殺し屋K・Dシリーズ1 毎年、夏になると一人の男のことを思い出す。その男の名はK・ Dといった。彼は殺し屋だった。 私は昔、その男の相棒をしていた。相棒と言っても、仕事の請負 が専門で、人に手をかける仕事は彼の専門であった。その当時の彼 は、一匹狼の殺し屋で、仕事の話の時を除いてほとんど会うことは なかった。しかも、連絡は彼からの一方通行で、私からは全く連絡 がとれなかった。しかし、私はそのことに不満を抱くことはなかっ た。というのも彼は定期的に連絡はよこしてきたし、報酬について 文句一つ言わず、仕事も確実にやり遂げたからである。 彼とコンビを解消して、かれこれ十年になる。今の私は殺し屋と は縁遠い旅行会社の社長だった。 数年前までは、ホテルを経営していたのだが、ある事件をきっか けに……一九八七年の七月のことだった。それは血も凍るような恐 ろしい体験だった。事故の記憶に永遠に残る事件である。 登場人物 K・D 殺し屋 正田 ホテルのオーナー / 正田由美子 正田の妻 正田玲子 正田の長女 / 松島英次 松島健三の甥 正田恵理 正田の次女 1 事件の日の二日前から、私は家族と共に新しく建設中のホテルの 視察もかねて、九州南東の黒飛島に避暑にきていた。この島の土地 を買うことは、私にとって一つの賭だった。それというのも、この 島には観光施設と言うものがまるでなく、実にひっそりとした寒村 で、とても人が集まるとは思えなかったからである。しかし、万に 一つの望みがないわけでもなかった。この島は自然に満ちあふれて いて、空気もうまく、海の水もエメラルドのように深く澄んでいた 。 〈この自然を多くの人に味わってもらいたい〉 そう心に決めた私は、七年前の五月に一年かけて、ホテルを建設 した。開業当時、ホテルを大々的に広告したにも関わらず、反響は 今一つであった。それでも交通に力を入れてからは、徐々に客が集 まるようになり、今ではこの島の営業権は自社の独占であった。 その日は朝の八時頃から海岸に海水浴に出た。しばらくは妻や子 どもたちと泳いだり水遊びをして楽しんでいたが、私の方は年のせ いか疲れてしまい、一足先に砂浜に戻って、ヒニールシートの上に 寝そべって、かんかん照りの太陽の下で、甲羅干しをしていた。 そんな折、私を呼ぶ声がどこから聞こえてきた。−−おや、誰だ ろう。どこかで聞いたような声だ。 ふとみると、私の目の前に二本の足がある。その足のほうから、 ゆっくりと視線をあげると、懐かしい男の姿があった。 「君は……」 私は感激のあまり声が詰まった。 「こんなところで、君を見かけるとはね」 その男は親愛の情を示しながら、私の隣に座った。 「ひさしぶりだなぁ」 「君も元気そうだな」 「お陰様でね」 それにしても何という偶然の巡りあわせだろう。親友とは言え、 裏の世界の人間に再び会おうとは。 彼は顔立ちも体格も十年前と変わっていなかった。 「正田君、ホテルの社長だそうじゃないか。おめでとう」 「それほどでもないよ」 と照れくさくそう言った後、私は少しばかり深刻な顔つきになっ て「それよりもまだ殺し屋をやっているのかね」と訊いた。 「ああ。俺にはその仕事しかないからな」 「そうか。じゃあ、ここへ来たのもただの観光旅行ではなさそうだ な」 これが私の心配していたことだった。なぜなら、ホテルで殺人と 言うことになったら、ホテルの信用を一遍に失ってしまうからだ。 「残念ながらそういうことになるね。でも、君のホテルに迷惑をか けるつもりはないよ」 「今度の標的は誰だい」 「知りたいのかい」 「もちろんだよ。僕のホテルの客なのか」 彼は軽くうなずいて、 「東京のある大富豪様からの依頼でね、松島英次という男なんだが 」 「その名前、聞いたことがあるな」 「ほう、その名前を知っているとは、君もずいぶん雲の上の人にな ったんだね。それなら話すとしよう。松島英次と言うのは有名な総 合電算機器会社、ニュートラルの社長松島健三の甥なんだ。依頼人 の名は言えないけど、健三の遺産の分け前を減らすため殺してくれ 、というのだ」 松島健三と言えば、半年前に癌で入院し、現在では危篤状態だと 聞いている。 「そいつは妙な話だね」 「妙?」 「だって、高々甥に入る遺産なんて大した物ではないだろう、君に 払う報酬を考えたらね」 「うん。でも、そうでもないんだ」 と彼は思わせぶりに言った。 「どういうことだい」 「英次は健三の弟、隆行の一人の息子なんだ」 「なるほど、甥の英次が死ねば、隆行の遺産は健三のものとなり、 その健三が死ねば、その親類たちのものになるというわけだ」 「そうだね。おやっ、君の娘さんが来たようだぜ」 見ると、水着姿の長女の玲子が、歩いてくる。玲子が私が言うの もなんだが、容姿端麗にして才色兼備な私の自慢の娘である。 「あらっ、お客様?」 