南原光次郎シリーズ5 誘拐者 その4 20.面会(2) ドアの横のプレートに武井悦子の名前があるのを確認して、南原 は602号室のドアをノックして入った。602号の病室は個室で 、南原が入ったときには、悦子はベッドで体を起こして本を読んで いた。 「あら、おじさん」 悦子は怪我を感じさせないほどの笑顔で、南原に挨拶した。 「元気そうだな」 「せっかく探偵になれたのに、この怪我なんて様になんないわ」 「学校さぼれるから、いいじゃないか」 南原は近くの椅子に座って言った。 「ああ、ひどぉい。私、そんな不真面目じゃありません」 「冗談さ。それより那美おばちゃんがお見舞いを持ってきてくれた ぞ」 「失礼ね、私、まだおばさんなんて言われる年じゃありません!」 那美は南原をにらんだ。 「お見舞い、何を持ってきてくれたの?」 悦子が訊いた。 「え、まあ果物とかだとありきたりなんで、マンガを持ってきたわ 」 那美はセカンドバッグから五冊ほどの少女漫画雑誌を取り出し、 サイドテーブルに置いた。 「ありがとう。私、寝てるばっかりで、ほとほと退屈してたの。本 当にありがとう、那美さん」 「あ……気にしないで」 正面きって、礼を言われると那美も返す言葉に困ってしまう。 「ところで君を襲った奴のことについて、聞きたいんだが、どんな 奴だった?」 病室の明るいムードをぶち壊すように、南原が悦子に質問を始め た。 「男でした。大学生風の」 「君の知らない人だね」 「ええ。多分、通り魔か何かだと思います」 「そうか。すると君は相手の顔をはっきり見てるわけだ」 「いえ、自転車で走ってきて、通りすがりにいきなり切られたんで す」 「ふうん、事件とは無関係みたいだな」 「ちょっと先生、そんな質問は新聞を見ればわかるじゃないですか 。何もここで聞かなくたっていいでしょう」 那美が悦子を気遣って、南原に文句を言った。 「ただ、ついでに聞いてみただけだ。那美、これからは本題なんで 、部屋を出ててくれないか」 「なぜです?」 那美は不満げな顔をした。「先生はいつも一人で動いて、全然社 員を信用していません。どうしてなんですか」 「信用はしてるさ」 「だったら、この四日間、どこへ行ってたんですか。私、本当に心 配してたんだから」 「連絡しないのは悪いと思ってる。だが、もう過ぎたことだろう」 「じゃあ、何を調べに行ってたんですか」 「それは言えん」 「もう、そればっかり。いつも自分だけが知ってて、社員には何も 教えてくれない。先生は私を何だと思ってるんです。もう、やって られないわ」 那美は癇癪を起こして、病室を出て行った。 病室がなんとなく暗いムードになった。 「あいつは短気だから。喧嘩なんか見せちまって、悪かったな」 「きっと那美さんて自分に正直なんですね。那美さん、おじさんの こと、好きなんじゃないの」 「まさか」 「だってあれだけ怒ったって、探偵をやめないでしょ。きっとおじ さんに自分のことを信じてもらいたいのよ」 「どうかねぇ、女心は俺にはわかんねぇな。さて、この間の話を始 めようか」 「この間の話?」 「武井を妨害なくプロ入りさせる話さ」 「ああ、あれかぁ。本当に引き受けてくれるの?」 「もちろん、無条件でね」 「どうして?」 「何が?」 「だって探偵なら依頼料とるでしょ」 「依頼料は君の兄さんからいただくよ」 「どうやって?」 「企業秘密」 「ずるいな、でも、おじさんに任せるよ」 「素直でいいな。それと−−」 南原はポケットから青い水晶のペンダントを取り出した。「こい つについて聞きたいんだ」 「なに、これ?」 「水晶の中をのぞいてみな」 悦子はペンダントを受け取って、水晶の奥をのぞき込んだ。 「ハートマークの半分があるわ」 「そう、これは愛のペンダントだ。二つで一つなんだ」 「へえ、水晶の中にハートマークがあるなんて、洒落てるわね」 「こいつの片われを君の兄さんが持っているかどうか調べてほしい 」 「このペンダントは誰のなの?」 「水晶にイニシャルが彫られてるはずさ」 南原に言われ、もう一度、那美がペンダントを見ると、もう色は かすれてしまっているが、彫られたあとは残っている。 「H・T……もしかして、お兄ちゃん?」 「片われには多分、女の名前が書いてある」 「じゃあ、もしお兄ちゃんがそのペンダントを持っていた場合、ど うなるの?」 「君の兄さんの恋人の名がわかる」 「お兄ちゃんの恋人って……瑞穂さんじゃないの?」 「それを確かめてほしい」 「……わかった、確かめればいいわけね」 「疑わないのか。俺は君の兄さんを逮捕しようとしてるのかも知れ ないんだぜ」 「それだったらとっくに逮捕してるんじゃない。私はおじさんを信 じてるもん」 「期待してるぞ。まあ、退院したらで、いいさ」 「そうはいかないわ。