南原光次郎シリーズ5 誘拐者 その1 1 依頼 土曜の午後、千代田区麹町の南原探偵事務所に刑事が訪れた。彼 は決まり悪そうな顔で「食事に行かないか」と所長の南原を誘った 。 大衆食堂で定食を食べ終えた後、刑事は事件の協力をほのめかし てきた。 南原は断わることもなく、黙っていた。刑事はそれを暗黙の了解 ととったのか、勝手に事件の話を始めた。 事件が起こったのは八月十日。誘拐されたのは武井英樹というR 大学の四年生だ。 彼は野球部の部員で、この日も大学の授業が終わった後、午後一 時ごろから部室で他の部員と共に着替えをしていたが、その時、マ ネージャーが部室に入ってきて、見知らぬ女の人から手紙を預かっ たからといって、武井にその手紙を渡したらしい。武井はその手紙 を読むなり、ひどく慌てた様子で、外へ飛び出していき、それきり 、彼は行方不明になった。 そして、その夜、心配する家族のもとに脅迫電話があった。犯人 は息子と引き換えに二百万を要求してきた。期限は翌日正午、場所 はT公園のブランコということだった。 両親はさっそく警察に知らせた。 翌日八月十一日。警察は公園に私服警官を配備させ、武井の父に 身代金を持って行かせた。身代金は偽札を使わず、すべて本物にし た。 指定の時間になった。武井の父はブランコに座って、待っていた 。公園のまわりは昼間のせいか、たくさんの子供が遊んでいた。三 十分過ぎた時だった。武井の父が身代金の入ったバッグをちょっと 地面に置いて、汗を拭いたすきをついて、遊んでいた子供の一人が さっとバッグを持ち逃げした。それに気付いた武井の父親と警察は すぐに追いかけたが、その子供を捕まえた時にはもうバッグは持っ ていなかった。子供の証言ではサングラスをかけた男にこづかいを もらって、バッグを盗んでくるように頼まれたという。まさに白昼 の一瞬の出来事だった。バッグは三十分後、ゴミ箱で発見されたが 、もう中には身代金はなかった。 その後、四、五日は犯人から何の音沙汰もなく、武井の安否も気 遣われたが、一週間後、ひょっこり武井は帰ってきた。だが、武井 は不思議なことに事件のことはまるで知らないらしく、下手な言い 訳をする始末だった。そして、その言い訳を警察が追求すると、武 井はどういうわけか黙り込んでしまった。 南原は刑事の話を聞いても、黙っていた。刑事はただ頼むよとだ け言って大衆食堂を出た。 翌日、南原光次郎は武井に会いに行った。 彼は強引に部室に押し掛けた南原をよくは思わなかったが、刑事 も一緒にいたこともあって、話には応じた。 「武井君、悪いんだが、事件の日、なぜ突然、部室から出ていった のかもう一度話してくれないかな」 刑事が尋ねた。 「またですか……」 武井は溜息をついた。「マネージャーから受け取った手紙に妹を 誘拐したと書いてあったんで、慌てて飛び出して行ったんですよ。 そして、銀行でお金を下ろして、取引場所に行ったら、突然、誰か に薬を嗅がされて気を失ったんです」 「一週間も?」 「そ、そうですよ」 武井は刑事から目を外らして言った。 「取引場所は?」 「S神社の境内です」 「君が意識を取り戻した時にいた場所はどこだい?」 「麹町三丁目の橋西ビルの配電室の中です」 「なるほどね。でも、今の話が本当だとすれば、なぜ家に戻った時 、その話をすぐにしなかったのかな。君は最初、両親に友達の家に 泊まっていたと嘘をついたそうじゃないか。ひょっとして、誘拐事 件なんて知らなかったんじゃないの」 「そ、そう、確かに僕が眠っている間に、誘拐事件が起こっていよ うとは思いもしませんでした。嘘をついたのだって、こんな無様な 目にあったのを隠すためです」 「南原さん、どうですか」 刑事が南原の方を向いて、尋ねた。 