南原光次郎シリーズ5 誘拐者 その3 15.病院 「尾崎君!」 手術室の前でうろうろと歩いている尾崎を見つけて、刑事はすぐ 廊下を走ってきた。 「武井の妹が殺されたんだって?」 刑事は尾崎に尋ねた。 「まだ彼女は生きてますよ。こんな時に物騒なことを言わないでく ださい」 「いや、悪かった。私も別の事件の現場から直接、こっちへ来たか ら、何があったかわからないんだ。悪いが、説明してくれないか」 「わかりました」 尾崎は路上で襲われた武井悦子を発見するまでの経緯を話した。 「なるほど。君のおかげで彼女は助かったのか。そいつはお手柄だ ったね」 「でも、傷は思ったより深いみたいで……」 「手術が始まったのは?」 「二時間くらい前です」 「南原さんには知らせたのかい?」 「いいえ、事務所は留守で、まだ連絡がとれてないんです」 「そうか。全く妙な展開になってきたな。昨日は武井の友人の岩田 がホームから突き落とされるし、今度は妹が襲われたわけだ」 「岩田の方の事件に関して、あれから何かわかりましたか」 「さっぱりだね。事件当時、ホームには人が少なかったせいか、目 撃者がいなくてね。唯一の証言は岩田が改札を抜けた後、すぐ追い かけるようにして改札を通っていった女がいるという証言だ」 「どんな女なんです?」 「赤いブラウスの女だ」 「じゃあ、村上陽子に武井をおびき出す手紙を渡した女の服装と同 じですね」 「そういうことになるな。しかし、関連性は今のところ、わかって いない。そんなことより、君達の方で何か情報はないのかね」 「実は今日でうちの事務所は事件から手を引くことになったんです よ」 「何だって!本当かね」 「武井悦子を救ったのだって偶然で、たまたま仕事を切り上げて帰 るところだったんですよ」 「そんな、無責任な」 「僕が決めたわけじゃないですから」 「それは困る。もし今度の事件を解決したら、今後君らの事務所に 依頼する時は必要経費だけでなく、きちんと報酬も出るはずだった んだぞ」 「以前にもそういってたじゃないですか」 「今度は本当だ。私は今まで懸命に署長を説得してきたんだよ。南 原探偵事務所を民間警察として予算を出すようにと。それが無駄に なるじゃないか」 「そんなことは先生に言ってください。それより、僕は一度、帰り ますので、悦子ちゃんのこと、よろしくお願いします」 「え?いや、私もちょっと寄っただけなんだ。悪いが、もう少し待 っていてくれんか。後で部下をよこすから」 「駄目ですよ。僕だって用が−−」 その時、 「悦子!」 と叫んで、中年の男女が手術室の前に駆け寄ってきた。 「悦子は、悦子は?」 中年の女性は真っ青な顔で、尾崎にすがるように訊いてきた。武 井悦子の母親だろうか。 「まだ手術中です」 尾崎は静かに言った。 「悦子は大丈夫なんでしょうか」 「大丈夫です。命には別状ありませんよ」 尾崎は極力、穏やかな顔で言った。女性は尾崎の表情を見て、少 し安心したのか、 「そうですか……」 といって、壁際の長椅子に座り込んだ。 「武井悦子さんのご主人ですね。私、麹町署の西嶺と言います」 刑事は武井の父親に警察手帳を見せて、言った。 「確か秀樹の誘拐事件を担当なさった刑事さんでしたね」 「あの件は我々の力が至らないばかりに、身代金を奪われてしまい まして、申し訳ありません」 刑事は頭を下げた。 「いいえ、とんでもありません。秀樹が戻ってきたんですから、そ れで十分です」 「そういっていただけると、助かります」 「ところで、そちらの方は?」 父親は尾崎の方を見て、言った。 「彼は尾崎君といいまして、悦子さんを救急車で運んでくれたんで すよ」 「そうですか」 父親は尾崎に歩み寄り、ぎゅっと尾崎の手を握った。「娘を救っ てくれて、ありがとう。君は命の恩人だ」 「偶然ですよ。