南原光次郎シリーズ #3 卑怯者 登場人物 南原光次郎 探偵 清水伸行 大学生 水上早苗 探偵助手 一 鳥は、僕のことを卑怯者だといった。 それはそれで鳥の言うとおりだったが、鳥は低俗な異物であるが 故に、後日、羽をむしられ肉の塊として下水に流される運命となっ た。鳥には気の毒だが、人間に対し物を言うなど十年早いのだ。 鳥の愚弄ともとれるこの発言は、少なからず僕の心に影響を与え てしまった。というのも僕は数日前まで紳士だと思っていたからだ 。 意志は強く、正義感もある。気品もあるし、教養もある。無論、 礼儀だってわきまえている。まさに紳士という言葉にふさわしい人 間だった。 ところが、鳩などという名を持つ鳥のために僕の自尊心は傷つけ られてしまった。僕は生まれてから、ママにだって先生にだって叱 られたことがなかったというのに。 鳥にあのようなことを言われた日、僕の心は灰色一色だった。実 に屈辱だった。 だが、自分の机に納められた女性の下着を前にした時、鳥に言わ れた言葉を認めないわけには行かなかった。自分は卑怯者だった。 自分は紳士ではなく、紳士という仮面を被った欲望の塊だったのだ 。 この下着は紳士として恥ずべき行為で、入手したものだ。そこに はもう賞賛すべき言葉は存在しない。僕が二十一年も誇りにしてき た偉大なる理性が単なる飾りに過ぎなかったことに気づいたのは、 この時だ。 考えてみれば、人間の心の奥底なんて結局は欲望の塊なのだ。そ うだ、僕は運悪く欲望がおもてに現れただけで、言ってみれば、犠 牲者なのだ。社会が僕を欲望の塊に変えたのであって、僕自身はや はり紳士なのだ。しかも、僕が欲望の塊だということを世間の人間 はまだ知らない。僕がそれと知っている人間はすでに僕がこの手で 葬り去っているのだから。心配する必要はないのだ、ふふふ。 僕の名は清水伸行。僕のパパは一流企業の専務だ。毎日、帰りが 遅く、僕と話すことなど滅多にないが、会えばこづかいをくれる。 ママはある大学のフランス語の講師だ。ママは僕がほしいものは 何でも買ってくれるいい人だ。 そして、僕は一流大学の三年生だ。あらゆる技能を拾得した天才 だ。僕より優るものは僕しかいない。それは周知の事実だ。 今朝、僕は同じ大学の馬鹿な女をポルシェに同乗させて、海に行 った。 日本の海は汚く僕の肌にはあわないのだが、この低能な女を連れ て行くには十分な場所だった。 僕は高速道路でポルシェを運転している間、隣の女の話などまる で聞いていなかった。それは運転に集中していたからではない。 僕が気にしているのは十日も前から僕の後を尾けている男のこと だ。 あの男の車と僕のポルシェのスピードを比べたら、あんな男など 簡単に撒けるはずなのだが、どういうわけかあの男は僕のいるとこ ろにいつもいる。いやな存在だ。 僕はあの男のことを知っている。最初にあの男が僕の前に姿を現 した時、あの男は名刺を出して、名乗ったのだ。 −−南原光次郎 それが男の名だ。名刺を見ると、探偵と言うことらしい。僕は探 偵などといういやらしい商売は嫌いだ。だから、あの男の名前など 二度と言いたくなかった。 あの男の目的は僕の裏側を暴くことらしい。どこで調べたのか、 奴は僕が怪しいとにらんでいる。この世で僕しか知らないことを、 知っている人間がいる可能性があるのだ。 六日前、僕は何人か金で雇って、あの男にこれ以上、捜査をしな いように痛めつけたことがあるのだが、全く効果はなかった。 そして、四日前、あの男に金を払って、捜査を止めさせようとし たのだが、あの男はそれを断わった。いったい、何を考えているの か僕にはわからない。 