玲子は隣の南原の顔を見ながら言った。 「こんにちは。加納と言います」 と彼は私に目配せして、言った。私もそれに合わせて、 「彼は学生時代からの親友なんだ」 と言った。 「ふうん。私は玲子といいます。どうぞよろしく。−−それより、 お父さん」 「なんだ」 「ビーチボール知らない?」 玲子はバッグを探しながら言った。 「さあ、知らないぞ。お母さんや恵理と一緒にいるのか」 「うん。もう、海から出て、砂浜で遊んでるわよ」 「そうか。あんまり遠くまで行くなよ」 「わかってるって。じゃあ、加納さん、失礼します」 そう言って、玲子は海辺に向かって走っていった。 「いい娘さんだね。高校生?」 と彼は玲子の後ろ姿を目で追いながら言った。 「君の娘も生きていたら、あのくらいかな」 「そうだな」 「あ、昔のことを言ってすまん」 「かまわんよ。さて、宿へ帰ろう」 と彼が腰をあげた時、海辺の方がざわざわとし始めた。 「何だろう」 私と彼は顔を見合わせると、すぐに騒ぎの現場に駆けつけた。人 混みをかき分けて、前に出た。 「あなた」 妻の由美子が私を見つけて、寄ってきた。 「どうしたんだ」 「正田君、あれを見たまえ」 Dの指さした空を見た時、私は自分の目を疑った。 遠くの水平線の空がごわごわと紫色の雲ぐもに覆われ、照り輝く 太陽を次第に消していく。そして、五分後には水平線から巨大な影 がその頭角を現した。それは人々をあざ笑う悪魔の顔に見えた。私 はこの光景から目を話すことができなかった。 「化物だ!!!!」 「嵐が来るぞ!」 「天変地異の前兆よ」 辺りが前にも増して、騒がしくなった。人々は不吉な前兆を感じ えたのであろう。女、子供はキャーキャー喚きたて、大人たちは子 供を連れて、次々と砂浜へ避難する。こういう時こそ、落ち着かね ばならないのに。 「津波が来るぞ」 「悪魔が襲って来る」 このような異常な暴言が飛び交い、周囲の混乱を招く。人々は一 斉に砂浜を出ようと辺り構わず逃げていく。こうなると、じっとし ていようにも、止まれば人混みに巻き込まれ、ますます危なくなる 。まさに最悪の事態だ。すでに家族の姿も見失ってしまった。 「正田君!」 背後からDの声がした。 「いったいどうしたらいい」 彼は手にしたサックの中から、大型のリボルバーを取り出すと、 頭上に向けて空砲を放った。大きな銃声は、逃げ惑う人々の足を止 めた。 「落ち着け!」 彼は叫んだ。「今から一歩でも動いた奴は俺が殺す」 この言葉には驚くべき効果があった。 「みなさん、あれは単なる雲です。惑わされてはいけません」 私は極力、穏やかな口調で言った。そして、ようやく人々を落ち つかせ、誘導して砂浜から送り出すことができた。 「お父さん!」 玲子が母と妹の四才になる恵理と共に心配そうに私のもとにやっ てくる。 「無事だったか」 「うん。それにしても、加納さん、かっこよかったね。あれっ、加 納さんは?」 「ん、さっきまでいたんだが……」 私は周囲を見回したが、もうDはいなかった。 その夜はホテルの部屋で、床についても、昼間見た雲が目に焼き ついて、寝付けなかった。眠れないのに目をつぶっていると、あれ これ考えが浮かぶ。 Dは何処へ行ったのだろうか。そういえば、彼は何処に泊まった のだろう。確か、Dはこのホテルに泊まる松島英二を殺すと言って いたっけ。後でフロントで調べておくか。 「ねえ、あなた、眠れまして?」 布団の中で私の隣に寝ている由美子が、私の耳元で囁いた。どう やら私と同じ気持ちらしい。 「いいや、昼間、あんな光景を見せられてはね」 「そうね、あれは何だったんでしょう」 「わからん。私は未だに夢ではないかと思っているんだがね」 「とにかく、今日のことは忘れましょう」 「ああ」 私は妻の言うとおり寝ることに専念した。もっとも、本当に眠り に就いたのは午前3時を廻った頃だった。 翌朝、私は電話の音で目を覚ました。由美子が始めに電話に出た が、 「あなた、フロントの佐田さんからよ」 と私に受話器を手渡した。 「ああ、正田だが、……なに!?……わかった、すぐ行く」 私は電話に受話器を戻すと、深い溜め息をついた。 「どうなさって?」 「ホテルの6階の一室で男が殺されたそうだ」 由美子の顔が青くなった。私はすぐに私服に着替えて、部屋を飛 び出した。 果たして殺された男は松島英二なのだろうか。Dは決して私には 迷惑はかけないといったが、あれは嘘だったのか。いずれにせよ、 着いてみればわかることだ。 廊下を歩く間、私の心には、ますます不安が広がっていた。 2 「社長、こ、こちらでございます」 私がエレベーターで6階に着くと、佐田が落ち着かない様子で、 出迎えた。彼は私を見るなり、口をぱくつかせてようやく話し出し たのである。 