南原光次郎シリーズ1 PAPER 一 僕は今、南原探偵事務所で働いている。決して儲る職業じゃない が、ある事件がきっかけで勤めることになった。 ある事件とはちょうど僕が二十六で、まだ自動車部品工場の作業 員として働いていた頃に起こった。 僕の友人で田沼健三という男がいた。 彼は中学時代の同級生だ。中学のころはチビだの、ウスノロだの と、いつもみんなからいじめられてきた彼だが、今では彼に逆らえ る者はいない。はずかしながら、僕も田沼に借金をしているその一 人だった。彼は交通事故で失った両親の保険金を元手に金貸しを始 め、そこから、さらに金融会社の経営にも乗り出し、今ではその会 社の数も都内で二十軒に昇るというすごいものであった。 彼の家は隣町にあった。これがなかなかの豪邸で、最近彼が建て たものだった。 僕は彼の家の門の前まで来た。「田沼健三」と書かれた表札の前 で僕はネクタイを整えると、門柱のインターホンのボタンを押した 。 返事がない。誰を訪ねた時でもそうだが、僕がドアをノックした り、ベルを鳴らして、相手が出た試しがない。こういう時は大概、 よからぬことが起こっている。それが推理小説のパターンというも のであろう。 もう一度、押してみた。ううむ……返事がない。いやな予感が− − めげずにもう一回。 「はい、田沼でございますが」 「尾崎と申します。田沼さんは御在宅でしょうか」 彼は独身で、両親もいないので、田沼だけで通じるのである。 「尾崎さん?ちょうどようございました。旦那様が大変なのでござ います。どうぞお入りになってください」 話の重大さの割にはインターホンからの声は不思議と落ち着いて いた。 「はあ」 何だか予感が当たりそうであった。 門が自動的に横に開いた。僕は門を抜けて、走り、田沼の家に入 った。 「どうかしたんですか」 僕は玄関で家政婦らしい女に尋ねた。 「じ、実は……」 家政婦が怪談でも話しそうな口調で言った。「旦那様が亡くなっ たのでございます」 「本当に!」 僕は喜んだ。 「え、ええ。でも、喜んでいるみたいですね」 家政婦は僕を軽蔑の眼差しで見つめた。 「そんなことありません」 僕は顔のゆるみを必死に押えながら、言った。「それでいつ死ん だのです」 「たった今です」 「たった今?心臓発作ですか、それとも心筋梗塞?」 「わかりません。突然、苦しみだして……とにかく、来てください 」 家政婦に案内され、僕は書斎に入った。 「うわあ」 僕は思わず目を背けた。人の死体を見るのはどうも苦手である。 だが、状況を説明しなければ、話が進まないので、見るとしよう 。 書斎は僕の部屋と同じ六畳ほどの部屋で、ドアの正面と右側の壁 に大きな木目の書棚がある。かなり高級な品だ。その棚には法律学 や経済学の本がびっしりと並んでいる。漫画などは一冊もない。 左側の壁にはカーテンのかかった小窓があり、その下に木製の机 。こちらは彼が学生時代に使っていた机によく似ている。 机の上に何も書かれていない便せんと万年筆、そして、その他の ペンの入った缶がある。僕が何気なくその便せんを取ろうとした時 、思わず手を引っ込めた。指を少し切ったらしい。すうっと細い線 のように血がにじみだしてくる。こういう傷は後からしみるように 痛くなるから嫌である。全く新しい紙を手にするときは気をつけな ければ。 机の引出は鍵がかかっていて開かない。 机の下にはダストボックスがある。机の横には小型の金庫がある が、こちらは鍵がかかっておらず開いていて、中には借用書があっ た。 そして、問題の田沼はふかふかのカーペットの上で仰向けに泡を 吹いて死んでいた。 服装はガウン姿。争った跡はない。死体はまだ温かく、家政婦の 言う通り、死んでからそれほどたっていない。 「病院には知らせたのかい?」 「いいえ」 「警察には?」 「いいえ」 「どうして?」 「知らせようと思ったら、あなたが訪ねてきたんですよ」 「だったら連絡してください。早く」 「わかりました」 家政婦は部屋から出ていく。 僕はもう一度死体を調べた。 一見、発作的な死にも見えるが、しかし田沼はそれほど病弱では ない。しかも、まだ二十六だ。年老いた者ならともかく、この若さ で発作的な死はやはりありえない。 