南原光次郎シリーズ4 恋心 前編 プロローグ その夜は肌寒かった。とかく、このところの暖冬で、厚着をすっ かり忘れていた私にはこの急な寒さは応えた。 駅から十五分も歩く自宅に着いた時、すでに息は真っ白くなり、 手はかじれ、耳は生爪を剥されたようにひりひりとして、真っ赤に なっていた。 窓からは明りが洩れていた。台所の辺りだ。今ごろ、妻や子供た ちは食事をしているのだろうか。 私は静かにドアを開けた。玄関は薄暗い閑静とした景色であった 。私は明りも付けず、靴を脱ぎ、台所へと歩いた。 台所からは楽しそうな会話が聞こえてきた。私が台所に入っても 、家族は私には全く気づかない様子で、食事をしながら話していた 。 しばらくして、妻が私の存在に気づき、ちょっと他人でも見るか のような目をして、「おかえりなさい」といった。 私はなんとなく微笑んで、「ただいま」といった。 子供たち二人は厄介者が帰ってきたなぁ、と言わんばかりの視線 を送って、「お帰りなさい」と小声で言った。 私が入った途端、台所は何か冷たい空間に変わってしまった。長 くいればいるほど、その重苦しい空気と沈黙が体にどっとのしかか る。 食事が済むと子供たちは私を障害物か何かのように避けて、さっ さと二階を逃げて行ってしまう。後には私と妻だけが残った。 妻は「どうして家に入る前にベルを鳴らさなかったのか」とは聞 かなかった。 別に聞いてほしいと思ったわけではないが、私のこの失礼な行動 に何の怒りも覚えず、日常的なことと思っている妻が歯がゆくてな らなかった。昔は−−少なくとも昔は、こんなことはなかった。ベ ルを押して、家に入れば、家族みんなで明るく迎えてくれた。とこ ろが、最近ではベルを押して、家に入っても玄関には誰一人姿を現 さない。というのも妻はどこかへ出かけて、いないことが多いし、 子供たちは部屋でゲームに熱中していて、私が帰ってきたことにも 全く気づかないからだ。 今日みたいにみなの食事をしている様子を見ると言うのは久しぶ りのことだった。 「今日はどこへも行かないのか」 言いたくはなかったが、つい口に出てしまった。 「私がいてはいけないんですか」 妻は食器を洗いながら、つっかかるように答えた。 「いや、そういうわけじゃ……ただ、いつも出かけてるから」 この一言がまずかった。妻は振り返って、キッと私をにらみつけ た。 「いつもですって!昨日は家にずっといたわよ。おとといは友達の 誘いでちょっとでかけたけど、その前はいたわ!大体、あなた、人 のことが言える。年中、接待だとか言って、ゴルフに行ったり、飲 みに行ったり。私にだってね、少しは自由をくれたっていいでしょ う」 妻は一方的に私は怒鳴り散らした。全くよく舌の回る女だ。 私には返す言葉もなかった。元々、私は臆病で、こういう口喧嘩 をすると、体が極端に震えるのだった。 「悪かったよ」 私は謝った。 弱いくせに刃向かうんじゃないわよ、と言った傲慢な顔をして、 また食器を洗い始めた。 私はとぼとぼと自分の部屋へ入って行った。いつからか私と妻の 部屋は別々の部屋となっている。 私は引きっぱなしの冷たい布団の上に横たわった。まるでアパー ト暮しのようだ。いや、今はそれよりもひどい。あの頃は夢があっ たが、今は働いても働いても金はすべて家族に吸い尽くされ、自分 の体だけがかろうじて残るだけ。 ああ、死んでしまいたいよ。 私は布団を被って、その夜は恥も外聞もなく泣いた。 一 翌朝、私が職場近くの喫茶店で食事をしていると、水上早苗が私 に声をかけてきた。彼女は職場の同僚だが、プライベートで話した ことはほとんどなかった。 「松木さん、おはようございます」 早苗が元気よく挨拶した。 「ああ、おはよう」 私は無理に笑顔を作った。 「朝食ですか」 「まあね」 「御一緒してもよろしいですか」 「え?いいけど……でも、僕なんかと」 私がぶつぶつ言っている間に、早苗はさっさと向い側に座り、ウ ェイトレスに注文している。 「いつも、ここで食事してるんですか」 「うん」 「私、ここで朝食を食べるの始めてなんです。いつもは妹と家で食 べるんですけど、妹は今、修学旅行に行っているんです」 「ふうん」 私は早苗の明るい顔をじっ見つめていた。家族がこんな明るい笑 顔で私を迎えてくれたら、どんなに心が晴れるだろう。 