南原光次郎シリーズ5 誘拐者 その2 9.尾行 −−コンコン 現場監督用のプレハブ事務所のドアを叩く音がした。 「どうぞ」 と尾崎は言った。 「ちゃんと見張ってる?」 那美がドアを開けて、そろそろと室内に入ってきた。 「どうしたの、那美ちゃん」 「ほら、今朝、かっとなって、随分ひどいこと言ったから謝ろうと 思って」 「別に気にしてないよ。こんな仕事やってれば、たまにはかっする こともあるよ」 「そういってくれると助かるわ。アイス持ってきたんだけど、食べ る?」 「もちろん、いただくよ。この部屋、蒸し暑くてぐったりしてたと こなんだ」 「確かに扇風機が回ってる割にはちっとも涼しくないもんね」 那美は紙袋からかき氷のアイスを二つ、取り出して、一つを尾崎 に渡す。 「プラスチックのスプーンより木の方がいいな」 「ぜいたく言わないの。環境保護団体に文句言われるわよ」 「それでプラスチックにしたわけ」 「まさか。お店にたまたまブラスチックのしかなかったの」 「そうだと思った」 尾崎はアイスを食べながら言った。 「武井は家に帰ってるの?」 「ああ。悦子ちゃんの話だと夕方五時頃、帰ってきたみたい。帰っ てからは今のところ、出かけてないよ」 「すると、昨日の夜からだから、約二十時間の空白ね」 「一応、昼間、武井の足取りを調べてみたんだけど、R大学へも顔 を出してないし、友人・知人宅にも行ってない。さっき、悦子ちゃ んが電話で教えてくれたんだけど、武井はどこにいたか両親が尋ね ても、言わなかったそうだよ」 「そうなると、ますます怪しいわね」 「でも、武井の狂言誘拐を実証するには二つの関門があるよ」 「何?」 「一つは村上陽子に手紙を渡すように頼んだ赤いブラウスの女だ」 「そっか、忘れてたわ。あ、けど、村上と武井が共犯としたら」 「考えられなくもないけど、立証は困難だ。調べる限り、武井と陽 子がつき合っていたという話は全く浮かんでこないもん」 「そうねぇ。それと、真島瑞穂が赤いブラウスの女かというのも問 題ね」 「そちらの方は先生が調べてるみたいだから、結果を待とう。それ と、二つ目は武井が失踪する直前に銀行の預金から二百万をおろし ているという点だ。これから狂言誘拐をしようという人間が金をお ろすなんて変だろ」 「う〜ん、でも、そしたら犯人がいないじゃない」 「今の捜査線上の人物だけで、推理するというのもどうかな」 「それを言ったら、きりがないわ」 「犯罪捜査なんて、所詮、そんなものだよ」 尾崎は食べ終えたアイスの空箱をごみ箱に捨てた。 「あ、あれ」 ふと、窓に視線を移した那美が声をあげた。 「どうかした?」 尾崎も窓に視線を向ける。 「武井の家から誰かが出てきたわ」 「本当だ。あの背格好は武井だな」 「どうする?」 「俺が後をつける。那美ちゃんは帰ってていいよ」 「私はここで待ってるわ」 「わかった。場所がつかめたら連絡するよ」 尾崎はプレハブ事務所を出て、武井の家から出てきた男の尾行を 始めた。 武井は駅前まで来て、ようやく足を止めた。 誰かと待ち合わせをしているのだろうか。 尾崎は二十メートルほど離れた電柱の陰か らキョロキョロと周囲を見回している武井をじっと見つめていた。 誰かが武井に声をかけた。若い男だ。 武井と男はその場でしばしの会話を交わした後、歩き始めた。 二人は駅前の繁華街を離れ、人気のない道を歩いていた。この辺 は閑散とした住宅街で、夜はほとんど人の姿を見かけない。 二人は団地付近の公園に足を伸ばした。駅前からはかなり離れた 場所だ。最初からここへ来るつもりなら、タクシーを利用した方が 早いのではなかろうか。 その公園は公園と言っても、団地居住者のために申し訳程度につ くられた公園で、決して広くはない。ブランコや滑り台などの遊技 設備も必要最低限、設置されているだけである。 二人はあたりに人がいないのを確認して、ようやく園内のベンチ に腰をすえた。すでに尾行から三十八分が経過していた。 園内は異常に暗かった。確かに狭い公園ではあるが、街灯が二つ ではいくら何でも物足りない。せいぜい、入口付近とベンチの辺り を照らすので精いっぱいだった。 