南原は腕を組んだまま、何も答えなかった。刑事は仕方なく、ま た武井に質問をした。「妹さんを誘拐したと書かれた手紙はどうし たかね」 「前にも言った通り、配電室で気が付いたときにはもうありません でした」 「そうか」 刑事はちょっとがっかりした。正直言って、何度も尋ねれば本当 のことを言ってくれるという期待があったのである。 「あのう、もう行ってもいいですか。まだ、練習の途中なんです」 「ああ、構わないよ」 刑事が言うと、武井は部室を出て行った。 「南原さん、どうでした?」 刑事がまた南原に声をかけた。 南原は一回、首を横に振った。 「お手上げですか。こっちも困ってるんですよ。正直言って、彼の 証言の裏付けはほとんどとれていないんです。立証できるのは武井 君が午後二時に銀行で金を引き出したということだけ」 南原は刑事の話を聞いているのかいないのか、ただ黙ってタバコ をぷかぷかとふかしていた。 次に南原と刑事は大学内の小部屋でマネージャーの話を聞くこと にした。マネージャーの名前は村上陽子と言った。R大の二年生で ある。 村上陽子はロングヘアの大人っぽい女性だった。物静かで、妙に 落ち着いている。野球部のマネージャーというより、会社の秘書と いった雰囲気がある。 「君の年は?」 刑事は訊いた。 「事件に関係ありますか」 「ない」 刑事はそっけなく答えた。「ただ君がどう答えるかな、と思って 」 「用がないのでしたら、帰らせていただきます」 陽子は椅子から立ち上がろうとする。 「悪かった。怒らないでくれ」 刑事が謝ると、陽子は座った。 「刑事さんが聞きたいのは、武井君に渡した手紙のことでしょう。 それならもう話しましたけど」 陽子は刑事を見て、言った。 「君の口からもう一度話してくれないか」 「いいですわ。八月十日の午後一時ごろだったと思います。部室へ 行く途中で、赤いブラウスを着た若い女性の方がこの手紙を武井君 に渡して下さいと私に預けていきました。私はそれを言われた通り 武井君に渡しました。 それだけです」 彼女はたんたんとアナウンサーのような口調で言った。 「よくわかりました。では、質問しますが、その女性の顔は見まし たか」 「いいえ。いちいち人の顔は見ませんから」 「その女性は若いといいましたが、いくつぐらいですか」 「さあ。なんとなく若いと思っただけです。別に信じてくれなくて も結構ですわ」 「いや、疑っているわけではありません。それで、その女性が渡さ れた手紙に特徴はありませんでしたか」 「さあ。人の手紙はいちいち詮索しませんから」 「質問は以上です。ありがとうございました」 「どういたしまして」 陽子は会釈一つせずに、さっさと部屋を出た。 「やな性格だな。俺の娘もああなっちまうのかな」 刑事が呟いた。 これまで黙っていた南原が刑事に尋ねた。 「彼女の言う赤いブラウスの女の目撃者はいるかって?−−いない よ、残念ながら」 南原はしばらく考えた後、また尋ねた。 「武井の女性関係?−−わかんないな。調べてみますか」 刑事の問いに南原はうなずいた。 「わかりました。それにしても、この事件は本当にやっかいですよ 」 刑事が髪をかきむしって言った。「まず第一に女や子供ではなく 、たくましい体の武井を誘拐したこと。第二に身代金を二百万しか 要求しなかったこと。第三に受渡し場所を人の多い公園にしたこと 。いずれも犯人に不利なのに、なぜか犯人はそれを選んだ。全く誘 拐の定跡に反した事件ですよ」 2.スケジュール 翌週、水曜の午後、南原探偵事務所に刑事が再び訪れた。 「武井はR大野球部の四番バッターで、しかも秋のドラフトの目玉 ですからね、結構、女性にはもててるみたいですよ。