「松木さん、私の顔に何かついてますか」 「い、いや、君の顔がかわいいもんだから……あ、いや、別に深い 意味はないんだ」 私は自分で言って、自分で弁解していた。 「やだわ、松木さんたら。奥さんに怒られるわよ」 早苗が照れたように言った。 「……」 私は黙り込んだ。 「私、何か気にさわったことでも。そういえば、松木さん、奥さん がいるのにどうしてつくってもらわないんですか」 早苗がちょっと心配そうに言うと 「ちょっとね、事情があって」 私はか細い声でやっと返事をした。 二 家に帰った時、やはり私を待っていたのは冷たい閑静とした玄関 であった。 妻はまた外出しているようだった。妻の愛用の紅いヒールがない 。 私は自分の部屋のハンガーに背広をかけた後、ふと思い立って二 階へ上がった。二階には二つの子ども部屋と妻の部屋がある。 私は長女の明美の部屋のドアをノックした。明美は今年で十四に なる。 「入っていいか?」 私がドアごしに尋ねると 「どうぞ」 ちょっと不機嫌な声が返ってきた。 私は部屋に入った。明美は机に向かっていたが、勉強している様 子はなかった。 「何か用?」 明美は振り向いて言った。 「いや、帰ってきてきたことを知らせようと思って」 「ふうん、そう」 明美はまた何事もなかったかのように机に向かった。 「この椅子に座っていいかな」 「座れば」 「そ、そうするよ」 私はただ作り笑いをしながら、そばの椅子に座った。 「勉強してるのかい」 「そうよ。明日、テストがあるから」 「そうか、でも、ちょっと話をしないか」 「話……」 明美はちょっと嫌そうな顔をしながら、振り向いた。「ちょっと だけだよ」 「哲夫はいるのかな」 「いるでしょ。相変わらず、テレビゲームに熱中してるわよ」 「お母さんは?」 「お出かけ。わかってるでしょ、毎度のことなんだから」 「夕食はとったのか?」 「ううん、まだよ」 「じゃあ、一緒に食べに行こうか」 「いいよ、面倒くさいから。何か頼もうよ」 「たまにはいいじゃないか」 「だったら哲夫と行ったら。私は家にいるわ」 結局、その後は勉強で忙しいからといって部屋を追い出されてし まった。 しかたなく、哲夫の部屋へ行った。だが、哲夫もまたゲームに熱 中しているらしく、ろくに私の顔も見ずに「行かないよ」と冷たい 返事をした。 私は寂しく下へ降りた。子供たちは食事に行くのが嫌なのではな く、私と行くのが嫌なのだ。これが妻だと喜んでついて行く。また 、会話にしても妻なら子供たちは何でも喜んで打ち明ける癖に、私 とだとぶすっとした顔をして、皮肉混じりの返事をするだけ。 子供たちは私を人間ではなく、給料を運んでくるロボットくらい にしか思ってはいない。それもこれも妻のせいだ。妻は私のいない 間に子供たちに私の欠点ばかりを吹き込み、ご機嫌をとりながら飼 育している。妻にしてみれば子供たちは私を苦しめるための武器な のだ。 結婚して十五年。新婚の時はあんなに楽しかったのに、いつから こんなに仲が冷えきってしまったのだろう。私は確かに会社のため に残業や上司との付き合いで、家庭を少しは犠牲にしてきたかもし れない。しかし、それは全て家族のためだ。出世をすれば、家族が 喜んでくれる。そう思えばこそ、一生懸命働いているんじゃないか 。なのにどうしてこんな家庭になってしまったんだ。これでは牢獄 じゃないか。 結局、その夜は何も食べなかった。 三 「松木さん、かわいそう」 ピザを食べながら、早苗は同情的に言った。 翌朝、昨日と同じ喫茶店で食事をとっていると、早苗がいつもの 明るい笑顔で声をかけてきたので、精神が衰弱していた私は思わず 家族のことで泣き言を言ってしまった。 三十七にもなって、こんな若い女性に家庭の相談をもちかけるの は何ともみっともないことだが、意外にも早苗は笑うことなく親身 に聞いてくれた。 「僕は情けないよ」 私は自分を卑下するように言った。 「そんなことありませんよ。松木さんは仕事はできるし、思いやり はあるし。私としては申し分ないわ」 「そう言ってくれるのは君だけだよ」 私は苦笑した。 「そんなことありません」 突然、早苗の目が真剣になった。 「ど、どうしたの?」 私はあっけにとられて言った。 「私、奥さんと別れた方がいいと思います。