いずれにしても、現時点ではあの男が捜査を諦めるのを気長に待 つしかなかった。 N海岸は今年一番の暑さだったちがいない。僕がそこへついた時 は、真っ青な空に太陽がまばゆいくらいに輝いていた。 気の遠くなるような暑さは、僕を不快にさせた。 僕は女一人を泳がせ、自分は砂地にさしたビーチパラソルの下で 、仰向けに寝ていた。 僕は肌を焼くのが嫌いだった。なぜなら、男どもが肌を焼くのは 決って女にもてたいからで、言い替えてみればそれだけ自分の体に 自信のない証拠なのだ。 「変態!」 あの女は僕にそう言っていた。男とは何度も寝ている女の癖に。 僕としたら、あれは一生の不覚だった。あんな馬鹿女が僕の前に いたせいで、僕は今、人生の窮地に立たされているのだ。 あの事件の夜は蒸し暑かった。人間の理性が狂ってもおかしくな い夜だった。 僕は珍しく道を歩いていた。全くたまに慣れないことをすると、 ろくなことがない。どうして歩いていたんだっけ?そうだ、車がガ ス欠で止まってしまったのだった。タクシーに乗ろうかとも思った が、その時に限って全く通らない。また、タクシーが来るのを待っ ているほどお人好しでもなく、歩くという選択をするのにさして時 間はかからなかった。 ちょうど神社へ通ずる並木道をふらっと歩いている時だった。な ぜ、そんな道を歩いていたか覚えちゃいない。とにかく、道のまん 中に女が倒れていたのだ。落葉の流れからして、ここまで体を引き ずってきたように見える。 女は荒い息をしていた。服装は乱れ、所々破れていた。 −−レイプ? そのくらいは簡単に察しがついた。 僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。この時、二通りの選択 に迷っていた。一つはこのまま女を見捨てて逃げるか、もう一つは 女を犯すか この場合、助けるという選択があること自体、馬鹿げている。 まだ女は僕に気づかないようだった。 僕はゆっくり女に歩み寄った。女も僕に気づいたらしい。女はか すれた声だが、強い口調で言った。 「変態……」 次の瞬間、僕は自分でなくなっていた。別にこの女の言葉に怒り を覚えたわけでもなかった。この女はただ自分をレイプ魔と勘違い しているだけなのだ。 僕は自分の選択を意志ではなく、本能で行っていた。女の体を狼 が獲物にありつくようにむさぼった。そして、気が付いたときには 女の首をネクタイで絞めていた。この時はさすがに僕らしいと思っ た。 その後、僕は自分の持ち物を確認して、証拠を残さないようにし 、並木道を抜けた。 考えてみれば、目撃者でもいない限りわかるはずのない犯罪なの に、あの探偵はどうして知っているのだろうか。警察からは全く事 情徴収を受けていないというのに。 まあいい。証拠がなければ、探偵も諦めるさ。 「ねえ、泳がないの」 女が不似合いな水着を着て、僕の前に立っていた。−−ルックス とスタイルだけで、頭がからっぽと言うのも考えものだな。 「おまえ、一人で泳いでろ。俺は帰る」 僕は女に数十万ほど与えると、バッグを持ってポルシェに戻った 。 ポルシェのドアを開け、車内に乗り込もうとした時、十メートル ほど先にいる女が僕を見ているのに気づいた。二二、三のOL風だ 。顔立ちは都会で氾濫しているありがち美人で、たいして珍しくは ない。 女は僕が見ているとわかると、つかつかと僕のもとに歩み寄って きた。 「何か用か」 僕は尋ねた。 「ちょっと時間をいただけるかしら」 女は事務的な口調で言った。 「誰なんだい、あんたは?」 「失礼しました。私、水上早苗と言います」 女は名刺を僕に差し出した。 僕は受け取って、その名刺を見た。 