しかし、この場合の尾崎にとってはこの暗闇は逆に二人の近くま で行って、会話を聞き取れる好都合な環境だった。 尾崎は二人のいるベンチの側の木の後ろに身を隠した。これだけ 近づいても、この園内の虫の大合唱では、気配を悟られることはま ずあるまい。 尾崎は腕に虫よけの薬を塗り、補聴器のイヤホンを耳にあてた。 「いくら人気のないところとはいえ、ここは静かすぎないか」 と男は言った。 「ここが駅から一番近い公園なんだ。それより、俺に話と言うのは ?」 と武井。 「武井、昨日、今日とどこへ行ってたんだ?」 「何言ってんだ。風邪をこじらせたと言っただろう」 「見え透いた嘘をつくな。俺は高校から七年もおまえと野球をやっ てるんだ。おまえが嘘を言っていることくらいすぐわかる」 「岩田……」 「今日、探偵が来て、おまえの所在を聞き回っていたぞ」 「探偵が?」 「そうさ。いったい、何をやらかしたんだ?」 「何もしてないさ」 「だったら嘘までついて、なぜ練習を休んだんだ。あの誘拐事件以 来、ちょっとおかしいぞ」 「それは……」 「親友の俺にも言えないのか。もっとも、大方、予想はつくがな」 「……」 「女のことだろう」 岩田はちょっと間をおいて、言った。 「……違うよ」 武井の言葉は弱かった。 「おまえは甲子園で優勝してから変わっちまったよ。マスコミにち やほやされて、いい気になって。大学に入ってからは自分の人気を 利用して、女に手を出すようになった」 「女のことがあったとしても、俺はちゃんと野球では実績を残して るんだ、おまえとは違う」 「……そうかもな。だが、俺はこんな噂を聞いてるぞ」 「どんな噂だ?」 「武井には妊娠させた女がいるってな」 「誰だ、そんな噂を流したのは?」 「俺さ」 「何!」 「三月ほど前かな、女が大学の野球部を訪ねてきたんだ。無論、武 井に用があったらしいんだが、その時、武井は遠征でいなかっただ ろう。だから、足を骨折して一人、部に残っていた俺がその女の応 対をしたんだ。女は名前を名乗らず、ただ手紙を武井に渡してくれ とだけ言って、帰っていった」 「俺は手紙を受け取ってないぞ」 「渡さなかったのさ。中には武井にとって噂が本当となることが書 いてあったからな」 武井の表情が一瞬、青ざめた。 「その手紙を渡してくれないか」 「これか」 岩田はポケットからしわくちゃの封筒を取り出す。「いやだ、と いったらどうする?」 「……それは困る。要求は何だ、金か」 「要求か……そうだな、一つ頼みを聞いてもらおうか」 「何だ?」 「大学を卒業したら野球から足を洗え。それが条件だ」 「馬鹿な!俺は今年のドラフトの一位指名候補だぞ」 武井は論外と言った顔つきをした。 「だから、面白いんじゃないか。プロ入り確実のおまえがドラフト 指名を拒否するどころか、野球そのものをやめるとなれば、マスコ ミも大騒ぎする」 「そんなことして何が楽しいんだ?」 武井は厳しい目で岩田をにらんだ。 「楽しいね。俺だっておまえと激突して、骨折さえしなければ、プ ロからの誘いもあったかも知れないんだ。骨折のせいで全てが水の 泡だ」 「それは一人よがりってもんだ」 「うるさい!いいか、もし十一月のドラフト会議で指名を断わらな かったら、この手紙をコピーして新聞社にばらまくからな。よく覚 えておけ」 そういうと、岩田は武井を残して、公園を出ていった。 武井は岩田を追うことなく、ベンチに座っていた。 「馬鹿な……そんなことができるわけないじゃないか」 武井はそう呟いて、頭を抱えた。 岩田自身、自分にこれほど勇気があるとは思っても見なかった。 高校の頃からの親友を脅迫したのだ。しかも、でまかせの手紙で。 正直言って、岩田は、武井が女を妊娠させていたことを認めたこ とが意外だった。マネージャーの村上陽子から武井を脅してみない かと誘われた時、最初は冗談だと思っていた。しかし、あの公園で の武井の反応からして、女を妊娠させたと言うのは事実らしい。し てみると、武井は本当にドラフト指名を断わる可能性もあるわけだ 。 岩田は今になって気がとがめた。