このままじゃ松木さん の人生おしまいですよ」 「別れることはできないよ。妻はともかく、子供が二人を路頭に迷 わせるわけには行かない」 「私が引き取ります」 早苗がテーブルを叩いて断言した。 「ちょ、ちょっと、待って。君は何を言ってるんだい」 「プロポーズしてるんです」 「プロポーズ?」 「私、前から松木さんのこと好きだったんです。でも、松木さん、 なかなか私にアプローチかけないから」 「冗談を言ってんだろう。僕を励まそうとして」 「冗談でこんなことが言えますか」 「しかし……」 私は早苗の積極性に圧倒されて、言葉に詰まった。−−彼女の言 っていることは本当なんだろうか。いや、まさか。きっと、からか っているんだ。 「どうしました?」 「仮に君と結婚したくても、女房が別れてくれないよ」 私は遠回しに断わった。 「慰謝料出せば、大丈夫。第一、私と関係を持っちゃえば、奥さん も離婚するしかないと思うわ」 「そんな強引だよ」 私は十代の少年のようにあたふたした。 「私のこと、嫌いですか?」 「嫌いも何も、昨日、初めて話したばかりじゃないか」 「嫌なんですか」 「あ、ああ」 彼女には悪いと思ったが、私のような男とつきあって彼女の人生 を狂わすわけにはいかない。 「そうですか」 「諦めたかい?」 「いいえ。松木さんって優しいんですね。ますます好きになっちゃ いました」 午後七時、仕事が終わり箱田物産を退社すると入口の前には早苗 が立っていた。 「一緒に帰りましょう」 早苗は小さな声で言った。 「でも……」 私が渋ると早苗は大胆にも私の腕をぎゅっとつかんで 「お願い、あなたのことが好きなの。嘘じゃないのよ」 早苗が真剣な眼差しで言うので、私は断わることができなかった 。 「食事に行こうか」 「ええ」 どうせ家に帰っても、妻はいないし、食事の支度もしてないんだ 。 私は駅近くのデパートのレストランで食事をした。レストランと いってもファミリーレストランで、たいして美味しい料理は食べら れなかったが、早苗との会話で楽しい一時を過ごすことができた。 早苗はレストランを出ても、帰る様子はなかった。自分からは何 も言わず、私の言葉を待っている。 これからどこへ行こうか……ホテル……いや、駄目だ。えっと、 そうだ、映画がいい。「映画に行こう」 「ええ」 早苗と私は映画館に入った。そこで恋愛映画を観た。これは私の 趣味ではなく、時間帯がたまたま一致しただけである。 私は上映中、これからのことを考えていた。 彼女は明らかに私と関係を持とうとしている。遊び半分ではなく 、本気でだ。私は彼女の誘惑を断ち切るだけの力はない。もう家庭 と彼女を天秤にかけること事態、無意味になってきている。 別に離婚したからといって、今の私には抵抗なんか何もない。妻 だって離婚できるとなれば、慰謝料が取れると大喜びだろうし、子 供たちだって私が父親であることなど望んではいないんだ。 「松木さん−−松木さん」 早苗の声で私は我に帰った。 「え、あ、どうしたの?」 「どうしたのじゃないわ。映画、終わったわよ」 早苗はクスッと笑いながら言った。 「あ、ごめん、じゃあ、出ようか」 私は早苗を連れて、映画館を出た。そして、しばらく夜道を歩い た。時計は午後九時を回っていた。 私は早苗が話しかけるまで黙っていた。どうしても彼女をホテル へ誘うなどといった大それた真似はできなかった。 私と早苗はいつしか繁華街を外れ、閑静な住宅街を歩いていた。 私はただ早苗の後を従って、歩いてきただけなので、なぜ早苗がこ の道を歩いているのかわからなかった。 駅とはまるで反対の道だった。 「ねえ、松木さん」 早苗が立ち止まった。 「な、なに」 私は早苗が何を言うのか、柄にもなく胸をドキドキさせながら言 った。 「この近くに私のマンションがあるんです」 「え?」 「今日も妹、修学旅行で留守なんですよ」 「それが何か?」 「ちょっと寄って行きません?」 早苗は私を見つめた。 「しかし……」 私は渋った。 「私を愛してるのなら、お願い」 早苗は私の腕をつかんだ。 「わ、わかったよ」 ついに私の良心のたがが外れてしまった。これでもう妻と子ども たちとの関係を絶つことになってしまうのだ。 私はもう催眠術にでもかかったように、早苗の腕に引っ張られて 歩いていた。 その時だった。私と早苗を二つの光が包み込んだ。