それよりか、娘さんがこんな事件に巻き込まれたと いうのに、駆けつけるのが遅くありませんか」 「君には迷惑をかけたと思っている」 「共働きで大変なのはわかりますが、もう少し緊急時のことも考え てください」 尾崎はやや説教気味に言った。 「そこまで言わなくてもいいだろう、尾崎君。家庭にはそれぞれの 事情があるんだ」 刑事は尾崎の肩を軽く叩いて、言った。 「ええ、それはわかりますけどね……」 まだ言い足りなかったが、しかたなく尾崎はそれ以上詮索するの をやめた。 「悦子はいったい誰に刺されたのですか」 武井の父親は刑事に訊いた。 「まだわかりません。現在、捜査中です。ご主人の方にお心当たり は?」 「ありません。日頃、悦子とはあまり話さないものですから。輝子 は何か心当たりないか」 父親は長椅子に肩を落として座っている妻に尋ねた。 「ないわ……あったとしても、悦子はそれを口に出す子じゃなかっ たから」 「秀樹が誘拐された件と何か関わりがあるのでしょうか」 と父親が訊いた。 「わかりませんな。とにかく、今日のところは悦子さんの手術が無 事、終わるのを待つとしましょう。我々は引き上げますが、武井さ んはどうなさりますか」 「今夜はここで泊まっていきます」 「わかりました。後で部下の者をよこしますので、何かあったら彼 らにおっしゃって下さい」 「どうも」 武井の父親は頭を下げた。 「さあ、尾崎君、行くぞ」 刑事の言葉に尾崎もその場を歩きかけたが、ふと立ち止まり、 「武井さん、秀樹君は来ないんですか」 と尋ねた。 「いや、タクシーで病院に向かうまで一緒だったんだか、途中で突 然、タクシーを降りると言い出して、降りてしまったんだ」 父親の言葉に尾崎は少し考えながら、刑事と共に病院を後にした 。 16.結婚? 村上家の食卓では何やら険悪なムードが漂っていた。 長方形のテーブルを境に村上夫婦と南原、陽子が向かい合って座 っている。 陽子の父親は唇をきゅっと結び、眉をわずかながら釣り上げ、怒 鳴り声が目から飛び出して来るではないかというほど厳しい目で南 原をにらんでいる。 そして、陽子の母親は不平を言いたくてたまらないのだが、取り 合えず夫が発言するまでと我慢して、落ち着かない様子でいる。 さらに反対側に座る陽子は顔を下に向けたまま、びくびくした様 子で、早くこの場から逃れたいと思いつつ、時々、ちらっと隣の椅 子に座る南原の様子を伺っている。 最後に南原はというと、こちらは父親の視線など全く無視して、 テーブルに肘をつきながら、ぼんやりと部屋の壁にかかった彫刻を 見つめている。 部屋の中は全く静かだった。重苦しい雰囲気が誰も口を開けない 環境にしていた。天井に吊された蛍光灯でさえ、明りを照らしてい るのが申し訳ないといった様子であった。 「言いたいことがあるなら、言えよ」 南原がようやく重い口を開いた。だが、視線はまだ彫刻に向いて いた。 「南原君といったな」 村上は声を抑えて言った。 「ああ」 「娘とはどういう付き合いなんだ」 「それはね、お父さん−−」 「陽子は黙ってなさい」 陽子が何か言おうとしたが、父親の声にはね返されてしまった。 「恋人だとさっき言わなかったか」 南原がようやく村上の方を見て、言った。 「君の職業は?」 「探偵だ」 「君はいくつなんだ」 村上の声の調子が先ほどより強くなってい る。 「さあな。生まれた時から計算ができたわけじゃねえから」 「君はどうみても三〇は過ぎた男だ。陽子とはどこまでいったんだ 」 「行くとこまでさ」 「何だと!」 村上は思わず、かっとなって怒鳴った。 「陽子、本当なのか」 「それは……」 陽子は真実を言おうと思ったが、南原がこんな嘘を言ったことに は訳があると思い、黙っていた。 「そうなのか……」 村上は少し肩を落とした。かなりのショックを受けたようだ。一 方、村上の妻の方も信じられないといった様子で、ますます声をだ せないことに拍車をかけた。 「それで南原君は娘を今後、どうするつもりなんだ」 「どうするって?」 