南原光次郎シリーズ2 赤いハイヒール 登場人物 尾崎純 探偵助手 南原光次郎 探偵 前田邦雄 アパートの住人 前田瑞恵 邦雄の妻 北村智子 尾崎の恋人 西嶺 麹町署刑事 一 「殺してやる!!」 「きゃああぁぁ!!」 −−バサッ 僕は目覚めた。−−夢か、現実か? 僕が現実に気づくのに時間はかからなかった。すぐにまた殺気に 満ちた声。悲痛な悲鳴。そして、逃げ惑う物音。物を投げる音。激 しく争う物音。 −−これはただごとではない! 僕は察した。僕と智子のいる静寂な空間とは相反するもう一つの 喧噪な空間が存在するのだ。 僕はすやすやと眠っている智子をベッドに残し、部屋を出た。 そして、隣の部屋のドアをノックした。 返事がない。−−いつものパターンだ。 僕は二度目のノックを控え、ドアのノブを回した。ドアは誰にも 邪魔される事なく、静かに開いた。 だが、次の瞬間、研ぎすまされた刃物が僕に向かって飛んできた 。 −−なんだ? 僕のとっさの反応はこの程度だった。すぐによける、受け止める という反射神経に結び付かないのが、僕の特徴であった。ゆえに僕 は小学生のころ、ドッチボールでは真っ先に当てられていた。 刃物は全く反応を示さない僕のこめかみを横切った。そして、背 後で壁に当たって、床に落ちる音がした。 「助けて下さい!」 そんな声がしたかと思うと、突然、男がなだれ込むように僕に抱 きついてきた。 僕は不意打ちをくらって、男と一緒に玄関に倒れた。 「何するんです!」 僕が向きになって言った時、憎悪の影が僕を包み込んだ。そこに は女が立っていた。−−立っていただけじゃない。バットを頭上に 振り上げ、今にも僕たちをめったうちにしようと構えていたのだ。 「あんたなんか、殺してやる。裏切り者!」 女は憎しみの言葉を吐いて、バットに怒りの全てを託し、振り降 ろした。 −−何だ? 僕の反応はまたもや、鈍かった。 二 「こうなった以上、事情を説明してもらいましょうか」 僕はずきずきと痛む右腕を左手で押えながら、言った。無論、こ の痛みの原因は瑞恵の振り降ろしたバットが当たったせいである。 「尾崎さん、本当にごめんなさい。私、ついカッとなってしまって 」 前田瑞恵は申し訳ないといった顔で謝った。 今、僕と前田夫妻は居間にいた。僕が犠牲になったおかげで、夫 婦喧嘩どころではなくなったのである。 「全く打撲程度で済んだから、良かったものの、普通なら殺人未遂 ですよ」 僕は怒りを抑えずにはいられなかった。本当に一歩間違えば、殺 されていたところなのだ。ただ好運にも彼女の細い腕のおかげで、 力のないぶん振り降ろすバットの軌道がずれて、僕の腕に当たった のだった。 「あのう、一応病院に行かれた方が……骨折されてるかも知れませ んし」 主人の邦雄が心配そうに言った。 「いえ、大丈夫です」 それにしてもこの夫婦が喧嘩とはまさに信じがたいことであった 。 というのも邦雄と瑞恵の夫婦は先月、このアパートに引っ越して きたばかりの新婚なのだ。生活状況はよく知らないが、僕自身、仲 のいい夫婦だとばかり思っていた。邦雄は三十にして証券会社の係 長で、実直な男だし、瑞恵の方も会えばいつも挨拶してくれる元気 で明るい女性なのである。 「なぜ喧嘩したんです?」 僕が率直に尋ねた。 「主人が浮気したんです」 瑞恵がうわずった声で言った。 「浮気?」 僕は邦雄を見た。 「おい、俺は浮気なんかしてないぞ」 邦雄は向きになって言った。 「ウソ!私たちの寝室に女を連れ込んでたじゃない」 「本当ですか、御主人?」 「いいがかりだ。証拠はあるのか」 「玄関に赤いハイヒールがあったじゃない」 「俺が見たときはなかったぞ」 「きっと女が、私があなたと話しているすきに靴を持って逃げたの よ」 「おまえ、よくそんなでまかせが言えるな」 「でまかせですって!」 瑞恵はヒステリックな声をあげた。なにやらまた険悪なムードが 漂ってきている。 「そうだろうが。大体、亭主を信じられない妻がどこにいるんだ。 