私、明後日までにやってみる」 「おい、あせらなくたって」 「お兄ちゃんは今、私が入院してると思って、警戒してないと思う から、チャンスじゃない」 「そうか、じゃあ、頼む。実際のところ、後一日しか猶予がなかっ たんだ」 「一日って?」 「何でもない。さて、用件は済ませたし帰るか」 南原は椅子から腰を上げた。 「おじさん、確かめた後はどうすればいい?」 「事務所に電話をくれ」 南原は名刺を悦子に渡した。 「おじさん、一つ聞かせて」 南原は部屋を出ようとドアに手をかけた時、悦子が声をかけた。 「何だ?」 「お兄ちゃんは人殺しなんてやってないよね」 「人を殺してたら、君に協力はしないよ」 「ありがとう」 悦子は安心した様子で言った。 「ふふふ」 南原は微笑んで、病室を出た。 「南原さぁーん!」 廊下に出た途端、大きな声が南原の耳に入ってきた。見ると刑事 が血相を変えて、こちらに走ってくる。だが、すぐに看護婦と衝突 して、お互いに廊下にひっくり返ってしまった。 21 推測 「南原さん、どこへ行ってたんだよ。ずっと捜してたんだぞ」 刑事は顔の汗をハンカチで拭き取りながら、言った。 ここはもう病院の廊下ではなく、病院近くの喫茶店である。 「ちょっと旅行さ。それで、話ってのは何だ?」 南原は紅茶を口にしてから、言った。 「尾崎君から聞いたんだが、誘拐事件を降りたそうじゃないか」 「まあ、あんたの依頼は断わらせてもらったよ。もともと引き受け るとも言ってなかったしな」 「そりゃないよ、南原さん。事件が難航して困ってるんだから」 「そんなこと言われてもな。うちの事務所も貧乏だから。金になら ない仕事を引き受ける余裕がないんだ」 「そう言わないで」 刑事がテーブルに手をついて、頭を下げた。 「しかしなぁ……」 南原は腕を組んで考え込んだ。 「取り合えず、どこまで調べたか話してみろよ。それによってはい い情報を提供できるかも知れないぜ」 「本当かね」 刑事は喜んだ。 「武井の恋人が真島瑞穂だってことは前に教えただろう。あれから 少しは収穫はあったか」 刑事は当然のことながら、瑞穂がすでに白骨死体となっているこ となど知る由もない。 「ああ、彼女のことは一応、調べたんだが、課長の奴が真島瑞穂を 逆と判断したんだ」 「逆とは?」 「つまり真島瑞穂が被害者だってことだ」 刑事の言葉に、南原はなかなか課長はいい判断をしているなと思 った。 「被害者か。確かに真島瑞穂は武井に捨てられたという点では被害 者だが、誘拐事件に関しては彼女が武井に罠をかけたという可能性 が強いんじゃないのか」 「そうなんだ。しかも、真島瑞穂は事件前日まで一週間ほど三重県 D町の『木立』という古い旅館に止まっていたが、突然、荷物を置 いたまま姿を消している」 「ほお、そこまで突き止めたか。すると、瑞穂が妊娠していたこと も知っているのか」 「妊娠?さあ、そこまでは知らんな。彼女は妊娠してたのかね」 刑事の言葉に南原は眉を寄せた。 「産婦人科は手当り次第当たってみたか。同じ三重県の『栗田産婦 人科だ』。一週間ほど入院して、男の子を生んでいる」 「どうしてそこまで?」 「それで、彼女の行方はつかめたのか」 「まだだ。近く行方不明者として写真を公表することにした」 「ずいぶんな意気込みだな。おたくの課長さんは誰を犯人だと思っ てるんだ」 「これは捜査上の秘密なんだが−−」 刑事が声を低くして話しだす。「実は武井兄妹を疑っているんだ 」 「二人をか?なぜ?」 「課長は武井が狂言誘拐を仕組んだと推理している。その根拠は以 前、南原さんが教えてくれた、あの写真の食い違いさ。だが、もし 武井が狂言誘拐を企んだとするとその目的は何か。それは何かを隠 すためだ。課長はそこで次のように考えた。ひょっとしたら武井は 真島瑞穂に脅されていたのではないか、と。ドラフトを目の前にし ている武井としては何とかスキャンダルを避けたい。そこで、誘拐 事件をでっち上げ、その間に脅迫者の真島瑞穂を殺した。そして、 さらに武井と瑞穂との関係を知っていた親友の岩田を妹の悦子に殺 させた」 「なかなか面白いな。すると、赤いブラウスの女と言うのは武井悦 子ってわけか」 「そういうことになりますな」 「その推理を立証する証拠はあるのか」 「それがあるくらいなら、南原さんに頼みになんかきませんよ。大 体、課長の推理は小説の読みすぎみたいなところがありましてね、 根拠なんてまるでないんだから」 「だが、課長がそう推理してる以上、それを裏付けるのがあんたら の仕事だろう」 「南原さんはこの推理が正しいと思ってるんですか」 「そうはいってないさ。武井には瑞穂との関係を聞いてみたのか」 「ええ。六カ月前までつきあっていたことは認めましたよ。ただ今 の彼女の行方を訊くと、どうも歯切れの悪い返答ですな」 「妊娠の事実にしても、瑞恵の子供が本当に武井の子供かどうか怪 しいものがありそうだぜ」 「といいますと?」 