でも、仲間の 野球部員の話では武井には特定の恋人はいないみたいですね。南原 さんの勘も外れたようですな」 それが武井の女性関係に関する刑事が調べた返答だった。 「先生を馬鹿にするんなら、帰って下さい」 南原探偵事務所の社員、皆川那美は自分の席から文句を言った。 「いや、馬鹿になんかしてませんよ。馬鹿になんかしてたら、わざ わざ訪ねてきません」 刑事が弁解すると 「あら、そうですか。だったら、きちんと依頼料、払って下さいよ 。それでなくとも、うちの事務所は貧乏なんだから」 と那美はつんと跳ね返す。 「相変わらず、手厳しいな」 刑事は頭をかいて、笑った。「それにしても、何か手がかりらし いものはありませんかね。このところ、捜査がいきづまって、マス コミに叩かれっぱなしですよ」 南原は机に足を上げだし、椅子にもたれながら、ずっと手帳に目 を通している。 「何か書いてあるんですか」 刑事が尋ねると、南原はその手帳を開いたまま、机の上に置いた 。 刑事がのぞき込むと、手帳にはここ数カ月のR大学野球部のスケ ジュールが記載されていた。 「スケジュールと事件が関係あるんですか」 南原は答えなかった。ただ天井を見上げながら、ぼんやりと考え 込んでいた。 「それぐらい自分で考えろってわけですか?わかりました。手帳、 お借りしますよ」 3.女性関係 木曜日。皆川那美は新幹線で大阪に出向いた。 目的は、野球部の遠征先での武井の行動を調べることにあった。 無論、南原の命令である。 R大学野球部は月に一度、関西の大学と練習試合を行っている。 那美は、野球部が大阪に行く都度、利用しているという旅館を訪ね た。 その旅館は小さく古ぼけていた。外見からもいかにも宿泊料が安 いというイメージがある。 引戸を開けると、さっそく仲居が二人応対に出た。 那美は取り合えず、名刺を仲居に手渡し、挨拶した。 「探偵さん……?」 仲居はあまりいい顔はしなかった。「どんな御用ですか」 「月に一度くらいですが、R大の野球部がここに宿泊に来ますよね 」 「ええ。よくご利用いただいてます。それが、何か?」 「その野球部に武井という人がいるのを知ってますか」 那美は武井の写真を見せて、尋ねた。 「ええ、知ってます。この写真の方ですね」 「この武井さんのことについて知りたいのです」 那美が言うと、二人の仲居はちょっと黙り込んだ。何かを隠して いるという感じだ。 那美は少し考えて、思い切った発言をしてみた。 「私、ある女性から彼のことを調べるように頼まれているんです」 「女性から……」 二人の仲居は顔を見合わせた。 「その女性って武井さんとどんな関係だったんですか?」 仲居の一人が訊いた。 「詳しくは話せません。どうしてそんなことを?」 「それは……」 「その女の人って、武井さんに捨てられた人ですか」 「ちょっと、茜ちゃん」 慌ててもう一人の仲居が茜という仲居の発言を止めたが、遅かっ た。 「武井さんって、ここだけの話だけど、プレイボーイで、ここで働 いた瑞穂って子も散々、遊ばれたあげく捨てられたの」 「その子はどうなったんですか」 「やめたわ。あの子はかなり武井さんに入れ込んでたからね。ひょ っとすると自殺してるかもよ」 「住所はわかりますか」 「さあ。実家ならわかるけど」 「それで結構です」 その時、仲居頭が愛想のいい顔で応対に出た。 「いらっしゃいませ。−−ほら、お客様を待たせちゃ駄目でしょ」 仲居頭が仲居たちを叱った。 「どうもすみません」 仲居頭がにこやかに詫びた。 「あの、この人は−−」 仲居が仲居頭に何か言おうとすると、那美が慌てて、 「部屋、空いてますか。