南原光次郎シリーズ4 恋心 後編 九 ジリリリ−ン、ジリリリ−ン、ジリリリーン 電話が南原探偵事務所に鳴り響いた。事務所内は真っ暗だった。 「んっ……」 机に足を投げ出し、椅子に座って眠っていた南原はパッと目を覚 ました。 南原は受話器を取った。 「南原探偵事務所だが−−」 南原は目を擦りながら言った。 「南原さん……」 弱々しい少女の声が聞こえてきた。 「明美ちゃん……か」 南原は落ち着いた声で言った。 「あたし……失敗しちゃった」 明美は聞き取れないほどか細い声で言った。 南原は黙っていた。 「家庭、元に戻んない……わたしのせいね……」 「自分を責めるなといっただろう。君、どこから電話をかけてるん だ?」 受話器から時々、車の音が聞こえてくることに南原は気づいた。 「もう疲れちゃった……」 明美は泣いているとも笑っているとも判断のつかないような声で 言った。 「おい、場所を言うんだ」 「南原さん、いろいろ、ありがとう。わたし、人にこんなに素直に なれたの初めてだった。南原さんがお父さんならなぁ……」 明美は南原の言葉がまるで聞こえず、無意識にしゃべっている様 子だった。 「わたし、今度、生まれ変わったら、いい子になります、きっと− − ブツッ 電話が切れた。 「馬鹿野郎、そんな簡単に自殺はさせねえぞ」 南原は受話器を置くと、ハンガーに掛けたコートを無造作につか んで、事務所を出ていった。 南原が松木の家に行った時、家には誰もいなかった。部屋の明り もついていない。松木や理恵はともかく、哲夫がいないということ はも明美が自殺の道連れに連れて言った可能性がある、と南原は考 えた。 南原は針金を取り出して鍵穴に入れていじると、鍵はあっさり外 れ、南原は家の中へ入った。 南原は二階へ上がった。大概、子供の部屋は二階にある。 南原は明美の部屋に入って、電気をつけた。 明美の部屋は十四才という女の子の部屋にしてはどこか寂しかっ た。勉強机やベッド、十四インチのテレビ、本棚、洋服ダンスなど 最低限必要なものは全て置いてある。しかし、その部屋には松木明 美の個性と言うものは全く感じられなかった。アイドルのポスター が壁に張ってあるわけでもなく、ぬいぐるみや人形、あるいはイン テリアが置いてあるわけでもない。本棚はきちんと整頓されている が、そこには触れたという形跡がない。机も同様に整頓されている が、(もっともこれは当然と言えば当然なのだが)しかし、教科書 やノートは使われているにも関わらず、新品同様にきれいで、表面 に名前一つ書いていないと言うのは、どう考えても異常だった。考 えようによっては、これこそが彼女の個性なのかも知れない、と南 原は思った。 何か明美の行き先に手がかりでもと思ったが、めぼしいものは何 もなかった。 南原は明美の部屋を出て、一階に降りた。そして、居間を覗いて みた。 ここは父親の部屋らしかった。クリーニング店でもらったような 針金のハンガーに背広とズボンが掛けてある。南原は電気をつけた 。 −−ん? ふとテーブルに白い封筒が置いてあるのを発見した。それを手に とると、そこには「お父さんへ」と書いてある。本人の名前はない が、恐らく明美だろう。 南原は封筒から手紙を抜き取って、文面に目を通した。 それは短い文章だったが、松木家の家庭崩壊の秘密を知るには、 これだけで十分であった。 「帰んな」 田崎はマンションを訪ねてきた理恵が部屋に入ることを拒否した 。 「どうしたの」 理恵は納得がいかないといった様子だった。 「おまえが嫌いになったんだよ」 田崎は妙によそよそしく、理恵が近づくのを恐れているかのよう だった。 「うそよ、そんなの。ねえ、あなた、いったい何があったの?」 理恵は田崎に歩み寄った。 「何もねえよ。帰れ」 田崎は理恵の胸を強く突き飛ばした。理恵は後ろの壁まで飛ばさ れる。 「じゃあな」 田崎は玄関のドアを閉めようとした。しかし、理恵も必死になっ て、すかさずドアにしがみつく。 「帰れってんだ」 「いやよ!」 理恵は頑として、ドアから離れようとしなかった。 「おまえがいたんじゃ、迷惑なんだ」 田崎は怒鳴った。 「迷惑?」 「そうさ。いつまでもオバサンの相手をしてるのにアキアキしたん だ」 「何ですって!」 理恵はヒステリックな声を出して、とうとう田崎を押し退けて、 部屋の中に入ってきた。 