第39話「暗示効果」 登場人物 椎野美佳 ファレイヌの使い手。 椎野律子 美佳の姉 牧田奈緒美 警視庁刑事 プロローグ 「ああ、すっかり遅れちゃった」 小島聡美はアルバイト先の喫茶店への道のりを自転車で懸命に走 っていた。彼女は普段はとある私立大学に通う学生で、今日行くバ イト先はまだ二日目であった。昨日は友達に夜遅くまで飲みに付き 合わされ、すっかり寝坊してしまったのである。 彼女は2車線しかない細い道の歩道を走っていた。時間も午前十 時を過ぎたせいか、朝ほど車の通りも人の通りも少ない。 こういう時は自転車走行でもスムーズなので聡美にとっては快適 だった。しかし、そんな聡美の自転車を一台の白い車がいつからか 尾行していた。 「すみません」 自転車で走っている聡美の後ろから呼びかける声がした。聡美は 最初は気にもとめなかったが、何度か呼び止められ、ようやく気づ き、後ろを向いた。すると、白い車に乗った男が声をかけてきた。 「すみません、道を聞きたいのですが」 本当なら急いでいたので無視してしまいたいところだが、まわり には他に人の姿もなく、男も困ってる様子なので、仕方なく聡美は 自転車を止めた。そして、車も聡美の自転車の横に止まった。 「すみません、急いでるところをお引き止めして」 男は申し訳なさそうに言った。 「いいえ」 「私はこの辺、初めて営業で回るんですが−−ちょっとこの地図を 見てもらえますか」 男は運転席から地図を見せた。 「どこですか」 聡美は自転車を下り、運転席に近づいて、男の手にした地図を覗 き込もうとした。その時だった。 プシュッという音がして、聡美の首筋に何かが撃ち込まれた。聡 美はビクッと体を振るわせたかと思うと、体が石のように動かなく なった。 「ふふふ」 車の男は地図の下に隠していた銃を懐にしまうと、気味の悪い笑 みを浮かべて、その場を走り去っていった。 一人、歩道に残された聡美はしばらく目を見開いたまま、彫像の ように立ち尽くしていた。 「あれっ、わたし、何してるんだろ」 やがて、聡美はふっと我に帰った。「どうしてこんなところに立 ってるのかしら」 聡美は何気なく腕時計を見た。 「あっ、いけない、もうこんな時間だ。早くお店に行かなきゃ」 聡美は慌てて自転車に乗ると、急いで走り出した。 1 殺意? 一九八六年十一月、東京は例年になく早い冬を迎えていた。気温 は十度前後だが、強く吹き抜ける冷たい風が町の人々を震えさせて いた。そんな寒い日々が続く中で、この日は珍しく風のない暖かな 一日。オフィス街の一角にある喫茶店「エトランゼ」は、昼間とい うこともあって食事に来たビジネスマンで賑わっていた。それはご く普通の日常風景で、この先、非日常的な事態が起こるとは、この 店の客も店員も誰一人考えていなかった。いや、そんなことを考え ろと要求すること自体、無意味であった。というのも客は皆思考を 休めるためにこの店に来たのだ。中には何かをしきりに考えている 者もいるが、それは例外状態のことを考えているのではなく、日常 のことを考えているのである。日常の出来事は起きる確率が高いが 、例外の出来事は起きる確率が低い。だとすれば、無駄なことをす るのが嫌いな東京の人々にとっては、無駄にならない日常のことを 考えるのが妥当であろうし、それに関して異論を唱える者もいまい 。ともあれ、店内の客は食事をしながら、週刊誌を読んだり、会話 をしたりして、それなりのブレイクタイムを満喫していた。 さて、店内に目を向けると、東側の窓際の二人席に一組のカップ ルがテーブルを挟んで向かい合って座り、楽しげに会話をしていた 。二人のうち、男の方は20代後半、女の方は20代前半で、その けれんみのない明るい話し方には快いものがあった。 「ねえねえクリスマスのホテル予約した?」 女の方が聞いた。 「あっ、忘れてた」 男が惚けた声を出して、言った。 「えぇ、まだやってないのぉ。今からしとかないとクリスマスに間 に合わないよ」 「大丈夫だって。