百円玉事件 もし、あの時、私のポケットに百円玉が一枚でも入っていたら− − 私は今でもそう思う時がある。 私の今の生活が「最低」とするなら、五年前が「最高」というこ とになろう。 五年前−−そう五年前、私が知り合った一人の女性。彼女が私の 運命を変えてしまった。 当時、私は二十六。大学を卒業し、外資系の企業に入社して四年 目の年だった。 そして、彼女は二十二で、町の小さな印刷会社に勤めていた。 私が最初に彼女を見掛けたのは、帰宅途中の公園だった。 彼女はブランコに乗っていた。ただ揺れながら、どこか遠くを見 つめていた。彼女は美しかった。さらっとした黒い髪。邪心のない 瞳。薄いピンク色の口紅をつけた小さな口。色白の肌。支えてあげ たくなるような細い体つき。まるで人生を重荷を一身に背負ってい るような弱々しい女性だったが、なぜか私には温かい優しさを感じ させた。 私はその光景を何度も見かけた。 彼女とは別に面識があるわけでもなく、赤の他人だが、なぜか私 は日に日に帰路の公園で彼女の姿を見ることが楽しみになっていた 。 私が彼女に声をかけるまでに一週間とかからなかった。 私が彼女に初めて声をかけた時、彼女はまるで驚いた様子はなか った。それところか警戒心のない目で私を見て、ニコッと微笑んで くれた。 この笑顔の意味は今でも私には分からない。ただ、口下手のあま り女性とはほとんど付き合いもなく、ただ仕事一筋に生きてきた私 にとって、この笑顔は非常に衝撃を与えた。新鮮で、爽やかな気持 ち。心がときめき、うきうきと何かがこみあげてくるのを感じた。 その日は結局、軽い会話で終わったが、次の日から毎日のように 公園で話をするようになった。 彼女はあまり自分のことは話したがらず、どちらかといえば私の 話を黙って聞いていて、時々、それに対して何かを言うという感じ であった。無論、私はそれでも充分、楽しかった。ただ、彼女は決 して私のデートの誘いには乗ってくれなかった。公園で会う時はい つも話し相手になってくれるが、ただそれ以上は何もなかった。 しかし、一度たりとも彼女は公園に来ないということがなかった ため、そんな不満はむしろ私のわがままだとして打ち消した。 そうして、二週間が過ぎた頃、私は彼女との話の中で、つい「結 婚するなら君のような人としたい」と口に出してしまった。 私自身、口調は冗談まじりだったが、心根はかなり本気だった。 「……」 彼女は私の言葉を本気と受け取ったのか、冗談と受け取ったのか 、一度唇をきゅっと結んだ。 特に気を悪くした様子もないが、彼女は私の言葉を真剣に受け取 っている。私には何となくそう思えた。 「もし、よかったら−−」 しばらくして、彼女は呟くように言った。 「え?」 私は戸惑った。もしよかったら、結婚してください。彼女はそう 言おうとしたのだろうか。いや、それは希望的観測だ。恐らく、私 の言葉を冗談と受け取って、彼女も冗談でそういったに違いない。 知り合って、まだ二週間。結婚なんて、そんな簡単に決まるものじ ゃない。 私の頭の中の思考を遮るように、彼女が言った。 「もし本気だったら……いいわ……」 彼女の言葉じりは弱々しかった。 「君……」 私は彼女をじっと見つめた。すぐにでも彼女を抱きしめたい気分 だった。 「今度の月曜日、つきあってほしいところがあるの……」 彼女は思い詰めた口調で言った。 初めてのデートの誘いだった。 「いいさ、どこへでもつきあうよ」 私は何も考えずにそう答えた。 そう……それがあまりにも安易な考えだった。彼女の約束は午後 七時、横浜港の第七倉庫の前。 だが、私はその日に限って、重要な会議で早退が出来なくなった 。社を出た時はもう五時を過ぎていた。 ここから横浜までなら、二時間もあればいける。それにいざとな れば、彼女が渡してくれたメモに書いてある喫茶店に「遅れる」と 連絡を入れればいいのだ。 それは単に自分に言い聞かせてるだけだった。本当なら、すぐに 連絡を入れるべきだった。だが、私には、彼女に嫌な思いをさせた くないという気持ちから、それができなかった。 午後五時三十分、私は当初の予定が大きく狂った。タクシーが全 く捕まらないのだ。 私は業を煮やして、地下鉄の駅に駆け込んだ。 私は駅の改札で発車のベルを聞くと、慌てて走り出した。階段を 駆け降り、今にもドアを閉めようとしている地下鉄に乗り込もうと 勢いをつけた瞬間、私は一人の男にぶつかった。「どこ、目ぇつけ てんだ!!」 男のドスのきいた声で怒鳴ると、私の胸ぐらを掴んだ。その男は 目の鋭さや髪型からヤクザだと思った。 だが、今の私には開いているドアへの執着が異常なまでに強かっ た。私はとっさに背広の胸ポケットにさしてあったボールペンを男 の腹めがけて、思いっきり刺すと、ぐいぐいとねじ込んだ。 それはほんの一瞬だった。 男がその場に腹をおさえて、うずくまると、私は素早く電車に乗 り込んだ。 電車はすぐに発車した。中の客は私が男を刺したことなど、まる で気付いていない。 