人形 東京のB町にアパートを借りた僕は、翌日から近くのカメラ部品 工場で日雇いの仕事をすることになった。 就職も久し振りだが、一定の場所に住むのも久し振りだった。こ れも一重にアパートから就職の面倒をすべてみてくれた友人、中野 剛一のおかげだった。 居住して一週間ばかりたった日曜日。その夜の夕食でのこと。 「お兄様」 妹の美代がお椀と箸をテーブルに置いて、僕を見た。 「ん?」 僕は飯を食べるのを止めて、丼から顔を上げた。 「お兄様、お願いがあるのです」 「何でしょう?」 「美代は明日、外へ出掛けたいのです」 「いいよ」 「でも、ひょっとしたら、明後日も明明後日も出掛けるかもしれな いのです」 「いいよ」 「本当に?」 美代は念を押すように言った。 「おう、男に二言は無い」 「訳を聞かなくいいの?」 「聞いてほしいなら話せばいいし、話したくなければ黙ってればい い。美代は美代の考えで行動すればいいだろう」 「ありがとう、お兄様。けど、隠しごとはしたくないので、美代は 話します」 「うん、話すといい」 「実は美代は明日、人形を探しにいきたいのです。それは青い目で 金髪で、肌の白い外人の女の子の人形なのです」 「そんな人形、美代は持っていたっけ?」 「いいえ。近所の河本由紀ちゃんがなくして困っているので、探し てあげる約束をしたのです」 「由紀ちゃんと言うのは確か小学1年生の明るい女の子だったね。 由紀ちゃんは美代の友達なのだね」 「はい、年は7つ違うけど、美代にとっては大切な友達なのです」 「そうか。じゃあ、頑張って探すといい」 「はい、お兄様」 美代はにっこりと微笑んだ。 その翌日からは美代は本格的に人形探しを始めたようだった。 早朝、僕の朝食を用意して、僕がまだ目覚める前に出発する。 そして、帰りも僕の仕事の帰りより遅かった。 僕は妹がこんなに夢中になっているのを始めてみた。これまで、 世間知らずで一人では何も出来ないと思っていたのに、朝早くから 夜遅くまで人形を探している。きっと、妹の友達と言うのは妹にと って本当に大切な友達なのだろう。だから、友達を喜ばせたいがた めにこんなに一生懸命なのだろう。僕は妹のそんな優しい気持ちが いじらしかった。 できれば、妹を手伝いたい。でも、妹にとってこの人形探しは自 分の人生を見つけるため、いや自分の存在を確立するための戦いな のだ。妹が人形を見つけた時、初めて人に対してその存在を認めら れる。妹もそれにようやく気付いたに違いない。 僕はそう考え、妹の人形探しには口を出さなかった。ただ、食事 だけはきちんととるように僅かなお金を渡すだけだった。 それから、四日が過ぎた。妹は相変わらずの生活を続けていた。 「美代、少しは休んだらどうだ」 僕は夜の10時にアパートに戻った妹の顔があまりに疲れている ので、つい声をかけた。 「お兄様、大丈夫です。それより、いつも掃除や洗濯、夕食も作れ なくて……ほんとにごめんなさい」 美代は小さな声で謝った。 「馬鹿。そんなこと気にしないでいい。どうせ今日もろくに飯を食 べてないんだろう。夕食、作ったから食べるといい」 「ありがとう、お兄様。美代はほんとに不義の者ですね」 美代は泣きそうな顔で言った。 「いいから、早く食べろ」 その夜は妹は夕食を食べると、とりつかれたようにぐっすりと寝 入ってしまった。 しかし、翌朝になると、またしても妹の姿は無かった。 僕は妹を心配しながらも、やはり見守るしかなかった。しかし、 妹の顔色は日に日に血色が悪くなり、窶れていった。そうして、2 週間が過ぎた。 「お兄様、お兄様」 ある日曜日の午後、僕が隣の人から貰った古新聞を読んでいると 、妹が珍しく明るい顔をして、部屋に駆け込んできた。 「美代、どうした?」 僕は息を大きく弾ませている妹を見て、言った。 「人形が見つかったの!!」 妹は幼子のような甲高い声を上げ、後ろでに隠した物を僕の前に 差し出した。 「人形……見つかったのか」 僕は驚いた顔で、青い目の、金髪の、白い肌の、女の子の人形を 見た。 「O町の廃品処理場のおじさんが持ってたの。もったいないから、 捨てずにとっといたんだったって」 妹は興奮気味に言った。妹は顔色は決してよくなかったが、心の 底から込み上げる喜びがそれを吹き飛ばしていた。 「そうか、よかったな」 「うん」 「ようし、今日はお祝いだ。久し振りに食べにいこう」 「やったぁ」 妹は喜んだ。僕は妹の笑顔がこれほど素敵だと思った時はなかっ た。 翌朝、僕が起きた時、妹はまだ寝ていた。これもまた久し振りの ことだった。 僕は機嫌よく工場へ出掛けた。 ところが、その夜のことだった。 工場の帰り、アパートを見ると、僕の部屋の明かりがついていな い。妹は留守なのかな。 しかし、僕の部屋のドアはかかってはいなかった。部屋に入り、 電気をつけた。 「美代……」 僕は部屋の隅でうずくまっている妹を見て、驚いた。 「何やってんだ、ここで」 「……」 妹は答えなかった。 妹の傍らにはあの女の子の人形が置かれていた。 「返しにいかなかったのか」 「……」 妹は黙っている。 「美代、人に理解してほしかったら、自分で話さなくちゃ駄目だろ う」 僕は妹の前に腰を下ろした。 「−−由紀ちゃん、いらないって」 「?」 「人形、いらないんだって。もう新しいの買ったから、もう古いの はいらないんだって」 妹は重い口調で言った。 「そうか、それで美代はどう思った。悔しかった?悲しかった?」 「−−わからないんです。ただ胸が苦しくて、とっても涙が出てき て」 僕は妹の言葉を聞きながら、人形を取り上げた。よく見ると、服 もぼろぼろで、顔の辺りも汚れている。 「それで、どうする?」 「……わからない」 妹はか細い声で言った。 「それなら、わかるまで考えるといい。もう人形は逃げることはな いからね」 その夜は結局、それ以上、妹と話をすることはなかった。 妹はその後、この問題の結論を出すことはなかった。だから、今 でも青い目の人形は部屋の隅でじっと座っている。 その人形は僕が部屋に帰ると、毎日、服が変わって、化粧をして いるので、とても面白かった。 終わり