鉛筆 その鉛筆は折られるのを待っていたかのようにテーブルの上に転 がっていた。馬鹿な鉛筆だ。これほど怒っている僕の前に姿を現す とは。しかも、むかつくことにこの鉛筆は彼女のくれた鉛筆だった 。仮にも今日、僕はその彼女にふられたのだ。 「あなたってつまんない人ね」 これが彼女の別れの言葉だった。 僕は怒りにまかせて、鉛筆の両端を持つと、えいとばかりに折っ てしまった。 −−ポキン という情けない音がした。 天地がひっくり返りそうな怒りと悲しみだったにも関わらず、た ったこれだけで終わってしまった。気持ちはまだ晴れないけれど、 彼女がくれた鉛筆という犠牲を払った以上、怒りは否応なしに終わ らさなければならなかった。 「失恋なんて恋愛にはつきものさ」 などと呟いてみたものの、誰も聞いていないのでは空しいばかり だった。 後になって、僕はこの鉛筆を折ってしまったことを非常に後悔し た。いくら失恋に心が動揺していたからとは言え、彼女のくれた唯 一の思い出の品を折ってしまったのだ。HBの◇◆△鉛筆。僕が学 校で鉛筆を忘れた時に彼女が親切にくれたのだ。正確に言えば、貸 してくれたのだが、僕はそのまま返さなかった。 −−かわいそうに 机の上のまっぷたつに折れた鉛筆を見て、僕は思った。折った張 本人は僕なのだが、今は誰かに折られたような気分だった。 鉛筆からは血が……じゃなかった、粉がこぼれていた。 考えてみれば、鉛筆に罪はなかったのだ。鉛筆は人に迷惑をかけ たわけでもなく、まして邪魔をしたわけでもない。鉛筆はただ置い てあっただけなのだ。 −−どうしよう 僕はとんでもない罪を犯してしまった。無差別殺筆だ。裁判にで もなれば、きっと死刑を宣告されるだろう。それほど、僕は人道に 外れたことをやってしまったのだ。 ただ自分の失恋の腹いせのためだけに鉛筆は無惨な最後をたどっ たのだ。 −−鉛筆君、許してくれ 僕は鉛筆の前に手をついて謝った。だが、鉛筆は答えない。きっ と恨んでいるのだろう。下手をすると、今夜あたり、僕の枕元に化 けて出るかも知れない。うーん、困った。そうだ、病院に連れて行 けば、まだ助かるかも知れない。 僕はハンカチで鉛筆をくるむと、急いで医者の息子の家を訪ねた 。医者の息子は度の強い眼鏡をかけ、坊ちゃん刈のなかなか賢い奴 だ。 医者の息子はハンカチの上の鉛筆に聴診器を当てながら、うんう んとうなずいて、 「こいつは複雑骨折だよ。ほぼ即死だね」 といった。 −−ゲゲッ、どうしよう 「治る見込みはないのかい」 「接着剤やセロテープを使う手もあるが、そんなことをすれば、 この鉛筆は生涯、世間から偏見の眼差しでみられることになる。そ んな残酷なことが君にできる?」 −−ああ、僕は何という愚かな過ちを犯してしまったのか。一時 の感情のために、輝かしい鉛筆の将来を踏みにじってしまったのだ 。 「僕はどうしたらいいんだ」 「鉛筆を手厚く葬ってやりなさい。それが鉛筆に対するせめても の供養です」 といったのはたまたま医者の息子の家へ遊びにきた近所の坊主の 息子であった。 坊主の息子はやはり頭も坊主頭で、眉毛が必要以上に濃いのが特 徴であった。 「わかったよ」 とにかく、鉛筆のためになることなら何でもやるつもりでいた僕 は坊主の息子の言うとおりにした。 まず、通夜を行うために縁者の方々においでねがった。場所は無 論僕の家。喪主は僕である。縁者には三菱鉛筆さん、ペンテル鉛筆 さん、ユニ鉛筆さん、五才の妹に参列してもらった。通夜の日には とうとう彼女は来なかった。焼香に訪れたのは坊主の息子と医者の 息子だけである。 翌日、坊主の息子の読経の後、鉛筆はガスコンロで焼かれた。残 った灰を坊主の息子と二人で箸でとって、骨壷に納めた。その際、 坊主の息子が鉛筆に「ピロリン次郎信士」というよくわからない戒 名をつけてくれた。その日も連絡したにも関わらず、彼女は来なか った。 四十九日の法要の後、鉛筆の遺骨は庭の花壇のそばに埋められた 。墓はプラスチックを使って、立派なものを作ってやった。 僕は毎日のように鉛筆の墓の前で手を合わせた。そんな僕を両親 は変な目でみていたが、僕は全く気にしなかった。 半年が過ぎた。僕はめげずに鉛筆の墓の前でお参りを続けていた 。 そんなある朝、学校へ行った時、教室で僕は筆箱を忘れたことに 気づいた。 −−しまった。今日は図工の授業があるのに…… 僕は思いっきり困ってしまった。友人に鉛筆を貸してくれるよう 頼んだが、どいつも友達がいがなく、坊主の息子まで 「鉛筆は私の命だ。その命を渡すわけには行かない」 などと、とんでもないことをぬかす始末。一時間目の図工の時間 は着々と迫っていた。 「Oくん、どうかしたの?」 教室の前の廊下であたふたとしている僕に誰かが声をかけた。振 り向くと彼女だった。 「え、鉛筆、忘れちゃったんだ」 僕は照れくさそうに言った。 「じゃあ、貸してあげるよ。私、たくさん持ってきたから」 彼女は絵の具箱から鉛筆を二本と消しゴム一個を僕に差しだした 。 「ありがとう」 僕は複雑な表情で受け取った。 「あっ、ほら、もう時間よ。Oくんも急いでね」 彼女は笑顔で言うと、図工室へ慌てて駆けていった。 僕は手の平の二本の鉛筆を見た。それは◇◆△鉛筆だった。 −−鉛筆君、彼女が笑ってくれたよ…… 「O!何してるんだ。早く図工室へ行け」 担任が僕を見て、怒鳴った。 でも、今の僕には耳に入らなかった。 終わり