「このまま交際して、結婚するのか?」 「さあ、わからねぇな」 「わからないだと!すると君は遊びのつもりなんだな」 「そんなことないさ。遊びで終わらすには惜しい体だからな」 「貴様!」 いよいよ村上の怒りが高まってきた。「陽子はどうなんだ?まさ かおまえも遊びでつきあったなんて」 「私は−−」 陽子もさすがにこれはやりすぎと思い、弁解しようとした瞬間、 南原が陽子の唇を塞いだ。 「……」 陽子は金縛りにあったように動けなかった。ただ目を見開いたま ま、南原のされるがままにいた。 「な、なんてことを……」 村上はわなわなと唇を震わせ、「二人とも出ていけ!帰って来る な!」 と怒鳴った。 「そうこなくっちゃ」 南原はさっと陽子の唇を離し、何が何だかわからずにいる陽子の 背中を押して、怒りにかられ、今にも暴れかねない村上を残して、 部屋を飛び出した。そして、そこから素早く二階へ上がり、陽子の 部屋から段ボール箱をとって来ると、村上が玄関に躍りでる前にさ っさと陽子を連れて、家を出た。実に一分ほどの間のことだった。 「いったいどうしてくれるのよ」 家の外へ出てから、陽子が泣きそうな顔で文句を言った。 「事情説明は後だ。すぐに事務所に行くぞ」 南原がそう言った時、待ちかまえていたように近くの道の曲がり 角からタクシーが出てきた。そして、南原のすぐ横に止まる。 「タクシーを待たしておいたんだ。さあ、乗って」 南原はぐずる陽子を強引にタクシーの後部座席に乗せた。続いて 南原も乗り込む。 「ボス、随分と早かったじゃありませんか」 と運転手が言った。 「父親が物わかりがよくてね、助かったよ」 と南原は笑顔で言った。 タクシーが発車しようとする時、南原はふと村上の家の近くの電 柱の陰に不審な人影を発見した。 「ちょっと待っててくれ」 南原は車を降りた。 南原はそっと電柱に歩み寄ると、その人影は南原の前に姿を現し た。そして、すぐさま、身を翻して一目散に逃げだした。ものすご い速さだった。南原は一度は追いかけようとしたものの、すぐにあ きらめることとなった。 タクシーが南原の横まで走って来る。 「追いかけますか」 運転手が南原に訊いた。 「構わん。どっちにしろ奴の正体はわかった」 といって南原はコートを襟をなおし、「−−奴は武井秀樹だ」 17.誘拐の真相 南原と陽子を乗せたタクシーが村上宅から出発して、五分が過ぎ た。 陽子は膝に両手をついて、うつむいたまま、一言もしゃべらない 。時々、荒い息遣いが聞こえるだけであった。 「別に悪気はなかったんだ」 南原は決まり悪そうに陽子に言った。「キスしたことは謝るが、 あれが親父さんを怒らせる一番てっとり早い方法だったものでね」 「もう家へ帰れない…わ……」 陽子はかすれた声で言った。 「事件が解決したら、きちっと俺が両親に説明してやるよ。だから 、もう泣くな」 「きっと……駄目だわ」 陽子は首を横に振った。 「そしたら俺が結婚してやるよ。それにあの時、あんたの部屋で俺 が布団から出なかったら、ダンボール箱の中身がばれるとこだった んだ。むしろ、俺に感謝してほしいくらいだ」 「だからって、何もあそこまで言わなくたって」 「俺とあんたが同じ部屋にいて、ただのお友達ですなんて言えるか 。第一、下手な言い訳をすれば、あんたの首を絞めることにもなる んだぞ」 「それはそうだけど…」 「まあ、いずれにしろ、あんたがうちの事務所に来てくれた方が守 りやすいんでね、事件が解決するまで我慢してくれ」 「南原さんの事務所で寝るんですか」 陽子がようやく顔を上げた。 「不満か?」 「私、いやです。南原さんと一緒なんて」 「はっきり言ってくれるな。俺が信用できないのか」 「もう信用できませんわ。本当だったら、私……」 陽子はそこで口ごもった。 「わかったよ。−−おい、那美のアパートへやってくれないか」 南原は運転手に声をかけた。 「承知しました」 運転手は言った。 