ひょっとしたら、男がいるんだろう。それで俺にあらぬ疑いをかけ て離婚しようとしているんだ」 「許せない!浮気した分際で、開き直るなんて。殺してやるわ」 瑞恵は邦雄の首を絞めにかかった。再びとっくみあいが始まる。 「いいかげんにしなさい!傷害罪で本当に警察に訴えてもいいんで すか」 僕が一喝すると二人はおとなしくなった。 「とにかくお二人がいくら言い合ったところで水掛け論です。ここ は実地検証をした上で、判断を下しましょう」 僕はよけいなお節介はやきたくなかったが、この夫婦をほおって おくと、本当に殺人事件になりかねないので、協力することにした 。 「わかりました」 二人は納得した。 「では、奥さん、状況を説明して下さい」 「はい。私は今日、同窓会で遅くなって、一時に帰ってきたんです 」 「今から一時間前ですね」 「それで玄関で靴を脱ごうとした時、赤いハイヒールが目に留まっ たんです。私はすぐに主人が女を連れ込んでいると思いました」 「なぜそう思ったんです?」 「私は赤のハイヒールは持っていないんです。それは靴箱を見ても らえればわかります」 「赤は嫌いなんですか?」 「ええ。なんとなく血なまぐさい気がして嫌なんです」 「なるほど。ところで奥さん、部屋に入る前に呼び鈴は鳴らしまし たか」 「いいえ。もう遅い時間でしたので、主人は寝ていると思い、鍵を 使ってドアを開けて、入りました」 「それで」 「部屋に入って、すぐ玄関の電気をつけました」 「そして、赤いハイヒールを見つけ、奥さんは御主人が浮気してい ると思い、真っ先に寝室へ行かれた」 「ええ、そうです」 「なぜ先に寝室に行かれたのです?」 「外から見た時、部屋の電気がすべて消えていたので、多分、寝室 にいると思ったんです」 「寝室には女性はいましたか」 「いません。主人だけでした。私、怒ってたから、すぐ主人を起こ して、浮気のことを追求しました。そうしたら、知らないなんて、 しらをきるものですから、玄関へ強引に連れて行って、赤いハイヒ ールを見せてやろうと思ったんです」 「ところが玄関に赤いハイヒールはなかったわけですね」 「そうです」 「捜しましたか」 「ええ。でも、見つかりませんでした」 「赤いハイヒールを別の靴と見間違えたなんてことは?」 「絶対ありません」 「でしたら、奥さんはこの靴が消えたということに関して、どう考 えます」 「きっと私が主人と喧嘩しているすきに、浴室かどこかに隠れてい た女が赤いハイヒールを持って逃げたんだい思います」 「おいおい、それはいいがかりだ」 邦夫が口を挟む。 「あなたは黙ってて。私は尾崎さんと話しているのよ」 「どうも。大体、ことのいきさつはわかりました。それでは奥さん 、部屋を調べさせてもらってよろしいですか」 「それは困る!人の部屋を調べ回るなんて失礼じゃないか」 邦雄が大声で文句を言った。 「それもそうですね。やめましょう」 「いいえ、調べてください。あなた、この際、決着つけましょう」 と瑞恵が強気で言った。 「瑞恵……」 邦雄が頼りなさそうに言った。 「いいんですか」 僕が訊くと 「結構です」 と瑞恵は答えた。 「では、ちょっと待ってて下さい。−−電話をお借りしますよ」 そう言って、僕は床に落ちていた電話機で電話をかけた。無論、 僕の働く探偵事務所の所長、南原光次郎のところだ。こういう事件 は所長の判断を仰がないと、とても処理できそうにない。 十分ほど所長と電話で話した後、僕は受話器を置いた。 「では、ゆっくりと部屋を調べて行きますか」 「いったいどこを調べるというんです」 邦雄が心配そうに尋ねる。 「それはわかりません。しかし、御主人、喧嘩をしたのはまずかっ たですね」 「え?」 「これだけ部屋中、散らかされたのでは証拠はめちゃめちゃですよ 」 「すみません」 「まあ、いいです。とりあえず、奥さんと御主人は部屋の片付けで もしてて下さい」 「わかりました」 邦雄と瑞恵はさっそく台所の片付けを始めた。 