一台の乗用車 がもうスピードで走ってきたのだ。 私はとっさのことで体が膠着し、その場に棒立ちとなっていた。 車は私と早苗の横に急ブレーキをかけて止まると、前部のドアが 開いて、中から何者かの手が現れて、早苗を無理矢理、車に引きず り込んだ。 「松木さん!」 早苗の呼ぶ声がしたが、私はそれを黙って見ているしかなかった 。 車は早苗を乗せるや、すぐさま走り去った。 私は車が出て行っても、その一瞬の出来事にまだ反応できないで いた。 四 「ちょっと何すんのよ」 早苗は車内で運転している男の顔をひっぱたいた。 男は静かに車を止めた。 「おまえは何を考えているんだ」 南原は早苗の方を向いて、呆れた様子で言った。 「私が何しようと勝手でしょ」 早苗はまだ興奮冷めやらぬ様子で言った。 「人の家庭を壊してもか」 南原が言うと、早苗はちょっと視線を落とした。 「そんなことはあなたには関係ないわ」 「まあな。だが、君が今、やろうとしてることにはどうも賛成でき なくてね。邪魔させてもらったのさ」 「何のことよ?」 「ふふ、とぼけても駄目さ。考えてみれば、君が突然探偵をやめる といって事務所を離れてから、四カ月。俺も君の真意を確かめたく て、時々、君の動向を伺っていたんだ」 「相変わらず嫌らしい性格ね」 「君はあの男をどうするつもりだ」 「結婚するわ」 「なぜ?」 「愛してるからよ」 「だが、今、君が連れていこうとしたマンションは松木の奥さんが 浮気している男のとこじゃないのか」 「どうしてそれを」 「俺は探偵だからな。そのくらいは朝飯前さ」 「つくづく、やな性格ね。そうよ、あなたの言うとおり。あのマン ションにはちょうど男と奥さんがいる頃だから、松木さんを見せて あげようと思ったの」 「それで一気に離婚を成立させ、自分が松木の妻になろうというの か」 「そうよ」 「本気なのか」 南原は早苗を真剣な眼差しで見つめた。 「ええ。私、松木さんに一目惚れしてしまったの」 「そうか」 南原は早苗から目を離して、シートに深くもたれた。 「じゃあ、私は降りるわ」 早苗はドアを開けた。 「結婚式には招待してくれよな、早苗さん」 「もちろんよ、南原さん」 と言って早苗は車を降りた。 「俺にはまだ信じられないけど、取り合えず頑張れよ」 南原は外の早苗に声をかけた。 「わかってる。南原さんもお元気で」 「ああ」 「それじゃあ、さよなら」 早苗は小さく手を振って、その場を去っていった。 「さてと、仕事を始めるか」 南原はニヤリと笑いを浮かべて、車を走らせた。 私は何と情けない男なんだ。目の前にいながら早苗を助けること もできず、むざむざと車の男に連れ去られてしまった。あの男は何 者なんだろうか。 どうしよう、警察へ知らせるべきだろうか。いや、そんなことし たら私がなぜ彼女と一緒にいたかを疑われてしまう。だが、もしあ の男が誘拐犯なら彼女の命に関わるんだ。やはり、警察へ知らせよ う。 私は意を決して、警察へ電話しようと思ったが、この辺には全く 公衆電話は見あたらなかった。仕方なしに私はしばらくこの静寂と した道を歩き続けた。 途中、誰ともすれ違うことはなかった。私は彼女の身に危険が迫 っているかも知れないというのに冷静だった。警察に電話をしよう と思えば、近くの家で電話を借りればいいのに、あえてそれをせず 、そして、公衆電話へ向かう足取りも早けれど、走るということは なかった。私はもしかすると彼女がこのままいなくなることを望ん でいるのかも知れない。それは実に恐ろしい考えだが、なぜか今の 私にはそれを否定することができなかった。 住宅街を抜け、よう やくビルやマンションの立ち並ぶ道に入った。恐らく早苗のマンシ ョンはこのどこかにあるに違いない。 私は上空の夜景を見ながら、歩いていた。公衆電話にたどり着き たくないという思いがやはり募っていた。 その時だった。 ドンッと何かにぶつかり、気を抜いていた私はあっさりその場に 尻餅をついた。私の目の前に男女のカップルがいた。 「どこ見てんだ」 男は私をにらみつけた。三十前後の男で、私に比べると体格も顔 立ちもよかった。 「す、すみません」 私は手の砂を払って、ゆっくりと腰を上げた時、ふと男の隣の女 を見た。 「理恵……」 目の前にいたのは紛れもない私の妻だった。