「これでいいだろう」 南原は陽子に尋ねた。 「那美さんって南原さんの恋人ですか」 「俺の親友の娘だったんだ−−今は社員だがな」 それから、二十五分ばかりして、那美の住むアパートに着いた。 アパートは四階建てで、各部屋に出窓のついた白い壁の、一見ロッ ジ風のアパートだった。 「さあ、着いたぞ」 南原は陽子を先に降ろし、運転手に待っているように指示して、 段ボール箱を持ってタクシーを降りた。 那美の部屋はアパートの四階にあった。一階には六部屋あり、通 路の両側に三つずつドアがある。エレベーターは一台で入口の左側 すぐ近くにあり、階段は通路の奥にある。 南原は入口右側の管理人室に一言声をかけてから、エレベーター で陽子と共に四階へ上った。 四階に着くと、南原は通路右側の二番目のドアまで行った。そし て、ドアの脇のブザーのボタンを五回連射した。 しばらくして、ドアが開いた。 「先生、何か用ですか?」 那美が迷惑そうな顔で応対に出た。「今、テレビ、いいとこなん ですけど」 「悪いんだが、人を預かってほしいんだ」 「人?今ですか」 「ああ」 「誰なんですか?」 「村上陽子だ」 南原の後ろから陽子が現れた。陽子はお願いしますというように 頭を下げた。 「別に構いませんけど、でも、どうして?」 「それはこれから聞かせてやるよ。誘拐事件の真相と一緒にね」 「本当ですか。まあ、どうぞ上がって下さい。−−陽子さんも狭い とこだけど、どうぞ」 那美は南原と陽子を部屋へ入れた。部屋は1LDKだが、一人で 住む分には申し分ない広さであった。 那美は南原たちを居間で待たせ、自分は台所の冷蔵庫からジュー スと、棚からコップを三つ持ってくると、居間のテーブルに置いた 。 「飲みたかったら、自分で飲んでくださいね」 何とも不親切なことを言って、那美は座った。 「さて、どうやって武井を誘拐したか、説明してもらおうか。一応 、約束だからな」 南原は陽子に促すように言った。 「わかりました。でも、それを話す前に一言だけ言わせて下さい」 「ああ、どうぞ」 「私が誘拐を計画したのはお金が目的ではないってことです」 「お金じゃないって……だったら何なの?」 と那美が訊いた。 「復讐です」 「誰の?」 「真島瑞穂のです」 「え?瑞穂さんとあなたはどういう関係なわけ?」 那美はさっぱりわからない様子で訊いた。 「学生時代の友人でした。私、高校まで大阪に住んでいたんです。 それで、瑞穂とは小さい頃から家が近くて、大の仲良しでした。小 学校らら高校まで、ずっと一緒の学校へ行っていました。 でも、大学受験の間際に父の転勤が決って、東京に引っ越すこと になったんです。最初は一緒にアパートでも借りて暮らそうとも思 ったんですけれど、父に猛烈に反対されて、結局、瑞穂とは離れ離 れになりました。私は東京の大学を受験して入学し、瑞穂の方は家 がそれほど裕福ではなかったんで、高校卒業と同時にすぐ旅館に就 職することになったんです」 「私が調べた限り、瑞穂さんとあなたに友人関係があったなんて情 報はなかったわ」 「父が厳しいせいで、私、友達をすごく制限されたんです。特に貧 乏な子とはつきあうなって。それで瑞穂とは仲良しだったといって も、公に会えなかったんです。だから、瑞穂のご両親は知らなかっ たと思います。けど、学校は一緒なのは本当ですし、学生時代の友 人なら知ってると思います」 「那美、ちゃんと調べたのか」 「そう言われると、困っちゃうなぁ。きちんと調べたつもりなんで すけど」 「まあ、学生時代、同じ学校と言うのは本当のようだな。さっき、 あんたの部屋にあった卒業名簿をちらっと見せてもらった」 「いつのまに見たんですの?」 「そんなことはいいから、続きを話せよ」 「東京と大阪と住むところは離れてしまったけど、電話のやり取り だけは続けていました。もっとも父に知れてはまずいので、電話の 方は私が一方的に瑞穂のアパートにかけました。 