とすれば、殺人!そうだ。田沼は毒殺されたのだ。 僕はさっそく毒物らしいものを捜してみた。しかし、そんなもの は全くなかった。せめてコップでもプレパラートでもあれば、いい のだが。 「何をしてるのですか」 「ああ、家政婦さん、田沼さんはどうやら殺されたみたいです」 「殺された?」 「ええ。あなたが見る限りで、彼が病気もちだったようすはありま すか」 「そうですわね、旦那様は健康でして、薬など飲んだ事もありませ んでしたわ」 「そうでしょう。そうなると誰が殺したか」 僕は家政婦を見た。 「私はやってませんよ。だってそんなことしてもなんの得にもなら ないでしょう」 「そうですか。あなたもひょっとしたら田沼に金を借りていたんじ ゃないですか。なんとか借用書を手にいれようとして田沼を殺した 。あなたなら事前に毒を盛ることができますからね」 「そんなひどいですわ」 「しかし、警察は疑いますよ。現に僕が尋ねなかったら、あなたは 田沼の死体を隠していたかもしれない」 「そこまで疑うのでしたら、仕方ありません。私でない証拠をおみ せしますわ」 「ええ、見せてください」 「今、取って参りますので、ここでおまちください」 再び家政婦は部屋を出ていってしまう。 いったい何をもって来る気なのだろう。 僕はしばらく待った。ところが、いっこうに来ない。 次の瞬間、僕は謀られたと思った。慌てて家中の部屋を回ったが 、ついに家政婦の姿は見つからなかった。 「畜生」 僕は舌うちをした。まんまと犯人に逃げられてしまった。あの家 政婦の事だ、警察にもどうせ連絡してないだろう。 僕はすぐ警察に電話をかけようとしたが、思いとどまった。 よく考えれば、僕が田沼を殺した犯人を見つける義理などないの だ。むしろ、今、田沼の部屋の金庫は開いている。そこから借用書 を持ち出せば、僕の借金はすべて消えるのだ。どうしてそんなこと に気づかなかったのか。 僕は田沼の金庫をあさった。ところが僕の借用書などどこにもな かった。おかしい。ほかにも金庫があるのか。 ふと金庫の奥に鍵があった。机の引出しの鍵らしい。 僕はその鍵で机の引出しを開けた。 そこにはノートが四冊あった。三冊は顧客管理の名簿のようだ。 もう一冊はスケジュール表らしい。僕はそのノートを手に取って、 今日の日付を調べてみた。 四月二十二日(木) 午前七時 井本に電話 午前九時 古川、来客。 午前十一時 安田、来客。 午後一時 北村、来客。 午後三時 尾崎、来客。 これを見る限り、井本という名前以外はすべて知っていた。いず れも学生時代の仲間だ。どうやら田沼は昔の友人に対しては自分で 応対していたらしい。多分、旧友が借金の返済に来る度に嘲り罵る ことによって、学生時代の恨みを晴らしていたのだろう。 僕はしばらく考え込んだ。 ふと、あることに気が付いて、金庫の中をもう一度調べた。 「なるほどね」 僕はニヤリと笑った。「しかし、僕の考えが正しいとすれば、あ の家政婦の存在は何だったのだろうか……」 僕はいい加減立っているのに疲れて、机の椅子に座ろうとした時 だった。 「まてよ」 僕は顎をなでた。「田沼が来客中に殺されたとすると、ここに椅 子が一つしかないのは不自然だな」 僕はかがんで、カーペットをじっと目を凝らして見た。かすかに だが、ドアから死体までの間のカーペットの毛並が、他と比べて乱 れている。 「他の部屋から運ばれてきた可能性が強いな。しかし、犯人が死体 を運ぶ必然性があったのだろうか」 その時、電話が鳴った。どうやらこれ以上の長居は無用だ。 僕は玄関から靴を持ってきて、窓から出ると、塀を伝って逃げた 。 二 翌日、探偵が僕のアパートに来た。殺された田沼のことで、顧客 名簿に僕の名前が出ていたから話が聞きたいということだった。 スケジュール表は僕が持っているから、おそらく僕が昨日、田沼 の家を訪れたことは警察でも知るまい。しかも、探偵ならなおさら のこと。そう思って僕は平然とした顔で探偵に応対した。 玄関で迎えたこの探偵はグレーのTシャッツの上にだぶだぶのコ ートをはおり、紳士帽を被った妙な男だった。 探偵は「南原光次郎」と書かれた名刺を僕に差し出した。 