妻の方も私の顔を見 て、驚き、慌てて男の背中に身を隠した。 「どうした?」 男が妻に尋ねると、妻は息を呑んで答えた。 「わ、私の夫よ……」 「理恵、おまえ、こんな男と……」 私は妻の前に歩み寄った。 「あなた、どうしてここに。私をつけてきたのね、最低だわ」 妻は私を罵った。 「浮気なんかして、どういうつもりだ」 私は怒鳴った。 「あなたこそ、人のことが言えて」 「何だと」 私は嫌な予感がした。 「これよ」 妻はバッグから写真を撮り出した。それは早苗と私が食事をして いる写真だった。いつの間にこんな写真を。この写真はこの間の喫 茶店でのものだ。 「彼女は関係ない」 「へぇ、もう彼女とか言う間柄なのね。これで離婚は決まりね」 妻は待っていたかのようにその台詞を吐いた。 「ま、待ってくれ。離婚なんてそんな。子供たちはどうするんだ」 私は妻の浮気を問いただすこともできず弱腰になっていた。 「私が引き取るわ。この人も了解してくれたの」 妻が男に抱きついた。 「さあ、話が済んだら、さっさと帰んな」 男は私を突き飛ばした。 私は反抗する力もなく、ただその場に立っていた。 「さあ、行こうぜ」 男は妻を連れてその場を去って行った。妻は全く私に振り向かな かった。 「畜生……」 私はアスファルトの冷たい舗道を何度も叩きながら、自分の無様 な姿を呪った。 五 「明美ちゃんだね」 明美が弟と一緒に家を出たところで、南原は声をかけた。 「誰ですか」 「君のお父さんの会社の知合いなんだが−−」 「父なら昨日は帰りませんでした」 「いや、君に用があるんだ。ここでいいから、五分ほど時間をもら えないかな」 「でも、学校が」 明美が困った顔をすると、 「いざとなったら、車で送ってあげるから」 と南原は説得した。 「わかりました。−−哲夫、先に行きなさい」 と明美が言うと 「やだぁ、僕も車乗りたい」 「わがまま言うんじゃないの。言うこと聞かないと、今日の夕食、 抜きだからね」 「わかったよ」 哲夫はふてくされた顔をしながらも、ランドセルをしょって、と ぼとぼと歩いて行った。 「どういう御用件でしょうか」 明美は南原を見上げて言った。彼女の髪は肩ほどまであって、さ らさらとした艶のある髪だった。顔立ちは美人ではあるが、ややき つい印象を与えた。そして、性格的にも芯が通っていて、気の強い 娘のようである。 「最近、君のお父さんが元気がないようなんでね、何かあったのか と思って」 「何もありません」 明美はきっぱりと言った。 「でも、お父さん、かなり深刻に悩んでる様子だったんだけどね。 本当は家庭で何かあったんじゃない」 「ありません」 「本当に?」 「本当です。用が済んだんなら、学校へ行きますから」 明美は鞄を右手に持ちかえて、南原を無視して歩いて行こうとし た。 「待ちなよ」 南原は明美の肩をつかんだ。 「放して下さい」 明美は南原をキッとにらんだ。 −−なんて悲しい目をしてるんだ、この娘は 南原は明美の肩から手を離した。 「悪かった。正直に言おう。僕はお父さんの知合いではないんだ」 「え?」 「僕は探偵だ」 南原は明美に名刺を渡した。 「南原……光次郎?いったい、何を調べてるんですか」 「そいつは言えない。だが、一つ君に聞いておきたいことがあるん だ」 「何でしょうか」 「お父さんとお母さんがもし離婚したらどうする?」 南原は明美の顔をじっと見ながら、尋ねた。 明美はしばらく黙っていた。彼女は自分の感情を顔に出さないよ う必死に抑えていた。「答えなくてもいいよ。君にこんな辛い質問 のする方が間違ってたね」 南原は優しく言った。 「離婚するってことがあるんですか……」 明美は震えの混じった声で南原に尋ねた。 「いや、もしもの話さ」 「でも、おじさんはお父さんか、お母さんの浮気相手を調べてるん でしょう」 「だとしたら、君はどうする?」 「わたしは……わたしは…」 明美は答えようとするうちに顔色がどんどん青くなり、しっかり とした顔つきが崩れてきていた。 「もういいよ」 南原は慌てて明美を抱きしめ、彼女の顔を胸で覆い隠した。 「言う必要ないさ。本当におじさんが悪かった」 南原が明美の背中を軽く叩きながら、穏やかな声で慰めると、い つしか南原の胸で彼女の咽び泣く声が聞こえてきた。 六 翌朝、私はビジネスホテルから会社へ出勤した。 