「じゃあ、今まで愛してるっていってくれたのは嘘だったのね」 理恵は振り返って、田崎を見た。 「嘘も何も、初めからその気はなかったのさ」 「じゃあ、私を騙していたというの?」 「ああ」 「信じられないわ」 理恵の言葉に田崎はギクリとした。 「私を愛してる、といった時のあなたの目は本当だったもの。それ に子供がいても、結婚するって言ってくれた。だから、私は夫と離 婚する気になったのよ」 「それは……」 「何かあったのね。ねえ、私に話して……」 理恵は田崎をじっと見つめた。 田崎自身も心中では理恵を愛していただけに、この理恵の愛情の 眼差しに動揺をしていた。 「理恵……実は……」 田崎は何かを言いかけようとしたが、すぐに口をつぐんだ。 「本当のことを言って、私のことを愛してるんなら」 「理恵……」 田崎の心は大きく搖れていた。 「あなた」 理恵は田崎の胸に飛び込んだ。 「実は……」 田崎が真実を語ろうと口を微かに動かした時、ドアが半開きの玄 関に南原が姿を現した。田崎の表情が一変して真っ青になった。 「……女ができたんだ」 田崎は震えた声で言った。 「え?」 理恵は驚いた様子で田崎の顔を見上げた。 「若い女とつきあってるんだ、金持ちの」 田崎は南原の方を気にしながら言った。 「そう……そうだったの」 理恵の声が1オクターブ高くなった。 理恵は田崎から離れると、台所へ歩いて行った。 田崎はもう言うべき言葉もなく、ただただ理恵の様子を見ていた 。 「ねえ、あなた」 理恵は妙に甘ったるい声を出して、台所から田崎の方へ歩いてく る。右手はなぜか後ろに隠していた。 「理恵……」 田崎は金縛りにあったかのようにじっとしたまま、理恵を凝視し ていた。 「逃げろ!」 南原がドアを大きく明け、叫んだ。 田崎がはっと我に返った時、理恵の手には包丁が握られていた。 「殺してやる!」 理恵は金切り声を出して、田崎に襲いかかった。 「ひいぃっ!」 田崎はびっくりして、しゃがみ込み、間一髪、理恵の最初の一撃 をかわした。 「よくも、よくも、私のことを……」 理恵はうわごとのように呟きながら、今度は包丁を逆に持って、 頭上から田崎を刺そうとした。 「田崎、こっちへ来い」 南原の言葉に田崎ははって南原の方へ逃げてくる。 「逃がさない……」 理恵もすかさず後を追いかける。 「な、南原さん」 田崎が情けない声をだして、南原の背後に回り込んだ。 「どいて!」 理恵は血走った目で、南原をにらみつけて言った。 「駄目だ」 南原は低い声で言った。 「その男を殺してやるんだから。どかないと、あんたも刺すわ」 理恵は息を弾ませながら言った。 「大人のすることじゃないぜ」 南原の言葉など無視して、理恵を包丁を構えて、南原の方へ飛び かかってくる。 南原は理恵が向かってきても動かなかった。 しかし、理恵の包丁が南原の腹部の寸前までくると、さらりと左 へ身を交わし、右手で理恵の包丁を持つ右手首をがっちりとつかむ と、すかさず左手の甲で包丁を叩き落とした。 「畜生!」 理恵はそれでも田崎の方へ向かって行く。 「目を覚ませ!」 南原は理恵を押し戻すと、理恵の頬に平手打ちを食らわせた。 理恵は頬を押え、顔を真っ赤にして南原を見つめた。そして、次 の瞬間、緊張の糸が切れたかのようにへなへなとその場に座り込ん で、顔を覆って泣き出した。 「南原さん……」 田崎が南原に声をかける。 「おまえはどっかへ行け。もう、戻ってくるなよ」 「は、はい」 田崎はおずおずと逃げるように部屋を出て行った。 南原は壁に寄りかかりながら腕を組み、理恵が落ち着くのを待っ ていた。 しばらくして、涙を拭いて、理恵は顔を上げた。 「落ち着いたか」 「ええ……あなたは誰なの?」 理恵は尋ねた。 「俺は探偵だ」 「探偵?」 「そう、正確にはあんたが雇った女探偵の相棒だ」 「じゃあ、あなたが南原さん?」 「ああ」 「どうして、あなたがここに?」 「あんたの娘の居所を聞きに来た」 「明美がどうかしたんですか」 「やれやれ」 南原は頭を横に振った。「俺はてっきり娘が家出したというのを 知ってて、男のところに来たと思ったんだがな」 「家出したんですか」 理恵は立ち上がり、南原に歩み寄った。 「弟と一緒にな。死ぬかも知れないぜ、あの娘は」 「まさか……」 「どうする。捜しに行くか?」 