第42話「魔法石」前編 登場人物 椎野美佳 ファレイヌの使い手。 エリナ 黄金のファレイヌ 神崎彩香 怪盗シルフィーの本名 クロノス 怪盗。実の名はロベール・ボダン ミレーユ 水銀のファレイヌ ゼーテース 悪魔の使徒 プロローグ 小雨の降る夜、トレンチコートの男が人けのない線路沿いの道を 歩いていた。 時はもう午後十一時をすぎ、空は暗雲で覆われている。 男の足取りは一定だった。途中立ち止まるでもなく、コートのポ ケットに両手を深く突っ込み、帽子を目深に被りながら、同じテン ポで真っ直ぐ前を歩いている。 男の通る道は、異様なほど静かであった。金網のフェンスを挟ん だ右側の線路帯は朝まで電車が通ることはなく、闇に飲み込まれた 空虚な空間と化していた。また道の左側に立ち並ぶ小さな工場も闇 と同化し、死んだように静まり返っている。 「6人か……」 男は緩い坂を上り切ったところで、ぽつりと呟いた。 男はここで初めて足を止めた。 「出てきたらどうだ。人の後をこそこそ付け回さないで」 男は大声で言った。その声が闇全体にこだまする。 「あなたが怯えて逃げ出すのを待っていたのよ」 その時、女の声が暗闇から聞こえたかと思うと、男の回りを囲む ように闇の中から6つの影が現れた。 「やっと現れたな」 男はにやりと笑って、言った。 六つの影はみな闇と同化するように黒い覆面に黒いスーツを着て いた。 「俺に何か用か」 「魔法石を返して頂こうか」 リーダー格の賊が言った。 「さあ、何のことだ」 「惚けても無駄だ、クロノス。おまえが石を持っていることはとっ くに分かっているのだ。なぜなら、おまえはその昔、私の肉体を葬 り去った悪魔捜し屋の子孫なのだからな」 リーダー格の賊は男とも女ともつかぬ奇妙な声で言った。 「貴様、何者だ」 クロノスの目が鋭くなった。 「わたしか、わたしはおまえの殺したがっている悪魔だよ」 リーダー格の賊は黒い覆面を右手で取った。 「貴様は……」 クロノスの表情に驚きの色が現れた。目の前のリーダー格の賊の 顔は鈍い輝きを見せる銀色だったのである。 「貴様はミレーユ……」 「その通り。またの名をバフォメットとも言う」 ミレーユの輪郭だけの銀色の顔がわずかに笑った。 「バフォメットだと」 「そう。わたしは、おまえの子孫が殺したはずのバフォメット」 「馬鹿な。そんなわけがあるはずがない。おまえは我が祖先にフェ リカの肉体ごと葬られたはずだ」 「葬られたのは肉体だけ。クレールの時のようにね」 「嘘だ……貴様がバフォメットなら、その体は……」 「ふふふ、わたしもファレイヌになったのだよ、自らね。本物のミ レーユはとっくに死んでるわ」 「何だと……」 「そんなに驚くこと。大体、人間ごときが悪魔を倒せるとでも本気 で思っているのかい。わたしはね、あの時、わざと悪魔捜し屋に捕 まったのさ」 ミレーユは男の声と女の声の混じった妙なしゃべりで言った。 「どういうことだ、それは」 「ふふふ、わからないのかい。あの当時の世界は我々の住める世界 ではなかったと言うことさ。もしあの当時、わたしがその気になれ ば、三日で世界征服は出来たわ。けど、あの時の世界では人間の体 から悪魔として誕生したわたしだけしか生きられない。わたしが魔 界から仲間を呼び寄せたところで、地球の自然の浄化機能の前に彼 らは滅びてしまうだろう。いくら神のわたしでも自然のサイクルは 破壊することは出来ない。利用することは出きるがな。だから、わ たしは待つことにしたのよ。人間が自ら自然を破壊するまでね」 「貴様は人間が自然を破壊することを予見していたというのか」 「そうよ。だからこそ、わたしはおまえの祖先に捕まる前に自らの 能力を教会の12人の女に分け与え、ファレイヌにした。そして、 わたし自身もファレイヌとなることにより、我が息子が誕生するた めの土台作りをしてきたのだ」 「我が息子……まさか、椎野律子の体にある培養石は」 「その通り、あれはわたしの子供。わたしは自らファレイヌになる 時、世界征服の夢をわが子に託したのだ」 「驚いたね、フォルスノワールの首領がバフォメットだったのか。 すっかり騙されたよ」 「それはお互い様さ。