僕はまず玄関に立った。 「玄関の電気はすぐ横の壁にあるスイッチですか?」 「ええ」 僕はスイッチを切った。玄関のあたりだけ暗くなる。 「失礼ですが、ちょっとの間だけ部屋中の電気を消してもらえます か」 「いいですよ」 邦雄はそれぞれの部屋の電気を消して回った。そして、あたりは すべて真っ暗になった。 「この暗闇では靴の判別は不可能だな」 僕は玄関のスイッチを入れた。パッと明るくなる。 僕は靴箱の戸を開けた。戸棚は四段で上二段に女性ものの靴が、 下二段に男性ものの靴が入っていた。 こうして見る限り、赤い靴はどの段にもなかった。瑞恵の言った ことは本当のようである。瑞恵のハイヒールは紺、黒、白の色のも のがほとんどで、僕は一つ一つ取り上げて、調べてみたが、これと いった手がかりは得られなかった。 次に僕は靴箱や傘立てを動かしてみた。しかし、赤いハイヒール はおろか何も見つからなかった。 さらに僕は地に顔をつけて、靴箱の下を調べてみたが、やはり何 もない。 僕は立ち上がって、今度は部屋を調べることにした。 玄関を上がってすぐ左側にドアがある。ドアを開けると思った通 りそこは浴室とトイレであった。 そして、玄関を上がってすぐ正面が台所。一応、四畳半の部屋で ある。この台所を中心とすると南側に居間があり、東側に寝室があ る。 「もう電気をつけても構いませんよ」 僕は邦雄に言った。 すぐに邦雄が電気をつけて、まわりが明るくなった。 「ちょっと寝室を調べさせてもらえますかな」 「どうぞ」 邦雄はためらいがちに言った。 僕は寝室に入った。寝室は四畳半ほどの広さで、そこにはダブル ベッドがどんと置かれている。左隅には小さな洋服タンスがある。 ベッドには確かについさっきまで人が寝ていたという形跡はあっ た。シーツはしわになって乱れているし、布団もくるまっている。 僕はベッドの下を手でさぐって調べてみた。だが、何も僕の手に 触れるものはなかった。 続いて、タンスも調べてみたが、やはり赤いハイヒールは見つか らなかった。 僕はお手上げといった感じで寝室を出た。なんとなくどこを捜そ うとも赤いハイヒールは見つからないような気がした。 「どうでした」 邦雄が訊いた。 「全然−−おやっ、御主人、いい寝巻き着てますね。ブランドもの でしょう」 僕は邦雄の青色の寝巻をまじまじと見ながら言った。 「さあ、瑞恵が買ってきたものですから」 「これは間違いなくブランドものですよ。あっ、この靴下に付いて いる鰐のマーク。いやあ、まいったな。結構、ブランド指向なんで すね。さっき、寝室の洋服タンスの中も拝見致しましたが、高級品 ばかりでしたし。やっぱり一流企業のエリート社員は持つものが違 いますね。僕なんか無印商品ばっかりですよ」 僕は苦笑して言った。 「そうですか。別に意識して買っているわけじゃないんですけど」 僕があまりほめるので、邦雄も照れたような顔をして言った。た だ、瑞恵の方は僕の様子を黙って見ていた。 僕はもう一度、探偵事務所に電話をいれた。しばらくの会話の後 、電話を切って、 「さて、もうこれといって調べることもないでしょう。あ、そうだ 。ちょっと聞いてよろしいですか」 「何でしょう」 「あなたが寝室でおやすみになられたのはいつですか」 「十時です」 「じゃあ奥さんが怒鳴り込んできた時には驚かれたでしょう」 「え、ええ。あのときは本当に殺されるかと思いました」 瑞恵の視線を気にしながら、邦雄は控え目に言った。瑞恵は怒る 様子はなかった。冷静さを取り戻したのだろうか。 「ちょっと来てください」 僕は邦雄の手を引っ張って、外へ連れ出した。そして、小さな声 で 「奥さんは普段からヒステリックな方ですか」 と訊いた。 「え……まあ、嫉妬深い方でした。でも、瑞恵はそんな悪い女じゃ ないんです」 「それはわかります」 「ただ瑞恵は前に恋人を別の女性に奪われた経験があるんです。だ から、人一倍、僕に近づいて来る女性には警戒心が強いんです。