私は佐田に案内され、603号室の部屋の前まで来ると、 「他の者には気付かれたかね」 「いいえ、いち早く社長にお知らせしようと思いまして」 「賢明な処置だ。では、フロントのマネージャーにも知らせてはい ないのだね」 「はい」 「よし、君は私がいいというまで、黙っていてくれたまえ。決して 事件を揉み消す真似はしないつもりだ」 「承知しました」 「それでは中へ入るとしよう」 私とボーイの佐田は、連れ立って部屋の中に入っていった。中は 和室で六畳ほどの広さである。玄関のすぐ両脇にバスルームとトイ レのドアがあり、そして、目の前の開き戸を開けると、問題の部屋 が見えるわけである。 「死体は部屋にあるのかい」 「え、ええ。戸を開けてもらえば、わかります」 私は全身血だらけの死体が無残に放置されている光景を想像しな がら、戸にぐっと力を入れた。すうっと戸が横に開く。一瞬、私羽 目をつむった。 「そんな馬鹿な、死体がない」 と呟いたのは佐田であった。私が目を開くと、そこには死体も何 も無かった。ただ、中央に木製のテーブルが置いてあり、右隅には テレビ、その横に冷蔵庫、また左手には備付けのロッカーダンスと 、ごくごく平凡な居間である。 「おい、場所を間違えたんじゃないのか」 「そんなはずはありません。確かにここに……」 佐田は唖然として、部屋を見渡していた。どうやら、彼の言うこ ともまんざら嘘ではないようだ。しかし、血だらけの死体が、部屋 の中から跡一つ残さずどうやって消えたと言うのか。実に不可解だ 。 「よく部屋を探してみよう。もしも、ということもある」 私たちは、早速、箪笥や冷蔵庫を開けてみたり、トイレやバスル ームに入ってみたりもした。だが、何一つ証拠はえられなかった。 佐田は大分動揺していた。自分が見たはずの死体がどろんと雲隠れ するように消えてしまったのだから、無理もない。 「佐田君、まず順序立てて聞きたいことがある。いいかね?」 「ええ、何でも聞いてください」 「この部屋に宿泊していた者の名は?」 「確か葉山優二という人物です」 松島英二ではないのか。いや、偽名という事もあり得る。 「君はどうしてこの部屋に来たのかね?」 「男の声でフロントに電話があったのでございます。シャワーの具 合が悪いので、直しに来てくれとのことでした。そこで、私が行っ てみますと、血だらけの死体があった次第でして……」 「ふむ。ともあれ、この事は君と僕の胸に収めておこうではないか 」 「はい、社長にお任せします」 佐田はそういって、部屋を出ていった。部屋に一人残った私は、 もう一度くまなく捜査した。 結局、私が部屋に戻ったのは、2時間後の午前8時であった。多 分、食事にでも行ったのだろう、部屋には誰もいなかった。既に布 団は畳まれ、押入れに収納されている。私は近くの座布団を一枚取 って、それを二つに折って、枕にして、その場に横になった。昨夜 から余り眠っていないせいか、眠気が急に来る。 そうして、私がうとうとしかけた時にパッとあることがひらめい た。 おかしいぞ、これは。私はどうやって部屋に入ったのだろうか。 もし由美子たちが部屋を出たのなら、ドアの鍵は自動ロックで閉ま るはず。だが、現に私はこうして畳の上で寝そべっているのだ。 私は起き上がって、ドアを調べてみることにした。すると、ドア は閉まっていなかった。ドアがちょうど2、3センチのところで止 まっている。何かがつっかえているようだ。察するに私が先ほど、 ドアを開けたわけだから、つっかえた物も下に落ちているはずであ る。早速かがんで、ドアの隙間を見てみると、30センチの定規が 挟まっている。えいっ、と引き抜くとドアが静かに閉まる。 「単純なことだな」 私はつまらないことを真剣に考えていた自分に苦笑した。その時 、突然、ドアがすうっと吸い込まれるように引かれた。ドアに多少 体重をかけていた私はそのままバランスを失って、前のめりに廊下 に転がり出てしまった。その様子を妻や娘がキョトンとした顔で見 ている。玲子はすぐにクスクスと笑い出した。 「あなた、何していらっしゃるの」 妻が楽しそうに聞くと、 「おまえたちがちゃんとノックしないからだぞ」 私は羞恥心で顔を真っ赤にして言った。 「何だ、玲子がドアの隙間に定規を挟んだのか。不用心だな」 部屋に戻り、座布団に座り直してから、玲子に言った。 「そうよ。だって、お父さんがいつ戻ってくるかわからないし、お 父さんだっていちいちフロントに行って鍵を借りてくるのも面倒で しょう」 「しかし、もし泥棒にでも入られたら−−」 なおも、未練がましく言う私に玲子は、 「何事もなかったんだからいいでしょう。ホテルの社長様がそんな 細かいことで文句言わないの」 とはぐらかした。 「あなた、ちょっとお聞きしてよろしいですか」 由美子がお茶を差し出しながら、言った。 