わたしも最近までおまえが魔女捜し屋の子孫 だとは知らなかった。そして、魔法石も持っているという事をね」 「これからどうするつもりだ」 「魔法石は返してもらうわ。あれがなくては我が息子を誕生させる ことは出来ないからねえ」 「もし断ったら」 「殺す」 「返したって殺す気だろう」 クロノスは周囲を見回しながら言った。 「いいや、魔法石を素直に返せば、おまえに用はない。どこへでも 消えるがいいさ」 「信じられんね、そんなことは」 「だったら、死ぬがいい。ここにいるわたしの親衛隊は容赦はしな いぞ」 クロノスを囲む5つの影が一歩、近づいた。 「俺を殺せば、魔法石の場所がわからなくなるぜ」 「ふふふ、どうかな。わたしはファレイヌだ。どんなにおまえの意 志が固くても、死に際のおまえの脳に入って、記憶を辿れば、すぐ にわかる」 「くっ」 クロノスはミレーユを睨み付けた。 −−どうする。こいつは最悪だぜ。 クロノスは考え込んだ。 「さあ、教えてもらおうか」 「ふっ、わかったよ。魔法石だな」 クロノスはコートのポケットに手を入れ、ボールのような物を取 り出した。 「これが魔法石さ」 クロノスはそのボールを地面に叩きつけた。その途端、ボールが 割れて、眩い閃光が起こった。 「うわっ」 親衛隊たちはその眩い光に思わず目を覆った。その光が消えた時 には親衛隊の囲いの中にクロノスの姿はなく、ただ脱ぎ捨てられた コートだけが残っていた。 「くそっ……。総統、申し訳−−」 親衛隊の一人がミレーユの方を向くと、そこにはミレーユの姿も なかった。 * * * * * 「うまく逃げたかな」 クロノスは自分の車に戻ると、大きく息をついて、運転席のシー トにもたれた。 「しかし、驚いたな。ミレーユがバフォメットだったなんて」 クロノスはシガレットケースから葉巻を取り出して、ライターで 火を付けた。 「ふうっ」 クロノスは大きく煙を吐き出した。 −−俺をわざわざ狙ったところを見ると、今頃屋敷は荒らされて るな。さて、これからどうしたものか。 クロノスは煙草を吸殻入れにすりつぶし、車を発進させようとエ ンジンキーに手を掛けた時、何気なくバックミラーを見た。 「!!!」 その時、クロノスは一瞬、声が出なかった。バックミラーには 銀色の顔が映っていたのである。 「気づくのが遅かったな、クロノス」 後部座席から声が聞こえた。 「400年前にわたしが味わった苦しみ、おまえに味合わせてやる ぞ」 背後のミレーユが高らかに笑った。 「そううまくいくかな」 クロノスはポケットから黒い石を取り出した。 「むっ、それは」 「ミレーユ、さらばだ」 クロノスが呪文を唱えると、突然、黒い石が光り出し、と同時に クロノスの体が運転席から消えた。 「ちっ、逃げられたか」 ミレーユは運転席のシートの頭を強く掴みながら、呟いた。 1 同じ頃、ミレーユの指令でフォルスノワールの総統親衛隊がクロ ノスの屋敷を襲った。 彼女たちは屋敷の外を見張っていたクロノスの部下たちを次々の 殺害して強引に屋敷内に押し入ると、寝ていた家政婦を殺害し、さ らに執事を椅子に座らせてロープで縛り付けてから、部屋中を捜索 した。 「一体、何なんだ、あんたたちは」 執事と同じ部屋で部下の報告を待っていた親衛隊の作戦隊長エル ザに、執事は必死の思いで言った。 「ちょっと捜し物をしているのよ」 黒い覆面をかぶったエルザは執事の方を見て、言った。 「か、金か、それとも美術品か」 「ふふ、どちらも違うわ」 「こんなことをして、ただではすまさんぞ!」 「ほお、老人にしては威勢がいいわね。でも、おまえも今日で仕事 はクビよ。もうすぐこの家の主人は死ぬことになるのだから」 「き、貴様、旦那様に何をした!」 執事の顔が険しくなる。 「まだ何もしてないわ。これからよ」 エルザはにやっと笑った。 「……」 執事は歯をぎゅっと噛みしめながら、下を向いた。 「隊長、どこにもありません」 部下の一人がエルザに報告に来た。 「よく捜せ!奴のことだ、必ずどこかに手掛かりを残してるはずだ 」 「隊長、この老人を絞め上げてみては」 「こいつは人質だ。