「南原探偵事務所……ほお、あんた、あの探偵の部下か」 「まあ、そんなところです」 「今日はあの探偵はどうしたんだい?」 「先生は風邪を引いたので、私が代理で来たんです」 「風邪ね……まあ、いいさ。話ぐらいなら伺おう。助手席に乗んな 」 「いいえ、ここで結構です」 「乗らなきゃ話さないぜ」 僕が言うと、早苗は少々戸惑った表情を見せた。 案外、身持ちが堅いんだな。 「わかりました。乗ります」 早苗はそう言って、ポルシェの助手席に乗った。続いて、僕も運 転席に乗る。 僕はポルシェを発車させた。 「話ならさっさとしろよ」 五分ほどして、早苗に言った。早苗は落ち着かない様子で、手帳 をぱらぱらめくると、質問を始めた。 「二週間ほど前ですけど、S神社の並木道でレイプ殺人があったの をご存じですか」 「知らないね。確かおたくの先生にもそう答えたはずだが」 「本当ですか?」 「なぜ俺を疑う?」 「私は疑ってなんかいません。ただあなたの家の近くで起こった事 件を知らないなんて不自然だなと思って」 「俺は自分のことしか考えていないんでね。火事が起きようと殺人 が起きようと、全く無関心さ」 「では、事件の日、つまり今月三日の午前二時から四時までどこに いましたか」 「そんなこと、覚えてないね。多分、家で寝てたんじゃないの」 「事件の日、この車をガス欠で道路に止めていますよね。目撃者が います」 「ああ、否定はしないよ。それがどうした?」 「あなたはどうやって家に帰りましたか」 「歩いて帰ったよ」 「自宅に帰ったのは何時ごろ?」 「さあ」 「目撃者の証言からすると、このポルシェを見たと言うのが、午前 二時三十五分だといってます」 「それで」 「つまり、あなたが車を降りてそのまま帰宅したとすると、少なく とも事件が起こった時間帯に現場を通った可能性があるわけです」 「ちょっと待ってくれ。俺は事件を知らないんだ。説明してくれな いか」 「わかりました。事件が起きたのは八月三日。午前五時、S神社か ら三十メートル先の並木道の中央で女の人が倒れているのを、同神 社の住職が発見し、警察に通報。女の人の名は神崎美穂、二十三才 、OL。死後二、三時間経過。服装が乱れ、あちこちにかすり傷が あり、首に紐のようなもので絞めた痕があったため、強姦殺人と断 定。翌日、近所のアパートに住む日野淳也という無職の男を逮捕」 「何だ、犯人は逮捕されているんじゃないか」 「強姦は認めてます。しかし、殺してはいないと言っているんです 」 「どうせ嘘をついているんだろう」 「ところがそうでもないんです。並木の裏から死体のあった道の中 央に引きずったような跡があるんです。しかも、その跡は人為的に 引きずられたものではなく、被害者が履って、そこまで行ったこと がわかりました。つまり、日野に強姦された後も生きていたことに なります。もし、日野が殺したんなら、彼女がそこまで行けるはず ありませんもの」 「で、どうして俺が疑われなければならないんだ」 「車の目撃があったからですよ。この近辺でポルシェに乗っている のはあなただけですから」 「しかし、俺が並木道を通ったという証拠はどこにあるんだ。意図 的でもない限り、普通はあの道を通らないぞ」 「証拠はありません。でも、先生は疑ってます」 「ふざけるな!」 僕はポルシェを道路の脇に急停車させた。「これ以上、俺につき まとうとただではおかんぞ」 「どうするんですか?」 早苗は強い口調で言った。 「こうするんだ」 僕は思わず冷静さを失って、早苗を抱きしめ、無理矢理、唇を奪 った。このままいけば、恐らく早苗を犯したであろう。 だが、次の瞬間、僕はハッとした。早苗の目が笑っていたのだ。 僕は慌てて早苗を突き放した。