「構わんよ」 「昨日、海であなたと一緒に人々を誘導して下さった方は、どなた ですの」 「加納さんでしょ」 横から玲子が口を挟む。 「加納さん?知らないわね」 「高校時代の友人だからね」 「そう、じゃあ、お礼をしなきゃいけないわね」 「いいよ、そんなことしないで」 私は妻の言葉を遮った。私とDとの関係に深入りされてはまずい 。 「でも、それでは失礼じゃないかしら」 と由美子が言うと、 「そうだわ今夜のディナーに招待しましょうよ」 と玲子まで乗り気になっている。人の気も知らないで…… 「ねえ、そうしましょう」 由美子が私を見た。 「仕方ないな」 皆が乗り気では断る理由もないので、承諾するしかなかった。ま あ、夕食までには時間がある。それまでに何とすればいいだろう。 私はテーブルの新聞を取り上げて、広げた。昨日の怪奇雲の記事 が小さく載っている。これで写真を撮った者がいれば、たちまちス クープだ。まてよ、あの海岸にはあれだけの人だかりだ。誰か一人 ぐらいはカメラを持っていて、写真を撮ったに違いない。その写真 があれば、あの雲の正体がわかるかもしれない。こうしちゃおれな いぞ。 私は早速、フロントに電話をかけてみた。応対に出たのは佐田で あった。 「どんな御用でしょうか」 「すぐ、ホテルの宿泊客に聞いてほしいことがあるんだ」 「どのようなことをでしょう?」 「昨日の怪奇雲の写真を撮った者がいるかどうか、調べてほしい」 「はい、承知しました」 「それと、そのことを新聞社へも問い合わせておいてくれ」 「はい、では、いつまでに調べておけばよろしいでしょうか」 「できるだけ早く調べてくれ」 「承知しました、分かり次第お知らせします」 「頼んだぞ」 電話を切ると、まずは安堵の息をついた。しかし、まだ消えた死 体の件も残っていることだし、Dの行方も気になる。まだまだ安心 は出来ないな。私にとってはとんだ休暇になってしまった。 「ねえ、パパ。海に行こうよ」 恵理が私の肩につかまって、甘えてくる。 「パパはね、忙しいから、後で行くよ。先にママ達と行っておいで 」 「なんだ、つまんない」 恵理はプウッとふくれっ面になったが、由美子が海に行く時にな ると、もう機嫌は治っている。 私は、海に行く由美子たちとはロビーで別れ、ホテルに残った。 「さて、Dを捜しにいくかな」 「その心配には及ばないよ、正田君」 「ん?」 私は後ろを振り向いた。目の前には、サングラスを掛けたDの姿 があった。 「何処に行ったのかと思ってたよ」 「君には言わなかったかい、僕の宿泊場所を」 とDは澄ました顔で言った。 「それより、僕は君を捜していたんだ」 「それはさっき聞いたよ。僕だって、君に用があるから来たんだぜ 。おっと、それはそうと、立ち話も何だから、喫茶店でゆっくりア イスコーヒーでも飲みながら、話すとしよう」 私もDの意見に賛同して、ホテル内の喫茶店に入ることにした。 店内は、わざわざ一流デザイナーに依頼して装飾させただけあって 、モダンな造りである。昼間は宿泊客も海に遊びに出ているせいか 、客もさほどいない。私たちは左手の窓際の席に座った。 私はウェイトレスに紅茶を、Dはアイスコーヒーを頼んだ。彼は 自分の注文した飲物が来るまで、ずっと黙り込んで、窓の景色を見 ていた。そういえば、私から先に彼に話し掛けたことはなかった、 と今更ながらに思う。 5分ほどして、注文のものが来た。 「実に厄介なことになったよ」 とDはようやく口を開いた。しかし、厄介なことという割には平 気な顔をしている。もっとも人を殺しても、表情一つ変えない彼な らではの性格だろう。 「標的を逃がしたのかい」 私はホテルで殺された男のことを、念頭に置いた。 「いや、その仕事は昨日、終えたからいいんだ」 「本当かい?」 私は消えた死体の件を話そうとしたが、Dがそれを遮った。 「これは、他の人々を危険に巻き込むかもしれない」 と私を厳しい目で見て、「奴が、僕を口封じのために殺しにきた んだ」 「奴って?」 私は紅茶を啜りながら言った。 「緊急時だから、君にも話そう。そいつの名は松島一彦、健三の長 男だ」 「君の話では、一彦は、松島英次殺害の依頼人だね」 「そうだ、奴は英次殺害の秘密を知っている僕を、最初から殺す気 だったんだ」 「しかし、君にかなう殺し屋なんているのかい?」 「僕の情報ではかなり腕利きの殺し屋を雇ったらしい。ただ、この 仕事の件は君にも話してしまったのだから、君も身辺には十分に注 意したまえ。家族も同様だぞ」 「わかった」 私は急に心配になった。果たして今の私に家族が守れるだろうか 。 「ところで、君の用と言うのは?」 さっきまで深刻な話をしていたDが急に話をかえた。いったい何 を考えているんだ。 「ああ、家内が、昨日のお礼に君をディナーに招待したい、という のだ」 「それはいいねえ、ぜひ、行かせてもらうとするよ」 「それと、昨日の怪奇雲のことだけど」 「あれなら、僕も調べてるよ」 「何か、わかったかい?」 