「もちろん、行きます」 「その前にあんたの主人にも連絡しとけ」 「主人……あの人はいいんです」 理恵は南原から目を背けて言った。 「なぜだ?自分が娘の家出に気付かなかったのを責められるのが恐 いんだろう」 「違うわ。あの人は冷たい人なの」 「最低の女だな、あんたは」 南原はそう言うと、ムッとして部屋を出ていった。一瞬、理恵は 考え込んでいたが、すぐに南原の跡を追って行った。 −−とうとう、ここまで来てしまった。 いつもなら食事の後、それで別れるだけなのに……今はホテルの 一室にいる。この部屋には私と早苗の二人。邪魔するものは何もな い。もう後へは引けないところまで来ているのだ。後を引く?もう 後へ引く理由などないのだ。早苗は明るいし、器量もいい。私にと っては理想のパートナーになってくれる。 ベッドに座る私の耳には浴室のシャワーの音だけが聞こえてくる 。あの浴室には早苗がいる。裸の早苗が…… 「松木さん……来て」 浴室から早苗の声がした。その声は電撃のように私をしびれさせ た。体が堅くなって、動けなかった。 「松木さん」 「はい」 私はぎこちない返事をして、立ち上がった。 そして、催眠術にかかったように背広を脱ぎ、ネクタイを外し… …そして、裸になった。もう理恵の姿も明美の姿も哲夫の姿も私の 脳裏にはよぎらなかった。ただ浴室で待っている早苗の姿だけが私 の頭の中で渦巻いていた。 私は浴室のドアのノブを握った。スリガラスを通して早苗の肌色 の像が見える。 ゴクリと私は唾を飲み込んだ。私の心は久しぶりに好奇心あふれ る子供心のようにときめいた。 ノブを回した。−−トゥルルル、トゥルルル、……電話が鳴った 。 私の夢が一変に覚めた。 私はノブから手を放して、慌ててベッド側のサイドテーブルにあ る電話の受話器を取った。 「松木様、奥様からお電話です。お取り次ぎなさいますか」 とホテルの受付の声。−−どうして理恵がここの電話番号を? 「つ、つないでくれ」 「承知しました」 受付の声がして、しばらくの後。 「松木だな」 男の声がした。全く知らない男の声だ。 「誰だ、君は?」 「あんたの娘が家出したぜ。自殺するかも知れない、あんたらの離 婚のせいでな。そこにいる女と楽しむのも結構だが、あんたに少し でも親心があるんなら、早く捜しに行った方がいいぜ」 「おい、娘が家出って……どういう……」 私が尋ねる前に電話は強引に切れた。 私は急いで自宅に電話を入れた。だが、いくら待っても、誰も応 対に出なかった。 −−本当に家出?まさか自殺なんて 私は慌てて服を着た。今の私は父親の私に戻っていた。 「どうしたの?」 早苗がバスタオルを巻いて、浴室から出てきた。 「娘が家出したんだ」 「家出?」 「悪いけど、帰るよ。済まない」 私は服を着替え終わると、早苗に頭を下げて、部屋を出て行った 。 十 「これで旦那の方も捜しに出かけるだろう」 南原は受話器を電話に戻した。 南原と理恵はマンションの前の路上に止めた赤いセリカの中にい た。 「行かないんですか」 助手席の理恵は運転席の南原に尋ねた。 「どこへ?」 「明美たちを捜しにです」 「心当たりはあるのか」 「いえ……」 「じゃあ、動いても仕方あるまい。下手に違ったところへ行けば、 二人の命取りになる」 「でも、このままじっとしてたって同じです」 「まあ、落ち着け。待てば海路の日和ありっていうだろ」 「そんなこと言ったって、娘が自殺するかも知れないのよ」 「だから、待つんだ。確実に明美のいる場所がわかるまでな」 「わかりました」 理恵は今は南原を信じるしか手はないと思い、納得した。 「それより、あんたの家族の話でもしないか」 「家族の話って?」 「松木家の家庭を二分するきっかけとなった事件の話さ。仮にカナ リヤ失踪事件とでもしておこうか」 「南原さん、どうしてその話を?」 「こいつさ」 南原はコートの内ポケットから封筒を取り出した。 「それは?」 「松木明美の遺書だ。父親の部屋にあった」 「夫の部屋に?あなた、家に入ったんですか」 理恵は南原を疑いの目で見た。 「まあ、そんなことはどうでもいい。それより、話を続けるぜ」 南原は理恵に詮索する暇を与えず、話を続けた。「この遺書によ ると、今から四年前、あんたの夫は会社でも特に部長からかわいが られ、課長への昇進も夢ではなかった」 「そんな頃もあったわね」 「そのころの松木の家庭生活は当時十才だった明美の目から見れば 円満だった。