まんまと彼女の罠にはまった。 「す、済まなかった……」 僕は愕然とした面もちで、彼女に頭を下げた。 「私、これから警察へ行こうと思うんだけど、あなたも自首してく ださる?」 と早苗はすました顔で言った。 「畜生!」 警察署を出るなり、僕は言葉を吐き捨てた。実に屈辱的で、今度 ばかりは僕の理性でもこの怒りを鎮めることはできなかった。 僕は早苗という女のせいで、一週間も牢獄にぶちこまれた。罪状 は強制わいせつと言うことだった。高々、キスをしただけなのに何 が強制わいせつだ。下手をすれば、僕は書類送検されるところだっ た。しかし、今日になって早苗が告訴を取り下げたので、僕は釈放 されることとなった。 「伸行さん」 署の前で待っていたママが血相を変えて、僕に抱きついてきた。 「心配したのよ。あなたが女の人にいたずらしたなんて嘘よね」 「決まってるだろ。俺にふられた女が嫉妬して、罠をかけたんだ」 「まあ、なんと恐ろしいこと。いったい誰なの?訴えてやるわ」 「いいよ。現に女だって、告訴を取り下げたんだ。それにしても、 いい迷惑だよ」 「伸行さん、だからその辺の女に手を出しちゃ駄目って言ったでし ょう。伸行さんにはちゃんとママが立派な女性を見つけてあげます 」 「ああ、わかった。じゃあ、俺は行くところがあるから」 「一緒に帰らないの?車を待たせてあるのよ」 「歩きたい気分なんだよ」 僕はママの顔色を窺うことなく、さっさとその場を離れた。 全くおせっかいなババアだ。本当は俺のことよりも自分の名誉に 傷がつくことを恐れているんだ。それは自宅で待ちかまえているパ パにしても同じことだ。 僕は人混みの街中を歩きながら、ずっと思索にふけっていた。 あの女探偵、俺を試したんだ。俺に女を襲う可能性があるかどう かを。だから、あんな挑発的な態度に出たんだ。全く俺としたこと が、とんだ不始末をしでかしたものだ。こうして歩いている間にも 、探偵は俺の後を尾けている。 しかし、奇妙だ。あの事件の晩、仮に俺がポルシェを道路に乗り 捨てたとして、どうして犯人と結び付けることができようか。第一 、警察からの尋問は一度も受けていないのだ。きっとあの探偵、俺 を犯人と断定する切札を持っているに違いない。ただ今のところ、 それが確実な証拠となっていないのだ。こうなった以上、いつまで もじっとしているわけにはいかないぞ。日本にいては危険だ。外国 に逃げるんだ。奴とて所詮、雇われの身。俺が長期間、日本にいな いとなれば、自動的に調査を打ち切るだろう。よしそうしよう。 僕は早速、タクシーを拾うと、自宅へ向かった。 自宅に着くと、僕は真っ先に二階の自分の部屋へ行き、旅券を捜 した。僕は三月に一度は海外へ旅行に行くから、パスポートの手続 きに手間取る心配もない。行こうと思えば、今日にでも日本を出る ことが可能なのだ。 「ない……おかしいな」 僕は机の引出しをあさった。しかし、旅券はなかった。 確か引出しにしまっておいたはずだ。 一応、僕はファイルケースや棚の引出しを調べてみた。それでも 、見あたらない。 ついには片っ端から本を開いてみたが、どこにもなかった。 「伸行!」 下の階からパパの呼ぶ声がした。かなり怒気を帯びた声だ。どう せわいせつ事件の不始末で僕を叱るつもりなのだろう。 自分の名誉に関わることでもない限り、昼間の時間に父親が帰宅 するなどありえないのだ。 「伸行!」 さらに大きな声が聞こえてきた。相当、苛立っているらしい。普 段、親らしいことを何一つしていないくせにこういう時にやたらに 威張りやがる。やれやれ、降りていってやるか。どうせ一時間も小 言を聞いていれば済むことだ。 僕は部屋を散らかしたまま、下へ降りて行った。 