「今ははっきり言えない。ただ、3、4日中には、はっきりすると 思うよ」 「じゃあ、もうある程度はわかっているのかい?」 私は少し興奮気味に尋ねた。 「昔、見たことがあるんだ、あの現象をね」 「だったら、早急に調べてくれないか、金に糸目は付けない」 「しかし、殺し屋が君たちを狙っているんだぞ」 「それは私が何とかする」 私は語気を強くしていった。 「君を信じよう。明後日までには必ず戻る」 「待ってるよ」 私とDは固い握手をした。 その時の私には数日後に迫る恐怖の出来事に気付く余地もなかっ た。 3 Dは飛行機で島を旅立つ前に、三つのことを、私に尋ねた。まず 第一に「この島に警察はあるか」と言う質問で、私は「無論、ある ことはある。しかし、私がこの土地を買う前には、村には駐在所ぐ らいしかなかった」と答えた。 次の質問は前のと同じ様なもので、「この島には新聞社はあるか 」ということだった。それにはさっきと同じように「新聞社はある が、私が土地を買ってから後のことだ」と答えた。 最後の質問は次のようなものだった。 「7年前、君が黒飛島を買うにあたって、村の住人は快く譲ってく れたか」 随分と偏屈な質問だとも思ったが、私の答えは、 「そうだね、もっと反対があると思ったんだけど、案外、たやすく 手に入ったよ」 というものである。 Dは私の答えを聞くと、大きくうなづきながら、何かをつかんだ 様子だった。そして、彼は私に「7年前に引っ越した村人たちの住 所をわかるだけ教えてほしい」と頼んだので、ホテルの書類を引き 出して、ようやく二人の人物の所在を突き止めた。 Dは私から書類を受け取ると、満足そうな顔で旅立っていった。 「とりあえず妻子を安全な場所へ隠さねばなるまい」 私はDを空港まで送り出した帰途のタクシーの中で考えていた。 今から家に帰してしまってはかえって危険だ。かといって、私に殺 し屋から家族を守る力がどれだけあると言うんだ。まして、本当に 狙われているのは松島英次殺害の事実を知るDと私なのだ。 思い悩むうちに、タクシーは街路を走り抜け、ホテルに着いた。 ところで、ここで時間の経過について話しておかねばなるまい。 今は午後二時四〇分。しかし、注意してもらいたいのは、今日は十 三日という事なのだ。つまり、Dと喫茶店で話をしたのが昨日のこ となのである。その訳は、七年前に引っ越した村人の所在を調べる のに時間が掛かったのと、異常な強風のために飛行機の出発が大幅 に遅れたことに問題があった。 ホテルのロビーでは、ボーイの佐田が待っていた。 「社長、私が到らないばかりに、申し訳ありませんでした」 「気にすることはない」 私は穏やかに言った。昨日のこととは、現場に怪奇雲の写真を撮 った者がいたら捜してほしいと頼んだことである。そのことは前に も述べたので、説明はしない。なお、結果の方は彼の言葉通り、全 く収穫はえられなかった。 佐田と別れた後、私は赤絨毯の廊下を伝って、自室に戻った。部 屋には玲子しかいなかった。 「お父さん、お帰り」 座椅子に座っていた玲子が雑誌から顔を上げて、言った。 「お母さんは?」 「恵理とお土産買いにいくって言ってたよ」 「何時語ごろ」 「一時頃かな」 「ちょっと遅いな。もう三時だろ」 殺し屋が襲われたのでは、という不安が私の脳裏を過った。 「落ち着かないわね、どうしたの?」 いつまでも立っている私に玲子が言った。 「何でもない」 私は座椅子に座り、腕を組んで、目を瞑った。落ち着かねば、落 ち着かねば。 突然、電話が鳴った。私はすぐに手を伸ばして電話を取った。 「正田だが−−」 「正田さん、奥さんと子供は預かったぜ。返してほしくば、あんた とDの身柄と見代金三千万用意するんだ。場所はS海岸、明日の午 前四時だ」 電話は切れた。私は顔からすうっと血の気が引いた。とうとう、 妻子が犠牲になった。 玲子も事態を察したのか、私の顔をじっと見ている。 「お父さん、どうかしたの?」 私は娘の言葉に答えることなく、急いで部屋を飛び出し、フロン トへ駆けつけた。ホテルに電話を取り次ぐ場合、必ずフロントに電 話を通すはずだ。 「今、私に掛かってきた電話、誰からだ?」 「はい、竹田と申しておりました」 多分、偽名だろう。それにしても後13時間しかない。三千万用 意することが出来ても、Dをすぐ見つけるのは非常に困難だ。 畜生、どうしたらいい。警察に知らせるか。駄目だ、そんなこと してみろ、正体がばれちまう。それに受渡し時刻が四時と言うのも 気になる。大方、早朝の人気のない海岸を選んで、皆殺しにする気 だ。こうなったら、運を天に任せるしかない。 私はマネージャーの田村に相談した。有能な部下で、もっとも信 頼の置ける男である。 