実際にはもう夫婦の仲は冷えきっていたんだけどな」 「随分、はっきりと言ってくれるわね」 「あんたらの結婚するまでの過程を見れば、わかるさ。あんたは結 婚当時二十一才、まだ遊びたい年頃だ。一方の松木は二十三才、ま だ社会人となって一年目だ。あんたと松木の出会いは渋谷のディス コ。その日のうちに意気投合し、酒に酔った勢いで、そのままホテ ルで肉体関係を持ってしまった。そこまではまだよかったかもしれ ない。むしろ、その後が悪かった。それは妊娠だ。あんたは最初は おろす気だったが、社会的に地位のあったあんたの父親は子供をお ろすことに反対し、松木と無理矢理、結婚させた」 「どこでそんなこと、調べたの?」 理恵は顔を曇らせた。 「情報網は広いのさ。あんたのことは、あんたよりも詳しいかも知 れないぜ」 南原はククッと笑った。 「恐ろしい人だわ、あなたは」 「まだ、続きはあるぜ。結婚後、仕方なくあんたは子育てに専念し た。まあ、夫としての松木もそれほど悪い男ではなかったし、生活 も安定していたから、あんたも自由は少なからず制限されるものの 不満を持つことはなかった。それに、松木は就職三年目にして係長 に就任するという出世ぶりを見せたため、家庭内の不和を抑えなけ ればならなくなった。一度、出世コースに乗った人間が弱点を見せ てはならないことはあんたも当然、わかっていたから、どんな些細 な不満でも我慢して、円満な家庭を装っていた。家庭に一切の不和 を持ち込まないという努力はあんたにしてみれば大変だったろうな 。だが、近所付き合いにおいては夫の出世は自慢だったから、その 時には気にならなかったかも知れない。 ところが、四年前の夏、部長の家族旅行の間、一週間ほどカナリ ヤを預かることになった。このカナリヤは南米産で、部長婦人が十 年以上も可愛がっているペットだ。 そのペットが預かってから四日後の朝、鳥かごの中から消えた。 あんたに世話を任せっきりにしていた松木は当然、あんたを責めた だろう。だが、前日の晩はあんたは親戚の家へ出かけてて留守、松 木本人も同僚と飲んで帰ったため、記憶がない。結局、誰の責任か と喧嘩したところで、水掛論にしかならず、期日までの数日間、懸 命にカナリヤを捜しまわったあげく、とうとう見つからなかった。 松木は部長の怒りをかい、その後は会社で執拗な嫌がらせを受け 、係長の椅子からも降ろされた。そして、家庭でも出世の道を失っ た松木は完全に無視され、孤立化した。 以上が松木家崩壊の簡単ないきさつだな」 「他人から私の家庭の話を聞くとは思わなかったわ。でも、その通 りよ。あの人は自信家だったけど、事件の後はすっかりおとなしく なっちゃって。私が何を言っても、逆らわなくなったわ。私ももう 我慢する必要もないから、好き放題やっちゃって。すっごく楽しか ったわ」 「松木がかわいそうだとは思わなかったのか」 「別に」 「松木の学生時代を知っているか?」 「知らないわ。別に聞きたいとも思わなかったから」 「俺が調べたところじゃ、松木は中学の頃まで、いじめにあってい たそうだ。一度、自殺未遂も起こしてる」 「まさか……」 理恵は笑ったが、それは表情になっていなかった。 「松木は元々、母親を早く亡くし、祖母に甘やかされて育てられた せいか、人見知りが強くて、気が弱く、おとなしい性格だった。し かも、運動も勉強も全く駄目だったから、まあ、いじめの対象にさ れるのも当然かも知れない。そんな松木を立ちなおらせようと、彼 の父親は彼を高校へは行かせず、徹底的に勉学と運動の両面から鍛 え上げた。松木は日に日に自信をつけ、大学検定の資格を一度で取 り、そのまま大学受験であのW大学に合格した。だが、彼の父は松 木が大学に入学して三ヶ月後に病死した。 その後の松木は何をやっても成功し、ますます自信をつけた。彼 の臆病な性格を強く支えていたのはまさに自信だけだったんだ。だ から、あの事件で希望を断たれてしまった時、松木にはもう支える ものが何もなくなってしまったんだ」 「それがどうしたっていうのよ。私にはそんなこと、関係ないわ」 「松木はカナリヤを逃がしたのが誰だか知っていたんだ」 「え?」 「彼は知っていて、わざと君を責め、そして犯人が誰かということ をうやむやにしようとした」 「どういうこと?」 