いくら陽子の頼みとは言え、や はり親友を脅すなんてできない。野球を志す者にとって、プロ選手 になることは夢なのだ。それを打ち砕くがどれほど屈辱的なことか 、岩田にはよくわかっていた。 −−真実を打ち明けよう 岩田の決心が固まった時、すでにもう岩田は駅のプラットホーム にいた。 ホームは帰宅客のピークを過ぎたせいか、がらんとしている。無 人駅のようだ。 岩田はぼんやり考えごとをしていたわりには、しっかり駅までの 道のりを歩き、切符を買っていた自分を心の中で笑った。 −−どうせ明日、顔を会わすんだ。明日でもいいだろう。 岩田は自分で勝手に妥協して、ホームの白線のすぐ後ろに立った 。 左から二つの光が現れた。電車が来たのだ。 岩田はタバコを取り出し、百円ライターで火をつけた。 闇の中から電車の正面が姿を現した。 岩田はふっと気を抜いて、タバコを吸った。−−その時だった。 突然、岩田の背中を誰かが押した。岩田がはっとして、体のバラ ンスをとろうとした時、そこに支えるものは何もなかった。 −−電車は静かに止まった。ホームには岩田の姿はなかった。 10.訪問 「おはよう、陽子君」 翌朝、陽子が玄関のドアを開けると、いきなり南原が目の前に立 っていた。 「な、何ですか……」 珍しく陽子が慌てふためいて、バジャマの襟を直した。 「新聞を取りに来たの?」 「え、ええ」 「それなら、俺が出しといたよ」 南原は朝刊を陽子に手渡した。 「ど、どうも」 陽子はどうにも落ち着かない様子だった。 「何の御用ですか」 「昨日はよく眠れた?」 「ええ、おかげさまで」 「少しつき合わないか、話がある」 「今ですか?」 「ああ」 「じゃあ、上がって下さい」 陽子はドアのチェーンを外した。 「両親は?」 「昨日から留守です。親戚の法事に行ってるんで」 陽子は南原を家に上げ、ダイニングルームに招いた。 「その辺の椅子に座って下さい」 南原はテーブルから椅子を出して、座った。 陽子は電子ポットの湯でコーヒーを入れた。 「まずいですけど、どうぞ」 陽子は南原の前のテーブルにコーヒーカップを置いた。「砂糖は 入れますの?」 「いらない。それにしても、よく俺を家に入れてくれたな」 南原は少し意外な面もちで言った。 「ほんの少しだけど、信用してますから」 陽子も自分の分のコーヒーをカップに入れて、座った。「それで 、どんな用件で?」 「岩田って男を知ってるか?」 「うちの部の部員ですけど」 「そいつが死んだ」 「いつですか」 陽子は特に表情も変えず、言った。 「昨日の夜だ。駅のホームから突き落とされ、電車にはねられた」 「犯人は?」 「捕まってない」 「そうですか。でも、それが私と何か関係あるんですか」 「いいや。ただ、その男は夕べ、武井と会っていたんだ。殺された のはその帰りだ」 「岩田君は武井君と何を話したんですの」 「岩田は武井を脅していた。武井に妊娠させた女がいるという証拠 を握ってね」 「まぁ、恐い」 「あんたがやらせたんじゃないのか」 「え?何のことかしら」 「とぼけるわけか。別にあんたのやることにとやかく文句を言うつ もりはないが、これ以上、武井に脅しをかけるとあんたも昨日のよ うに狙われるぞ」 「私が誰に狙われるっていうんですの?」 「そこまでわかるか。だが、少なくとも殺人を何とも思っていない 奴の犯行だ」 「私にどうしろと?」 「百万で俺を雇え」 「またその話ですか。それなら、お断りです。うちにそんなお金、 ありませんもの」 「そうか……わかったよ。あんたは賢い人間かと思ったが、案外目 先のきかない人間だな」 南原は椅子から立ち上がった。 「お帰りですの」 「ああ、朝早く悪かったな」 南原は振り向かず、そのままダイニングルームを出ていった。陽 子もしばらく椅子に座っていたが、すぐに南原を見送りに玄関に行 った。その時にはもう南原は靴を履いていた。 「じゃあな」 南原はドアを開けた。陽子は何か声をかけようとしたが、間に合 わずドアは静かに閉まった。 「南原さん……」 陽子の心に初めて不安がよぎった。 11.計画 南原が探偵事務所に戻ったのは、午後四時だった。事務所には那 美と制服を着た少女がいた。 