「わかりました。社長の頼みとあらば、すぐ用意致しましょう」 三時間後、田村は三千万を集めてくれた。一方、Dの行方は部下 に捜させているが、依然として不明である。 私はまた犯人から電話が掛かってくるかもしれない、とフロント の電話の前にいた。娘には直接知らせていないが、薄々気付いてい るようだ。 空はナイトブルーに染まり、硝子のごとく砕け散った星々がらん らんと輝いている。遠くでは、波打ち音が、風に運ばれて聞こえて くる。 しかし、私にはそんなことに気にかける余裕は殆どなかった。か えってカチカチと鳴る、壁掛け時計の秒針の音の方が気になってし まう。 こうしてる間にも、哀れな妻子は冷酷な犯人に痛めつけられてい るのだろうか。もしやもう殺されているのでは。 莫大な富を得て、いとおしい妻や子供たちに囲まれて幸福な人生 を送ってきた私に、このような天罰が待ち受けていようとは。やは り、裏に生きた人間には表の幸せをつかむことができないのか。 「お父さん、あ母さんや恵理に何かあったのね」 玲子がカップに入ったコーヒーを二つ、両手で持ってきて、片方 を私に差し出した。時計は午後11時を回っていた。 「心配しなくていい。早く寝なさい」 私はうわずった声で言った。 「お母さんたちが帰ってこないのに寝られるわけないでしょ」 玲子は強い口調で言った。 「わかった、話すよ」 私は事情を打ち明け、玲子を部屋に返した。もっと慌てるかと思 ったが、案外、玲子の気持ちはしっかりしていた。 外で車のエンジンの音がした。しばらくして、ホテルの入口の自 動ドアが開いた。 「D君!!」 私は椅子から立ち上がった。喜びの余り、駆け出してしまいそう になった。 「僕を捜していたようだね。喜びの最中、悪いけど、僕は君に恐ろ しい報せを伝えなければならないよ」 彼は外見ではわからないが、かなり深刻な問題を抱えてきたよう だ。 「あの雲の正体が分かったのかい」 「ああ、わかったとも。恐ろしいことだよ。僕は君に早くそのこと を知らせたくて、明日の飛行機を待たずに高速艇で帰ってきたよ」 Dはいつになく慌てていた。何があるというのだ。 「実は僕の方も大変なんだ。妻と娘が誘拐された」 しかし、彼の反応は変わらなかった。私の話をまるで耳に入って いない。 「そんなこと、今は考えなくていい。とにかく、君のすべきことは 早く島の人々を避難させることだ」 私は腹が立つ前に、彼の鋭い口調に驚かされた。それほど、彼は 真剣なのだ。 「よし、わかった。いつまでに避難させればいい」 「三時間だ」 「三時間だって?」 私は目を丸くした。 「時間がないんだ。警察の力を借りてもいい。力ずくでも人々を外 へ出すな」 私は田村や佐田に指示して、手伝いを頼んだ。それからが大変だ った。ホテル内にいる客は深夜という事もあり、問題なかったが、 街を繰り出した客については捜し出すのに困難を究めた。さらに、 市街地の住民に関しては地元の警察署長に頼んで、無条件で警察の 協力を得たものの、いくら外出禁止を叫んでみても理由がわからな くては納得できないところもあり、説得は難航した。 結局、私が全責任を執るという形で、強制的に街を閉鎖し、午前 三時までには街を歩く者はほとんどいなくなった。 私がこのような冒険に出れたのも、長きに渡る彼との信頼関係以 外にはなにものもなかった。 「君の力は凄いね。警察まで動かせるとは」 Dはロビーの娯楽室でコーヒーを飲みながら言った。 「君にはいつも苦労させられるよ。これで何もなかったら、僕は破 滅さ」 「いいや、事態はこの数時間中に必ず起こる」 「しかしだ、気象庁に問い合わせても、特に何事もないといってる し−−」 「気象レーダーに写るはずないさ。あの奇怪な雲は−−」 Dが言いかけた時、 「社長!」 といって田村が血相を変えて、駆け込んできた。 「どうした?」 「何を呑気なことを。奥様はどうなさるんです」 田村が興奮したように言った。 しまった。あまりの急がしさにすっかり忘れていた。私は時計を 見た。もう一時間しかないじゃないか。 「D君、由美子と恵理が誘拐されたんだ」 といって、私はその犯人の要求が、三千万と僕とDであることを 告げた。 彼はどうにも困ったという顔つきをして、 「行かなくていいよ。たいしたことじゃない」 と、こともなげにいった。 「何!」 私は田村が止めに入らなければ、彼に踊りかかって、殴り倒すと ころであった。私は息を弾ませながら、彼を睨んだ。 「今、外に出ては危険だ」 「由美子が殺されてもいいと言うのか」 私の声はやり場のない怒りに上ずっていた。 「行けば、殺される」 彼は私を強い視線で見た。 「それでも僕は行くぞ」 「相変わらずだな、君は」 彼はゆっくりとソファから立ち上がると、微笑みを浮かべ、私の 目の前に歩み寄ると……突如、腹部に激しい痛みをを感じた。