探偵は最初は型どおりの質問をしていたが、最後に名簿の人物で あなたの借用書がないとニヤリと笑って言った。 意外だった。まさかそんなところを調べてるなんて。 「わかりました。確かに僕は昨日、田沼の家に行きました。でも、 僕が行った時にはすでに死んでいたんですよ」 探偵は信じていない様子だった。 「そうだ、家政婦が知っていますよ」 と僕が言うと、探偵は家政婦などいないと否定した。 「そんなまさか……」 探偵は僕を疑いの眼差しで見ていた。 「待って下さい。僕は犯人も田沼さんが殺された方法も知っている んですよ」 探偵は黙っていた。 「嘘だと思っているんですか。いいでしょう、証明しますよ。ただ し、田沼さんの家に行ってからです」 三 それから二十分ほどして、探偵と共に田沼の家に行った。家には 刑事がいた。 すでに書斎には死体が片付けられ、白い粉でその跡だけが残され ている。 探偵は刑事に何やら耳打ちをしていた。 刑事はうんうんとうなずき、僕に向かって 「殺害方法をご存じだそうですね。聞かせてもらいましょう」 「その前に二つばかり聞かせてください」 「犯人がわかるんでしたら構いませんよ」 「借用書がなくなっていたのは僕のだけですか」 「いいえ。でも、それを言う必要がありますかな」 「ええ、その中に犯人がいるからです」 「そうまで断言するなら言いましょう。ただし、名前だけです。い いですね」 「それだけで結構です」 「ええと、安田勇、北村智子、そして尾崎純、あなたです」 「なるほど」 僕はしばらく目をつぶって考え込み「それでは古川という男の借 用書を見せてもらえますか」 「借用書は鑑識にまわしてあって、ここにはない」 「でしたら調べて下さい、すぐに。多分、借用書の金額が書換えら れていると思います」 「本当かね」 刑事が疑うような目付きで僕を見る。 「ウソか本当かは調べればわかります。僕は逃げませんから、電話 して聞いて下さい」 「わかった。ウソだったら承知しないからな」 刑事は急いで出て行った。 僕は辺りを見回した。さすがに警察だ。死体をのぞけば、現場を 動かしたようすはないと見える。 五分で刑事が戻ってきた。 「ああ、確かに訂正してあった」 「そうですか。それなら古川が犯人です」 「何だって!」 刑事が目を丸くした。 「まあ、これを見て下さい」 僕はノートを懐から取り出し「四月二十二日のスケジュール表で す。ここに来客の四人の名前があります」 「これは……!証拠物隠匿罪ですぞ」 「まあまあ。とにかく四月二十二日の来客予定者の内、安田、北村 、僕と三人の借用書がないのにもかかわらず、古川のものだけ残っ ています。これをどう考えます」 「普通は借用書を盗んだ奴が犯人だな」 「そうです。そこが犯人の狙いなんです。犯人、つまり古川は田沼 を殺した後、自分の借用書だけは金額を書き換えてしまいこみ、ス ケジュール表から、その日来客予定の三人の借用書を盗み、自分へ の疑惑の目を警察から遠ざけようとしたんですよ」 「証拠はあるのかね?」 「証拠……そうだ、先に殺害方法から考えていきましょう」 「あんた、本当に事件の真相を知っているのかね」 「大丈夫です」 僕としてもこの事件を解決しない限り後はないのだ。 「質問していいですか」 「ああ」 「この部屋は死体以外は全然動かしてませんね」 「もちろん」 「刑事さんは田沼がここで殺されたと思いますか?」 「いいや、違うな。ドアから死体にかけて引きずった跡がある。他 の部屋で殺されたとみていいな」 「なるほど。それで他の部屋に引きずった跡がありましたか」 「まだ、くわしく調べてみないとわからんが……」 「ありませんね」 僕は刑事の言葉を遮ってきっぱり言った。 「なぜわかる?」 「刑事さんが僕と同じことを考えたからです」 「どういうことだね」 「いいですか。誰でも考えそうなことを犯人がすると思います?」 「う、うむ」 「だから、これも犯人のカモフラージュです。つまり、犯人はここ で田沼さんを毒殺したんです」 「ほお、毒殺とまでわかっているのか。君は探偵か何かやっている のかね」 「別に。しがない日雇い労働者ですよ」 「それにしたって尾崎くん。ここでは椅子が一つしかないから、田 沼氏が犯人とここで飲物でも飲んで、話をしていた可能性は低いの ではないか。