「あ、先生、お帰りなさい」 と那美が元気よく言った。 「数日、会わなかったな。尾崎は見張りか?」 「ええ。午後七時に交代で私が行きます」 「そいつはごくろう」 南原は背広を壁のハンガーにかけて、黒い回転式の椅子に座った 。 「先生、そろそろ私と尾崎君、限界なんですけど」 那美が自分の席を立って、南原の机の前まで来て言った。南原が ちらりと那美の顔を見ると、確かに彼女の顔からは疲労と不満が発 散している。 「見張りのことか」 「ええ。せめて、いつまでやるのか教えて下さい。このままじゃ、 倒れちゃいます」 「それじゃあ、今日から中止していいぞ」 「本当ですか」 「那美が前に言ったように、事件から手を引こう」 「で、でも−−」 那美も捜査をやめることには戸惑いを見せた。 「実際、この事件は持久戦だ。だが、社員が限界だというなら仕方 あるまい」 南原はポケットから財布を取り出すと、そこに入った数枚の一万 円札を机に置いた。 「ここに十万ある。君らの臨時ボーナスだ。しばらく休暇をやるか ら、とっとけ」 「先生!私、そんなつもりで言ったんじゃありません」 那美は向きになって言った。 「気にするな。所詮、警察からのアルバイトじゃ、必要経費と感謝 状にしかならん。別に投げ出したところで、誰もとがめはしないよ 」 「先生はそれでいいんですか」 「構わんさ」 「でしたら、ありがたく受け取らせていただきます」 那美は机の上の十万を手にした。 「ちょっと待って」 那美の後ろで声がした。あの制服を着た少女だ。 「那美さん、事件の捜査、やめちゃうの?」 少女はがっくりした様子で言った。 「その娘は?」 南原が那美に尋ねた。 「武井の妹で、悦子ちゃんです。今回の事件で、協力してくれたで す」 「武井悦子と言います。よろしく」 「俺は南原だ」 南原は悦子をじっと見つめた。「ほぉ、かわいい娘だ。君にも給 料、払わなくちゃならんな」 「私を雇ってくれませんか。一度、探偵になってみたいんです」 悦子は積極的に南原に申し出た。 「ちょっと、悦子ちゃん」 那美は止めようとしたが、悦子の言葉は流れるように出てくる。 「アルバイトでもいいです。見張りなら私がやります。家族なら怪 しまれないし、お兄ちゃんをマークするならばっちりです」 「あなたには学校があるでしょう」 那美が慌てて注意したが、南原は特に気にする様子もなく、 「なかなか威勢がいいな。よし、次の質問に答えてくれたら、採用 してやろう」 「先生!」 「那美は帰ってろ。二人で話がしたいんだ」 「わかりました。どんなことになっても知らないから」 那美はぶつぶつ文句を言いながら、引き下がり、事務所を出てい った。事務所内は一瞬、静かになった。 「さて、まあ、近くの椅子にかけたまえ」 「はい」 悦子はそばの椅子を机の前まで引いてきて、南原と向かい合うよ うにかけた。 「さて、那美もいなくなったことだし、お遊びはおしまいだ」 「……」 「君が探偵になりたいという目的はうちの事務所の捜査内容を知る ためだろう」 南原は悦子をじっと見て言った。悦子は一瞬、黙り込んだが、す ぐに堪えきれなくなって口元を緩ませた。 「ばれっちゃったか」 悦子は照れくさそうに笑った。「でも、私がそういう目的だとし て、おじさん、どうする?」 「君の態度次第では、別に雇ったってかまわないさ」 「例えば?」 「まず、なぜ君の兄である武井秀樹が狂言誘拐を企んだと推理した のか、聞きたいものだね」 「いいよ、けど、どうしてそれを知ってるの?」 「答えなくちゃ、駄目か」 「教えてくれなきゃ、私も答えないもん」 「那美には内緒だぞ。実はあの事務所には隠しマイクを仕込んであ るんだ」 「最低ね」 「それより答えろ」 「真島瑞穂さんが誘拐なんか企む女性じゃないからよ」 「会ったことがあるわけか」 「うん、二度ほどね。真島さんが家の前を行ったり来たりして迷っ ている時に、私が声をかけたことがあるの。それでいろいろ話を聞 いてあげたの。すごく情熱的で、本当にお兄ちゃんを愛してるって 感じだったわ。でも、話の内容からはお兄ちゃんにふられたって様 子ね」 「それはいつごろ?」 