一人なんですけど」 と大きな声で言った。 4.行方不明の女 「私、この調査、中止した方がいいと思います」 四日後、那美は疲れきった様子で事務所に帰ってきた。 南原は隅の机にあるパソコンをいじっていた。 「ちょっと聞いてるんですか」 那美は声を強めて言った。 「?」 南原は那美を見た。 「この調書を読んでください」 那美はバッグから大型封筒を取り出すと、南原に手渡した。南原 は封筒から調書を出して、しばらく目を通した。 「武井の女性関係はかなりひどいものです。合宿や対外試合先へ行 くと、必ずといっていいほど女の子を何人も誘って夜の街に繰り出 していたそうです。野球部の監督からもかなり注意を受けていたみ たいなんですが、野球部の主力打者だけに思い切った制裁措置をと れなかったようです。それに武井は女性関係についてはかなり要領 がいいらしく、大学の間で問題になることは全くなかったんですよ ね。 でも、今回の出張のおかけで、重要な人物を捜し当てました。 真島瑞穂という十九才の女性です。四ヶ月ほど前まで野球部の合 宿先の旅館に勤めていました。同僚の話では比較的おとなしく純情 な子で、武井にはぞっこんだったようです。 旅館を退職した理由は詳しくはわかりませんが、同僚の話だと武 井にふられたのではないかということです。 それで真島瑞穂の退職後の行方を追ってみたんですが、現在のと ころ全くわかっていません。実家にも帰るどころか手紙一つも出し ていません。友人宅も同様です。一応、心当たりのあるところはす べて行きましたが、瑞穂さんを見たという情報は全くありません。 警察には捜索願いも出ていますが、こちらも情報は入っていません 。私が思うにこれだけ捜していないとなると、ひょっとして自殺し たんじゃないでしょうか」 南原は同封の真島瑞穂の写真をじっと見ていた。写真の瑞穂は青 い空と光の反射でギラギラと光っている群青色の海を背景に、岬の 端に立っていた。彼女は赤いブラウスを着て、首にはペンダントを かけていた。強い波風でたなびく髪を両手で押さえて何とか立って いると言う感じだった。瑞穂の顔は化粧が薄く、まだ子どもっぽさ が多分に残っている。美人というよりも可愛らしいという印象だが 、若干その顔立ちには暗い影があった。 「何かわかりますか?」 那美が尋ねると、 「いいや」 といって、南原は写真をポケットにしまいこんだ。「それより、 おもしろいものを見せてやろう」 南原は机の引出しから一枚の写真を取り出して、机の上に置いた 。 その写真は銀行内のカメラがとらえた武井の白黒写真だった。写 真の下のフリップに14:05と記されている。 「これは武井が銀行にお金を下ろしに来た時の写真ですね」 南原はさらにもう一枚、机の上に写真を置いた。 その写真は武井が誘拐事件のことでマスコミの前で記者会見をし ている時の写真だった。 「新聞カメラマンの撮った写真ですね。この写真、新聞で見たこと があるもの。この二つの写真に何か関係があるんですか」 南原はその二枚の写真を横に並べると、それぞれ、武井の像を指 さした。 「え、何です?」 那美にはどうにも見当がつかない。 「服装だ」 南原は小声で言った。那美は改めて写真を見比べた。 「あれ、これは」 那美は驚きの声をあげた。「服装が違うわ。白黒の方は半袖の服 だけど、カラーの方は長袖。いったいどういうことかしら。確か武 井はR神社で何者かに眠らされ、その後、ビルに監禁されていたは ずですよね。いつ着替えたのかしら。マスコミの前で会見する前に 着替えたってことかしら」 「いいや、違うね」 那美の背後で突然、声がしたので、那美はびっくりして振り向い た。 