下手に締め上げて死なれても困る」 エルザは執事をちらりと見やって、言った。 「隊長、地下にもありません」 続いて部下の一人が報告にやって来る。 「もう一度、捜せ」 エルザはそういって、部下を追い返した。 「奴め、魔法石をどこに。ん、待てよ、奴には確か相棒がいたな− −フレイア!」 エルザは親衛隊の一人を呼んだ。茶色い目の黒い覆面をした女が やってくる。 「エルザ、何かしら」 「日本支部のR部隊に連絡して、シルフィーの逮捕に当たるよう伝 えてくれ」 「了解」 フレイアは小さく敬礼して、部屋を出ていった。 2 それから1時間後、怪盗シルフィーこと神崎彩香は閉店間際のパ チンコ店にいた。店内の客はほとんど帰り、彩香一人になっていた 。 「畜生」 パチンコの玉が全てなくなり、彩香はカッとなってパチンコ台の 窓を叩いた。 「お金、あったかな」 彩香は財布入れを覗いた。もう30円しか残っていない。「あら ら、帰りの電車賃もないよぉ」 「お客さん」 その時、彩香の横で店員が声をかけた。 「何だよ」 「もう閉店なんですけど」 「閉店だって。冗談じゃない、私が出す前に閉店しようって言うの 。それじゃあ、食い逃げじゃないか」 「そうは言われましても、そろそろ閉めないと近所迷惑になります ので」 「ちっ、わかったよ。帰ればいいんだろ。もうこんな店、二度と来 ないからな」 彩香はそういうと、椅子を蹴っ飛ばして、店を出ていった。 「あーあ、12時30分か。歩いて帰るには遠いし、タクシーはも ったいないし。こんなことなら、さっきの店員から財布でもすっと くんだった」 彩香は小雨の降る夜道をぶつぶつ言いながら、歩いていた。 「ん」 とその時、脇道から黒い影が現れ、突然彩香に背後からはがいじ めにすると、強引に脇道の方へ引っ張っていった。 「このやろ!何すんだよ」 彩香は激しく暴れた。 「しっ!静かにしろ」 黒い影は彩香の口を抑えた。しかし、彩香は暴れるのを止めない 。 「俺だ、クロノスだ」 「クロノス?」 男の言葉に彩香は抵抗を止めた。そして、後ろを向いた。「本当 だ、クロノスだ……」 「やっとわかったか」 クロノスは彩香から手を放した。「随分、探したぞ。呑気にパチ ンコなんかしてやがって」 「あたしの勝手でしょ。それより、どういうつもりよ、突然私に飛 びかかって。そんなに私の体が欲しいわけ?」 彩香は少々不機嫌に言った。 「つまらん冗談は抜きだ、それより大事な話がある」 クロノスは周囲に人がいないのを確認しながら、言った。 「大事な話って」 「俺は明日、椎野律子を始末する」 「律子を?どうして」 「それをおまえに説明しても理解できまい。いいか、シルフィー、 よく聞け。もしこの先、俺が死ぬようなことがあったら、この石を 誰にも手の届かないところへ捨てるんだ」 そういうと、クロノスは魔法石を彩香の手に預けた。 「死ぬって、どういうことなの?」 彩香が心配そうな顔をして、言った。 「シルフィー、短い付き合いだったが、おまえと仕事が出来た2年 間は楽しかったよ」 「クロノス……」 彩香はクロノスを見つめた。クロノスの顔は既に死を覚悟した男 の顔だった。 「おまえも狙われるかも知れない。ここに50万あるから、自宅に 戻らないでこのまますぐに日本を出ろ。そして、魔法石を処分する んだ。絶対にだぞ。この石がもし椎野律子に渡れば、大変なことに なる」 クロノスは札束の入った封筒を渡した。 「大変なことって」 「悪魔が誕生する」 「悪魔?」 「とにかく時間がない。シルフィー、後は頼んだぞ」 クロノスはそういうと、闇の中を走り去っていた。 3 翌朝、午前8時15分。ビジネス街の一角にある園本ビルの前は 出社する会社員で賑わっていた。その中には、このビルの加茂川物 産に勤めている椎野律子の姿もあった。 律子はごく普通のOLの服装に、ベージュのコートを羽織ってい た。新年が開けて、まだ1月余り。冬の寒さは依然として衰えてい なかった。 「おはよう、椎野」 ビルの1階ロビーで律子は同僚の石田里子に声をかけられた。石 田は唯一、律子と同期の社員で、私生活でもいい友達だった。 「ねえ、律子」 「ん?」 「最近、誰かにふられた?」 