「産婦人科から瑞穂のカルテが盗まれているんだ。それもちょうど 瑞穂が退院した日にな」 「なるほど」 「それから、武井悦子が襲われた件だが、犯人は捕まったのか」 「一応、調査をしてるが、課長はどちらかというと悦子は自分で腕 を切って襲われたふりをしたんだと推理してる」 「ばかばかしい。彼女の腕の切口を調べてみたのか。さっき、医者 のカルテを見せてもらったんだが、あの傷は前から後ろへ向けて切 った傷だ。彼女の傷の深さからして、後ろから前への傷ならともか く、前から後ろへの傷であれほど深い傷を自分でつけることは不可 能だ」 「南原さんの言うとおりだ。俺も課長に言ってみるよ。それにした って、南原さん、事件の調査をやめたといいながら、結構調べてる じゃないか」 「俺はあんたの依頼を断わったといっただけだぜ」 「じゃあ、別の人から依頼があったんですか。いやぁ、よかった」 「さて、用件はもう済んだな。俺も忙しいし、帰るぞ」 南原はテーブルの上のレシートを確認しながら、言った。 「あ、待ってくれ。まだ、聞きたいことがあるんだ」 「何だよ」 「村上陽子を預かっているそうだね」 「ああ、それがどうかしたか」 「陽子の両親が南原という男にかどわかされたと警察に訴えてきた 」 「それで?」 「事実なのか?」 「かどわかしたわけじゃない。親父さんが出ていけというから、仕 方なく出ていったんだぜ」 「どうしてそんなことに?」 「俺が彼女にキスしたからさ」 「え、あ、ど、どう……」 刑事は頭がこんがらがって、舌が回らなくなった。 「とにかく陽子に会いたいんなら、会わせてやるよ」 そういって、手帳になにやら書き込むとそのページを破って、刑 事に渡した。 「早苗の家にいるから、話があるなら、そこへ行ってくれ。じゃあ な」 南原は席を立つと、レシートを手にして、店の入口へ歩いて行っ た。 22 冒険 武井秀樹が自宅のドアを開け、外へ出た。 そして、武井は肩に掛けていたスポーツバッグを足元に置くと、 ポケットからホルダーのついた鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込 んで、右にひねった。武井は鍵を鍵穴から抜いた後、意味もなく一 、二度左右を見回して、鍵をポケットに突っ込んだ。そして、スポ ーツバッグを再び肩に掛け、ちょっと薄曇りの空模様などを気にし ながら、路上を歩き出した。 武井悦子は自宅から二〇メートルほど離れた電柱の陰に身を潜め て、武井の様子を伺っていた。悦子は寝巻き姿だった。右手にはま だ包帯が厚く巻かれている。 悦子は武井の姿が路上から見えなくなるのを確認すると、周囲を 見回して、急いで自宅のドアの前まで走った。まだ腕はズキズキと 痛むが、悦子としても南原との約束の手前、急がなければならなか った。 両親は兄より早く家を出るので、当然、今、家には誰もいない。 悦子はポシェットから自分用の鍵を取り出すと、ドアの鍵を開け た。 悦子は静かにドアを開け、家の中へ入った。何となく玄関に懐か しさを覚えた。きっと入院してたせいだろう。 悦子は靴を抜いで、上がった。 病院からこの家まで誰にも怪しまれずに来れたのはまさに奇跡だ った、と悦子は思った。都会の人と言うのは他人がどんな格好をし てても意外に気にしないのだと改めて実感した。 悦子は二階へ上がった。そして、真っ先に武井の部屋に入った。 −−目的は水晶のペンダント、水晶のペンダントよ、…… 悦子は自分が捜すべきものを心の中で確認した。 悦子は部屋を散らかさないように慎重に探索した。兄や両親が帰 ってくるまでにはたっぷり時間があるけれど、病院にはなるべく早 く戻らないと、両親に連絡される恐れがある。 机から棚、ベッドの下まですみずみ捜したが、依然としてペンダ ントは見つからなかった。悦子の焦りはますます募るばかりだ。実 際、やけになった机や棚の引出しをひっくり返したい気分だった。 二十分が過ぎた。まだ見つからない。部屋の床は棚や机から取り 出したもので足の踏み場もないほどになっていた。 「もうどこにあるのよ!」 思わず悦子は泣き言を吐いた。 悦子はベッドに横になった。黙っていると、外の音が微かに聞こ えてくる。車の音、工事現場の音、子供の声……。悦子はふっと目 的を忘れ、枕の柔らかさを頬で感じていた。 −−このままでいたら、気持ちいいだろうなぁ −−何だか眠くなって……… −−!!!!!! 悦子がウトウトとしていた時、意識の電撃が悦子の脳に走った。 「いけない!寝ちゃった」 悦子は飛び起きた。ベッドの下の目覚し時計を見ると、あれから 十五分ほどたっている。 「急がなきゃ。でも、どこ捜したら……」 その時、ふと天井が目に留まった。 