昨夜はとうとう家へは帰らなかった。別に帰らなかったところで 、誰が心配するわけでもなく、それほど気にはならなかった。 むしろ、昨夜は自宅以上によく眠れた気がした。妻と男のことが 気になって眠れないかとも思ったが、意外にあっさりと眠りについ てしまった。もう私自身、妻のことを愛していないのかも知れない 。 「松木さん」 私が一階でエレベーターを待っていると後ろから声がした。振り 向くと、いつものままの早苗が立っていた。 「き、君、大丈夫だった」 私は慌てて言った。 「ああ、あれね、私の兄なの。ちょっと強引だから、時々、誘拐犯 とかと間違えられるのよ」 「何だそうだったのか……でも、謝らなきゃ」 「なぜ?」 「仮に君のお兄さんだったとしても僕は君が連れ去られたのに、警 察にも連絡せず、自分で捜そうとも思わなかったんだ」 私は早苗に深く頭を下げた。 「いいのよ。気にしてないから。それより、今夜、昨日の埋め合せ にまたつき合ってくれません?」 「いや、それは……」 「都合が悪いんですの?」 私は迷った。正直言って今日、早苗とつき合えば、肉体関係を持 つ可能性は大きい。そうなれば、この先、彼女とは永遠に離れられ なくなる。別に早苗が嫌いなわけではない。彼女はきれいだし、優 しいし、明るい。妻と比べると大違いだ。だが、子供たちが両親が 揃って浮気しているなどということを知ったら、どうなるだろう。 きっと深く傷つくはずだ。いや、子供たちは私のことが嫌いなんだ 。別にどうなったっていい。離婚したら離婚したで、多少、金がか かったって、子供を妻に預けて、早苗と結婚すればいいんだ。 「どうしたの?黙り込んで?」 「今夜、つき合うよ」 「本当に?」 「ああ」 「よかった。−−あっ、エレベーターが着いたわ。この話はまた昼 休みね」 と早苗はニコッと微笑んで言った。 「私がみんな悪いんです」 明美は弱々しい声で言った。 南原と明美は公園のブランコに座って話をしていた。公園はまだ 朝方のせいか、人の姿はほとんど見えない。 「そう自分を責めることはないさ」 南原は明美の横顔を見ながら言った。 「私、時々、自分が嫌になるんです。陰険で、わがままで、短気で ……そのくせ、泣き虫で」 「そう思うのなら、治せばいいじゃないか」 「できません……素直になればいいといくら思っても、駄目なんで す」 明美は両側の鎖をぎゅっと握りしめた。 「そうか……でも、君は両親の離婚は嫌なんだろう」 南原の問いかけに明美は小さくうなずいた。 「だが、このままいけば、必ず離婚になるよ。僕が何もしなくても ね。そうなれば、君と哲夫君は離ればなれになるかも知れない」 明美はうつむきながら、南原の言葉を黙って聞いていた。 「家庭をつくるも壊すも家族次第だ。今、そのことに気づいている のは君だけだと思うよ」 南原はブランコから腰を上げると、明美の肩を軽く叩いた。「ち ょっと話しすぎたようだ。さあ、学校まで送るよ」 「いいえ、一人で行きます」 明美もブランコから腰を上げると、南原に会釈一つせず、何かじ っと考え込んだようにして、公園を出て行った。 七 明美は学校へ通学せず、そのまま公園から自宅に戻ってきた。 玄関には母親のハイヒールがあった。 明美は鞄を玄関に投げ出し、台所へ行った。 「あら、明美、学校はどうしたの?」 母親の理恵は不機嫌な顔で言った。 理恵はちょうど朝食を取っているところだった。おそらく、自分 たちが学校へ行くのを見計らって帰ってきたのだろうと明美は思っ た。 理恵の服装は昨日のままで、まだ帰ってきて間もないらしく、バ ッグや紙袋がテーブルの上に置いてあった。 「お母さん、離婚するってホントなの」 明美は険しい表情で母親を見た。 「離婚……」 理恵は一瞬、言葉に詰まったが、すぐに表情を取り戻し、「いず れわかることだから」といって、穏やかに離婚の可能性があること を打ち明けた。 「どうして……」 南原から聞かされて知っていたとは言え、母に直接言われると、 やはり明美は悲しくなった。だが、それを表情には出さなかった。 「お父さんが浮気したの。前から薄々気づいていたんだけどね。会 社の同僚の人よ」 「お父さんは浮気だって認めたの?」 「認めるも何も浮気があったのは事実なのよ」 「探偵に調べさせたから?」 「明美、どうして探偵のことなんか……。