「確か事件のあった二ケ月前ね」 「彼女の様子に不審な点は?」 「そうね……私がお兄ちゃんに会わせてあげようかって言った時、 大きく首を振って−−そういえば、真島さん、『武井さんはいつも 監視されてるかわいそうな人だ』っていってた」 「どういう意味かな」 「わかんないわ。でも、真島さん、自分がふられて辛い立場なのに 、どういうわけか、お兄ちゃんをしきりに同情してたのを覚えてる わ」 「ほかにも女がいたってことか」 「それにね、真島さん、私と別れる時、『お兄さん、プロに入れる といいわね』と笑顔で言ったのよ。そんな人がお兄ちゃんを罠には めるなんて思えないの」 「なるほどね。それで、単純に武井の狂言誘拐とにらんだわけか」 「でも、私としてはお兄ちゃんをプロに入れてあげたいわけ。だか ら、何とかお兄ちゃんを助けてあげたいなと思って、尾崎さんに近 づいたの」 「じゃあ、真島瑞穂が武井を脅していたというのも嘘だな」 「ごめんなさい。ああするしかなくて」 「いい妹に免じて、許してやろう。それに武井のプロ入りにも手を 貸そうじゃないか」 「おじさん……」 悦子の目が輝いた。 「ただし、二度と嘘をつくなよ。それが条件だ」 「やったぁ」 悦子は飛び上がって喜んだ。南原はそんな悦子を見ながら、自分 も甘くなったなと思った。 12.電話 午後七時、那美がえらい剣幕で南原探偵事務所に乗り込んできた 。 「先生、ひどいじゃないですか」 那美は今にもピアノでも弾くのではないかと両手で机で強く叩い た。 南原は思わず椅子からのけぞり、読んでいた雑誌から顔を上げた 。 「どうかしたか?」 「悦子ちゃん、私のアパートに来たんですよ。あのプレハブ事務所 に隠しマイクをつけてたそうじゃないですか」 「あの、おしゃべり。悪いとは思ったが、ついつい癖で」 「癖で済みますか!」 「他には何か言ってたか」 「他にですか……そうだわ、『那美さんってかわいくて、明るい』 って悦子ちゃんが」 「何だ、誉めたんじゃないか」 「本当に先生、そんなこと言ったんですか」 「俺は……いつもそう思ってる」 「やだ、先生ったら……」 そう言われると、那美も照れてしまう。 「でも、何かごまかされた感じ。来て、損しちゃった」 「尾崎にはちゃんと伝えたか」 「休暇のことですか。喜んでましたよ、私以上に」 「食事はしたか?」 「いえ、怒りで頭がいっぱいだったから」 「那美も悦子と対して変わらないな。じゃあ、どっかへ食事に行く か」 「おごってくれるんですか」 「俺は無一文だ」 「私がおごるのぉ……」 那美は不服そうな顔をした。 ジリリリリリーン、ジリリリリーン−− 突然、電話が鳴った。 那美はびくっと肩を震わせたが、南原は割合平気に電話を取った 。 「南原探偵事務所だが−−」 『南原さん!お願い、早く来て−−!』 その声は村上陽子だった。 「どうかしたのか?」 『いいから早く!あなたしかいないの!!』 陽子はかなり興奮している様子だった。 「よしわかった。中から鍵をかけて、俺が来るまで待ってろよ」 南原は電話を切った。 「何かあったんですか?」 「さあな。だが、いいことではなさそうだ」 南原が村上陽子の自宅に駆けつけたのは、それから一時間後のこ とだった。 陽子は自宅の前で待っていた。陽子は南原がタクシーを降りて、 こちらに歩いてくるのを見ると、すぐさま、南原の方へ駆け出した 。 「南原さん!」 陽子は南原の胸に飛び込んだ。 「何があったんだ」 南原は陽子の肩に軽く手をかけた。彼女の肩は小刻みに震えてい た。 「う、家へ来て下さい」 陽子は悲そうな目をして、言った。 陽子は南原の腕にしっかりと抱きついて、家に入った。 「この……段ボールです」 陽子は張りつめた口調で言った。 玄関は真っ暗だった。おそらく、この段ボールの中身を見たくな いあまり、消したのだろう。 「何が入っているんだ?」 「開けて下さい……私からはとても……」 「玄関の明りのスイッチは?」 「台所です。すぐつけます」 陽子は逃げ出すように台所へ行った。すぐにパッと周囲が明るく なった。 