それから、数カ月して私は野球部のマネージャーになったんです 。というのも野球部の合宿の月に一度の遠征先が偶然にも瑞穂の働 く旅館だったからです。これだったら、父にも疑われることもあり ませんし、私は喜んで、遠征について行きました。おかげで、私も 野球部のマネージャーが楽しくてたまらない日々が続きました。 ところが、ちょうど半年ほど前のことでした。瑞穂が武井君とつ きあっていると私に打ち明けたんです。しかも、妊娠までしてるっ て。私は嫌な予感がしました。武井君は野球では実力はあるけれど 、女性に対しては遊び半分のところがあったので。でも、瑞穂の方 は武井君のことを心底愛しているようだったので、私はしばらく静 観することにしたんです。 そして、三月ほど前、瑞穂が初めて私の家に電話をかけてきたん です。瑞穂の声は涙混じりで、弱々しい悲しげな声でした。瑞穂は 武井君に捨てられたと言いました。しかも、子供をおろせと迫られ てるって。瑞穂は今にも自殺しかねない様子だったので、私は翌日 にも瑞穂のアパートへ行きました。瑞穂の部屋はめちゃくちゃに散 らかっていて、瑞穂は散々かきむしったようにしわになっているシ ーツの上に転がるように寝ていました。瑞穂のお腹はもう目立つく らい大きくなっていました。瑞穂の話だともう旅館へも働きに行っ ていないということでした。私は自暴自棄になって、ただすすり泣 くばかり瑞穂を何度も励ましたり慰めたりしましたが、駄目でした 。私はこんな惨めな瑞穂の姿を見て、武井君が憎らしくなってきま した。自分の親友をこんなひどい目に会わせた武井君を許せません でした。私は瑞穂に『武井に復讐しよう』と言いました。瑞穂も同 意してくれました」 「なるほど、それが誘拐の動機というわけか」 「ひどい話ね」 那美もさすがに溜息をつく。 「では、計画の方を聞かせてもらおう」 「私はただ武井君から慰謝料をとるのではなく、恥をかかせてやろ うと思いました。実行の当日、まず私は武井君に瑞穂が出産したと 部室で脅しの手紙を渡しました。手紙には『あなたの子供を生みま した。会いたかったら、午後三時までに大阪のSホテルに山谷とい う名前で部屋を取り、そこでお待ち下さいM・Mより』とワープロ で書きました。武井君は瑞穂と私が親友なのを知っていましたから 、これが嘘ではないとわかり、血相を変えて部室を飛び出して行き ました。予想通り武井君は銀行からお金を下ろし、大阪へ向かいま した」 「瑞穂さんは本当に子供を生んだのか」 「ええ。計画実行の一月前です。大阪府からなるべく離れた、地方 の小さな産婦人科で生ませました」 「ホテルで武井を待たせてから、どうしたんだ?」 「ホテルに電話を入れて、そこで一週間滞在するように指示しまし た」 「そんなことで武井を引き留められたのか」 「毎日、三時間置きに脅しの電話を入れたので、大丈夫だったと思 います」 「脅しの電話もあんたが?」 「いいえ、それは瑞穂がやりました。私は武井君のいない間にご両 親に脅迫電話をかけ、後は南原さんのご承知の通りに身代金を取り ました」 「失敗するとは思わなかったのか?」 「復讐するのに失敗なんか恐れてられません。それに武井君はドラ フト会議のことで神経過敏でしたから、指示を破るような真似はし ないとある程度は予想していました」 「大したもんだ」 「武井君は結局、瑞穂に会えぬまま、一週間後に自宅に戻り、自分 が誘拐され身代金を取られたということを知らされても、全く弁解 できなかったわけです」 「だが、計画を終えてから瑞穂との連絡が全く取れなくなった」 「どうしてそれを……確かに瑞穂とは連絡が取れなくなりました。 泊まっていたはずの旅館には身代金を奪った前日から帰っていない ということでした」 「その旅館の名は?」 「三重県D町の『木立』という旅館です。私は心配になり、その後 もあちこち知人宅をあたってみましたが、見つかりませんでした。 