Dが 私の鳩尾を殴ったのだ。私は体を折り曲げて、その場に崩れた。そ れきり、意識が遠のいた。 4 ……ああ、腹がズキズキする。何か悪いもの、食べたかな。いや 、私はホテルにいるのだ。避暑に家族と来ているはず。そこで、あ の奇怪な雲を見て、それから、ホテルで死体が消え、妻子が誘拐さ れた。そうだ、私はDに殴られたのだ。 私はハッと目覚めた。ソファにもたれていた。 「お目覚めですか」 田村の心配そうな顔が見える。 「おい、今、何時だ」 「四時二四分でございます」 「もう時間が過ぎてるじゃないか。なぜ知らせなかった」 「それが……あの方が一人で行くから、決して起こすなとおっしゃ いまして」 田村が困りきったように言う。 「なんてことだ」 私は頭を抱えた。これで私は愛すべき妻子を失ってしまったのだ 。私はいても立ってもいられず、娯楽室を飛び出し、外へ出ようと した。 「お待ち下さい、危険です」 止める田村を振り切り、自動ドアの前に立ったその瞬間、物凄い 羽音と獣の鳴き声に脅かされ、尻餅をついた。あの声は…… 私は動転して、声のする海岸に向かって走り出した。ホテルから 海岸まで十分ぐらいとは言え、ゆうに七百メートルはある。それほ ど、大きい音なのだ。 待ってろ、由美子、恵理。今、助けにいくからな。 誰もいない車道を駆け抜け、S海岸の砂浜に辿り着いた。風がひ どく吹きすさみ、波が荒れ狂い、波打ち際にいつもより深く波が打 ち寄せる。そして、空は朝方だと言うのに、異様な紫だった。その 空気は天変地異の前触れを示していた。 「あれは……」 ついに鳴動する羽音といまわしい鳴き声をあげる魔物が姿を現し た。海岸線の左部の断崖の岩棚から飛び出した恐るべき黒い悪魔。 それは空を食い尽くすかのように、一瞬にして空を黒で覆った。 私は恐怖に取りつかれ、顔を強張らせながら、立ち尽くしていた 。 黒い悪魔はまるで川の流れるがごとく真っ直ぐ私の方へ向かって きた。その距離は私の理解を越えるほど早く縮まった。 「し、信じられん……」 私は目の当たりの光景に思わず呟いた。 鳥……黒い鳥……か、からすだ……私に襲いかかろうとする悪魔 の正体はカラス。それも塊のような大軍勢だった。 一瞬、風が止まった。と同時に雪崩のようなカラスが私を飲み込 んだ。 「ぎゃああああ」 私は悲鳴を上げた。 私はもう体を動かすことが出来なかった。 カァカァカァ……無限に鳴き続けるその声は、死を誘う交響曲の ようであった。 カラスの雨の中に巻き込まれ、爪や嘴の集中攻撃を浴びる中で、 私はその場に崩れ、両手で頭を覆った。服はぼろぼろになり、背中 には生皮を剥がされるような激痛が走った。私は気が遠くなりそう だった。このまま早く殺してくれたら、どんなにか楽だろう。私は 莫大な富を得ながら、家族一人守ることも出来ず、死んでいこうと している。因果なものだ。 私は串刺しの痛みについに意識を失った。多分、死ぬなと思った 。どこかで銃声がする。もう、どうでもいいことだ…… まぶたに仄かな光を受けた時、私は自分が生きていることを知っ た。暖かい光だった。目を開くと、白色の目映い部屋にいた。硝子 の窓からは黄色い光線が差していた。見ると自分はベッドに寝てい た。白い掛け布団が私の胸に掛けてある。体中に包帯が巻かれてい たが、痛みはなかった。ほとんど麻痺しているのだろう。どうやら 、ここは病室のようだ。サイドテーブルには水差しと一通の茶封筒 があった。今、気付いたが、かなり鼻を刺す薬剤の臭いがする。 私は手を伸ばして、茶封筒を取った。「正田様へ」とサインペン で丁寧に書かれていた。封はされていなかったので、中を開いて、 折り畳まれた手紙を取り出した。便箋3枚の手紙で走り書きである 。 「Dが助けてくれたのか……」 手紙を読み終えて、私はホッと息をついて、天井を見つめた。 全ては終わったのだ。恐ろしい事件ではあったが、私にはいい教 訓になった。Dとは最後まで憎んだまま別れてしまった。本当は感 謝の意を表すべきだったのに。 「結局、今度の旅行は私だけが踊らされたみたいだな」 私は苦笑した。 その時、病室のドアが開いた。 「お父さん、気がついたのね」 玲子が病室に入るなり、私を見て、言った。 「あ、ああ……」 私は玲子の顔を見た途端、涙でいっぱいになった。それは悲しみ とも喜びともつかぬ涙だった。 親愛なる正田君へ 君がこの手紙を読む頃は、きっと飛行機の中さ。 せめて、君の容体が回復するまでいたかったが、あいにく忙しい のでね。そこは寛大な君のことだから許してくれるだろう。 今回の事件については話すことが多くて、困ってしまうが、君の 回りに起こったことを中心に話していくとしよう。 四日前、君が見た白昼の海岸の怪現象について、疑問に思うこと も多いはず。