今 度のことだって、本当は赤いハイヒールを見たなどと嘘ついて、僕 の気持ちを確かめようとしたのかも知れません」 「なるほど。それはあなたの意見としてうかがっておきましょう。 とにかく、現状ではどちらが正しいのかわかりません。というのも あなたや奥さんの言葉を裏付ける証拠が何もないわけですから」 「尾崎さん、どうしたらいいんです。僕は本当に浮気なんかしてな いんです」 「この件はなかったことにしましょう」 「な、何を言い出すんですか」 邦雄は僕の発言に驚いた様子だった。 「これ以上の詮索は、お互いに無意味かもしれません」 「そんな。僕たちは離婚の瀬戸際に追い込まれているんですよ」 「前田さん、もうやめましょう。今のことは忘れます」 「今更、それは無責任ですよ」 邦雄が憮然とした顔で言った。「あなたは自分がわからないもの だから、逃げているんだ」 「そんなにことの真偽を知りたいのですか。僕にはそうは思えませ んがね」 僕が探るような目で邦雄を見ると、邦雄は目を伏せた。 「そんなことはありませんよ」 「わかりました。だったら三日以内にことの真偽を明確にしましょ う。よろしいですね」 僕は強く念を押した。 「いいですよ。しかし、もし、できなかったらどうするんです」 邦雄はやや青ざめた顔で尋ねた。 「それはありません」 僕はきっぱりと言い切った。 三 午前四時。夜はもう更けていた。さすがに深夜族の人々もこのこ ろになると、ほとんどの者が眠りについている。 「瑞恵、外の様子はどうだ」 邦雄はアパートの部屋の窓から、街灯下の路上にいる瑞恵に低い 声で話しかけた。 「大丈夫、人の気配はないわ」 「アパートの住人の様子は?」 「みんな寝ていると思うわ。どの部屋もみんな電気が消えているも の」 「わかった。おまえは先に駐車場へ行って、車の用意をしておけ」 「わかったわ。でも、あなた一人で平気?」 「心配するな。早く行け」 邦雄が言うと、瑞恵は邦雄をいとおしそうな目で見つめながらも 、夜の路上を走っていった。 邦雄はしばらく暗闇の中で身を潜めていた。時計のスローテンポ な秒針の音だけが邦雄の耳に聞こえてくる。 邦雄は時を待っていた。自分に残された一分間が刻々と過ぎてい く。邦雄には瑞恵を巻き込みたくないという一点の迷いがあった。 しかし、もう決断を覆すことはできない。 「時間だ」 邦雄は横に置いてある毛布のくるまった荷物を背負って、立ち上 がった。そして、部屋を静かに出て行った。 「あなた、人に見つからなかった」 駐車場で車のエンジンをふかして待っていた瑞恵は荷物を背負っ ている邦雄の姿を闇の中から見つけると、すぐに車内から飛び出し た。 「多分、見つかっていない。それより、この荷物を後ろのトランク に入れるのを手伝ってくれ」 「わかったわ」 瑞恵は先に車の後ろに回って、鍵を使ってトランクを開けた。邦 雄は荷物を両腕でかかえ、おぼつかない足取りで、トランクに荷物 を詰めようとする。 −−その時だった!! 四方からまばゆい光線が、邦雄と瑞恵を包み込んだ。 突然のまぶしさに二人は目を覆った。 「前田さん、これまでです」 「誰だ!」 「僕をお忘れですか。尾崎ですよ」 僕は静かに言った。 「どういうつもりだ」 邦雄は僕をにらみつけて言った。 「それはあなたがよくご存じのはずです」 僕が言うと、ヘッドライトの灯るパトカーから警官たちがさっと 現れて、邦雄と瑞恵を取り囲んだ。 「あなた!」 瑞恵は不安の余り、邦雄の腕にしがみついた。 「畜生!」 邦雄は瑞恵を振り切り、車に乗り込もうとしたが、すばやく飛び かかるに警官にあっという間に取り押さえられてしまった。 「往生際が悪いですよ」 僕は車の窓から手を入れて、車のエンジンを切った。 「君、後ろのトランクの荷物をおろしてくれたまえ」 僕は警官に頼んだ。警官はさっそくトランクから毛布にくるまれ た荷物を降ろす。 「尾崎くん、いったいこの男は何をしたんだね」 西嶺刑事は浮かない顔をして訊いた。 「殺人です」 僕は言った。 