南原の目の前にはすぐ靴箱の上に置かれた段ボール箱が現れた。 段ボールは十四インチのテレビがすっぽり入るくらいの大きさだっ た。周りには特に社名も明記されてなく、無地だった。包装に使っ たガムテープはすでにはがれている。 陽子は台所の入口のドアに身を潜めたまま、玄関をのぞき込んで いる。 南原はゆっくりとその段ボールに歩み寄った。そして、ふたの端 を指でつまんだ。後ろに開けば、すぐにも中のものを見ることがで きる。だが、南原はやや戸惑った。段ボールからは異様な臭気も不 吉な予感も何一つ感じなかった。だが、この不変さがどうにも不気 味だった。 十秒後−−南原はふたを開いた。 南原の目は一瞬、鋭くなったが、すぐに冷めた目に戻って、台所 の陽子の方を見た。 「あんたはこれが誰の骨だか、わかってるんだろう」 「−−多分」 陽子は目を伏せた。「真島……瑞穂です」 13.襲撃 ここで時間を二時間前に戻してみよう。 ちょうど南原が事務所で雑誌を読んでいた頃、尾崎は武井の家近 くの監視用プレハブ倉庫で、帰り仕度をしていた。 無論、南原が捜査の中止を決めたという話を那美から電話で聞い たからである。 尾崎としては捜査が中止になることに異存はなかった。もともと 好きで探偵をやっているわけでもなく、給料さえもらえれば、事件 がどうなろうと、どうでもいいことだった。彼に不満があるとすれ ば、那美からの電話が遅かったことだった。南原から話を聞いた時 、すぐに電話をかけてくれればいいものを、那美は二時間も遅くか けてきた。しかも、急に思い出して電話をかけたという感じだった 。 「さて、明日からゆっくり寝れるぞ」 尾崎はうーんと伸びをした。 尾崎はまとめた荷物を持って、外に出た。 ふっと、武井の家を見る。 短い間ではあったが、人間を一日中、尾行するというのがどれほ ど難しいか、実感した数日だった。 一度、不注意から武井を見失ったが、それを考慮しても、尾行中 、武井には全く不審な行動がなかった。昨夜、武井と会って脅迫し た岩田という男が殺されたと聞いたが、実際、武井は岩田と別れた 後は素直に自宅に帰った。 そのことに関しては尾崎は武井に協力する羽目になってしまった 。昨夜、岩田と会っていたという情報を聞きつけた警察が今日にな って武井の自宅を訪ね、尋問したのだった。その際、武井が自分を 尾行している探偵に聞いてくれと言ったらしく、監視事務所に刑事 がやってきた。何とかごまかそうとも思ったが、武井が意外にも岩 田からの脅迫を認めたため、こちらも正直に言わざるをえなかった 。 その後、散々警察に絞られ、監視事務所に戻ってきた時には四時 を回っていた。武井はいつこちらの監視に気づいたのか、尾崎には それが気がかりだった。大体、武井の妹に気づかれるくらいだから 、気づかれないはずはないとも思っていたが、実際、武井の無実を 証明する手伝いをしていたと思うと、尾崎としては複雑な心境だっ た。 −−誘拐事件はいったいどうなるんだろう 尾崎はふうっと大きく溜息をつき、事務所を離れた。 空にはまだ青い空が見えていた。 路上には人気は全くなかった。この辺は確かに閑静な住宅街だが 、それにしてもこの時間帯に、誰一人歩いていないというのも寂し い限りだった。 尾崎は鼻歌混じりに路上を歩いていた。尾崎の足取りにはいつに なく解放感があった。 「きゃああああ!」 と声がした。ぼんやりと考えごとをしていた尾崎にはこの悲鳴が 悲鳴には聞こえなかった。ただ声が聞こえた。そんな感じだった。 尾崎がこれを悲鳴と受け止めるのに、二度目の悲鳴を待たなけれ ばならなかった。 「きゅあ、誰か、助けて!」 今度はかなり鋭い悲鳴だ。尾崎はやっと現実に戻った。 左側の住宅を挟んで、反対側の道から声がする。尾崎はさっと全 速力で駆出し、道の最初の曲がり角を左に、さらに次の曲がり角を 右にリレー選手さながらに曲がると、一気に反対側の道に飛び出し た。そして、すぐに道の五十メートル先で腕を抑えて、倒れている 女性を見つけた。 「大丈夫か」 尾崎は倒れている女性のもとに駆けつけ、声をかけた。「え、悦 子ちゃん?」 