洋間にはパパが苦虫をかみつぶしたような顔で、椅子に座ってい る。 「何か?」 僕は控え目に言った。 「そこへ座れ」 パパは低い声で言った。 僕はパパと向い合わせになるように椅子に座った。 パパは一度大きく溜息をつくと、 「どうしてここへ呼ばれたかわかっているな」 と言った。 「ごめんなさい。パパには迷惑をかけたと思っています」 僕は肩をがっくりと落し、頭を下げた。 「パパは今度のことでおまえに失望したよ。自分のしたことに対し て責任を持つ人間に育てたつもりだったが、どうやら育て方を間違 えたようだ」 パパは寂しい表情で言った。いつのまにかパパの顔から怒りが消 えていた。僕は一瞬、自分が永久に見放されていたような孤独感を 覚えた。 これはいったいどういうことなんだ。 「パパ、僕は騙されたんだ。女の人をかどわかしたなんて誤解だ。 向こうも合意の上だったんだよ」 僕は精いっぱいの言い訳をした。 「伸行、おまえ、そんなことを言って本当に自分の胸が痛まないの か」 パパは僕をじっと見つめた。それは僕の心をすべて見透かしたよ うな目だった。 「いったいどういうこと……」 僕が全てを言い終わらないうちに、パパはテーブルの上に旅券を 置いた。 「おまえは二階でこれを捜していたんだろう」 「え?」 「逃げられるものじゃないよ」 パパがそう言った時、洋間に誰かが入ってきた。 「君は……」 僕は思わず声をあげた。 「また会いましたわね。伸行さん」 早苗は静かに言った。 「どういうことなんだ、いったい」 僕は状況が理解できなかった。 「もう終わったんだよ、伸行。おまえは八月三日の夜、神崎美穂と いう娘を殺したね」 「な、何を言ってるんだよ。僕は知らないよ、何なの、その事件は ?」 「これをどう説明する?」 パパは紙袋から一枚の下着を取り出した。 「あ、ああ!」 僕は何か言おうにも言葉にならなかった。 「おまえの部屋の引出しに入っていたものだ」 「な、何でだよ、何で俺の部屋を?おかしいじゃないか」 「まだわからないのか。探偵を雇ったのは私なんだよ」 「な、なぜ?」 「あの事件の晩、伸行は遅く帰ってきたよな。その時は大して気に しなかったが、翌朝、ニュースで事件を知って、気になり、玄関で 伸行の靴を調べたんだ。そうしたら、靴には土がついているじゃな いか。年中、車を利用しているおまえが靴に土をつけているのはお かしいと思い、探偵を雇って、素行調査をしたんだ」 「それで探偵がいつも俺を尾行していたのか」 「おまえは私の心配をよそに、全く疑わしいそぶりを見せなかった 。その時、私はどんなに嬉しかったか。だが、依然として伸行の無 実を信じられなかった私は、水上さんに頼んで芝居を打ってもらっ たんだよ。そして、もし彼女の挑発に伸行が乗ったら、思い切って 伸行の部屋を捜索しようという手はずだった。案の定、おまえは彼 女の挑発に乗り、こういう結果となったわけだ」 パパは眼鏡を外すと、ハンカチで目にたまった涙を拭いた。 「畜生!俺のことを裏切りやがって!それでも親かよ」 僕は我を忘れて喚き散らした。 「私は最後まで信じたかったんだ」 「うるせえ!黙ってりゃあ、わからなかったんだ。俺が捕まれば、 おたくは会社をクビになるんだぜ」 僕はパパの胸ぐらを掴んだ。 「それでも、私は伸行に罪を償ってもらいたいんだ」 「パパ……」 僕は手を放した。 「自首してくれるね」 パパは優しい声で僕に言った。僕は生まれて初めて本当の父親の 姿を見たような気がした。 だが、僕は警察に捕まるわけにはいかないんだ。僕の写真が新聞 に「婦女暴行殺人犯」などと書かれて掲載されてみろ、僕の人生は 終わりじゃないか。