乞食 とある日の夜のことだった。 夕食の後、妹が珍しく僕の肩を揉んでくれた。 「どうした、何か欲しいものでもあるのか」 僕は妹の考えを先に読んで、尋ねてみた。妹は世間知らずなので 、割とその行動で何を考えているか分かるのである。 「じ、実はそうなんです」 妹は自分の考えを見透かされたことにやや顔を当惑させた。 「言ってみな。僕にできることならやってあげよう」 「お金を少し頂きたいのです」 妹は僕の肩をその細い手でゆっくりと揉みながら、言った。 「いいけど、何に使うの?」 「それは−−」 妹はやや言葉に間を置き「ある人に恵んであげたいのです」とい った。 「そうか……それはどのような人なのかね」 「S公園のベンチに住んでいる男の方なのです」 「その男と言うのは乞食かね?」 「さあ、でも、その男の方は不遇なのです。毎日、ほとんど食する ことなくベンチの上にぐったりと横になっておられて、しかも、近 所の子供たちに物を投げられて苛められているのです」 「そいつは気の毒だね」 「かわいそうに思って、食べ物を持っていったのですけど、食べて いただけないのです」 「話はしたのだね」 「いいえ。美代が幾ら話しかけても、全く答えてくれないのです。 しつこくすると、犬のような唸り声を上げて、私を追い払おうとす るのです」 「その男はきっと人間不信に陥っているのだろう」 「美代もそう思います。それだけに、何とかしてあげたいのです」 「しかし、食べ物を受け取らないのなら、お金も受け取らないだろ う」 「けど、美代にはどうしてよいのか分からないのです」 「わかった。では、これからその男に会いにいってみようではない か」 かくして、時は夜の十時という時間帯だったが、僕は美代を連れ て、わずかながらの野菜とお金を持ってS公園に行くことにした。 最近はぶっそうなので、夜半に道を歩く者はたいそう少ない。実 際、昼間でも夜でも事故に遭う時は合うのだから、それほど気にす ることはないと思うのだが、人間というものはやはり全てのものが 見えていないと嫌な性格なのだろう。 公園に着いた。ベンチはどこかと探すほどの広さでもなく、すぐ にベンチは僕の視界に入った。 なるほど、確かにベンチに横になった黒い影がある。 「あの男かね」 僕はベンチを指差した。 「はい」 妹ははっきりと返事をした。 「ここで待っていなさい」 僕は妹を公園の入口に待たせて、ベンチの方へ歩いていった。 近づくに連れ、確かに男がベンチで寝ているのが分かる。 暗がりではあるが、男の服装はかなり汚かった。それは男の体か ら出ている異様な臭いのせいもあったかもしれないが、しかし、昔 は作業服であったらしいその服はぼろぼろで、しわしわになってい るのだけはわかった。靴も一応は革靴なのだが、踵が擦り減って、 見る影も無い。さらに男の髪はぼさぼさで雑草のように伸びほうだ い伸びていて、顔も髭で埋まっていて、肌の色が容易に区別しがた い。 「きみ、きみ」 僕は小さな声で声をかけた。 こういう時は突然、暴れて襲いかかってきたらどうしようなどと 思うのだが、僕の場合は少し違う。こういった乞食や浮浪者などは ろくな物を食べていないので、まともに戦えば体力のある僕に叶う はずがないのだ。 「きみ、きみ」 今度は少し強い口調で言い、彼の体を手で揺さぶってみた。 「うっ……」 男の体がぴくっと動いた。 「眠っている所を申し訳ないのだが、僕は君に話があるのだ。時間 を貰えないだろうか」 僕の言葉に男はしばらく何の反応も示さなかった。 しかし、僕は黙って男を見ていた。 「おまえは?」 ようやく男が口を開いた。 「僕は近所のアパートに住む者だ。昼間、僕の妹が食べ物を届けた のに君は拒否をしたそうだね。もし食べ物が気に入らないのなら、 僕が君の不遇な環境に同情して、お金を恵もうと思うのだが、どう だろうか」 「いらねぇ……」 男は呟きに近い声で言った。 「そうか。すると、君は乞食ではないのだね。では、どうして君は このような場所でじっと寝ているのだろうか。お腹もすいただろう に」 「……」 男は答えなかった。 「君にもいろいろ話せない事情があるのだね。では、こうしよう。 これから僕と君は友人になろうじゃないか」 「……」 「僕は食料とお金を持ってきた。僕はこれを友人として君に貸そう 。期限はいつでもいいよ。せっかく、この世に生を受けたんだ。腹 が減って死んだのではかっこわるいだろう。どうせ死ぬなら、かっ こよく。そうじゃあ、ないかね」 僕はお金と野菜をベンチの下に置いた。 「……」 男は何も言わなかった。ただ、その時、僕を見た男の眼が不思議 と優しかった。 「それじゃあ、おやすみなさい」 僕はそういって、その場を去った。 翌朝、僕と妹が公園に来た時、あの男はまだベンチに横たわって いた。しかし、既に冷たくなっていて、二度と口を開くことも無か った。ベンチの下には一口かじった跡があるトマトが転がっていた 。 後から聞いた話では、彼は朝鮮から来た兵士だったという。彼は 最後まで人間としての誇りを忘れずに生きたかったのだろう。遠い 国から家族の期待を背負ってやってきた以上、一兵士として、例え いかなる境遇に陥ろうとも、敵の施しは受けない。彼にはそんな思 いがあったのかもしれない。 しかし、友情には国境はない。彼はそう信じたからこそ、最後の 力を振り絞ってトマトを食べてくれたのだと僕は思った。