「そうだわ」 悦子は布団をベッドから床に下ろして、椅子を持ち上げて、ベッ ドの上に乗せた。そして、自分が椅子の上に乗って、天井まで手を 届かせた。 悦子は天井を触りながら、蓋がある場所を捜した。悦子の部屋に も同じように天井に小蓋があるので、おおよそ場所の見当はつく。 「あった」 悦子が手で触れた部分の天井を押すと、正方形の蓋が内側に開い た。天井には人一人が入れるほどの小さな空洞ができた。悦子は何 とか左腕の力だけで、天井裏にはい上がった。 天井裏は物置になっていて、悦子の部屋ともつながっている。 悦子は手についたほこりを払って、ペンダントを捜し始めた。 ちょっとさわるだけで手につくほこりや蜘蛛の巣に目をしかめな がら、悦子は懸命に捜していた。 そして、ついに箱に入っていた野球のグラブの中に青い水晶のペ ンダントを発見した。 悦子は水晶の中をのぞき込んだ。 「M・M……真島瑞穂ね」 悦子はペンダントを左手で握りしめ、天井裏から武井の部屋のベ ッドに飛び降りた。 「さて、後は片付けだけね」 悦子はペンダントを見つけ、ほっと一息ついた時だった。−−ド アが大きく開いた。 「お兄ちゃん……」 悦子の顔から血の気が引いた。 「何してるんだ、ここで」 武井は唖然とした様子で言った。 「どうしてここへ……」 「忘れ物を思い出して、途中で戻ってきたんだ」 そう言った時、武井は悦子が握っていたペンダントに目を止めた 。 「悦子、おまえ……」 武井が一歩足を踏み出した。 悦子は慌ててペンダントを手にした左手を後ろに回す。 「返すんだ」 武井の顔が険しくなった。 「待ってよ。これはお兄ちゃんのためなのよ」 「俺のため?」 「そうよ。お兄ちゃんを守るためにはどうしてもペンダントが必要 なの」 「どういう意味だ!さては南原に何か言い含められたな」 武井が悦子に歩み寄った。 「違うわ。南原さんはお兄ちゃんの味方よ」 「馬鹿な。とにかく返せ」 武井がペンダントを奪い取ろうと悦子につかみかかった。 「きゃあ、放して」 悦子はそばにあった野球ボールを武井に向かって投げつけた。 「うわあ」 ボールは武井の顔に当たり、武井は顔を覆った。 悦子は思い切って、その隙をついて部屋を飛び出した。 「待て!」 武井もすぐ立ち直って、部屋を出る。 悦子は右腕の痛みもかえりみず、階段をなだれ込むように降りる と、靴も満足に履けないまま、家を出た。 そして、がむしゃらに路上を走った。 だが、悦子を追う武井は野球部員だけあってスピードが早く、二 十メートルも走らないうちに悦子の肩に手がかかるくらいまで追い ついた。 「待つんだ!」 「お願い、やめてぇ!」 武井の右手が悦子の右肩をとらえた時、悦子は十字路に差し掛か っていた。わき道から一台の黒い乗用車が待ちかまえていたかのよ うに悦子に襲いかかった。次の瞬間、武井の振り上げた右腕は空を 斬った。鋭い風が武井の目の前を通り過ぎていった。 武井は足がもつれて路上に倒れた。自分でもなぜ倒れたのかわか らなかった。 辺りは静かだった。ただ工事現場の音が聞こえるだけ。何が変わ ったわけでもなかった、路上に頭から血を流した悦子が倒れている 以外は。 「おい、悦子……」 武井が言葉にできたのはこれだけだった。 悦子は目を見開いて、人形のように意味もなく口を開いていた。彼 女に生命は感じられなかった。 武井は腰を浮かして、後ずさった。足がすくんで、立つことがで きなかった。 武井は悦子を見ないように路上を見た。そして、ペンダントを捜 した。 だが、ペンダントはどこにもなかった。ただ悦子の左手だけは何 かを握っているように見えた。 24 告白 男は静かにドアを開けた。窓から夕日で男は目をそばめた。 夕日の前には机に足を投げ出して椅子に座っている男のシルエッ トがあった。 「ブラインドを閉めてくれませんか」 「ああ」 男が紐を引っ張ると、部屋は急に薄暗くなり、牢獄のような冷た い雰囲気になった。 「事務所へは来るなといったはずだ」 南原は冷めた目で男を見て、言った。 「武井悦子をやりましたぜ!」 男は少々息を荒くして言った。 「そいつはごくろう」 南原はそっけない口調で言った。「悦子の死亡は確認した」 「あの、約束が……」 男は困った顔をして言った。 「金はおまえの口座に振り込んだはずだ」 「い、いえ、百万しか。お約束は三百万のはずで……」 「ふん、笑わせるな。貴様は悦子を一度殺し損ねてるんだ。報酬が 出るだけありがたいと思え」 「しかし、だんな……」 「俺はぐすぐず言う奴は嫌いだ」 南原が鋭い目で男をにらんだ。 「わかりました」 「それでペンダントは?」 「言われた通り持ってまいりました」 男はポケットから水晶のペンダントを取り出し、机の方まで歩み 寄って、南原に手渡した。 南原はそのペンダントの水晶をのぞき込んだ。 「本物だな。