友達で横浜のEホテルに勤めてる奴がいてさ、そ いつのコネがあるからバッチリさ」 「本当に!」 女の目が輝いた。 「おぅ、最高級の部屋を取ってやるよ」 「わぁ、うれしい」 女は感激の声を上げた。 「お待たせ致しました」 その時、ウエイトレスが注文のスパゲティとサラダ、トーストを 運んできた。 「ああ、ありがと」 男はテーブルの上の物をどかしてスペースを空けた。 ウエイトレスは黙って注文の品をテーブルに置いていく。その間 、二人の会話がなくなり、何となく手持ち無沙汰になって、背広の ポケットから煙草とライターを取り出すと、早速箱から煙草を一本 取り出してライターで火を付けた。 「ライターの火……」 その時、スパゲティの皿を置いていたウエイトレスの手か止まり 、彼女の視線のそのライターの火の方に注がれた。しかし、男の方 はそのウエイトレスの視線に気づかない。 ウエイトレスは皿を置くと、先に置いてあったフォークを尖った 部分を下にして握った。女の方は不審に思ってそのウエイトレスを 見た。 ウエイトレスはフォークを頭上に振り上げた。 「ちょっとあなた、何やってるの?」 女が思わず口にした。 「ん?」 男が女の言葉に気づいて、ウエイトレスの方を見た。 その時だった。ウエイトレスの手にしたフォークが振り下ろされ 、男の頭に突き刺さった。 「あ、ああ……」 女は突然のことにびっくりして声が出なかった。男の方は目を見 開いたまま、口をぱくぱくとさせている。 「わああぁぁ」 ウエイトレスは奇声を上げて、男の頭からフォークを引き抜くと 、さらに男の頭を何度もフォークを突き刺した。 「いやあぁぁ」 女は惨劇を目の前にしてついに悲鳴を上げた。店内の視線が一瞬 にしてこの席に集まる。その間に必死に抵抗する男に対し、ウエイ トレスは何度も何度もフォークで男の頭を突き刺すのだった。 2 パートナー問題 シュボッ−− 牧田奈緒美はガスライターの火を付けた。 「このライターの火が彼女のハートに火を付けたのよ」 警視庁捜査一課刑事である奈緒美はライターの火を椎野美佳の目 の前で見せて、言った。 ここは椎野姉妹のマンション。正確にはスカイパークマンション 五〇三号室である。 美佳と奈緒美はDKにあるテーブルに向かい合わせに座って、話 をしていた。今は朝で、美佳はもう朝食を食べ終え、制服を着てい た。 「まるでドラマの決め台詞ね」 美佳はふっと息でライターの火を吹き消した。 「ドラマなら嬉しいけど、事実は男の頭に百数十カ所の穴を空けた わ。傷は頭蓋骨を突き破って、脳にまで達し、男は死亡」 奈緒美はライターをポケットにしまって、言った。 「動機は何?恋の恨み、借金?」 「動機はないわ。そもそも男とウエイトレスの接点は全くないんだ もの。殺された男はごく普通の商社のサラリーマンで、ウエイトレ スは普段は4年生大学に通う学生。二人とも家庭環境や生活環境は 全く違うし、家族や友人の話を聞いてみても接点は全く見つからな い。唯一の接点であるこの喫茶店にしても彼女は前の日から勤めた ばかりなの」 「じゃあ、どういうことなの?」 「衝動的な殺人だと言うことよ」 「そのウエイトレスは精神病か何かだったわけ?」 「とんでもない。彼女には病気どころか健康そのものよ」 「じゃあ、覚醒剤?」 「それもないわね。彼女から薬物反応は全くなかったもの」 「それじゃあ、何なのよ」 美佳がいきり立って奈緒美に言った時、姉の律子が洗面所から出 てきた。 「美佳、話はそこまでにして学校へ行きなさい」 「ちょっと待って。今、いいところなんだから」 「駄目!早く行かないと、仙台に送り返すわよ」 律子が怖い顔をして、言った。 「わかったわよ。行ってきます」 美佳は鞄を持って、急いで部屋を出ていった。 「あーあ、逃げられちゃった」 奈緒美はちらっと律子を見て、言った。 「奈緒美、あんた、どういうつもりよ」 律子はさっきまで美佳が座っていた椅子に座って、言った。 「どういうつもりって?」 「美佳に事件の協力させるつもりでしょ、わかってるのよ」 「さすが、20年来の友人」 「ふざけないで。