エレベーターを待ちながら、石田はさりげなく言った。 「どうして」 「化粧の乗り悪いもん」 「ほ、本当に?」 律子が不安げな顔をする。 「ウ・ソ・よ」 石田はクスッと笑って、言った。 「な、何よぉ。失礼ね」 律子は顔を真っ赤にした。 その時、エレベーターのドアが開いた。律子たちを含め待ってい た10人ほどが乗員が全て降りてから、エレベーターに乗り込む。 律子たちは一番、ドアに近いところにいた。 「何階ですか」 律子は自分が下りる8階のボタンを押してから、他の乗員に尋ね ると、9階、10階、11階と次々に声がする。律子は指定された 階のボタンを全て押すと、エレベーターが動き出した。 エレベーター内は満員であった。エレベーターが動いている間は 、なぜかエレベーター内は沈黙に包まれる。律子も同僚の石田が隣 にいるにも関わらず、口も聞けなかった。ただ黙って上の階数表示 ランプを見ているだけ。それは他の社員も同じだった。いや、ただ 一人だけ違った人間がいた。それは律子の後ろに立っていた男だっ た。彼は一見会社員風で中肉中背のこれといった特徴のない男だっ たが、まさしくこの男こそ変装をした怪盗クロノスだった。 −−椎野律子、世界の平和のために君には死んでもらう クロノスが左手中指にはめた指輪の表のボタンを押すと、指輪の 裏から小さな針が飛び出した。 −−この毒針にはストリキニーネが塗ってある。こいつで刺され れば、どんな人間でもいちころだ。君をこいつで殺すのは一重に君 を楽に死なせるためなのだよ。 クロノスは左手を広げ、ゆっくりと椎野律子の首筋に近づけた。 だが、途中でクロノスはなぜか手を止めた。 それは背中に固い棒のような物を押しつけられたからだった。 「目の前の敵に気を取られて、背後の敵に気が付かないとはな」 クロノスの背後から低く冷たい男の声が聞こえてきた。 「何者だ……」 クロノスは振り向かず小声で尋ねた。クロノスと背後の男のやり 取りを周りの人間は全く気づいていない。 「ふふ、ゼーテースだ」 その瞬間、クロノスの背後にいた男の手にした拳銃が連続して火 を吹いた。 パン!パン!パン!!! それと同時にエレベーターが8階で止まり、ドアが開く。 「うごっ」 背中に銃弾を食らったクロノスは最後の力を絞って、倒れ間際に 律子の首に毒針を刺そうとした。だが、律子はエレベーターを下り てしまったために、クロノスの最後の攻撃が空振りに終わった。ク ロノスはそのまま前のめりに倒れる。 それはわずか数秒の出来事だった。この出来事を目の前にして、 エレベーターにいた他の者は動くことも声を上げることも出来なか った。 律子は銃声を聞いてから、1秒後に振り向いた。 目の前にはクロノスがうつ伏せに倒れ、その後ろには拳銃を握り しめた長身の男が立っている。 「きゃあああ」 律子と一緒にいた石田里子がクロノスの死体を見て、悲鳴を上げ た。その声に一瞬、呆然としていた律子は我に帰る。 −−いない!! 律子は目をこすった。エレベーターに拳銃を持った男がいないの だ。 エレベーターはクロノスの死体が邪魔して、ドアが閉まらず、ず っと止まっていた。だが、律子は死体のことより消えた男のことが 気になっていた。 4 その日の昼休み、律子はエレベーター射殺事件の捜査に当たって いた警視庁捜査一課警部補、牧田奈緒美を近くの喫茶店に食事に誘 った。奈緒美と律子とは幼い頃からの親友である。 「ねえ、何かわかった」 律子は席に着くなり、早速質問を投げかけた。 「そう慌てなさんな。コーヒーを飲んでから、ゆっくりと」 奈緒美はウエイトレスにコーヒーを二つ注文した。 「コーヒーなんて後でいいわ。私の目の前で人が死んだのよ!」 律子は向きになって、言った。 「わかったわよ。被害者の名前はロベール・ボダン、37才、独身 。世界的に有名な美術評論家であり、美術品のコレクターでもある わ。死因はまだわからないけど、まあ銃で撃たれたことに原因があ ることは確かね。弾丸は22口径。貫通している弾丸は一発もない わ。多分、犯人は律子に当たらないように威力の弱い銃で撃ったの ね」 「彼は何で殺されたの?」 