「 つ く え 」 僕は再び戻ってきた、この学校のこの教室のこの机に。 学生時代と全く変わらないこの教室。僕はこの教室へ教師となっ て戻ってきた。 教室には誰もいない。今日までは春休みだ。明日から生徒たちを 前にして僕は教壇の上で、弁舌をふるうことになる。 僕は教壇の上に立った。教室全体が面白いように見渡せる。六年 前まで、僕はこの教壇に立つ教師に向かって、心の中で悪態をつい ていたのだ。それが今では…… 僕は今、無性に緊張している。初めてこの学校に来た時は何の緊 張もなかったのに。おかしなものだ。 けど、大勢の生徒の視線を一身に受けながら、授業をする教師と 言うのは考えてみると、凄いことだと思う。僕にそんなことができ るだろうか。教育実習の時はまだ短期間だったから、耐えられた。 しかし、これからは期限がないのだ。 僕は教壇から下りて、自分の机に歩み寄った。僕の最後の席だ。 ここにいる僕と学生時代の僕とは生徒と教師の立場が逆転したと いう以外は、何ら変わってはいない。−−いや、一つだけ 机の上にはいっぱいに落書きがしてある。別に書いたからと言っ てどうなるわけでもないのだが、学生たちはなぜか心の声をこの机 という壁に表現しようとする。僕もその一人だった。 机の隅に書かれた相合い傘。左には僕の名前。右には川原裕子。 僕の彼女だった人の名前。−−懐かしい。これを書いた時の僕の心 はうきうきとしていた。高校二年の時だった。 僕はこの二か月後、彼女と小さなことで喧嘩し、そのわだかまり が解けないまま、父の急の転勤が決まった。そして、彼女に告げる ことなく、北海道へ引っ越していったのだった。 今頃、彼女は何をしているだろうか。会社員か、それとも結婚し て主婦か。いずれにしても、彼女の人柄を考えれば、きっと幸せに 暮らしているに違いない。 僕がこの学校へ来たのは、僕自身の選択だった。この学校で教師 を募集していると言う時、僕は真先にその話に飛びついた。どうし ても自分の学生時代に決着をつけたからだ。 六年もひきずってきたこの学校の苦い思い出を、楽しい思い出に 作り変えたかった。 僕はきれいに並んだ机を窓側の一つ一つ見て回った。どれにも意 味不明の落書きが書いてあったり、彫ってあったり。学生時代でも じっくり人の机の見たことなど一度もなかった。 時折、知っている名前が書いてあると、つい口もとが緩んでしま う。僕はいつしか落書きの色あせない新鮮さに心を奪われていた。 もう何年もたっているのに、言葉が生きている。すぐそばで声が聞 こえてきそうだ。 僕は子供のように夢中になって、一つ一つの机を見ていた。 川原裕子−− 窓から五列目の三番目の席を通り過ぎた時、ふっとその名前を机 の上で見た気がした。僕の机以外にも彼女の名前が書いてある! 僕は一つ戻って、その机の上をまじまじと見つめた。 相合い傘に僕と彼女の名前。そして、その横に 博のバカ!! と書いてある。 「これは……」 僕は目を擦った。この字は彼女の字だ。間違いない。そういえば 、僕があの席にいた時、彼女のこの席だった。 −−いつ書いたんだろう。 その時、教室の戸が静かに開いた。僕ははっとして、戸の方を見 た。 「裕子……」 僕は金縛りにあったようにしばらく動けなかった。 彼女は制服を着ていないことを除けば、六年前の面影をそのまま 残していた。 「きっと来ると思ってた」 彼女は僕をじっと見つめて、言った。 「……」 僕は彼女が僕に会ったら、黙って北海道へ行ったことをきっと怒 ると思っていた。でも、今の彼女の顔は優しかった。 「今日、来なくても、いつかは来てくれると思ってた……」 彼女の声は涙声だった。 「お、おれは……」 僕は何を言っていいのか、わからなかった。 彼女は一歩、一歩、僕のところへ歩いてきた。そして、僕のすぐ 目の前まで来た。 「わたしも明日からここの教壇に立つの」 「?」 「もう一度、ここで、つくろ。楽しい思い出をいっぱい−−」 「裕子!」 僕は彼女を思いっきり抱きしめた。今の僕には緊張感も不安もな かった。ただ胸がはち切れんばかりの熱い思いでいっぱいだった。