どうしてそんなことするの?」 律子は真顔で聞いた。 「律子、美佳はもう普通の女の子じゃないのよ。立派に拳銃も持っ てるし、実戦の経験だってある」 「奈緒美!」 律子はテーブルを叩いた。 「事実を言ってるの。私ね、これからは美佳を仕事のパートナーに するつもりよ」 「何ですって」 律子はテーブルに身を乗り出した。 「そう向きにならないで。私は美佳のために言ってるのよ。この先 、美佳が警察に捕まりそうになった時や秘密結社に狙われた時、律 子は守ってあげられるの?」 「それは−−」 「無理よね。でも、私なら出来るわ。律子、私はね、何も美佳を危 険な目に合わせようと思ってるわけじゃないの。美佳を自分の目の 届く範囲において起きたいだけなのよ。そうでなくたって、この先 、美佳にはKGBやCIAから誘いが来るかもしれないのよ。そう なったら、もっと危険な目に会うわ」 「だけど−−」 「もちろん美佳の意思は尊重するわ。だから、律子は口を出さない で」 「嫌よ」 「え?」 「美佳は私の大事な妹よ。冗談じゃないわ。奈緒美、出てって。も うあんたなんかに二度と会いたくないわ」 そういうと、律子は美佳がカップに残した紅茶をぐいと飲み干し た。 3 体が燃える? 凌雲高校−− 三時間目の1年C組の生物の授業は、第一理科室で行われた。こ の日は顕微鏡の扱い方も兼ねて、池にいる微生物を顕微鏡で見るこ とになった。生徒は各5、6名の班に別れて、それぞれの席に着い た。 「うーん、調節が難しいな」 美佳は顕微鏡の接眼レンズを覗き込みながら、焦点調節ハンドル を動かした。 「おい、早くしろよ」 同じ班の男子生徒が急かした。 「待ってよ、今、調節してるんだから」 美佳は外野の雑音に少々焦りながら、今度は移動ハンドルを動か した。 パリッ その時、硝子の割れる音が美佳の耳に聞こえた。 「またやっちゃった」 美佳はぺろっと舌を出した。 「ちょっと頼むよ、また標本のガラス割ったのかよ」 男子生徒が呆れた様子で言った。 「ハンドル回しすぎちゃった。もう一回、新しいのに、ね」 美佳は班のみんなに謝った。 「もう3枚めだぜ。今度は俺がやるよ」 「嫌っ、ここで引き下がったら私の立場はどうなるのよ」 美佳は強く首を横に振った。 「この際、顕微鏡を見るのに立場も何も関係ねぇと思うけどな」 ちょうどその時、美佳の班に生物の教師の村田がやって来た。 「何騒いでるんだ」 「先生、椎野さんが標本ガラスを割っちゃったんです」 と同じ班の女子生徒が言った。 「何、また割ったのか」 「猿も木から落ちるですよ」 と美佳は胸を張って言った。 「3度も失敗して、よくそんな諺を……標本ガラスだって馬鹿にな らないんだぞ」 村田は呆れた顔をして言った。 「きゃあああ」 その時、隣の教室で大きな悲鳴が上がった。それは一人は二人で なく何人もの声が重なりあった悲鳴だった。 「どうしたんだ?」 「第二理科室からみたいですね」 と美佳が言った。 続いて隣の教室からガシャガシャンとガラスの割れるような音や 物が落ちる音が聞こえてきた。 「何かしら」 美佳はすぐさま教室を飛び出した。 「おい、椎野」 村田は美佳を追おうとしたが、他の生徒まで美佳に続こうとした ので、慌ててそちらの押さえに回った。 美佳は理科準備室を抜けて、隣の第二理科室のドアを開けた。 「これは−−」 第二理科室では一人の男子生徒が暴れていた。他の生徒たちは怖 がって教室の隅や廊下に出ている。担当の教師も生徒の暴れぶりに 近づけないでいる。 「熱い、熱いよ。誰か助けてくれ」 その男子生徒は苦悶に満ちた表情を浮かべながら、必死に助けを 求め、教室中をのたうち回っている。彼の体には火などついていな かったが、彼の動きはさながら火達磨になった人間を思わせた。 「一体、何があったの?」 美佳は近くの生徒に尋ねた。 「わかんない。実験やってたら、突然−−」 女子生徒は当惑した表情で答えた。 「うわあぁぁぁ」 そんな時、その男子生徒は突然、窓を開けると、身を投げ出すよ うにして飛び下りた。 