私はホームで倒れているあの男の姿を見ないようにした。 午後六時三十分。私は横浜駅に着いた。 警察に手配されている様子はない。 私は男の安否など全く眼中になく、駅を出ると、すぐ路上で客待 ちをしていたタクシーを拾った。 その時、一枚の百円玉が私のポケットから落ちた。 その百円玉はチリーンと小気味よい音をたてて、アスファルトに 落ちると、そのまま私から離れるように転がっていった。 私は別段、気にも止めず、タクシーに乗った。 どうやら間に合うぞ。私は腕時計を見て、ようやくホッと息をつ いた。 少し遅れても彼女なら許してくれるさ。とにかく後少しだ。 私はシートに体を任せ、ふっとフロントガラスを見た。 ちょうど交差点にさしかかった時だった。 −−あっ!!! 突然、一台の乗用車が目の前に現れた。 タクシーの運転手は車をかわそうと、ハンドルを切った。だが、 間に合わなかった。車は激突し、私はその勢いで後部座席から前の フロントガラスを突き破り、路上に弾き出された。 「ぐわぁ」 私は地面に叩きつけられたショックで呻いた。 畜生、信号無視して右折なんかしやがって。 私はタクシーにぶつかった衝撃でガードレールまで飛ばされた車 を睨み付けた。 ううっ、体が痺れる。全く体の自由がきかない。 私は体を這うようにして、車道から歩道の中へ入った。 電話だけでも…… 私はメモを握りしめ、何とか立ち上がると、タバコ屋の前にあっ た二台の電話機に向けて、体を引きずりながら歩いた。 一台の電話機は一人の老婆が使っている。 私は漸く電話機の傍まで来ると、左手でポケットに手を入れた。 −−ない!!財布がない 私はその瞬間、愕然とした。 あの男とぶつかった時、落としたんだ。 私は全てのポケットを調べたが、小銭すらなかった。 そんな時、隣では老婆がたくさんの硬貨を手にして、一枚ずつ電 話機に入れながら、親しげに話している。 ふざけやがって 私は嫉妬とあせりから、老婆の硬貨を無理矢理、奪い取った。 「コラッ!何するだ」 「貸してくれ。俺には時間がないんだ」 「ドロボー、ドロボー」 老婆は私の言葉に耳も貸さず、わめき散らした。 チッ! 私は弁解する気にもなれず、その場を逃げた。 だが、この体ではどうにもならず、午後七時、ついに私は彼女に 会うことも出来ず、警察へ連行された。 約束が果たせなければ、もう私にはどうでもよくなっていた。あ らいざらい、全て白状した。 警察の話で私の刺した男が死んだことがわかった。 私は素直な態度に、警察は特別に彼女に私のことを伝えてくれる ことを約束してくれた。 私は彼女の約束を破ったばかり、さらに私が逮捕されるというつ らい思いを彼女にさせるのかと思うと、ひどく気が咎めた。 その夜は拘置所の中で、彼女の悲しい顔が頭にこびりついて、眠 れなかった。 翌日、彼女の水死体が横浜港で上がったと警察に知らされた。 私はその時、絶望のあまり、叫び肥を上げた。 私という人間の全てを憎んだ。殺してやりたいと思った。 何も考えたくない。何も考えたくない、私の頭の中から、全ての 思考を取り去ってくれ。 私のそんな思いが絶叫に走らせた。 私は数日、拘置所の中で、獣のようにわめいていた。声がかれ、 しまいには蚊の鳴くような声しかでなくなっても、わめくことをや めなかった。 そのわめきのせいで、今ではもう私の声は出なくなってしまった 。それからしばらくして、ようやく私が落ち着いた頃、警察から彼 女のことを聞かされた。 彼女は明らかに自殺で、遺書らしき物も持っていたということだ った。それには走り書きで 来てくれませんでしたね−−さようなら とあった。 彼女は沖縄の出身で、家族に仕送りをするために一人上京して、 一月前まで印刷会社で働いていたが、つきあっていた男のために横 領を働き、その金を全て男に持ち逃げ去れたあげく、警察沙汰にし ないかわりに責任を問われ、会社をクビになっていたのだった。 考えてみると、あの時の彼女は絶望のどん底だったに違いない。 それなのに、彼女は私に対して嫌な顔一つせず、親身に話を聞いて くれた。 彼女が私のデートの誘いを断ったのは、自分の本当の姿を人に知 られたくなかったからなのだろう。 だとすれば、彼女とのあの約束は私に全てを打ち明けるためだっ たのか。そして、結婚はできないから、別れてくれというつもりだ ったのか。 私はそうは考えたくない。 彼女は自分の過去を打ち明けたうえで、自分と結婚してくれるか どうかを私に問うつもりだったのだ。 だが、私は約束を破った。彼女は裏切られ、人生に絶望を感じ、 自殺した。 もし私が行けば、彼女は死ぬことはなかった。それだけは間違い ない。 ふふふ、今更言ったところで、もうどうしようもないことか。 あの時、落ちた百円玉が私の運命を決めたのだ。一円を笑うもの は一円に泣くなどというが、今度のことはまさにそれだ。 今は冷たい刑務所の中。 私は暇さえあれば、一枚の百円玉を床に落として遊ぶが、落ちた 百円は未だに私から逃げるように、反対側へ転がってゆく。 終わり