「刑事さんか、どこに潜んでたんです」 「人をゴキブリみたいにいわんでほしいな。君達が話に熱中してた ようだから、終わるまで黙って聞いてたんだ」 「スパイ行為ですよ」 「かたいこと言うな。我々だって一生懸命やってるんだから」 「まったくもう。−−それで、違うというのはどういうことなんで すか」 「武井君が誘拐から一週間して自宅に帰ってきた時、私も武井宅に いたのだが、彼は確かに長袖の服を着ていたよ」 「すると武井が誘拐されたのは嘘だってことになりますね。もしか して、武井が狂言誘拐をしくんだってことも」 「それはありえるな。よし、早速、署に連絡しよう。これは大手柄 だぞ」 刑事はもう事件を解決したつもりでいる。 「待ちな」 南原が鋭い声で言った。 「何か?」 刑事は訊いた。 「那美、ついて来たまえ」 南原は椅子から立ち上がると、別室に入った。 「あ、はい」 那美も後に続いて、入ろうとする。 「それなら、俺も」 刑事もついていこうとするが、那美は別室のドアの前で押しとど めた。 「駄目ですよ。ここからは部外者厳禁です」 「そこを何とか」 「後で話してあげますから、ここにいて。それで、いいでしょう」 「わかった」 刑事はしぶしぶうなずいた。 「でも、きちんと情報料はいただきますよ」 那美が笑顔で言うと、中に入ってドアを閉めた。 5.トランク 大阪Sホテル。ここは大阪でも比較的人気のあるビジネスホテル の一つである。十階建てで部屋数は八十。部屋はそれぞれ洋室で六 畳程度の広さだが、ベッド、バス、トイレ、テレビ、ワープロ、フ ァクシミリを完備している。 一人の男がこのホテルに入っていった。一見、ビジネスマン風の 男で、特徴とすれば眼鏡をかけていて、体格がガッチリとしている といことぐらい。特に目立つような男ではなかった。 男はフロントで鍵を受け取ると、近くのエレベーターに乗り、「 8」のボタンを押した。エレベーターは静かに上昇する。エレベー ター内には男一人だけだった。 八階に着いた。エレベーターは間の階には一度も止まることはな かった。 男は慣れたような足取りで、八〇三号室のドアの前まで行った。 その途中でも男は誰とも顔を合わせなかった。 男は鍵でドアを開けると、一、二度左右を見回して、中に入った 。 部屋のベッドには大きなトランクが置いてあった。そのトランク からは何か異様な臭いが漂ってくる。 「意外に腐乱が早いな」 男は顔をしかめて、呟いた。 男はエアコンのスイッチを入れ、さらに部屋中に芳香剤のスプレ ーを噴射した。 ようやく悪臭は薄れたが、依然としてトランクのそばにくると生 臭い。 男は少しばかりためらいながら、トランクを開けた。中はびっし りと大きなビニール袋で埋まっていた。 男はゆっくりとビニール袋の結び目を解いた。 「うわぁ」 男はこみ上げる臭気に口を抑えた。すぐにまたビニール袋の口を 結ぶと、急いで洗面所に行った。そして、嘔吐をした。 「やっぱり腐ってる。早いところ処分しなきゃ駄目だ」 男は真っ青な顔で呟いた。 6.武井の妹 その夜−− 「武井を見失った?」 那美は今にも怒りだしそうな様子で言った。 「面目ない。この四日間、ずっと武井の見張りだろ。疲れて眠っち ゃったんだ」 同僚の尾崎は頭を下げた。尾崎は南原の指示で那美が出張してい る間、武井の後をずっと尾行していたのである。 「じゃあ、今、武井は家にいないわけ?」 「そう。帰ってくるのを待ってるんだ」 「どうしてそんな大切なこと、先生にすぐ連絡しないの。私、先生 に尾崎さんと交代するように言われてきたんだから」 「うちの先生、失敗すると思いっきり給料引くんだもん。俺、今月 で六度目だろう。生活できなくなっちゃうよ」 「私の立場はどうなるのよ」 「頼む。