「松」 カラッと晴天にめぐまれたある日曜の午後、椎野美佳は東京郊外 の友人の久野浅子の家に訪れた。 「浅子、浅子」 縁側でのんびりと外を眺めていた老人は大きな声で呼んだ。 「浅子、呼んでるわよ」 「いいのよ、別に。もうぼけてるんだから」 これから二人で買物に出かけようとしていただけに浅子も不愉快 だったようで、老人の呼掛けを無視した。 「でも、やっぱりそれはよくないわ。私も行くからいいでしょ」 美佳がさそいかけるように言うと浅子もやれやれといった様子で うなずく。 玄関の廊下を通って、居間を抜けると縁側である。 老人は板敷に腰掛けていた。老人は二人を見ると顔をしわくちゃ にして笑い、 「おお、よく来たね。そちらさまは浅子の友達かな」 と言った。 「こんにちは、椎野美佳と言います」 「元気そうな子じゃ。浅子はいい友達を持ってるのう。まあ、そこ へ座りなさい」 二人が座ると、老人はお菓子の入った皿を出した。 「おじいちゃん、何か用?」 浅子は苛立ちげに言った。どうにも早く老人の用から解放された いという感じである。「まあ、そう急ぐことはないじゃろ。それよ り、浅子、あの松を見てどう思う」 老人は庭に一本だけ立っている松を見て言った。 「また、始まった。何度、聞いても同じよ。あんな醜い松、大嫌い !」 浅子が感情を込めて言った。 「ちょっと浅子、言い過ぎよ」 美佳は浅子の脇を肘でつついてささやいたが、浅子はつんとして そっぽを向いている。「美佳さんはどうかな」 「え?は、はあ」 美佳は老人に尋ねられ、慌てて松に目を向けた。そして、何か誉 め言葉をと思ったが、あの松を見てはまるで言葉に浮かばなかった 。 それは松と呼ぶに呼べない木だった。おそらく、老人に松と最初 に言われなければ、とうてい美佳にはわからなかっただろう。 葉はまるでなく、どの枝もつるのようにくねくねと曲がり、幹の 色は黒ずんだ灰色であった。もう立っているのが不思議なくらいで ある。 「あんたも醜いと思っているのじゃろ」 「そんなことは……」 「気にしないでもいい。そんなことで責めたりはせんよ」 「すみません……」 美佳はうなだれた。 「いいのよ。それが正常な人間の考え方よ」 浅子が口をはさんだ。 「浅子!」 「美佳は黙って。だいたい、おじいちゃんはしつこいのよ。毎年、 この時期になるといつもいつも松のことばかり聞いて−−そして、 決ってあの話をするの」 浅子がヒステリックに怒鳴った。 「あの話?」 「ええ、聞いてみる、私は聞きあきたけど」 「うん」 「おじいちゃん、簡単に美佳に話してあげて」 浅子はそっけなく言った。 「ああ、いいよ。それならすぐ始めるとしようかな。そう、あれは 十三年前の春のことでな……」 老人はぽつりぽつりと話し始めた。 その夜は空気が乾いていた。ここ数日間、異常気象とも思える猛 暑が続いていたからかも知れない。 久野家でもこの熱帯夜のせいで部屋中の窓が網戸を掛けて、開け られていた。それというのも今日は電気工事の都合で停電だったの である。 みなが早々と寝てしまう中で久野芳夫は二階の部屋でろうそくを 灯して、受験勉強に励んでいた。 かれこれ四時間。夜も最後の絶頂期を迎えている。 芳夫はようやく問題集を解き終えると、大きく机に持たれて伸び をした。緊張が抜けて、あくびがでる。 「さあて、今日はここでやめておくかな」 そう言って、机の上の問題集とノートをたたみ、筆記用具を筆箱 にしまった。そして、最後にろうそくを吹き消そうとしたときだっ た。 突然、網戸から吹き抜けてきた強い風がろうそくを倒したのだ。 ろうそくの火はすぐ消えたが、その消える瞬間に火が本に乗り移っ てしまった。 