ええ、その通りよ。それ なら明美にもわかるでしょ、お母さんの気持ち。浮気してる人と一 緒にはどうしても住めないの」 理恵はしごく当然のように言った。 「わからないわ、そんな気持ちなんか!」 明美は感情的に怒鳴った。今まで母親に手向かったことのない明 美がこの時だけは我を忘れていた。 「どうしたの、明美……」 突然の娘の言動に理恵は戸惑った。 「浮気に気づいていたんなら、何で止めてあげなかったのよ!」 「言ったって、聞く人じゃないもの」 「ウソよ。お母さんは離婚するきっかけが欲しかったのよ」 「何てこと言うの」 理恵もついに怒り出した。「明美だって、あんなにお父さんを嫌 ってたでしょ。それにお父さんとお母さんの間はもう隔たりができ てしまったの、仲直りはできないのよ」 「そんなの勝手だわ。私は絶対、いや!」 明美は大きく首を振った。 「明美、お願いだからわかって。お母さんだって辛いんだから」 「お父さんも離婚しようって言ってるの?」 「ええ、そうよ」 「ひどいわ。私たちに何の相談もないわけ?」 「明美には悪いと思ってる。だから、本当なら折りを見て話そうと 思ったのよ」 「その時にはどうせ離婚は成立してるんでしょ」 明美は皮肉っぽく言った。 「明美!」 理恵は思わず明美の頬をひっぱたいた。 明美はジィーンと熱くなる頬を押さえながら、理恵を鋭い目でに らんだ。 「ご、ごめんなさい、悪気があったわけじゃ……」 理恵は感情的になったことを反省した。 「もう……いいわ、勝手にすれば。離婚しなさいよ。でも、私はど っちにも行かないからね。お母さんも新しい男の人とせいぜい、お 幸せに」 明美はそれだけ言うと、台所を飛び出して行った。 理恵の浮気相手、田崎はマンションの六階に住んでいた。田崎は 駅前のバーに勤めるバーテンダーで、理恵とはバーの客として会っ ているうちに、関係を持つようになった。田崎にとって理恵は女と しての魅力よりも金に魅力があった。彼女は両親の遺産を相続して いて意外に金を持っていた。マンションを買う資金の一部も理恵が 肩代りしていた。 −−ピンポーン チャイムの音で田崎はソファから腰を上げた。彼のそばのテーブ ルにはウィスキーとグラスが置いてある。彼は朝から酒を飲んでい たのだった。無論、昨夜は理恵と寝ていたのである。 「理恵の奴かな」 田崎は重い足取りで、玄関に歩いて行った。 ドアの覗き穴を覗かず、無造作にチェーンを外して、ドアを開け た。そこには男が立っていた。 「あんた、誰だい?」 田崎がそう言うや否や、いきなり男の拳が田崎の顔にヒットした 。田崎が後ろに倒れた。 「な、何しやがる」 田崎は怒鳴った。 「俺は南原っていうもんだ」 南原は田崎の前に名刺を投げた。田崎は名刺を見た。 「探偵が何の用だ」 「松木理恵と別れな」 「理恵と……ふざけるな」 田崎は立ち上がって、南原に殴りかかった。だが、逆にカウンタ ーパンチが田崎の顎をえぐった。 「うがぁっ」 田崎は顎を押さえながら、逃げるように部屋の奥へ引っ込んだ。 南原は土足で田崎を追うように入って行く。 南原が居間に入った時、田崎はサバイバルナイフを構えて立って いた。 「畜生!殺してやる」 田崎はにやりと笑って行った。 「そんなナイフじゃ俺は刺せんよ」 南原は眉一つ動かさず言った。 「だったら試してやるぜ」 田崎は南原の懐に飛び込んだ。 「ん」 勢いよく飛び込んだにもかかわらず、ナイフは南原の腹に一セン チも刺さっていなかった。 「てめえの力じゃ防弾チョッキは通せねえよ」 すかさず、南原の肘が田崎の後頭部を襲った。 田崎は低くうめくと、南原の足元にひれ伏した。 南原は田崎の手を足で踏んで、ナイフを離させると、さっとナイ フを足で払って遠くへやった。そして、今度は田崎の頭に靴のかか とをぐいぐいと押し付け、 「理恵と別れるか?」 と訊いた。 「あ、あいつから言い寄ってきたんだ」 「だったら断われ。そのために口があるんだろ」 「わ、わかった。別れるよ」 「その言葉、信じるよ」 南原は懐のホルスターから拳銃を取り出した。 「信じてくれ」 田崎は苦しそうな声で言った。 「ウソついたらこうだぞ」 南原は足元に拳銃を発砲した。田崎の顔のすぐ目の前の床に弾丸 が貫通する。田崎は恐怖に目を見開いた。 「わかれます。