ほら、もう五十万プラスだ」 南原は男の足もとに薄い一万円札の束を投げた。男は慌ててそれ を拾い上げ、ポケットにしまい込む。 「あ、ありがとうございます」 「用が済んだら、帰りな」 南原の言葉に、男は一度軽く頭を下げて、すごすごと事務所を出 ていった。 南原は時計を見た。時は五時三〇分を指している。 「そろそろ客が来る頃だ」 そう言った時、階段の上る冷たい音が聞こえてきた。しばらくし て、その音が止まった。軽いノックの音。 「どうぞ」 ドアが開いた。そこには武井が立っていた。 「多分、来ると思ったよ」 南原は無表情で言った。 「悦子を殺したのは貴様だな」 武井は語気を荒くして言った。 「今まで警察の取調べを受けてたんだろう」 「そんなことはどうでもいい。俺の質問に答えろ」 「さあ、単なる自動車事故じゃないのか」 南原がニヤリと笑って言った。 「悦子とぐるなのはわかってるんだ。さあ、ペンダントを返せ」 「こいつのことか」 南原は机の上にあったペンダントを武井に見せた。 「それだ!」 武井は走り寄って、南原の手からペンダントを奪い取った。 「そいつをよく見てみな」 南原は愉快そうな顔で、机から足を下ろした。 武井が水晶をのぞき込むと、唖然とした顔になった。 「H・T……これはまさか」 「君の恋人が持っていたやつさ。そして、こいつが君のだ」 南原はポケットから、さらに水晶のペンダントを取り出した。 「あんたいったい何者なんだ」 武井は驚きの余り、後ろへ数歩下がった。 「君の妹が言ってなかったか。俺は君の味方だ」 「嘘をつくな。あんたは警察の味方じゃないか」 「そんなことないさ。それより、ペンダントが二つ揃ったところで 、事件もお開きにしないか」 「どういうことだ」 「悦子が死に、ペンダントを奪われたことで君はきっと俺の事務所 に乗り込んでくると思ってた。今日は君のためにすばらしいゲスト を招いてある」 南原はゆっくりと立ち上がると、右側の壁のドアを開け、別室に 入っていった。そして、一人の女性を連れてきた。 「よ、陽子……」 武井はその女性を見て言った。 「その通り、村上陽子さ」 南原はそう言ってまた椅子に座った。 陽子は口に猿ぐつわを填められ、後ろ手に手錠をかけられていた 。 「猿ぐつわを外してやったらどうだ」 南原が言うと、武井は慌てて陽子の口に填められた猿ぐつわを解 いた。 「いったいどうしたんだ?」 武井は陽子に尋ねた。 「南原にはめられたのよ」 陽子は泣きそうな顔で武井の胸に飛び込んだ。 「どういうつもりだ」 武井の目が厳しくなった。 「説明しようじゃないか。まあ、近くの椅子にかけたまえ」 「その前に彼女の手錠を外してやってくれ」 「よかろう」 南原は手錠の鍵を武井に投げた。武井は手で鍵をしっかり受け取 ると、陽子の手錠を外してやった。 そして、近くの椅子に二人はそれぞれ座った。 「まず俺の仕事内容を先に言わせてもらう。もう事件が解決したこ とだし、君に黙っていることもないだろう」 「事件が解決したって?」 「ああ。それで仕事内容だが、俺はちょうど一月ほど前かな、プロ 野球のある球団から依頼を受けたんだ。そう、まだ君が誘拐事件で 自宅に戻って間もない頃だった。その依頼内容は君のスキャンダル をうまくもみ消して、秋のドラフト会議に支障がないようにしてほ しいと言うものだ」 「どこの球団がそんな依頼を?」 「それはノーコメントだ。ともあれ、報酬がよかったんで、俺は極 秘にその依頼を受けた」 「じゃあ、刑事と一緒に俺に話を聞きに来た時にはもう調査を始め ていたのか?」 「まあ、そういうことだ。さて、事件のことだが、そもそもこの誘 拐事件は初めから狂言だったと俺は推理していた。その根拠は以前 陽子に話したから、武井君も彼女を通じて聞いているはずだ」 南原は意味ありげに武井に視線を送ると、武井は南原から目を外 らした。 「はっきり言ってしまえば、あの誘拐事件はもう一つの事件を隠す ためのカモフラージュだったんだ。 そのもう一つの事件とは何か。それは真島瑞穂殺しだ」 「瑞穂が殺されていた?俺はそんなことは知らない」 「今更、とぼけたって無駄さ。この際、君が否定しようとしまいと どうでもいいことだから、話を続けるが、まず今回の事件において ネックとなったのは君が女好きだったという噂だ。日曜日に君と大 学で顔を会わせた時、俺にはどうも君が噂に聞くほどの女好きには 見えなかった。してみると、なぜそんな噂が流れたか。それは、酒 が入ると性格が変わるからだ。考えてみれば、素面でそんなに女性 に乱れてたら、大学だって野球部に在籍させるはずがない。しかも 、君には実際のところ、きちんとした恋人がいた。村上陽子、君だ 」 「私は……」 陽子はちらりと武井の方を見た。 「この人には何もかもわかっているようだ。もう隠すのはやめるよ 。