尾崎は一瞬、目を疑ったが、それは明らかに武井悦子だった。下 校途中だったのか、制服姿である。悦子がぎゅっと抑えている左腕 からは血がにじみでている。 尾崎は悦子を抱き起こすと軽く悦子の頬を叩いた。 「尾崎さん……」 悦子がか細い声で言った。 「もう大丈夫だ。すぐに警察を呼ぶからね」 尾崎は優しく微笑みかけた。 「ありがとう……」 悦子は急に安心したかのようにまた気を失った。いつのまにか尾 崎の服に悦子の腕からの血がべっとりとついている。 「大変だ」 尾崎はすぐ手持ちのハンカチで悦子の腕を傷口より上で縛ると、 悦子を静かに寝かせ、慌てて近くの家に飛び込んだ。 14.村上陽子の部屋 「女の子の部屋に入るのは久しぶりだな」 南原は陽子の部屋をじろじろと見ながら言った。 「私はあなたを信用して、この部屋に入れるんだから、変なことは しないで下さいね」 陽子はちょっと不安げに言った。 「俺は信用されるのは嫌いだな。もっとも、女なんてもんは楽しま せてくれる分、逆に子供とかつくられて人生を喰われちまうからな 。俺は敬遠するよ」 「それは女性に対する偏見ですわ」 「男に襲われた方がいいのか?」 「……馬鹿なこと言わないで下さい」 「それより、このダンボール箱、どこに置くんだ」 「机の上にでも置いて下さい」 「わかったよ」 南原は机の上に段ボールを置いた。 陽子の部屋は東側に窓があり、南側に机と大型の洋服ダンス、ス テレオ、ドレッサーがある。そして、北側にはセミダブルのベッド である。部屋の色調は白が中心で、明るいは感じはするが、ぬいぐ るみやインテリアといったものが見あたらず、女の子らしさといっ た雰囲気がない。ただ、部屋は家具がたくさん置いてある割には広 く、きちんと整頓されている。 「さっき法事だとか言ってたが、両親はいつ帰ってくるんだ?」 「今夜です」 「じゃあ、もういつ帰ってきてもおかしくないわけか。そうなると 、うかうかしていられないな。これからどうするんだ?」 南原はベッドに腰掛けて言った。 「どうするって……」 「警察に知らせるか?」 「それは……」 陽子は悲痛な面もちで、南原を見つめた。 「やっぱり、誘拐犯はあんたか?」 南原の問いかけに陽子は黙ってうなずいた。 「このダンボールを警察に届ければ、誘拐犯どころか瑞穂殺しの犯 人にまでされかねない。さすがのあんたも警察に捕まるのは恐いっ てわけか」 南原は皮肉っぽく笑った。 「警察には知らせないで。もし捕まったら、父や母がかわいそうだ し、私の人生もおしまいに……」 陽子はうなだれたまま、呟くように言った。 「捕まるのが嫌なら、何で誘拐なんかやったんだ!」 南原が怒鳴った。とたんに陽子が顔を覆って、泣きだした。 「ほお、あんたが泣くこともあるのか。だが、あんたのくだらんお 遊びのせいで、二人の人間が死んだんだ」 「違うわ、遊びなんかじゃない」 陽子はかすれた声で言った。 「愛のためか」 「……」 「とにかくだ」 南原は落ち着いた口調に戻して「あんたが生き残る道はただ一つ 。俺を雇うことだ」 「南原さん……」 「俺は別にあんたのことなんてどうでもいいんだ。警察に知らせた ところで、賞状一枚がいいところだ。それよりも、俺にとってはあ んたが奪った身代金の二百万に魅力がある」 「あのお金は渡せません」 「だったら、俺はあんたの味方をやめるぜ。即、あんたは警察行き だ」 南原は探偵という職業柄、よく恐喝しているせいか、人を脅すこ とにかけてはよく舌が回った。 「……他にありませんか、お金以外に」 「どうしてそれほど金に固執するんだ?」 「今は言えません」 陽子は弱々しい声で言った。「もしどうしても警察に知らせるっ ていうんなら、私、死にます」 南原は陽子の張りつめた様子を見て、彼女の言葉はまんざら嘘で もないな、と思った。 「金以外なら何でもいいんだな」 「……」 陽子は黙ってうなずいた。 「だったら、このペンダントでも戴こうかな」 南原は机の上の小箱に入っていた水晶のペンダントを手に取った 。 「南原さん……」 陽子は立ち上がった。 「金以外に興味はないからな。これならいいだろう?」 