わかれます」 田崎はうわごとのように言葉を繰り返した。 「大変、よろしい」 南原はニコッと笑って言った。 八 午後六時−− 会社のビルの前で一足早く松木が出てくるのを待っていた早苗は 、ビルの前で落ち着かない様子で会社の入口を見つめている少女の 存在に気づいた。 −−あれ、もしかして 早苗はその少女の顔に見覚えがあった。無論、面識はないが、写 真で見たのを思いだしたのだった。 早苗はバッグの中からシステム手帳を取り出すと、その中のケー スに入れておいた写真に目を通した。 −−やっぱりね、松木さんの長女、明美だわ。 早苗は明美に関する調査メモをチェックした。 −−松木明美、十四才。N第二中学校二年。成績はごく普通。性 格は気が強いが、内向的。所属クラブはなし。 −−いったい何してるのかしら。なんて疑問に思うのも野暮ね。 松木さんの会社の前にいるということは松木さんに会いにきたとい う以外、考えられないもの。 早苗はなんとなく明美と話がしてみたい気になった。しかし、自 分から明美に声をかけると変に思われるので、結局はその少女の様 子を黙ってみていた。 −−あの子がお父さんに会いにきたとすると、私が松木さんに会 うと厄介なことになるわね。でも、どうせ離婚させるんだから、ど うでもいいわね。 早苗は比較的、楽観的に考えた。 私は一階へ降りるエレベーターの中で、これからのことばかり考 えていた。 もし今夜、早苗とデートをすれば、確実に僕と早苗は結ばれる。 そうなれば、離婚は決定的だ。いや、もう妻には男ができてるし、 私と早苗の関係を執拗に追求している以上、今夜のことがなくても 離婚は避けられないのだ。私自身には離婚に不満はない。毎日、圧 迫され続けた孤独な生活から解放されるのだから。 ただ、気がかりなのはこのまま子供たちに相談もなしに離婚をす ることだった。仮に彼らが私を嫌っていたとしても、親が一人にな ると言うのは重大問題だ。私や妻の我がままで決めていいことはな い。やはり、一度は真剣に話し合わなければ駄目だ。 そんなことを考えているうちにエレベーターは一階に着いた。腕 時計を見ると、六時十五分を指している。早苗とは六時の約束だか ら、やや早苗を待たせてしまったようだ。 私は会社を出た。外はもう薄暗くなっている。別に珍しいことで はないのだが、朝、会社に来て、その日は会社からでないと、夜、 外に出た時、別世界に来たような気がするのである。 なま暖かい部屋にずっといたせいか、顔に風がくると、ひんやり として気持ちがいい。「松木さん」 早苗が私に声をかけた。一瞬、早苗と待ち合わせをしていたこと を忘れていた私は早苗の顔を見て、驚いた。 「どうしたの、そんなびっくりした顔して」 早苗はくすっと笑った。 「ちょっとぼんやりしてたもんだから」 早苗はやっぱりかわいかった。彼女を見ていると、なぜ私が理恵 と結婚したのか不思議でならなかった。もっとも結婚前は理恵があ んな横柄で、気が強くて、自分勝手な女とは思っていなかった。一 緒に暮らして初めて、その人間を知るといった感じであった。いま 思うと、結婚したいばかりに理恵の我がままを何でも聞いて、甘や かした自分にも責任があるのかも知れない。だが、早苗は理恵とは 違う。もし早苗と子供たちとで暮らしたら、きっと幸せな家庭が作 れるに違いない。 「さあ、行きましょう」 早苗が私の腕に手をかけた。 「ああ」 私と早苗が歩きかけた時、誰かが私たちの前に立ちはだかった。 「明美……」 私は一瞬、目を疑った。 目の前には娘の明美が立っていたのだ。明美は憎しみに満ちた目 で私をにらんでいた。だが、その目にはなぜか悲しみが宿っていた 。いつもの明美の目ではなかった。 「明美、これはその……」 私はどう弁解していいかわからなかった。ただ何とか言葉を表に 出そうとしているだけだった。 「お父さん……」 明美は微笑んだ。笑っているのは口元だけで、無理に作っている ような笑顔だった。 「明美……」 私はこんなに苦しそうな表情の娘に何も言えない自分が腹立たし かった。 「ごめんね……お父さん」 明美はそれだけ言うと、振り返ることなく雑踏の中へ走って行っ た。 「松木さん」 早苗が声をかけた。 「今のが私の娘です」 「追いかけないでいいの?」 「いいんです。もう私の家庭は終わったんです」 つづく