確かに陽子は俺の恋人だ」 武井は諦めたように言った。 「君達は高校の頃からの付き合いだった。陽子さんがR大学へ行っ たのも、無論武井君がいるからだ。だが、大学へ入学してからも彼 女の両親が厳しかったため、君とは依然表面上はつき合えなかった 。しかし、君達はその程度の困難では動じないくらい、深く愛し合 っていた。特に大阪への合宿は二人が一緒になれる唯一の機会だっ た。 ところが、現実には仲間と一緒の時が多いため、会う機会は非常 に限られていた。しかも、武井君が酒に弱く、酔うと性格が変わる となれば、女性関係に対し陽子も気が気でならなかった。 そして、ちょうど一年前、陽子が危惧していたことが現実となっ た。旅館の仲居だった真島瑞穂が酔った君と勢いで関係を持ってし まった。君にとっては不可抗力だったかも知れないが、瑞穂にとっ てみれば計画のうちだった。彼女は表面上は大人しかったが、内面 は嫉妬深くしたたかな女性だった。瑞穂は友人だった陽子から恋人 の君のことを聞かされていて、半ば嫉妬心で君を陽子から奪おうと したんだ。 君は関係を持ってしまった以上、瑞穂と無理矢理付き合わされる 羽目になった。その間、陽子は瑞穂に君と別れるように何度も説得 したが、彼女は応じなかった。 そして、半年後、君はとうとう瑞穂と別れる決心をした。君の意 志の強さに圧倒され、君を心から愛するようになっていた瑞穂は失 意のうちに、二カ月後、旅館を辞めた。 だが、一月後、瑞穂は妊娠したことに気づいた。妊娠三カ月だっ た。陽子との恋争いに負けたと思っていただけに、この妊娠は瑞穂 にとって願ってもないチャンスだった。彼女は妊娠を内密にし、出 産が近くなるのを待った。そして、今から二カ月前、彼女は地方の 産婦人科で子供を産み、カルテを奪って病院から逃げた。どうだ、 ここまで間違いないか」 「南原さん、私の言葉なんか最初から信じてなかったのね」 「少しは参考になったさ。だが、あんたの証言は劇的すぎた。しか も、武井君と瑞穂の関係を親友であるにも関わらず、瑞穂から電話 で聞くまで知らなかったというのは、余りにもナンセンスだ。それ に、あんたの言葉を立証する証拠は何もない」 「そこまではあんたの言うとおりだ。早く話を続けたらどうだ」 「言われなくてもそうするよ。−−瑞穂は君を取り戻す機会が再び 巡ってきたと思った。彼女はまず……」 「私に電話してきたわ。秀樹の子供を見ごもったって。まるで勝ち 誇ったような口ぶりだった」 と陽子が言った。 「その次に君に電話をかけた。恐らく認知してほしい、あるいは結 婚してほしいといった相談だろう」 「ああ。俺はあの時、初めてあの女の本性を見たような気がした。 彼女は結婚してくれなければ、子供を道連れに自殺するといってき た。無論、俺がドラフトを前にスキャンダルを起こせないのを知っ ててだ」 「君としては当然、何度も説得した。だが、相手は聞き入れるつも りはさらさらない。それどころか、自宅や大学に頻繁に姿を現すよ うになった。そんな脅迫から事件が起きるまでの一月間、いろいろ 悩んだあげく、ついに陽子と相談の結果、瑞穂を殺害することを決 めた」 「それは違う。はずみだ。はずみだったんだ」 武井が弁解しようとした。 「はずみではないね。あれは殺人だ。君らは事件の日、まず陽子が 赤いブラウスを着た女から手紙を預かったとわざと他人に目立つよ うに部室で、君に渡した。君は驚いたふりをして、慌てて部室を出 ていった。そして、そのまま銀行から金を降ろして、変装して大阪 へ向かった。 一方、東京に残った陽子はさっそくその日のうちに君の自宅へ脅 迫電話をかけた。その後の展開については今更言うまでもないだろ う。 では、君の行動にまた戻るが、大阪に着いてから君はまず大阪の ビジネスホテルに偽名で部屋をとった。ところで、君は瑞穂をどう やってホテルの自分の部屋まで呼び出したんだ?」 「結婚のことで話があるが、人目に付くとまずいから、変装してホ テルに来てくれ、と言ったら、全く疑うことなくホテルの自分の部 屋まで来たよ」 「君は最初から殺すことを考えてたのかね?」 「そんなことはない。もし瑞穂が素直に身を引いてくれたら、殺し はしなかった。あの二百万だって手切れ金のつもりだったんだ」 「それで」 「瑞穂は俺が別れてくれと頼んだら、こう言ったんだ。『私はお金 なんかほしくない。あなたが欲しいの』って。瑞穂の言葉は真剣だ った。これまでの脅迫的な態度をガラッと変えて、まるで俺に懇願 しているようだった。俺はその時、カッとなった。なぜだか、わか らない。ただこんな女に自分の人生を狂わされてたまるかって感じ で、気が付いたら瑞穂の首を思いっきり絞めていた。実にあっけな かった」 武井は肩をがっくり落として、大きく溜息を付いた。 