なにせ、被害を直接被ったのだからねぇ。 あの現象は君も分かったと思うが、正体はワタリガラスなんだ。 君が黒い雲だといったのは、カラスの大群だったんだね。僕が助け なかったら、今頃は地獄へ真っ逆さまだ。 話を戻そう。僕はあの現象をどこかで見たことかあった。しかし 、君は知らないようだし、そうすると10年以上も前のことになる 。そうでなきゃ、ホテルのオーナーの君が知らないはずないからね 。それに前の島の住人が、住み慣れた土地を簡単に引き渡すのも気 になる。ともかく、君の依頼も兼ねて、引っ越した村人にあってみ た。最初は頑固に口をつぐんでいたが、銃で脅かしたら、あっさり 吐いたよ。その話によれば、ワタリガラスは10年周期で、南へ行 く途中、餌の補給に黒飛島に立ち寄るんだそうだ。今年がその10 年目だったんだね。僕がそれを君に話さなかったのは、君が慌てる といけないからだ。君は昔から慌て者だからね。でも、実際、君は うまくやってくれた。でも、カラスの通った跡はひどいものだ。森 林は裸同然にされるし、畑や田は目茶苦茶。家屋なんかほとんど潰 されてるし、窓硝子の破片なんかそこらじゅうに散らばってる。ま るで台風の跡だね。君には悪いが、あのホテルの復興はかなり大変 だぞ。 さて、もう一つ、君が気になることは、奥さんと恵理ちゃんの行 方だね。大丈夫、元気でいるよ。でも、君とは会えないのだ。 驚かず、心を落ち着けて聞いてほしい。実は僕の仕事の依頼人は 松島一彦ではなく、由美子さんなのだ。内容はもちろん松島英次殺 害だ。その事情は僕から話すので、よく聞いてほしい。 君達は毎年、家族でこの島に避暑に来ていた。全ての間違いはこ こから始まる。一年前、島に避暑に来る際、由美子さんが先に二人 の娘と出発したのを覚えているだろう。ちょうど、七月二七日のこ とだ。 ホテルで子供たちを娯楽室のゲームで遊ばせて、一人で部屋に戻 ろうとした時、松島英次が現れたのだ。奴はロビーで見掛けた時か ら、ずっと目を付けていたのだろう。英次は彼女を巧みに誘って興 味を引き、彼女も奴の術中にはまって、一夜を共にしてしまった。 そうして、二人は互いに愛するようになった。君は憤慨するかもし れないが、女というものは気まぐれなものさ。 それからというものは、由美子さんは忙しい君に隠れて、度々英 次と密会を重ねた。しかし、君に対する両親の呵責に耐え兼ね、英 次に別れようと切り出した。ところが、プライドの高い英次が許す はずがない。夫にばらすぞ、と脅かされ、やむなく交際するしかな かった。そこで、とうとう思い詰めて、僕に依頼したわけだよ。も っとも、僕と君が知り合いだなんて、思いも寄らなかったろうがね 。 だが、英次を殺しても、由美子さんの罪を意識は消えなかった。 しばらく、身を隠したいと言い出した。だから、誘拐事件は考えた 挙げ句の非常手段さ。ところが、ワタリガラスの群勢の件もあって 、思うようにいかなくなった。せっかく、僕が引き止めたのに、君 の頑固さには敬服するよ。後で君の気持ちを聞いて、奥さんは涙ぐ んでいた。 どうだろうか、由美子さんを許してやってくれないか。今は彼女 も反省している。それに彼女が不倫に走ったのだって、君に責任が ないという訳じゃないんだ。 もし君にその気があれば、由美子さんに時間を与えてやってほし い。しばらく、恵理ちゃんと二人で暮らしたい、と言っている。君 が断固として許せないなら、離婚届けも同封しておいた。彼女の判 は押してある。君がいつまでも彼女を待つと言うのなら、いづれ彼 女も連絡先を教えてくるだろう。 以上で、大体の説明をしたが、物足りないだろうか。 そういえば、由美子さんが、君が死体の消えた件で悩んでいると いってたのを思い出した。では、それを最後の締め括りに書くとし よう。 松島英次を殺す際は、出来るだけホテルに迷惑を掛けないように 気をつけた。ところが、英次は僕が殺す直前にフロントに電話を入 れたんだね。英次を殺した後、突然ボーイが部屋に入ってきた時に は、さすがに焦った。多分、君に知らせるだろうから、うかうか出 来ない。とりあえず、死体を窓から外に放り投げた。下は森林だか らね。次に死体から流れた血をどうすべきか考えた。そんな時、ふ とここは和室であることに気付いた。僕は力任せに畳を裏返しにし た。畳の表裏の違いに気付くかと、僕はやきもきしたけど、結局、 君は気付かなかったね。死体はまだ木の上に乗っていると思うよ。 いや、ひょっとするとカラスに食われて、残っていないかもね。 正田君、この四日間は君と巡り会えて、久し振りに楽しませても らったよ。これが僕と君の永遠の別れになろう。もう君は僕の姿を 見ることはないだろうよ。 では、三千万円は頂いて海外に飛び立ちますので、さようなら。 夏を海外で過ごすK・Dより