「きゃあああ」 教室中に女子生徒たちの悲鳴が飛び交う。 美佳はすぐに教室の窓に駆け寄り、窓から顔を出すと、校舎の真 下を見た。 「うっ」 美佳は一瞬、顔を背けた。校舎の真下の地面には、頭から血を流 してうつ伏せに倒れている男子生徒の哀れな姿があった。 4 催眠状態 放課後、美佳が下校しようと門を出ると、表の道のところで奈緒 美の車が待っていた。奈緒美の車は赤いアメリカ車である。 「ナオちゃん」 美佳は奈緒美の車のところへ歩み寄った。 「家まで送るわ」 奈緒美は運転席のウインドを下ろして、言った。 「うん」 美佳が車の助手席に乗ると、奈緒美は車を走らせた。 「朝は大変だったわね」 奈緒美は車を運転しながら、言った。 「私ってほとほと事件にめぐり合いやすい体質なのよね」 「体質っていう表現はどうかと思うけど−−」 「それより、飛び下りた生徒のこと、何かわかった?」 「−−外見的には発作的な自殺ね」 奈緒美はちらっと美佳を横目で見やって、言った。 「自殺?あれが−−」 美佳は信じられないと言うような顔つきで言った。 「自殺以外にはどう言ったらいいわけ?」 「だって、彼は体が熱いって言ってたのよ。本当に苦しそうにしな がら」 「でも、彼の体には火傷一つなかったわ。それは美佳も見たでしょ 」 「それはそうだけど、自殺なんておかしいよ」 「本当にそう思う?」 奈緒美は急に車を車道の脇に止めて、言った。 「うん」 「だったら、これからG署まで付き合ってくれる?」 「G署まで?」 「見せたいものがあるの」 奈緒美は美佳の方を向いて、言った。 * * * * * 「これから取調室へ行くのよ」 奈緒美はG警察署の3階の廊下を歩きながら、隣を歩く美佳に言 った。 「もしかして今朝言ってた……」 「察しがいいわね、その通りよ」 奈緒美はニコッと笑って、言った。 それから少し歩くと、取調室の表示盤が見えてきた。表示盤のあ るドアの前には一人の男が立っていた。男は奈緒美を見ると、さっ と敬礼した。 「松下さん、悪いわね、無理言って」 「本庁の警部補殿の頼みを断るわけに行きませんからねぇ。ところ で、そちらの人は?」 刑事は奈緒美の後ろにいる美佳を見て、言った。 「彼女は私のパートナーよ」 「すると、彼女も本庁の?」 「んん、まあ、そんなところよ」 奈緒美は作り笑いをして、言葉を濁した。「それより、容疑者の 取り調べは私たちだけでやりたいの。出来たら、外してもらえるか しら」 「いいですが、しかし、くれぐれも気をつけてください。危険です から」 「わかってるわよ」 奈緒美の言葉に刑事は最後までいい顔しなかった。 「さあ、入るわよ」 刑事がいなくなると、奈緒美はドアのノブに手をかけた。 「ちょって待ってよ。私、事件のこと、あんまり知らないのよ」 美佳が心配げに言った。 「それなら、中で話しましょ」 「容疑者がいるのに?」 「そうよ」 奈緒美はそういって、取調室へ入っていった。取調室は六畳から 八畳くらいのスペースで、中央と入口から入って右角に机が一つず つある。そして、中央の机の向かいには20歳前後の若い女性が俯 いたまま、疲れ切ったように肩を落として座っていた。 「こんにちは、小島さん。私のことは覚えてるわよね」 奈緒美は机の手前の椅子に座って、言った。「ほら、美佳もそこ にある椅子に座って」 「うん」 美佳は小さく頷いて、近くの椅子に座った。 「もう一度事実確認のためにあなたに聞きたいことがあるんだけど 、大丈夫?」 奈緒美は小島聡美容疑者に尋ねた。 「はい。でも、わたし、事件のことは何も覚えてないんです。何で あんなことをしまったのか……」 聡美は今にも泣き出しそうな様子で言った。 「あなたの気持ちはわかるわ。でも、殺したのは紛れもない事実よ 。だから、よく思い出してもらいたいの。まず聞きたいのは、あな たはどの辺から事件のことを覚えてないの?被害者と彼の同僚の女 性の席に注文の品を持っていったのは覚えてるでしょ」 「ええ。