「殺人!」 「ええ。ためしにこの荷物の毛布を取ってごらんなさい」 西嶺はさっそく荷物の前に屈み、右手で毛布をめくった。 「これは!」 西嶺は目を見張った。くるまれた毛布の中からカッと目を見開い た女の顔が現れた。 「尾崎くん、事件の全容をすべて話してもらえるんでしょうな。こ れでも、私はあんたを信用して、無条件でこうして警官を集め、こ こで待機させていたのですから」 「ご心配には及びません。事件の真相はすべてこの夫婦が語ってく れますよ」 僕はゆっくりと手錠をかけられた邦雄の前に歩み寄った。 「だから、あの時、念を押したのに。さあ、この刑事さんに真実を 話したまえ」 「ああ、わかったよ。その代わり、どうして俺の計画がわかったの か教えてくれ」 「君がすべてを話したら教えるよ」 「本当だな」 「ああ、君みたいに嘘はつかないよ」 「その前に尾崎くん、この男女は誰なんだ」 事件の状況がわからない西嶺は困惑した顔で言った。 「二人は僕の隣の部屋に住んでいる新婚の夫婦です。夫の方は前田 邦雄。妻の方は前田瑞恵です」 「いったいこの二人の犯罪を尾崎くんはどうしてわかったんです」 「それは彼の話を聞けば、わかるでしょう。そうだ、刑事さん、こ こに瑞恵さんも呼んで下さい」 西嶺は警官の一人に瑞恵を連れてこさせた。 「では、どうぞ」 僕が言うと、邦雄はしばらく瑞恵の顔を見つめていたが、やがて ぽつりぽつりと話し始めた。 「まず、最初に言っておくが、瑞恵は何もしちゃいないんだ。やっ たのはすべて俺だ」 「そんなことはおまえが決めることじゃない」 西嶺は邦雄の偉そうな態度に腹を立てた。 「まあ、待って下さい」 僕は西嶺を制しておいて、邦雄に言った。「奥さんが僕を騙した ことについては別に罪にならないから、安心して話すがいい」 「俺たちはアパートに引っ越してきてから一月、本当に幸せだった 。ところが、一週間前、会社に昔の女から電話がかかってきた。こ の女は牟田英子と言って、前につきあっていた女なんだが、瑞恵と 結婚する前にはっきりと別れを告げたはずだった。それにもかかわ らず、英子は俺とよりを戻したいと言ってきた。俺は断わった。そ うしたら、英子は急に感情的になって、瑞恵を殺してやると脅して きた。俺はその場は強引に電話を切ったが、その翌日、瑞恵が駅の ホームから突き落とされそうになり、さらにその翌日には車にはね られそうになったと聞いて、俺は英子と会う決心をした。それが今 夜だった。 俺は瑞恵が同窓会で出かけたのを見計らって英子を部屋へ呼んだ 。そして、俺と瑞恵に二度と付きまとわないように説得したんだ。 だが、英子は頑として納得しようとしない。そんな時だった。瑞恵 が同窓会から帰ってきたのは。俺はまさか日帰りで瑞恵が帰って来 るとは考えてもみなかった。嫉妬にかられていた英子は瑞恵を見る なり、あらかじめ用意していたのか、ハンドバッグから刃物を取り 出して、瑞恵に襲いかかったんだ。瑞恵は悲鳴を上げた。瑞恵の危 険を感じた俺はとっさにテーブルの花瓶で英子を殴りつけた。英子 はすぐ倒れて動かなくなった」 「そうか、僕が聞いたのは瑞恵と英子の声だったというわけだ」 「ああ。俺は二人の声を隣に聞かれたかもしれない、とっさにこの 計画を思い立った」 「違います」 瑞恵が口を挟んだ。「この計画を考えたのは私なんです」 「馬鹿!おまえは何もしちゃいない。俺がすべてやったんだ。−− 刑事さん、信じてくれ」 「それは後で詳しく聞く。とにかく話を続けろ」 「いや、駄目だ。すべて俺のやったことにしてくれなくては」 「あなた……」 瑞恵は涙を浮かべながら、邦雄に抱きついた。 「わかった。僕が約束する。この刑事さんもきっと守ってくれるよ 」 僕が刑事に目配せする。 「よ、よし、保証しよう」 「それでいい。俺は英子の死体を毛布にくるんで、ベランダに隠す と、すぐ夫婦喧嘩という大芝居を打った。言葉だけで瑞恵と大声で 喧嘩をしながら、俺は寝巻に着替え、英子の持ち物を隠した。