第一、毒の入れられてた容器一つ見つかっていない」 「毒は容器に入っているとは限りませんよ」 僕は言ってから、また今の言葉を繰り返した。「そう、毒は−− 容器に−−入っているとは−−限らない」 「どうかしましたかな」 「死体には傷がありませんでしたか?」 「さあ、どうだったかな」 「思いだして下さい」 「そう言えば検死官が小さな切傷があるとか言ってたな。カッター で切ったような……」 僕はすぐに田沼の机をあさって、ペーパーナイフやらカッターや ら刃物を全て取り出した。そして、それを全て丹念に調べた。 「ありませんね」 「何が」 「毒物です。ひょっとしたら犯人は刃物の刃先に毒を塗って、切り つけたのかと思ったのですけれど」 「そうか、そういう手もあるな。しかし、犯人が持って帰ったとい うこともあるぞ」 刑事は言った。 「うむ、どうしたらいい」 僕は頭を抱えて、考え込んだ。名探偵ならもうとっくにわかって いるはずなのに。 「もう諦めて、署に同行願いましょうか」 「そうだ」 僕は声を上げた。 「何かわかりましたか」 「やっぱり田沼は客間で毒を盛られたんだ」 「何だって!あんた、さっき、ここで死んだと断言したばかりじゃ ないか。いいかげんなこと言うな」 「いえ、死んだのはこの部屋です。毒を盛られたのが客間です」 「何だかわからんが、気のすむようにやれ」 僕は刑事を連れて、客間に言った。 そこは八畳の部屋で木製の棚が正面と右側にあり、左の壁に鹿の剥 製がかかっている。中央にはガラステーブルを中心に四方に黒いソ ファがある。テーブルの上には灰皿とライターがある。 「この部屋には刃物らしいものはないぞ」 刑事がさっそくあちこち調べていた。 その時、今まで黙って何もしていなかった探偵がダストボックス を蹴って、ひっくり返した。中からゴミがどっとあふれ出た。 「おいおい、南原さん、なんてことを。あーあ、タバコの灰でカー ペット、汚れちまったよ」 刑事は探偵をにらみながら、一生懸命、ゴミをボックスに戻した 。 「手伝います」 僕もすぐにゴミをボックスに戻すのを手伝った。探偵は何もせず 、黙って見ていた。 「後は灰だけだな。掃除機を捜して来る」 刑事が立ち上がった時だった。 「これは」 僕が叫んだ。 「どうした?」 「見つけましたよ」 僕が見せたのはクシャクシャの紙屑だった。 「これが刃物か」 刑事は愉快そうに笑った。 「このシミですよ」 「シミ?」 「いいですか、この紙を広げますとちょうど左端に変色したシミが あります」 「これが毒?」 「ええ、調べてもらえればわかります」 「しかし、こんな紙でどうやって切るんだ?」 「確かにクシャクシャになってしまえば、切れません。しかし、新 しい紙なら端の方ですっと皮膚に傷を与えられます。それにこの紙 は中性紙ですから、毒薬が染み込んでしまうということもあまりあ りません」 「うむ、そんな手があったか」 「僕も刃物、刃物と考えていて、ふと書斎で紙で指を切ってしまっ たことを思いだしたんです。そこで、もしかしたらこの事件の凶器 も紙が使われているんじゃないかと思いまして」 「それはお手柄。だが、古川を犯人と結び付ける手がかりにはなら ないぞ」 「え……」 僕はギクリとして刑事を見た。 「わははは、冗談だよ、尾崎くん」 刑事は僕の動揺した顔を見て、大声で笑った。 「−−といいますと」 「古川は今ごろ警察に連行されてるよ」 「しかし、証拠は?」 「そんなことに気づかないのか、それでは名探偵になれないぞ」 「別に探偵になる気はありませんよ」 「やっぱり素人と玄人の違いだな」 刑事はまだ笑っている。 「それよりその証拠というのを教えて下さい」 僕がむきになって言った。 「これは失礼。証拠と言うのは田沼氏の死亡推定時刻だよ」 「そうか。僕が田沼のスケジュール表を見せた時、死亡推定時刻と 照らし合わせたわけだ」 「その通り。だから、さっき、電話をかけた時、古川を逮捕するよ うに連絡しておいたんだ」 「それで電話に時間がかかったんですか」 「そう」 「だったら、そう言ってくださいよ。それにしてもさすがは刑事さ んだ」 「いや、南原さんのおかげだよ。彼には初めからすべてわかってい たんだ。