そして、日がたつに連れ、もしやホテルに滞在中の間に武井君と会 ったのではないかという気がしてきました。そんな時、大学で誰か に襲われそうになったところを南原さんに助けてもらいました」 「先生、そんなことがあったんですか」 「まぁな」 「そのこと以来、私はますます瑞穂が危険な目にあっているのでは ないかという気がしてきました。そこで、思い切って岩田君に武井 君を脅してもらったんです。岩田君も武井君のスターぶりに嫉妬し てましたから、いやいやながらも応じてくれました」 「だが、岩田は殺された」 南原の言葉に陽子は頭を抱えた。 「私が馬鹿だったんです。岩田君がまさか殺されるなんて……」 「そうなると瑞穂さんの身も心配だわ」 「いや、瑞穂ならこの段ボール箱の中さ」 南原が自分の脇へ置いた段ボール箱をコップをどけて、テーブル に置いた。そして、中を開いた。 「きゃあ!先生、ほ、骨が……」 那美が思わず低い悲鳴を上げる。 「そう、この骨のかけらが瑞穂のものだ」 南原は箱内の骨を見て、言った。骨片は焼却炉で焼かれたように きれいで、頭蓋骨や肋骨など大きな骨は箱に詰めるために砕かれて いる。死体特有の臭いはほとんどなく、理科室の標本のような感じ であった。 「いったいこの骨をどこで?」 那美は一度合掌して拝んでから、訊いた。 「今夜、陽子の家に送られてきたんだ」 「そうですか。それにしても、これをどうするんですか」 「取り合えず預かってくれ」 「とんでもない」 那美は大きく首を振った。「警察へ届けたらどうですか?」 「それが出来ないんだ。警察へ届ければ、陽子が捕まってしまう」 「罪を犯した以上、当然じゃないんですか」 「まあ、そうなんだが、ちょっと事情があってな」 「いやです。犯罪の片棒かつぐなんて後免だわ」 那美はきっぱり断わった。 「頑固だな。段ボールは俺が預かる。だが、陽子の方はしばらく頼 む」 「いやです」 「岩田や瑞穂を殺した犯人を突き詰めるまでだ」 「ボディーガードだったら、いっそ警察に預けた方が安全だと思い ますけど」 「なるほど!」 南原は納得してうなずいた。 「南原さん!約束はどうなったの」 と陽子が言うと 「あ、そうだった。やっぱりそういうわけにはいかないんだ。仕方 あるまい、他を当たろう」 「心当たりあるんですの」 「少しはね」 「先生、警察へ本当に行かないつもりですか」 那美が南原に訊いた。 「ああ」 「私、通報するかも知れませんよ」 「そうしたら、クビだ−−さあ、行くぞ」 南原は陽子を連れて、部屋を出て行った。 「全く勝手なんだからぁ」 と部屋に残った那美が文句を言った時、テーブルにまだ段ボール があることに気づいた。那美はぎょっとして、 「ちょっと先生、忘れ物!」 と大声を上げて、慌てて南原の後を追いかけて行った。 18.再会 「何だ、預けに行ったんじゃなかったんですかい」 タクシー内で南原を待っていた運転手は、 南原が陽子を連れてきたのを見て、言った。 「断わられたんだよ」 南原は段ボール箱をタクシーのトランクに入れると、また先に陽 子を車に乗せ、その後、自分が乗り込んだ。 「早苗の家をやってくれ。一度行ったことあるからわかるだろう」 「早苗?−−ああ、奥さんの家ね」 運転手が思い出したように言った。 「南原さん、結婚してるんですの」 「馬鹿、俺が結婚してるわけないだろう。以前、うちの社員だった が、結婚して辞めたんだ」 そんな会話をしているうちにタクシーは出発した。もう時間は夜 の十二時を過ぎていた。 「南原さん、前に私を誘拐犯と立証する証拠が状況証拠で三つ、物 的証拠で二つあるって言ってましたけど、それを教えていただけま せん?」 陽子がふと思い出して、南原に尋ねた。 「そんなこと言ったか?」 「嘘だったんですの」 「いいや、証拠はあるさ。五つあげれば、いいんだな」 「え、ええ」 「まず一つは赤いブラウスの女が広い大学内で確実に、しかも誰に も見られずにあんたに手紙を渡すというのは理論的に言って不可能 だってこと。