芳夫は慌てた。なんとか火を消そうとしたが、火は瞬く間に部屋 に燃え広がった。 彼はもうどうすることも出来ず、部屋を飛び出すと階段を駆け降 りながら、 「火事だ!」 と叫んだ。 家族はそれに気付いて、慌てて飛び起き、取るものも手に付かず 、家を逃げ出す。 火はもう全体に燃え広がっていた。古い家でしかもこの乾燥した 空気の中ではおそらく何も残らないだろう。 消防車を呼んだ後、久野一家はオレンジ色に燃え盛る家を肩を落 として見つめていた。「みんな……ごめん、俺のせいで」 芳夫が小さな声で言った。 「なあに、家族がみんな無事なら−−」 そのとき、母の多恵子が発狂したように声を上げた。 「あなた、大変!浅子がいない」 「なんだって!いついなくなったんだ」 「わからないわ。逃げるのに慌てて−−確かに連れて出たと思った のに」 「それじゃあ、まだ家にいるっていうのか!」 「ああ、どうしよう。私ったら……」 多恵子は頭をかかえ、嘆いた。 「おまえは娘の命よりも自分が大事なのか。俺はそんな女とは知ら なかったぞ」 父の次雄は怒りをかられ、怒鳴った。しかし、多恵子はもう子を 置き去りにしたショックでただごめんなさいと謝るばかり。娘の浅 子はまだ三つなのだ。 「父さん、やめてよ。俺が悪いんだ。だから、助けにいくよ」 芳夫は火の中に飛び込もうとした。 「死ぬ気か。はやまるな!」 次雄が芳夫を抑えると今度は発作的に多恵子が豪火の中へ乗り込 まんとする。 「誰か多恵子をとめてくれ!」 次雄が叫ぶ。 そんな時、間一髪、消防署員が駆けつけ、多恵子を救った。 「浅子!浅子」 多恵子はその場に泣き崩れ、何度も娘の名前を呼んだ。 「奥さん、この火の中で救出は無理です。後は運を天に任せましょ う」 消防署員はなだめた。 数時間後、火事は家をすべて焼き払い終った。空は青みがさし、 雀が鳴き始めた。 さっそく消防署員が捜索にあたる。その中には父の次雄も加わっ た。 「これでは娘さんの遺骨も残りませんな……」 「……」 次雄はその場にしゃがんで砕けたがれきをあさった。しかし、ど れもみんな灰となって崩れてゆく。 「おい、娘さんが見つかったぞ」 その時、次雄の耳に吉報が飛び込んだ。彼はすぐに立ち上がると すぐ声のあった方に向かった。 「浅子の遺体が見つかったんですか?」 「遺体?とんでもない、生きてますよ」 消防署員は微笑んだ。 目の前の松の木の下に幼い子供が巣やすやと眠っている。実にあ どけない寝顔であった。 「これだけの火事の中でこの木が崩れなかったのはまさに奇跡です 。しかも、木の下に眠っている娘さんには火の粉はおろか葉一枚た りとも落としていません」 消防署員がまだ信じられないという顔つきで言った。 「奇跡……そんなものじゃない。この木は明らかに娘を救ってくれ たんですよ」 次雄が頬を緩ませて、目を涙でいっぱいにすると、寝ている娘を 抱き上げ、ぎゅっと抱き締めた。 「パパ、いたいよぉ」 浅子が目をさまして、言った。 「痛いか、いいぞ。生きてる証拠だ」 次雄はそう言って、いっそう娘を強く抱き締めた。 「どうだった?」 老人の話を聞くなり、浅子は退屈した顔で美佳に聞いた。 「すばらしいじゃない」 美佳は感動して言った。「この松が浅子を守ってくれたんでしょ う」 「そうよ」 浅子は強い口調で言った。「でもね、火事の時、どうして私があ の松にいたか、わかる?」 「え?」 「このぼけ老人が寝ている私を外へほおりだしたからよ」 浅子は松の木を思いっきり蹴った。すると松は砂のように崩れさ り、風に舞って空に消えた。後には何も残らなかった。 終わり