「さあ。何の目的でこのビルに来たのかもわからないわ。ただ一つ 、可能性があるとすれば、この男は律子を殺そうとしたのかもしれ ないってことよ」 「どういうこと?」 「ボダンの左の中指には毒針付きの指輪がはめてあったわ。しかも 、針が出ていた。殺すつもりがなければ、指輪から針を出さないで しょ」 「なるほど。でも、どうして私を殺そうと?私、ボダンなんて人に 見たことも会ったこともないのよ」 「あんたが知らなくたって、相手は知っていたかもしれないわ」 「……。それでボダンを殺した犯人の手掛かりは?」 「全然。そもそもどうやってエレベーターから消えたのか不思議ね 」 「犯人は男よ、長身の。何ならモンタージュ作りに協力してもいい わ」 律子は思い出すようにして言った。 「それは助かるわ。でも、その言い方からすると、犯人に心当たり はなさそうね」 「当たり前でしょ」 律子はムッとした。ちょうどその時、ウエイトレスが注文のコー ヒーを運んできた。 「随分、冷たいのね。少なくとも、犯人はあんたが襲われるところ を助けてくれたのよ」 「助ける?私はそうは思わないわ。本当に助ける気があるなら、エ レベーター内で拳銃なんか絶対に使わないわ」 「そういう考え方もあるわね。ああ、そういえば、事件に関係ある かわからないけど、面白い情報があるわ」 「何?」 「実は昨夜、午前4時頃、ボダンの自宅で火事があったのよ」 「それで」 「自宅は全焼。焼け跡から二人の黒こげの女の死体、庭には4人の 警備員の死体が発見されたわ」 「それってどういうことなの?」 「さあ。ただ何者かがボダン邸に襲撃をかけたことは確かね。しか も、複数で。多分、プロの仕業ね」 「どうしてプロだと?」 「警備員の殺し方が全て一撃だわ。さらにボダン邸に仕掛けられた 警備システムが全て切られてる。ただの素人にこんな真似はできな いわ」 「そうね……目的は何なのかしら」 「現在、捜査中だけど、かなり邸内を引っかき回しているところか らすると、何かを探していたのかもしれないわね。うちの方でも何 とか手掛かりを掴もうと行方不明になっていた執事とボダンを捜し ていたんだけど、まさかボダンをこんな形で発見できるとはね。本 来、被害者であるはずの彼がなぜあんたを殺そうとしたか。全く謎 だわ」 「執事さんはまだ見つからないの?」 「ええ。私の推理ではボダン邸を襲った奴らに連れ去られた可能性 が濃いわね」 「奈緒美、この先、私はどうしたらいいのかしら」 律子はコーヒーを口にして、言った。 「しばらく身辺には気をつけるのね」 「それだけ?」 律子は不満そうに言った。 「そうよ。あんたが本当にボダンに狙われたのかもはっきりしない し、そのボダンも死んだんだから、ガード付けるわけにも行かない でしょ」 「そんなぁ。私、怖くて仕事に集中できないわよ」 「だったら、妹をガードに付けたら。頼もしいわよ」 「奈緒美!」 律子が奈緒美を睨む。 「ふふ、冗談よ」 奈緒美は微笑んで、冷めたコーヒーを飲んだ。 5 その夜、ミレーユは東京湾の沖合にモーターボートを止めて、一 人の客を待っていた。 ボートの周囲は闇で、穏やかな波の音だけが絶え間なく聞こえて いた。ボートのタイプは排水量型で、V字船底型。格別珍しいもの ではない。 ボートに乗っているのはミレーユ以外に、一人の老人が乗ってい た。その老人は船室の中でロープに縛られ、床に放り出されていた 。彼女は船室の外の椅子に座り、海を眺めながらワインを嗜んでい た。 ほんの30分ばかりそうした時が続いていると、ほどなく別のモ ーターボートのエンジン音が聞こえてきた。ミレーユが音の方を見 ると、遠くの方で小さな明かりが見える。 「やっと来たわね」 ミレーユはぽつりと呟いた。 ミレーユはボートのライトを点滅させて、近づいてくるモーター ボートに合図した。すると、向こうのモーターボートのライトで合 図を返してくる。 しばらくして、カセドラル型のモーターボートがミレーユのボー トのすぐ傍まで来た。 ミレーユはワイヤーを投げ、こちらのボートにつなぐように相手 のボートの運転手に指示した。 