これはあんたと真島瑞穂の関係がわかれば、すぐにも 消えてしまう証言だ。女を見たのはあんただけだからな。 二つめはあんたが野球部の部室に男子部員が着替え中であるにも 関わらず、中に入って武井に手紙を渡したこと。普通の女性なら恥 ずかしがって入れるものじゃない。すなわち、ここであんたは手紙 を渡す時には部員の着替えが待っていられないほど焦っていた心境 が伺える。 そして、三つめは一つ目にも触れたが、あんたと真島瑞穂の関係 が見つからなかった点だ。いくら月日が浅いとは言え、那美はプロ だ。そんないいかげんな調査をするとは思えない。つまり、あんた が簡単には瑞穂との関係がわからないように手を打っていたと読み 取れる。 四つめは写真だ。武井の服装が誘拐される前と後では違っていた 。これは武井が強制的に誘拐されたものでないことを証明するもの だ。 五つめはあんたが身代金を取っていない点だ」 「取っていない?それなら私は誘拐犯じゃないわけ?」 「今さらとぼけても駄目さ。俺があんたに百万で俺を雇えといった 時、あくまで拒否した。普通なら百万は出さなくとも、何とかお金 で解決しようとするはずだ。つまり、それはあんたが金を持ってい ないことを意味する。すると誰が身代金を持っているのか」 南原は懐から二百万の札束を取り出した。 「それは……」 陽子は唖然とした。 「この金を持っていたのは子供さ。両親には知らせないという条件 で金を返してもらったんだ」 「どうしてそこまで……」 「警察の厳重な警備を信用したからさ。誘拐事件において、身代金 を受け取ろうとする犯人を捕まえることにかけて警察は優秀だ。あ んたもそれを考慮したんだろう。あんたは子供に武井の父親からバ ッグを奪ってくるように依頼はしたが、受取はしなかった。だが、 身代金を取らないのなら、誘拐の目的は何なのか。そうなると怨恨 の線が濃くなってくる。 以上、五つの点から、あんたが犯人だということはおおよそ見当 がつく」 「大したものだわ」 陽子は南原の推理力に感服した。「けど、二百万を持ってるなら 、なぜ私に自分を雇うようになんて言ったんですの?」 「二百万じゃ満足できないからさ」 「え?」 陽子は当惑した。 那美のアパートからは割合、早苗の家は近く、三十分ほどで着い た。 羽取早苗の家は二階建てのごく普通の一軒屋だった。地価高騰の 進む東京都内でも堂々と家が買えてしまうほどの金持ちと早苗は結 婚したのである。 南原は家のドアを軽くノックした。 しばらくして、「どちらさまですの」という声がドア越しに聞こ えてきた。 「南原光次郎だ」 「あら、南原さん」 ドアが半分開いた。中から早苗が姿を見せた。 「久しぶりだな」 南原はそっけなく言った。 「そうね。少しは儲けてる?」 「全然」 「まあ、あがってよ」 「いや、もう遅いからここで結構だ。御主人にはあまりいい顔され ないからな、俺は」 「主人なら留守よ。一昨日からカナダへ出張なの」 「敏夫君は元気がいいね。この間はロンドンへ出張だって言ってな かったか」 「会社の専務ですもの、仕方ありませんわ。それより、何の用?別 に私のおのろけ話を聞きに来たわけでもないでしょう」 「ああ。実はこの娘をしばらく預かってほしい。村上陽子っていう んだ」 南原は後ろで落ち着かない様子で立っている陽子を早苗の前に連 れてきた。 「南原さんの彼女?」 「違うよ。どうして女はそういう発想ばっかりするんだ」 「そういう人なんだから仕方ないでしょ」 「とにかく彼女は狙われてるんだ。悪いが、頼む」 「いいわ。でも、事情は説明してよね」 「ああ、わかったから、彼女を家へ入れてやってくれ」 「わかったわ−−村上陽子さん、私、早苗っていうの、よろしくね 」 早苗は陽子に挨拶した。 「よろしくお願いします」 陽子は頭を下げて言ったが、その声には疲れ気味なのか覇気がな かった。 