「事件の前日の夜、松木は確かに酔って帰ってきた。だが、一緒に いた同僚の話では彼は正体を失うほど飲んではいなかった。自宅に 戻った時、松木は犯人からカナリヤが死んでしまったと告白を受け 、泣きつかれた」 「死んだ?」 「そう。犯人は興味半分にカナリヤをかごからだし、友達に自慢し ようと友人宅に連れていった。カナリヤは飛べないように羽を切ら れていたから、遠くへ逃げられることはないと犯人も思ったのだろ う。しかし、友人宅の帰り道、横断歩道で信号待ちしている際、カ ナリヤが僅かな隙をついて犯人の手から逃げたんだ。だが、不幸に もカナリヤは一メートルも飛べず、目の前の路上に降り立った。そ して、走ってきた車に潰された……」 「南原さん、もしかして犯人と言うのは……」 「松木明美。あんたの長女だ」 「でも、主人はあの時、一言も……」 「恐らく、松木も迷ったんだろう。カナリヤがいない以上、もう出 世の道もあんたとの縁も終わりだ。だが、娘に責任を負わせれば、 この先、明美はカナリヤを殺したという罪、そして父親の出世を台 無しにしたという罪を背負って行くことになる。だから、松木は明 美をかばったんだ。彼には虐められる者の苦しみがわかっていたか らね」 「……」 理恵は返す言葉もなく、南原の話を黙って聴いていた。 「このことは明美の遺書に全て書いてある」 南原は理恵に封筒を手渡した。「松木は出世はおろか、家族の愛 情にまで見放された。そのことを一番、痛感していたのは明美自身 だったろう。だが、彼女は恐くて真実が口に出せなかった。その間 にも父親は毎日のように母に詰られ、家の厄介者にされていく。そ して、ついに離婚の話が持ち上がった時、明美は苦しみに耐えられ なくなり、自殺を決意したんだ」 「もう、やめて……」 理恵は頭を抱えた。「私が……私が一番、家族を傷つけていたの ね……」 「気にすることはない。あんたら家族は愛情を欲しがるばかりで与 えることを忘れた。それだけのことだ」 南原がそう言った時、電話がなった。南原はすぐ受話器をとる。 「−−おい、遅かったじゃないか。場所はどこだ−−うん、ああ、 わかった−−いいか、目を放すなよ。すぐ行くから。じゃあ、頼ん だぞ」 南原は受話器を置いた。 「場所がわかったんですか」 「N里海岸近くのホテルだ」 そういうと、南原はキーを回して、エンジンをかけた。 十一 明美は波打ち際に座って、遠くを見ていた。この暗闇では海と空 を分ける地平線しか見えない。だが、明美が見ているのは目の前の 風景ではなく、遠い昔に存在した家族の風景であった。その風景の 父は笑っていた。母も、弟も……ただ、そこにはなぜか自分の姿は なかった。 「あなたが産まれなければ、−−−」 −−母が幼い私にそんなことを言っていた。自分がいなければ、 父と結婚せずに済んだのに。母はきっとそう言いたかったんだろう 。だが、私は生まれてしまった。もともと家族になるべきでない男 女に無理矢理、家族を作らせてしまった。 風は絶え間なく明美の顔に吹き付けていた。その風は冷たく、呼 吸を困難にした。波の音は明美の心はますます憂欝にした。考えれ ば考えるほど、その思考は暗い方へと進む。海は明美を海へ誘い込 もうと、波を砂浜に走らせ、足元をすくう。海の水は死人の手のよ うに冷たかった。 明美はゆっくりと腰を上げた。そして、砂浜に最初の一歩を踏み 出した。それは至ってたやすいことだった。 これなら五〇歩くらい簡単に進めるかも知れない。明美はそう思 った。 一歩、一歩、遥かなる海へ向かって明美は足を進めた。足が海に 浸かっても、もう冷たくはなかった。むしろ、気が遠くなりそうな 感じがして、気持ちがよかった。 膝まで水が浸かった。−−もう少しだ。 明美は心が弾んだ。遠く向こうには楽しい何かがある。明美は本 気でそう信じていた。「お姉ちゃん!」 子供の声が明美の耳もとに飛んだ。だが、明美は足を止めない。 「いやだぁ、死んじゃやだぁ」 哲夫は懸命に砂浜を走り、海に飛び込んで、はうようにして海を かき分け、明美の後ろから抱きついた。 明美は背筋に電気が走ったようにビクッとして、後ろを向いた。 「哲夫……」 「死んじゃ駄目だよ。姉ちゃん、死んだらやだよ」 哲夫は泣きそうな顔で言った。 「もう遅いよ。お姉ちゃんは生きてちゃいけないの。