今回だけ身代りになって」 「全くもう。まあ、いいわ。家では智子さんも心配してるでしょう から、早く帰ってあげなよ」 「恩にきるよ。いやあ、那美ちゃんて天使みたいだな」 「見え透いたおせじはいいから、早く帰りなよ」 「それじゃあ、後は頼みます」 尾崎はにこにこ顔で那美にもう一度、頭を下げると、その場を逃 げるように去っていった。 「やれやれ、調子いいんだから」 那美は溜息をついた。 現在、那美のいる場所と言うのは武井の自宅から二十メートルほ ど離れた建築中の住宅だった。とは言っても、当然、家の中ではな く、建築業者が臨時に設置しているプレハブ事務所の中だった。こ こは昼間は現場監督者が使用しているが、夜はほとんど使用してい ないので、有料で貸してもらっているのである。 那美は退屈そうに窓から武井の家を眺めた。まだ電気がついてい る。まあ夜の九時だからとりたてて珍しいほどのことではない。 那美も正直言って出張帰りで疲れていた。 とにかく南原探偵事務所は幽霊社員が多い。南原の話では六人の 社員がいるというが、那美は尾崎しか見たことがない。本当は二人 しかいないのではないかと思う時が多々ある。まず尾崎が四日間も 二十四時間体制で武井を尾行していること。考えてみれば、無謀な 話である。そして、那美にしても、出張帰りだというのに、いきな り張り込み。我ながらよく探偵なんかやっていられるな、と那美は いつも思うのである。 「あら」 武井の家のドアが開いて、中から誰かが出てきた。その影はこち らへ向かって歩いてくる。 誰かしら、と思って見ていると、それは武井の妹、悦子だった。 悦子は高校2年生である。 事務所のドアをノックする音がした。 「どうぞ」 那美が言うと、ドアが開いた。 「あれ、尾崎さんじゃないんだ」 と悦子が言った。 「交代したの……でも、どうして知ってるの?」 「下手な尾行だったから、すぐわかったわ。お兄ちゃんを尾けてい るんでしょ」 「そう。あ、どうぞ座って」 悦子は那美が勧めた椅子に座った。 「いつから知ってるの?」 那美が尋ねた。 「三日前かな」 「本当」 −−あのどじが…… 「それからずっとここへ来てるの?」 「うん。尾崎さんの話、面白いから、退屈しのぎに聞いてるの。そ のかわり、お兄ちゃんの情報を教えてあげてるのよ」 悦子にはあまり事の重要性はわかっていないように思われた。 「今、お兄ちゃん、どこにいるか、わかる?」 「朝、出ていったきり家には帰ってないわ。もしかして尾行に気づ いたんじゃないの」 「有り得るわね」 「お姉ちゃんはなんて名前なの」 「私は那美。皆川那美よ」 「ふうん。私は悦子。言わなくても、名前は知ってるわね」 「悦子ちゃん……」 「悦子でいいわ。面倒だから」 「え、悦子はさ、お兄ちゃんのこと、心配じゃないの」 「別に」 悦子はそっけなく言った。「それより、お兄ちゃんのいったい何 を調べてるの。尾崎さんは教えてくれなかったわ」 「それは……」 「お兄ちゃんが狂言誘拐を企んだかどうか」 「え?」 「一応、私も疑ってるんだ。お兄ちゃん、お金のことで困ってたみ たいだから」 「どういうこと?」 「電話でお兄ちゃんが話しているのを偶然聞いたんだけど、二百万 円がどうのこうのって言ってたわ」 「二百万円ねぇ……」 「脅されていたんじゃないかしら」 「心当たりあるの?」 「ないわ。でも、そういう予感がするの。だって、お兄ちゃんによ く女の人から電話がかかってくるもん」 「同じ人?」 「結構、いたわ。こっちが嫉妬するくらい」 「名前とかはわからないわよね」 「わかるわ」 「本当?ぜひ、教えて」 「条件があるわ」 「条件?」 なんとなく嫌な予感がした。