「もともと殺す気でいたのが、たまたまつまらないきっかけで早く 殺したに過ぎないと俺は思うね。現に君は最初からSホテルに一週 間の宿泊予約をしている」 「あんたに俺の気持ちがわかってたまるか」 「それで瑞穂を殺した後、どうしたんだ」 「浴室で瑞穂の死体を切断し、大きなビニール袋に入れて、その袋 をトランクに押し込んだ」 「確かにルミノール反応が君の泊まった部屋の浴室から出たよ」 「いつの間に調べたんだ」 「ほんの数日前さ。それより、その後を続けてくれ」 「トランクに死体を入れておけば、自然と白骨化するだろうとしば らくは放っておいたんだ。ところが、実際には腐乱が激しくなるば かりで、いっこうに白骨化しなかった。だから、山に埋めたんだ」 「なるほどね。そうして、一週間、ホテルに滞在し、何食わぬ顔で 自宅へ戻ったというわけだ。これで事件の全容は全てわかった」 南原は満足げに言った。 「まだあんたのことが残ってるだろ」 「俺の仕事はさっきも言ったが、君を無事にプロに入団させること だ」 「プロに入団するのに、なぜ悦子を殺さなきゃならないんだ」 「悦子さんだけじゃないわ。南原さん、もしかして岩田君も……」 「俺は肯定はしない。だが、これまで起こったことは全て君のため なんだぜ、武井君」 「俺のため……ふざけるな」 「考えてもみたまえ。俺がいなかったら、君はとっくに逮捕されて いるんだ。例えば、君と瑞穂の関係が警察にすぐに明るみに出なか ったのは、この俺が手を加えたからだ」 「ふん、そんなことわかるものか」 「信じてもらわなくて結構。だが、計画の総仕上げとして、君達に も全てを教えよう。まず、君と瑞穂と陽子との三角関係が明るみに 出ないようにするにはどうしたらよいか。これが今度の依頼に関す る重要なポイントだった。武井君、君ならどうするね」 「関係者を全部殺せばいいんじゃないのか」 武井はいいかげんな様子で言った。 「その通り」 「何だと……」 「え?」 武井と陽子は驚いて、南原を見た。 「そう、関係者を殺せばいいんだ。今回は事件の解明もしなければ ならなかったから、結構辛い仕事だった。それはともかくとして、 陽子さん、あんたは以前に大学の階段で襲われそうになったところ を俺に助けられたことがあっただろう」 「ええ」 「実はあんたを襲ったあの男は俺の部下だったんだ」 「どうしてそんなことを?」 「俺を信用させるためさ。そして、喫茶店で俺は真島瑞穂のことを 、それとなくほのめかしたよな。あんたはとっさに俺に対して危機 感を感じたはずだ。 もともとあんたは武井の犯罪を手伝ってから、不安に陥っていた 。いくら恋人のためとは言っても、警察には捕まりたくない。そこ であんたは岩田を利用して、武井を脅迫した。瑞穂の秘密を知る人 間をもう一人つくっておくことで、自分の身を守ろうとしたんだ」 「陽子、おまえ……」 「秀樹と一緒に逮捕されるなんて嫌だったのよ。それにあなたにい つ殺されるかわからないし」 「俺達は恋人だろ。殺すわけないじゃないか」 「そんなのわかるわけないわ!現に岩田君は殺されたじゃない」 陽子はうわずった声で言った。 「俺は岩田を殺してない」 「岩田を殺したのは悦子だ」 南原が話に割り込むように言った。 「どういうことだ」 「もう死んでしまった以上、真実は聞けないが、彼女は少なくとも 瑞穂と君の険悪な関係を知っていた。それだけに君の誘拐事件に関 して疑いを持っていたのも事実だ。だが、悦子は君がプロに入団す ることを心から願っていた。だから、俺の部下に近づいてみたり、 岩田が君を電話で呼び出した時、不安を感じて君の後をつけ、岩田 が君を脅迫したと知ると、彼を駅のホームから突き落としたんだ」 「悦子がそこまで俺のことを。俺は何てことを……あの時、悦子の 言葉を信じてれば」 武井は頭を抱えた。 「さて、岩田を失ってしまったあんたはますます危機感を感じるこ ととなった。何とか自分に対する印象をよくしようと思い切った手 段に出た。それがあの白骨入りの段ボールだ。あれは武井君から聞 いていた死体を埋めた場所から掘り出してきたものだ。あんたはそ の骨が送られてきたと偽って俺に見せ、自分がさも狙われているよ うなそぶりを見せた。さらには自分が瑞穂のために武井を陥れたと 偽って、自分の心証をよくしようとした」 「陽子、よくもそんなことを」 武井は陽子につかみかかった。 「放してよ!私はね、自由に生きたいの。人殺しなんかとつきあっ てたら、一生束縛されるわ」 「俺を愛してないのか」 「もう終わったのよ!」 陽子の鋭い一言に武井は陽子の服から手を放した。 「南原さん、なぜ悦子を殺したのか聞かせてくれ」 武井は力のない言葉で言った。 「俺は殺してない。しかし、彼女は秘密を知りすぎてる。君の秘密 を守るためには死ぬしかなかったのさ」 「俺なんかもうどうでもいいんだ。プロなんかいい。