「その必要はないわ」 と声がしたかと思うと、黒い影がカセドラル型のボートからミレ ーユのボートに飛び移った。 「身軽だな」 ミレーユはにやっと笑った。 「あなたね、クロノスを殺したのは」 船室の上に立った彩香はミレーユを見下ろして、言った。 「ふふ、そうだといいたいところだが、残念ながら違うな。奴を殺 したのはフェリカ、いやゼーテースだ」 「ゼーテース……」 彩香の顔が曇った。 「それより、おまえの方から魔法石を返しにくるとはな」 「ただで返すとは言ってないわ。あくまで執事さんと交換よ」 「執事なら縛って船室に転がしてある。勝手に持っていくがいいさ 」 ミレーユはそういうと、船室のドアを開けた。 「あなたは向こうの船に移ってちょうだい」 「魔法石は?」 「ここにあるわ」 彩香はベルトポケットから黒い石を取り出し、見せた。「さあ、 移って」 「よかろう」 ミレーユは彩香のボートに飛び移った。 彩香は船室の上から下りると、船室に執事がいるのを確認してか ら、ボートのエンジンをかけた。 「さあ、返してもらおうか」 「いいわ」 彩香は魔法石をミレーユに向かって投げた。しかし、それは勢い よくミレーユの頭上を越え、ボートの反対側の海に落ちた。 「貴様ぁ、よくも」 ミレーユは彩香を睨み付けた。 「ほらほら急がないと、石が海の底へ沈んじゃうわよ」 「ちっ」 彩香の言葉にミレーユは慌てて海に飛び込んだ。 「ふふふ、お馬鹿さん」 猛スピードで海を突っ走りながら、彩香はくすっと笑った。 6 同じ頃、律子は夕食の席で妹の美佳に朝の事件のことを話してい た。 「最近、やっと命を狙われなくなったと思ったのに、最悪よ。まし て、助けられたのが、フェリカだったなんて」 律子は大きくため息を付いて、言った。ところで一つ注意してお くと、律子はフェリカの正体がゼーテースであるということを知ら ないし、自分の体内にバフォメットの卵があることも知らないので ある。 「でも、テレビに出られたんだから、いいじゃない。マスコミのイ ンタビューで大変だったでしょ」 美佳は新聞の夕刊を読みながら、言った。 「そう、普段インタビューなんてされたことないから照れちゃって ……ちょっと何言わせるのよ。この際、そんなこと関係ないでしょ 」 律子はご飯粒を飛ばして、怒った。 「間違いないわ」 美佳は新聞を真剣に見つめて、呟いた。 「どうしたの?」 「ううん、何でもない」 美佳はパッと新聞を畳んで、空いた椅子に放り投げた。 「何でもないって、美佳、何か隠してるんじゃない」 律子は疑るような目で美佳を見た。 「ごちそうさま」 美佳は食器をもって、席を立つと、流し場へ運んだ。 「ちょっと美佳」 律子が気になって、声をかける。 「ごめん」 美佳は律子に背を向けて、言った。 「え?」 「姉貴を守ってあげられなかったね」 「何言ってるのよ、私はそんなこと、気にしてないわ」 「でも……」 美佳はそういうと、パッと駆け出して、自分の部屋に閉じこもっ た。そして、すぐに鍵をかけ、ドアに背中を付けた。 −−間違いない、あの夕刊に載っていたボダンの写真はクロノス だ。奴がクロノスだったんだ。エリナ、奴はどうして姉貴を襲った のかしら? 美佳は心の中で十字架のペンダントに変形している黄金のファレ イヌこと、エリナに呼びかけた。 //ソフィーが以前、クロノスとバフォメット復活を阻むために 同盟を組んだと言ってましたよね。だとすると、クロノスが律子さ んを殺そうとしたのは、バフォメットの卵を破壊するためというこ とになりますね −−そっか。それなら、ゼーテースがクロノスを殺した理由にも 納得いくものね //どうします? −−どうするも何も私たちに何が出来るって言うの。もしバフォ メットのことを姉貴に教えたら、姉貴、ショックで自殺するわ //そうですね。でも、まだ律子さんが狙われる可能性がありま すわ。確かクロノスにはシルフィーという相棒がいましたでしょう −−そういえば、そんな奴がいたわね。あの女は私を殺そうとし たぐらいだから、姉貴だってやりかねないわ //いずれにしても律子さんからは目が離せませんね −−うん 美佳は小さく頷いて、天井を見上げた。 続く