哲夫、わかっ て」 明美は優しい声で言った。 「なんでだよ」 「……哲夫、ホテルへお帰り」 「帰るんなら、お姉ちゃんも一緒だ!」 哲夫はそう言い張り、明美の服を放さなかった。 「哲夫……優しいんだね」 明美は哲夫の頭を撫でた。「一緒に行ってくれる?」 「え?」 哲夫は明美の顔を見た。 「哲夫も一緒なら姉ちゃん、寂しくないから」 明美は笑顔で言った。哲夫はしばらく考え込んでから、 「うん!」 と元気よく言った。小学生の哲夫にも明美の決心がもう揺るがな いことがわかった。 「じゃあ、行こう」 明美は哲夫の手を引いた。 二人は地平線へ向かって歩き出した。 海の深さはもう哲夫の口の辺りにまで達していた。しかし、二人 は歩みをやめない。 どこからかモーター音が聞こえた。明美はまるでそんな音は無視 していたが、哲夫の顔には笑みがこぼれた。 モーターボートが明美たちの数メートル手前で止まった。 「ここまでだ、明美ちゃん」 その言葉に明美は顔を上げた。 「南原さん……」 明美の目から自然と涙がこぼれ落ちた。 「どうせ捨てるんなら、その命、俺にくれないか」 南原はボートの上から海に浸かっている明美を見おろして言った 。 「……」 明美はただ口元を震わせ、黙っていた。 南原は先に哲夫の手を引っ張って、ボートに乗せた。 「離婚は中止になったよ」 「え……」 明美は驚いた顔をした。 「お母さんはもう離婚はしないって。どうする、それでも自殺する ?」 南原は手を明美の方に差し出した。 明美は嬉しさで、頬を緩ませながら、南原の手をぎゅっと握った 。 「南原さん、ありがとう……」 明美は唇を震わせながら小さな声で言った。 十二 自宅に戻ってから私は明美の学生名簿を頼りにあちこちに電話を かけていた。 明美がなぜ自殺するのか。考えられることはあのカナリヤのこと だ。しかし、明美は四年間、一言もあのことには触れていない。私 だって、あのことは忘れたのだから、明美がずっと気にしていたな んて考えられない。何か他に原因があるんだろう。 まさか明美が離婚のことを知って−−いや、明美はもともと私の ことは嫌っていたから、それならば大喜びのはずだ。現に明美が私 のことを慕ってくれたのはあのカナリヤ事件の時だけだったのだか ら。 結局、明美の友人の中で明美の所在を知るものはいなかった。他 に手がかりと言っても、私は明美と特別どこかへ出かけるというこ ともなかったし、話すことも余りなかったので、全く思い浮かばな かった。父親失格と言われても仕方のないところだ。 そういえば、あの時、会社の前に明美がいたのは私に何かを相談 したかったからなのだろう。だが、私はよりによって早苗と一緒に いた。それが明美にどんな影響を与えたかはわからない。しかし、 私があそこで明美を追いかけなかったのは、私自身、自分の娘より も早苗のことを愛した結果だった。父親失格と言われようと、あの 時だけは早苗と別れるのが嫌だった。今にしても、私が明美を捜す ことについて、なぜそうしなければいけないのかというわだかまり が残っている。 −−ピンポーン 玄関の呼び鈴が一度鳴った。 私はドアの方へ目をやった。ドアが開いた。 「理恵……」 「ただいま」 理恵は静かに言った。 「明美が−−」 私がそう言いかけた時、理恵が遮るように 「明美は入院したわ」 といった。 「入院?」 私は立ち上がって、理恵のところに歩み寄った。 「大丈夫よ。冷たい海に入って衰弱しただけだから」 「それじゃあ、やっぱり自殺を?」 「ええ」 「そうか……」 「あなた、なぜ理恵が自殺しようとしたか、わかる?」 理恵は私をじっと見つめた。 「……」 私は答えられなかった。 「私のせいよ」 理恵は言った。 私の理恵の意外な返事に驚いた。これまで自分の否は決して認め なかった彼女なのに。「−−そして、あなたのせいよ」 理恵はさらに付け加えた。 「それはわかってる……」 「わかってないわ。あなた、本当に明美のこと、愛してた?」 「それは……」 理恵の質問にはぐさりとくるものがあった。 「私たちの結婚は初めから明美だけの結び付きだった。明美が産ま れなければ、私たちは結婚することはなかった。だから、嫌なこと があると、明美がいなければ、なんて考えてた。そうじゃなくて? 」 「……」 「−−私はそうだったわ。