この誇り高き僕が、そんな恥辱を受けられるか !!! 僕は洋間を出て、階段を駆け上がった。 「伸行!!」 パパの声が後ろから聞こえた。だが、もう誰も僕を止められない 。僕は自分の人生の最後を最高に飾ってやる。誰にも邪魔されてた まるか。 僕は2階の自分の部屋に入ると、内側から鍵をかけた。 そして、僕は机のひきだしに隠していたシンナーの瓶を持ち出す と、頭から自分の体にシンナーを思いっきりふりかけた。 死んでしまえば、もう何も恐れることはない。 「伸行、開けるんだ」 パパの声と共にがちゃがちゃとドアのノブを激しく回す音がする 。 「もう遅いんだよ」 僕はライターをポケットから取り出した。 これで火をつければ、一瞬で僕の人生は終わりだ。思えば、あっ けない人生だったが、下賤どもに恥辱を受けるよりましだ。 僕はライターの火を付けた。 「伸行、伸行!!」 「伸行さん!!」 ドアの向こうから声がする。ふふふ、あのドアを開けた時、僕が 燃えているのを見たら、パパはどんな顔をするだろう。いや、それ よりも女探偵の方が気になるな。死ぬ前にそれだけは見てやろう。 僕は左の袖にライターの火を近づけた。 本当にこれで最後だ。 僕は息を飲んだ。生涯で、最も厳しい決断だった。意思に反して 、僕のライターを持つ右手は震えていた。 なにを恐れてる。恐れることなんかないじゃないか。今こそ、愚 かな鳥が言った「卑怯者」という言葉を撤回させるいいチャンスじ ゃないか。僕は誇り高き人間なんだ。卑怯者じゃない。 僕の強い意思にも関わらず、右手は震えたまま、服に火を近づけ ることを拒んでいた。 「早くやったらどうだ」 ドアの向こう側ではなく、窓の方から声がした。 見ると窓の外にいつのまにか、あの南原という探偵がいた。 「貴様……」 僕は南原を睨み付けた。 「俺が見ててやる、早く火を付けてみろ」 南原は窓を開けて、部屋の中に入ってきた。 「来るな!!」 僕は叫んだ。 「邪魔するつもりはない。おたくも安心して自殺するがいい」 南原は平然とした顔で言った。 「ふん、わかってるさ」 僕はもう一度、ライターの火を付けた。 だが、またしても僕の右手は震え、自分の服に火を付けようとす ると、今度はライターを落としてしまった。 「どうした、怖じ気づいているんじゃないのか」 南原はにやにやと笑って言った。 「うるさい!!右手が震えて、うまくいかないだけだ」 「だったら、俺が手伝ってやる」 南原はポケットからライターを取り出し、ぼっと火を付けた。 「うっ……」 僕は顔から血の気が引くのを感じた。 南原はゆっくりと僕の方へ歩いてくる。 死ぬ……違う、このままだと俺は殺されるんだ。俺は死ぬんじゃ ない。 僕の頭は混乱した。 「さあ、これで終わりだ」 南原が僕の目前まで近づいてくる。 「や、やめろ……」 僕は恐怖のあまり、呟いた。 「どうした、死にたいんだろう」 「や、やめてくれ……」 僕は壁際まであとずさった。 「火を付ければ、一瞬さ」 南原は囁くような小声で言った。 僕は怖かった。こいつは正常じゃない。こんな奴に殺されるなん て嫌だ。 「やめろぉ、やめてくれぇぇぇ!!」 僕はその場にしゃがみ込んで、心の底から懸命に叫んだ。 「お願いだ……」 僕はうなだれて、しばらくうわごとのように何かを呟いていた。 いつしか僕の目は涙で溢れていた。 「伸行……」 誰かが僕の肩に手を乗せた。 僕が顔を上げると、そこにはパパの顔があった。 「パパ……」 僕は急に堪え切れなくなって、パパの胸に飛び込んだ。 僕の心は童心に返っていた。この後、警察に逮捕されることは分 かっていた。しかし、この時の僕はパパの胸の温かみを感じること 、ただそれだけしか頭になかった。 終わり