「じゃあ、部屋を案内するわ。−−南原さん、ちゃんと玄関で、待 っててよ」 「よけいなことはいいから、早く案内してやれ」 早苗は陽子を連れて、階段を上って二階へ行った。そして、五分 ほどして、早苗が階段を降りてきた。 「準備完了よ。陽子さん、私のパジャマのサイズがぴったりだった わ」 「早苗、パジャマなんか着てるのか」 「私がパジャマ着ちゃいけないっていうの」 「そうは言ってないだろ。それで、いつまで預かってくれる?」 「そうね、五日ってところね、朝晩の食事付きで」 「そうか、じゃあよろしくな」 南原が帰ろうとすると、早苗は南原のコートの襟首をつかんだ。 「事情を話す約束でしょ」 「やっぱり覚えてたか」 南原は面倒くさそうな顔をして言った。 19.面会(1) 南原光次郎が武井悦子の入院する病院に訪れたのは、それから四 日後のことだった。 その間、南原は事務所にも戻らず全く姿を消していた。 「先生!」 一階のエレベーターに南原が乗ろうとしたところ、背後で声がし た。振り向いてみると、那美だった。 「何だ、那美か」 「那美かじゃありませんよ。先生、どこへ行ってたんですか」 「旅行さ。那美の方こそ、休暇はどうだった?」 「先生のことが心配で、遊びになんか行けませんでした」 那美がそういった時、ちょうどエレベーターのドアが閉まりそう だったので、南原は那美の手を引っ張って、飛び乗った。 「ちょっと……一度くらい待ったって」 「俺は待つのが嫌いなんだ」 南原はエレベーターの階数ボタンを押した。エレベーターがゆっ くりと上昇する。 「確か先生は悦子ちゃんを見舞いに来たの初めてでしたよね」 「ああ。詳しいことは電話で尾崎に聞いた。案外、軽傷だったって いうから、後回しにしたんだ」 「それでも悦子ちゃんの傷は全治二週間ですわ」 「俺なんか腹に実弾三発食らって、六カ月の重傷だったことがある ぞ」 「本当に」 那美が驚いた様子で聞くと、 「嘘に決ってんだろ。さあ、着いた」 エレベーターのドアがゆっくり開いた。 「部屋はどこだか知ってるんですか」 エレベーターを降りて、那美が尋ねた。 「部屋番号は知ってる。602だろう」 「ええ。でも、この辺は部屋が多いから、私が案内しますわ」 そうして、南原は悦子の病室を捜そうとはせず、ただ那美の歩調 に合わせて、歩いた。 「先生、一つ聞きますけど、この間の骨はどうなったんですか」 「あれか、あれは俺の知合いの医者に頼んで、鑑定してもらってる 」 「よく人骨の鑑定をしてくれましたね。疑われませんでした?」 「もともとは俺の部下だからな、別に問題はないね」 「やだぁ、医者をやってる部下がいるんですか」 「珍しいか?探偵をやってる部下を雇ってる方がもっと珍しいと思 うがな」 「それ、どういう意味です?」 「深い意味はないよ」 「それでその骨は本当に真島瑞穂……のもの?」 那美は声を小さくして言った。 「ほぼ間違いないな。段ボール内の数本の髪の毛が瑞穂の髪の毛と 一致した。死体は死後一月は経過してる」 「ちょうど誘拐事件が起こった日ですね」 「死因は不明。死体は自然白骨だ。白骨にはわずかだが赤土が検出 された。恐らくどこかで一度埋められ、後で掘り出されたんだろう な」 「とうとう連続殺人事件になってしまったのね」 「瑞穂が殺されたと断定はできてない。自殺とだって、考えられる ぞ」 「赤土から場所を調べることは出来ないんですか」 「無理だな、赤土だけでは。犯人はかなり周到な奴だ。証拠を残さ ないように一度白骨化した遺体をきれいに洗って、その後、ハンマ ーか何かで砕いている」 「よくそんなことが出来ますね」 「そいつは犯人に聞いてくれ。それより、病室はまだなのか」 「えっと」 那美はキョロキョロと周囲を見回して、 「いけなぁい!通り過ぎちゃった」 と口を抑えて言った。 南原はやれやれといった感じで、首を振った。 つづく