ただ、証拠がなくてね。ともあれ古川はあなたの推理が正 しいとすると事件の裏の裏をかきすぎて、自爆したと見えるな」 「どういうわけで?」 何だか今度は僕が刑事に尋ねる立場になってしまった。 「古川は当日の来客者で自分をのぞいた三人の借用書だけが盗まれ ていることを示すため、わざと田沼氏のスケジュール表を残してお いたわけだが、これがかえって死亡推定時刻の自分のアリバイを裏 付ける結果になってしまったわけだ」 「そうか。すると僕の推理もいい加減ではなかったようですね」 「そうだな。後は田沼氏がどこで死んだかだけだ」 「それなら、わかりますよ。やってみればわかりますが、紙で切っ た傷は始めは痛みを感じないものです。つまり、古川は田沼と客間 で話している時にどさくさにまぎれて遅効性の毒を塗った紙で田沼 の皮膚をまず切った。そして、毒がまわりそうな時間を見計らって 、金を返すと古川が言い、田沼を借用書のある書斎に行かせた」 「わかった。それで田沼氏は書斎で死んでいたのか」 「これで僕の疑いは晴れましたね」 僕がホッとしたように言うと 「いや、最初からあんたには疑いなんてかかってなかったんだよ」 「ええぇっ!!」 僕がびっくりして言った。 「ただ南原さんが君が何か秘密を握っているというものだからね」 刑事がすました顔で言った。 「刑事さんも人が悪いや」 僕が周囲を見回した時、すでに探偵の姿はなかった。 「まあ、これにこりて借金はしないことだな。近い内に警視総監賞 でも贈ろう」 「いいえ、いりません。この事件は全て刑事さんの手柄にして下さ い」 「交換条件か。何か欲しいもんでも?」 「ええ。ぜひとも借用書はなかったことにしてください」 僕は真顔で言った。 四 渋谷の繁華街。 ここファーストフーズの店でも若者たちであふれている。 「北村智子さんですね」 僕が声をかけると椅子に座っていた彼女はひょいと顔を上げた。 彼女がびっくりした顔をしたのは言うまでもない。 「ご相席してよろしいですか」 「え、ええ」 僕はゆっくりと席に座った。 「僕のこと、ご存じですよね」 「し、知らないわ」 彼女はうつむいて、首を振った。 「そうですか。一昨日、会いませんでしたかねぇ、田沼の家で」 彼女は答えなかった。僕はからかってやりたい気分にまかせて、 話を続けた。 「あなたは劇団員なんですってね。いやあ、僕もすっかり騙されま したよ、あの家政婦姿には。どう見ても四十代のおばさんにしか見 えませんでした。でも、素顔は高校時代の君と全く変わってない」 「尾崎さん、ごめんなさい。私……騙すつもりじゃなかったの…… それに田沼さんを殺したのは私じゃない。もうすでに私が来た時は 殺されてて……」 智子は泣きそうな声で言った。 「そんなことはわかってるよ。きっと君も田沼の死体を見つけてど うしようか迷ってるうちに、僕が来たんでとっさに家政婦に化けて 逃げたんだろう」 智子はこくりとうなずいた。 「僕は別に君を責めに来たんじゃないんだ。第一、事件はもう解決 したよ」 「本当ですか」 智子の顔が心なしか明るくなった。 「ああ、今日の新聞を読んでごらん。それから、君に渡すものがあ る」 僕はテーブルの上に紙を置いた。 「これは……私の借用書!」 智子は僕を見つめた。 「これは自分で処分しなさい。僕にもね、劇団員の生活がどんなも のか少しはわかっているつもりだよ」 「だけど、私、人に同情されたくありません。だから、お返ししま す」 彼女はつっぱねた。 「返そうにも田沼はもういないんだ。それに僕も田沼から借用書を 盗んだ手前、共犯がいなくちゃ寂しいや」 僕がそう言うと彼女はクスッと笑った。 「だったらあなたが持っていて下さい」 「僕が持っててどうするの」 「私が毎月少しずつあなたにお返ししますわ」 「そんなんじゃ五百万なんて大金、一生かかっても返せないぜ」 「あら、アルバイトすればいいわ。あなたと一回デートにつき五万 円とかね」 「それ、乗った。じゃあ、百回はデートできそうだね」 「そうね、でも費用はそちらもちよ、尾崎さん」 彼女はニコッと微笑んで言った。 この事件をきっかけに僕は生まれて初めて恋人と新しい就職先を 手にいれたのであった。 1986/1/9