよ、そういえば場所を彼女に聞いた時、しばらくして 彼女は「あなた、うちまで来て……」と言ったのだ。他人に対して 「あなた」という言葉を使うだろうか。まさか……彼女は亜紀子… …そういえば、子供の声も何となくあつしに……。何てことだ。あ れは私の家につながっていたのだ。とすると、もしや……。いや、 そんな馬鹿なことが……。 私は恐る恐る受話器を取ると、家に電話をかけた。 その時、私は既に察していた。当然、こういう結果になることを −−− 「誰か、助けて!」 亜紀子の叫びが受話器から聞こえてきた。 「お気の毒ですが、奥様もお子様も亡くなられました」 刑事が静かな声で言った。 「そうですか」 「……お二人とも、全身二十箇所以上刺されていました。恐らく、 じわじわと痛めつけられたんでしょう。一応、我々としては怨恨と 強盗の線から捜査してみますが……」 「お願いします」 私は妻と子の顔を一目見ただけで、刑事の話を聞いた後、私はバ ットを一本手にして、夜の道に散歩に出た。 もしあの電話が未来を暗示したのなら、必ず奴は私を狙ってくる はずだ。 私は家からさほど遠くない薄暗い公園の並木道を歩いた。落ち葉 を踏む音に耳を傾けながら、あてもなく歩いていた。 「あのう、ちょっと道をお聞きしたいのですが−−」 後ろから声がした。その時、私にはすぐにわかった。 あの男の声だ! 私は手にしたバットをぎゅっと握りしめると、懇親の力で、振り 向きざまにバットを振り抜いた。 「いやあ、お手柄でした」 刑事は上機嫌で言った。 ここは交番である。既に犯人はパトカーで護送されていた。後で わかったことだが、あの男は数日前に退院したばかりの精神病患者 であった。 「よくわかりましたなぁ。一歩間違えば、あなたも殺されるとこで したよ」 私は刑事に一応の説明をした。刑事は意外にも私の話を信じてく れたようだった。 「世の中には変わったことがありますな。私も試してみますか」 「やめたほうがいいですよ。防ぐことの出来ない未来を知っていて も、所詮、それは絶望と恐怖を生むだけです」 「まあ、そうかもしれませんな。ああ、それから一つ、あなたもこ れからはあまり慣れないことをしない方がいいですよ。それじゃ」 刑事の言葉に私はちょっと頷いて、交番を後にした。 終わり