南原がそう言うやいなや、陽子が南原に抱きついてきた。反動で ベッドの上に南原は倒れ込んでしまう。 「おいおい、プロレスごっこじゃないんだぜ」 といったが、陽子はしばらく南原の胸に顔を埋めて、離さなかっ た。 その時、家の玄関でドアの開く音がした。 「おい、両親が帰ってきたようだぜ」 南原は陽子の背中を軽く叩いた。 「え?」 陽子はようやく顔を上げた。目のあたりが真っ赤になっている。 「どうしよう?」 「二階から俺は出る」 「無理だわ」 「それしかないだろう」 ともめているうちに、下の階から陽子を呼ぶ母親の声がする。 「とにかく、出るからな」 南原は窓を開けた。 「陽子、帰ったわよ」 と再度、母親の声。 「は〜い」 と陽子は大声で返事をする。 「じゃあな」 と南原が窓枠に足を乗り出した時、 「陽子!誰か来てるの。男の人の靴があるわよ」 と母親。 「大変、気づかれたわ」 と陽子は南原のコートをつかんだ。 「馬鹿、離せ!」 「落ちて怪我でもしたらどうするのよ」 誰かが階段を上る音が聞こえてきた。 「隠れて!」 陽子は無理矢理、南原のコートを引っ張った。南原がバランスを 失って、後ろからベッドに転がる。そこへ陽子はバサッと布団をか ぶせた。 「しばらくじっとしてて」 南原は仕方なく、陽子の言うとおり布団の中でじっとすることに した。 コンコン−−陽子の部屋をノックする音。 「陽子、いるんでしょ」 とドアの外で母親の声。 「いるわ、どうぞ入って」 陽子は椅子に腰掛けた。 母親がドアを開けて、入る。 「お母さん、お帰りなさい」 陽子が笑顔で言った。 「ただいま。それより、陽子、今、玄関に男の人の靴があったけど 」 「お父さんのじゃないの?」 「お父さんは違うって言ってるわ」 母親は陽子をちょっと疑わしそうに見た。 「ああ、そうだった。拾ったのよ」 「拾った?」 「そう、ゴミ捨て場にあったんだけど、お父さんに合いそうだった んで、持ってきたの」 「お父さんがそんなものを使うわけないでしょう」 「ああ、そうね。ごめんなさい」 「変な子ね」 母親は特にそれ以上は追求しなかった。 「陽子、おみやげがあるわよ、陽子の大好きなもの」 「へぇ、何かしら」 「下に行きましょう」 「あ、ちょっと部屋を片付けるから、先に行ってて」 「そんなの後でもいいんじゃないの」 「うん、そうだけど……」 「じゃあ、すぐ来るのよ」 といって母親がドアのノブに手をかけた時、ふと立ち止まった。 そして、振り返った。「どうしたの?」 「机の上のダンボール、何なの?今朝は見なかったわね」 「え、ああ、か、買ったのよ」 突然のことで陽子もうまい言い訳が出てこなかった。 「何を?」 「な、何でもいいでしょう」 「またムダ使いしたの。お父さんがおっしゃったでしょう、高価な ものを買う時は相談してからにしなさいって」 「安物よ」 「何を買ったか、見せてごらんなさい」 「ちょっと、待ってよ。お母さんにそこまで詮索される覚えないわ 」 「陽子!なんてこと言うの」 母親が怒った。「さあ、見せなさい」 母親が段ボール箱を取り上げようとすると、陽子がキッとにらん で母親の手をつかんだ。 「その目はなに?いつからそんな聞き分けのない子に」 −−やばいな 布団の中で南原は母と子の何やらただならぬ雰囲気を感じていた 。それは今に始まったことではない、と南原は思った。 陽子の日常の話し方からして、かなり大人びたものだ。これは両 親のしつけが厳しく行き届いているからだろう。しかし、生活にま で厳しい抑圧を受けているとなると、陽子の精神も穏やかではない はずだ。ゆえに一度理性のたがが外れると、喜怒哀楽がはっきりと 表に出る。 「見せないというんなら、お父さんを呼んでくるわよ」 「どうして見せなきゃ、いけないの!」 陽子の言葉を無視して、母親は部屋を出ようとした。 「待ちなよ」 母親の背後で、鋭い声がした。見ると、布団を取って、ベッドに 座っている男がいた。 「あなた、誰?」 母親は今にも卒倒しそうな様子で行った。 「俺か、俺は彼女の恋人だ」 南原がそう言った時には、母親は大声を上げて陽子の部屋を飛び 出していた。