私は自然と結婚への不満を明美にぶつけ ていた。そして、私の影響で明美はあなたに馴染まない子に育って いった」 「それだけじゃないさ。俺自身も明美に対して、ただなついてくれ ないと嘆くばっかりで何の努力もしなかったんだ」 「四年前のカナリヤがいなくなったこと、あれは明美のしたことだ ったんでしょう」 「いや、あれは……」 「隠さなくてもいいわ。もうわかってるから。私ね、正直言って明 美があなたに相談したことにはショック受けたわ。今まであなたの ことを嫌っていると思ってたのに、本当はあなたのことが一番好き だったんだ、てね」 「そんなことはないさ」 「明美は私を恐がっていたのよ。あなたが私に非難されている姿を 見て、自分も私にひどく叱られると思ったのね。だから、真っ先に 自分が頼れる人、つまりあなたに相談した。そして、あなたは明美 をかばった」 「俺は明美を傷つけたくなかった、それだけだよ」 「あなたも私が明美のことをひどく叱ると思っていたんでしょう」 「そ、そんなことは……」 「別に否定しなくてもいいわ。本当にそうだったんだから。私は嫌 な女だった、母親としても妻としても。自分だけが悲劇のヒロイン だと勘違いして、周りの人のことを考えなかったのね」 「理恵……」 「ふふふ、私がこんなこと言うなんて意外でしょう」 理恵は照れくさそうに笑った。 「そんなことないよ」 私は思わず理恵を抱きしめていた。 「ちょっと苦しいわ」 「済まない」 私は理恵から離れた。 「もう一度、やり直さない?もうお互い愛なんてないけどさ、家族 として仲良くやっていきましょう。私も頑張るから」 「俺でいいのか……」 「あなたでなければ駄目よ」 理恵はチュッと私に口付けをした。 「あ、ああ……」 私は顔がぽうっと熱くなって、呆然となった。 「これで今までのお詫びよ」 理恵はそう言って、台所へ姿を消した。 私はしばらく廊下に立ち尽くしていた。人生の中で最良の喜びだ った。妻の心境変化の理由などどうでもよかった。今の心のときめ きがいつまでも続いてほしい。それだけを願っていた。 エピローグ 「南原さん!」 早苗は南原探偵事務所のドアを蹴り開け、ものすごい剣幕で入っ てきた。 「よお、久しぶり」 相変わらず机に足を投げ出して雑誌を読んでいた南原は、雑誌を マガジンラックに投げ入れて、挨拶した。 「久しぶりじゃないわ。よくも私の仕事を邪魔してくれたわね」 早苗は南原の机の前にきて、南原をにらんだ。 「仕事?何のことだ。結婚するんじゃなかったのか」 南原はとぼけた顔をして言った。 「結婚なんてするわけないでしょ」 「断わられたのか?」 「違うわよ」 早苗はちょっと呼吸を整えて心を落ち着かせ、「そう、あくまで シラを切るのね」と鋭い口調で言った。 「冗談だよ、そう恐い顔するなよ。要するに松木理恵が依頼を断わ ってきたっていうんだろ」 「やっぱり知ってるんじゃない」 「ああ。君は松木理恵から夫と離婚したいから、浮気を仕組んでほ しいと頼まれた。成功報酬は二百万。計画を実行するにあたり、後 で裁判ざたで疑惑をもたれぬよう君は四カ月前から松木のいる会社 に社員として潜り込み、機会を伺って松木に接近した。そして、松 木に浮気をさせて、一気に離婚を成立させようと企んだわけだ」 「ちょっと、どうしてそこまで知ってるわけ?」 「結果だって知ってるぜ。何とか松木をホテルに連れ込み、後は関 係を結ぶだけ、いや実際には睡眠薬でも事前に飲ませて関係を持っ たという証拠写真を撮り、離婚の決め手にしようというところまで きた。ところがホテルに妙な電話がかかってきたために松木はホテ ルから出ていってしまった。さらに翌日に契約を取り消す電話があ った」 「やっぱり南原さんが仕組んだのね」 「お互い様だぜ」 「どうしてよ。いつも仕事に公私混同はするなといいながら、こう いう時は邪魔するわけ。最低!」 「俺だって仕事さ」 「私の仕事を邪魔するのが仕事なわけ?」 「いいや」 「じゃあ、何なのよ」 「それを言う前に君に言っておくことがある」 南原は足を机から降ろし、早苗を見た。 「何よ」 「君は今度の仕事を受ける以前から俺に内密で五件の依頼を私的に 受けている」 「そんなの勝手でしょ。私はあなたの部下じゃないんだから」 「別に悪いとは言わんさ。だが、依頼は事務所に来たものだ。君に 来たんじゃない」 「わかってるわ。