「どんなこと?」 「私を探偵として雇ってほしいの」 「ええっ。そう言われても、私、社長じゃないから」 「だったら、推薦してよ、ね、那美さん」 悦子はニコッと笑って言った。 7.不和 「先生、いないの?」 翌朝、那美は眠たそうな顔で探偵事務所に戻ってきた。尾崎が珍 しく早く出勤していた。 「俺が来た時はいなかったよ」 尾崎は附抜けた声で言った。 「まだ眠そうね」 「そりゃそうさ」 「別に出勤してこなくてもよかったのに」 「先生から電話があったんだ」 「何て?」 「ただ出勤して来いって。仕方なく眠い目をこすりながら来てみれ ばこのざまだ」 尾崎は大きな欠伸を一つした。 「社員を道具ぐらいにしか思ってないからね、あの先生は」 「那美ちゃんは何で探偵なんかやってるの?時間は不規則だし、給 料安いし」 「私は先生を尊敬してるから」 「尊敬?本当は好きなんじゃないの?」 「大きなお世話。そういう尾崎君はどうなの?」 「俺は先生に恩があるからな」 「そういえば本命寺事件では尾崎君の無罪を証明してくれたんだも んね」 「あの事件はもう思いだしたくないよ。それより、武井の家の張り 込みはいいの?」 「助っ人が来たから、いいの」 「もしかして悦子ちゃんのこと?」 「当り」 「学校は?」 「まだ夏休みよ。私が無理にやらせたわけじゃないのよ、彼女から 申し出たの」 「何も俺は言ってないよ。まあ、あの娘なら好奇心旺盛な感じだっ たからそう言うかもしれないな」 「−−でも、困ったわ、先生がいないとなると」 「どんな用なの」 「武井と頻繁に電話のやり取りをしていた女性の名前がわかったの 」 「誰?」 「真島瑞穂。武井が野球部の合宿先でつき合っていた女性の一人よ 。悦子ちゃんの話だと武井は彼女と話をする時は鋭い口調で話して いたそうよ」 「それが事件とどう関係あんの」 「わかんないの?武井が失踪した日、マネージャーを通して彼に手 紙を送った赤いブラウスの女よ」 「その女が真島瑞穂だという証拠でもあんの」 「ないわ。でも、事件の数日前に武井と彼女が金銭のことで電話で もめていたらしいの」 「それだけじゃね。第一、悦子ちゃんはどうしてそんな話をしたの かな。普通なら兄をかばって他人にそんな話をしないと思うけどな 」 「悦子ちゃんの話は嘘だって言うの?」 「そうは言わないけどさ、冷静に考えてみればさ」 「私は冷静だわ!」 那美はちょっと向きになって言った。 「そんな大声で言うことないだろ。那美ちゃん、疲れてるんじゃな いのか、顔色も悪いし」 「当り前でしょ。出張から帰って休みがないんだから。私はね、こ んな一銭の徳にもならない事件、早く解決して、終わりにしたいの よ。大体、どうしてうちの事務所が警察の仕事を引き受けなきゃな らないの、おかしいと思わない?」 「それを俺に言われても……」 尾崎は那美の怒声に圧倒されていた。 「私、もうあんな変態男のことを調べるなんてたくさん!」 那美は机にセカンドバッグをたたきつけた。珍しく感情的な那美 を尾崎は見たような気がした。 「どうした、お二人さん、喧嘩なんかして」 運悪く刑事が事務所に入ってきた。 「気安く事務所に入ってこないで!」 那美は机の上の物を片っ端から刑事に投げつけた。 8.影 金曜日の夜。 村上陽子は大きな溜息をした。 更衣室には陽子一人しかいなかった。いや、もともとこの更衣室 を使用しているのは彼女一人だけだった。というのもR大学野球部 のマネージャーは陽子だけだからである。学期初めは女子のマネー ジャーもかなりいた方だが、結局、選手の応援だけしてればいいと 考えていた者が多く、いざ雑用の多さを目の前にして、さっさと退 部してしまったのである。