悦子を死なせ ちまったんだ」 武井にとって妹を失ったショックは大きかった。 「南原さん、これからどうするつもりなの。私を五日間も監禁した んですからね。ただじゃすまないわよ」 「もともとあんたに近づいた理由はいろいろあるが、一つはあんた を監禁することにあったんだ」 「どういうこと?」 「あんたを消すことがこの仕事の最後なんだ」 「何よ、それ」 陽子は不安を覚えた。 「あんたが真島瑞穂、岩田、そして悦子。全ての殺人の罪を背負っ て自殺するんだ」 「いやよ、そんなの」 陽子は椅子から立ち上がった。「南原さん、嘘よね。そんなこと すれば、人殺しに……」 陽子は南原の目を見て、しゃべるのをやめた。彼の目は冷たく獣 のような目だった。 「武井君次第さ、あんたの運命は?」 南原は静かに言った。 陽子はうなだれている武井に声をかけた。 「ひ、秀樹、さっきはあんなこと言って、ごめんなさい。もう、あ なたを裏切らないわ。だから、助けて」 陽子は震えた声で言った。 武井はすっと椅子から立ち上がった。 「南原さん、妹はそんなに俺がプロに入ることを願ってましたか」 「ああ。心の底から願ってた」 南原は強い調子で言った。 「俺はどうしようもない男だけど、妹のためにプロで野球をやって みたいと思います」 武井はそういうと、南原に軽く頭を下げて、事務所を出ていこう とした。 「ちょっと待ってよ、私はどうなるの」 陽子は武井を追いかけようとしたが、南原の手が陽子の腕をガッ チリとつかんだ。「放して、放してよ」 陽子は体を何度も振り、喚き散らした。もう普段の物静かで落ち 着いた彼女の姿はなかった。 武井の姿が事務所から消え、ドアが静かな音をたてて閉まった。 −−パタッ 25 エピローグ 「久しぶりね、南原さんとデートするのも」 羽取早苗は大きく深呼吸をした。 南原と早苗は朝の港に散歩に来ていた。霧が濃く、埠頭に停泊す る船舶はぼんやりとした形にしか見えない。時々、ボーという蒸気 音が聞こえてくる。 周りに人影はほとんどなかった。九月下旬の割に肌寒いが、空気 はひんやりとして澄んでいた。 「私、もうあんなことは引き受けないからね」 早苗は海を見ながら言った。 「俺も後免だ。人殺しは割に合わない」 南原は半ば本音を吐くように言った。 村上陽子が水死体で発見されてから一週間がたっていた。彼女の 死因は当初わからなかったが、近くの岬で陽子の持ち物や遺書が発 見されたところから自殺と断定された。遺書は陽子の筆跡で(これ は南原が偽装したものだが)、誘拐事件、岩田、瑞穂、悦子殺害の 全面自供だった。 まず、瑞穂の殺害に関して触れるなら、その動機は真実とは全く 逆で、武井と瑞穂の仲を嫉妬して、瑞穂を殺したというものだった 。誘拐事件に関しては武井のアリバイをなくし、瑞穂の殺害をなす りつけようとしたものだとし、そして、岩田殺しに関しては、陽子 と瑞穂と武井との三角関係を知られてしまったために殺害、さらに 悦子に関しては自分の犯罪を暴かれそうになったため殺害したと記 されている。 遺書におけるどの記述も疑ってみれば、問題のある記述も多々あ るが、陽子の部屋から瑞穂の遺体の入った段ボールが発見されたこ と、さらに岬に置かれたハンドバッグに武井と瑞穂のイニシャルの 入ったペンダントがそれぞれ発見されたことにより、陽子の犯罪を 確実に裏付けるものとなった。 なお、武井の両親が南原にかどわかされたと警察に訴えてきたが 、南原が言うには陽子を警察に自首させるために一時、身を預かっ たとし、自首するという陽子の言葉を信じて早苗の家から送り出し たら失踪してしまったと都合のいいことを言っている。 いずれにしても、南原の巧みな証拠隠滅で村上陽子しか疑いよう がなくなり、捜査はあっさり打ち切られた。 さて、一方の武井だが、多少、女性関係のことで武井のことをつ つく記事も見受けられたが、むしろ妹を殺された兄として同情が集 まり、「妹のためにも立派な選手になる」という言葉が効いて、問 題なく秋のドラフト会議には指名されそうである。いや、すでに武 井はある球団を逆指名していた。そのある球団はご想像にお任せす る次第である。 「今回のこと、尾崎君たちは知ってるの?」 早苗は振り向いて、南原に尋ねた。 「知ってたら、手伝うと思うか」 「手伝わないでしょうね。特に皆川さんは頑固そうだから」 「あいつは正義感の塊だからな」 南原は苦笑して言った。 「私は陽子さんの気持ち、なんとなくわかるなぁ」 早苗は独り言のように言った。 「ん?」 「どんな好きな人でも犯罪者とは結婚したくない。女にとって結婚 は夢なのよ」 「敏夫君との結婚もそんなものなのか」 「え?」 南原は黙って歩き出した。 ボーという蒸気音がまた聞こえてきた。 早苗は南原の背中を見ながら、しばらく立ち尽くしていた。 終わり