南原さんに黙ってたのは悪かったわよ」 「君は事務所を自分で持つのが夢だから、多少のことは我慢してき た。だが、今度の依頼に関しては許すわけにはいかん」 「勝手に事務所をやめたこと?」 「そんなことはどうでもいいさ。君は理恵の依頼に対し、どの程度 の下調べをしたんだ」 「一応、概略ぐらいは調べたわよ」 「じゃあ、松木と理恵を離婚させた場合、娘の明美が自殺する危険 性があることは考えたわけだな」 「自殺?まさか明美さんが……」 早苗の表情が曇った。 「自殺しようとするところを俺が助けた。命には別状ない」 「そう」 早苗は安堵の息をついた。 「探偵と言うのは汚い商売だ。決して人に誇れるようなもんじゃな い。だが、人間としてプライドを捨てるな。それを捨てれば−−」 「わかってるわ、そんなことは。あなたと五年も探偵やってきたん だから」 コンコン−− ドアを叩く音がした。見ると、ランドセルをしょった松木哲夫が 入口に立っていた。 「オッス!」 南原が先に声をかけると、哲夫も「オッス!」と元気に挨拶する 。 「どうだ、姉ちゃんは?」 「大丈夫、元気だよ」 哲夫は軽い足取りで、南原の机の前まで来た。 「助けてくれて、ありがと」 「仕事だからな」 南原はニヤッと笑った。 「これ、依頼料」 哲夫はランドセルから貯金箱を取り出し、机の上に置いた。「少 ないけど、僕の全財産」 「どれどれ」 南原は貯金箱を手に取った。重たく揺らしても音がしないほど詰 まっていた。 「金額はどうあれ君の努力が詰まっているな。だが、受け取れない な」 南原は哲夫に貯金箱を返した。 「え?」 「今度の仕事はこのお姉ちゃんのおかげなんだ。だから、彼女にあ げてくれないか」 と早苗をちらりとみて、言った。 「うん、いいよ」 哲夫は貯金箱を早苗に差し出した。「はい、お姉ちゃん」 「あ、私は……」 早苗は戸惑った。 「受け取ってやれよ」 南原が目配せした。 「じゃあ、ありがたく受け取るわ」 早苗は哲夫から貯金箱を受け取った。 「それからね、南原さん、お姉ちゃんから手紙を預かってるんだ」 哲夫は南原に手紙を渡した。「きっとラブレターだよ」 「だといいがな」 「じゃあ、僕、これから病院に行かなきゃいけないから、帰るね」 「おう、姉ちゃんに困ったことがあったらいつでも来いって伝えと いてくれ」 「それはデートの時、言ったら」 哲夫は冷やかすように言った。 「そりゃそうだな」 「さよなら」 哲夫は事務所を出ていった。 「ねえ、もしかして南原さんの依頼人って哲夫君なの?」 「その通り。明美の様子がおかしいから見張っててほしいって。最 初は引き受けようかどうか迷ったが、取り合えず、両親に話を聞こ うと、松木の勤めている会社に出向いた時、偶然にも早苗が勤めて いたんでね。早苗が何を調べているのか探るついでに、依頼を受け たってわけさ」 「なるほどね。今回はもう言うことないわ。南原さんがいなかった ら、人を死なせるところだったんだから」 「ところで、辞表はどうする?」 南原はひきだしから辞表を取り出した。 「返してくれると、嬉しいんだけど」 早苗はちょっと控え目な態度で言った。 「いいよ」 「本当に!」 「ああ」 南原は早苗に辞表を返した。 「さすが南原さん、心が広い」 早苗はニコニコ顔で南原を囃した。 「いや、そういってくれると嬉しいよ」 南原は椅子から腰をあげ、そろそろと出口の方へ歩いていった。 早苗は封筒を開いて、中を覗いた。 「あれ?」 辞表以外にも何かが入っている。クレジットカードと借入金明細 だ。早苗は明細を見た。借入金は五十万円だった。 「ちょっと南原さん、何よ、これ」 南原はギクリとして立ち止まった。 「ひ、必要経費だよ」 「だって、これ、私のカード−−ああっ、まさか、車の中で私のバ ッグからカードを」 「ピンポーン、正解です」 「さ、詐欺じゃない」 「君には払う義務があるよ」 「どうして?」 「だって早苗ちゃん、貯金箱受け取っただろう。報酬を受け取った んだから、君が払わきゃ。それじゃ、後はよろしく」 南原は慌てて事務所を逃げ出した。 「ま、待って!」 早苗が南原を追いかけようとした途端、椅子に足を引っかけ、床 にすっころんだ。 「いたぁい……もう南原光次郎のバカヤロー」 早苗は事務所で一人、床に座り込んで喚き散らした。 「恋 心」 終わり