その 間に瑞恵は物を投げたりしながら部屋を散らかし、あたりを大げさ に走り回った。 そんな時、予想通りあんたが来て、計画通り、赤いハイヒールの 話を聞かせて、ごまかそうとした。後はあんたの見た通りさ」 「しかし、なぜあの時、赤いハイヒールの話なんか僕にしたんだい 。ただの夫婦喧嘩で済ませれば、よかったのに」 「時間が欲しかったのさ。台所は英子のバッグや刃物が落ちていた からな」 「いや、僕は鈍感だから多分、そんなものがあっても不審には思わ なかったと思うよ」 「いいや、あんたはすばらしい名探偵だよ。この計画をどうやって 見破ったんだ」 「その場しのぎの計画にはどこか落度があるものだよ」 「どこに落度があったというんだ」 「靴下だよ」 「靴下−−しまった、俺としたことが」 邦雄は自分の落度に気づいて、悔しさのあまり、ほぞを噛んだ。 「そう、君は十時に寝たといったのに、僕の前に現れた時は、寝巻 こそ着ていたものの足にはちゃんと靴下を履いていた。その時、僕 は君が嘘をついていると思った」 「しかし、俺が嘘をついているからと言って、すぐ死体を隠してる とわかるはずがないじゃないか」 「そう、その通り。普通なら君が嘘をついているとすれば、奥さん の言うことが正しいと思うはずだ。これも君の計画だったんだね。 仮に自分がミスを犯しても、奥さんの話から浮気を隠してるぐらい にしか疑わない。つまり、死体を隠しているとは絶対疑われないわ けだ。ところが、君と同様、奥さんもミスを犯していたとしたらど うする」 「え!」 邦雄は眉を寄せた。 「僕は初めから奥さんを疑っていたんですよ。なぜなら、奥さんは 君を殺そうとまでしたほどの大喧嘩をしておきながら、僕が奥さん に赤は嫌いなのかと訊いた時、奥さんは血生臭いから嫌だと答えた 。もし、流血を嫌うのなら、そんな激しい喧嘩ができるわけがない 。しかも、僕の部屋で聞いた悲鳴は少なくとも女の悲鳴だった。そ うなるとあの喧嘩は何のために行われたか。そう考えれば、死体を 隠しているなんてことは、おのずとわかってきそうなものじゃない か」 「なぜすぐ、死体を運ぶとわかった」 「君は僕の自信ありげな態度に顔色が青くなっていたからね。すぐ 運ぶと思ったよ」 「さすがだ。俺の完敗だよ」 邦雄はがっくりと肩を落とした。 「助け船は出したつもりだったんだけど」 「いや、あんたが黙っててくれたとしても、いずれは警察にばれる さ。こんな欠陥だらけの計画じゃあな」 「これから逮捕される人間に、はげましの言葉なんて言えない。で も、奥さんのためにもくじけないで欲しい」 「わかってるよ」 邦雄はふりしぼるような声で言った。 「さあ、行こうか」 西嶺が邦雄の腕を引っ張る。 「あなた!」 瑞恵が泣き叫んだ。 「瑞恵、俺のことは忘れろ。離婚届は後で渡す」 邦雄は瑞恵に向き直って言った。 「いやよ、そんなの」 「おまえにはいつも明るい道を歩んで欲しいんだ。−−では、尾崎 さん、瑞恵のこと、お願いします」 「うむ」 邦雄は西嶺に連れられ、パトカーで乗った。そして、西嶺は窓か ら僕に軽く挨拶すると、パトカーを走らせた。 「あなた……」 瑞恵はその場にしゃがみこんだ。 僕は近くの刑事に声をかけた。 「彼女を署へ連れて行くの少し待ってやってくれないか。今の彼女 の気持ち、わかるだろう」 「わかりました。いいですよ」 その刑事は物わかりが良かった。 「ありがとう。君みたいな良心的な刑事がいれば、警察ももっとよ くなるのにね」 僕は軽く刑事の肩を叩いて、にぎわう駐車場を出た。 四 「ああ、疲れた」 僕は部屋に戻るとすぐ寝室へ行った。 「全くいい気なものだな」 僕はベッドですこやかに眠る智子を見ながら言った。 「うるさいなぁ……」 智子は寝返りをうって、ぶつぶつと寝言を言った。 「ほら、風邪ひくぞ」 僕ははみでた毛布を元のように智子の肩までかけてやった。 −−結婚って、結構いいものだな 僕は優しく微笑んで、静かに寝室を後にした。 終わり