そういう意味ではもう三年もマネージャ ーを一人で続けている陽子は粘り強い方だ。今では野球部関係者か ら絶対の信頼を寄せられている。 陽子は今日の練習試合のデータをパソコンに入力するのに手間取 って、遅くまで残っていた。 陽子は着替えを終えると、スポーツバッグを両手で持って、更衣 室を出た。 学生会館の廊下はひっそりとしていた。まるで深海にいるような 気分だった。 昼間は見苦しいくらいの壁の落書きも闇の中ではほとんど目立た ない。 陽子は自分の靴音だけを耳に感じながら、廊下を歩いていた。 学生会館は六階建ての建物で、一階を除くと全て部室になってい る。陽子は三階にいた。この階には野球部のマネージャー専用の更 衣室がある。 陽子は階段を七、八段降りた時だった。背後に何かを感じ、足を 止めた。そして、ゆっくり振り向いた。 誰かが上に立っていた。暗くてよくわからない。ただ人であるこ とは確かだった。 「誰なの?」 陽子は強い口調で言った。内心では微かに恐怖を感じていた。 相手は答えなかった。だが、陽子の言葉に答えるかのようにナイ フを取り出した。わずかにナイフの刃先は銀色の光を見せた。 陽子は動かなかった。いや、動けなかった。体がすくみ、大声を 出す自信はなかった。 「た、たすけ……」 陽子は震えた声で言った。 相手は素早い身のこなしで、陽子に飛びかかった。 ピカッ−− 次の瞬間、まばゆい光が陽子と相手を包み込んだ。 相手は目をしかめ、慌てて階段を上り、逃げだした。陽子はその 場にうずくまった。 「暗闇のデートを邪魔して悪かったな」 大型懐中電灯を手にした男はそっけない口ぶりで言った。 「あなたは……確か…西原さん?」 陽子は驚いた様子で言った。 「いや、南原だが……」 南原は困った顔をして、名刺を差し出した。 「助けていただいて、どうも」 陽子はとくに感謝している様子もなく礼を言った。 南原は黙ってコーヒーを飲んだ。 ここはR大学付近の喫茶店。ビルの二階にある比較的狭い喫茶店 である。午後七時という時間帯にしては客は南原と陽子の二人だけ しかいない。 「どうしてあの場にいたんですの?」 陽子は尋ねた。 南原は彼女の質問を聞いていたのか、いないのか、その質問に答 えるまでに五分を要した。 「あんたを尾行してた……」 「なぜ?」 「それは企業秘密ってもんだ」 南原はククッと笑った。 「教えていただけなければ、警察に知らせますわ」 「構わんさ。だが、あんたの身も危うくなるぜ」 「どういうことかしら」 「あんたが武井さんから二百万を取った犯人だってことさ」 「ふふふ、何を根拠にそんなことを?」 「状況証拠は三つ、物的証拠なら二つあるぜ」 南原は余裕のある表情で言った。 「だったら、その証拠を見せてもらいたいわ」 陽子も特に顔色を変えることなく、落ち着いた口調で言った。 「断わる。大事な証拠だからな」 「はったりではなくて。もし証拠があるんなら、警察に教えてさし あげればいいじゃない」 「警察に教えたところで、金にはならん。それよりか、あんたに売 った方が利益が大きい」 「脅迫するの?」 「いいや、推薦してるんだ」 「え?」 「俺を雇わないか、百万で」 「ふふ、何を言うかと思えば。私があなたを雇ってどうしようって いうの」 「ボディーガードさ」 「冗談でしょう。あなたを雇うくらいなら、本職の人を雇った方が はるかに安いわ」 陽子は立ち上がった。「助けてくれたことは感謝しますけど、今 後、私に付きまとったら警察に通報しますわ」 陽子はテーブルの上のレシートを取ると、自分のコーヒーに一口 もつけないまま、レジの方へ歩いていった。 「陽子さん」 南原は陽子の後ろから声をかけた。「真島瑞穂によろしくな」