確か最初にトーストの皿を置いて、それからサラダ、最後 にスパゲティを……そこから先が真っ白になって」 「その後、あなたの意識がはっきりしたのは?」 「わかりません。頭が混乱してて、はっきりしたのは警察の人が来 てからだと思います」 「よくわかったわ。それじゃあ、前の質問に戻るけど、あなたの頭 の中が真っ白になる瞬間、ライターを見なかった?」 奈緒美はポケットからライターを取り出した。 「え……うん……そういえば、男の人が煙草を吸おうとして……」 聡美は急に頭を押さえた。 「そう。彼はね、煙草を吸おうとしてライターを付けたのよ。こん な風にね」 奈緒美はライターの火を付けた。聡美はライターの火を見つめる 。 「−−ライターの火……」 次の瞬間、聡美の形相が一変した。 「うわぁぁぁ」 聡美は突然、狂気じみた声を上げると、机から身を乗り出し、奈 緒美の首を両手で絞めた。 「ナオちゃん」 美佳はびっくりして席を立つ。 聡美はさらに勢いよく机に飛び乗ると、そのまま体重をかけて、 奈緒美を椅子ごと床に押し倒した。 「くっ」 奈緒美は聡美の両手を外そうとするが、聡美の力は細腕にも関わ らず力士並の物凄い力であった。 「ど、どうしよう」 美佳は呆然としながら、何をしていいのか一瞬、わからなかった 。 //止めるんですわ 「そ、そうね」 エリナの言葉に頷くと、美佳は聡美の両手を奈緒美の首から外そ うと引っ張った。しかし、びくともしない。それどころか、聡美の 足で突き飛ばされた。奈緒美は既に意識を失いそうになっている。 「チェーンジ ハンマー」 美佳は叫ぶと、十字架のエリナがゴールデンハンマーに変化した 。美佳はハンマーを手にすると、横に思いっきり振った。 バコッ 妙な音がしてハンマーが聡美の後頭部に命中すると、聡美は前に つんのめり倒れた。 「セ、セーフだったかな」 美佳はハンマーを十字架のペンダントに戻してから言った。 「ナオちゃん、大丈夫」 美佳は気絶した聡美をどかして、奈緒美は抱き起こした。 「大丈夫よ、首にこんなこともあろうかとバンドしておいたから」 奈緒美は首のバンドを外した。「でも、凄い力ね。バンドに指が 食い込んでるもの。何もしてなかったら、首の骨をへし折られてた わ」 「一体、どうなってんの?」 「催眠暗示よ」 奈緒美が立ち上がって、言った。 「催眠暗示って?」 「つまり、こういうこと。彼女はどこかで何者かに催眠術をかけら れ、その催眠中に何かの暗示を与えられる。そう例えば、ライター の火を見たら、それを持つ人間を殺せとかね。そして、覚醒後は催 眠中の暗示は何も覚えていないのだけれど、いざライターの火を見 た瞬間に突然、催眠状態に入り、催眠術師の指示された通りに行動 すると言うわけよ」 「うそぉ。そんなことなんて出来るわけ?」 「現実にこの通り襲いかかってきたでしょ」 「そりゃそうだけど。でも、ナオちゃん、それがわかってるならど うしてライターの火を付けたの?」 「美佳に見せるためよ」 「それなら、口で言ってくれればいいじゃない。何もそこまでしな くたって」 「聞くより見た方が分かるでしょ」 「まあね。それでどうやって彼女が催眠暗示を掛けられてるってわ かったの?」 「偶然よ。彼女を取り調べしてる時に刑事が煙草を吸おうとライタ ーで火を付けたの。その時にね、こういう状態になったわけ」 「ふうん」 「実は都内でこのところ、原因不明の殺人や自殺が何件が起こって てね。ひょっとすると、今回の事件と関連があると睨んでるの」 「もしかして、今日、学校で起きた自殺も−−」 「ありえるわね。まわりにいた生徒たちに聞いてみると、死んだ彼 は化学の実験でアルコールランプに火を付けた途端、突然、体が熱 いと言って暴れ出したそうよ」 「ナオちゃんの推理が正しいなら犯人は催眠術師でしょ。さっさと 逮捕してよ」 「事はそう単純じゃないわ」 「というと?」 「実はね、小島聡美に催眠術がかけられてるとわかって、何とかそ の暗示をかけた奴を探ろうと、腕利きの催眠術師を呼んだのよ。と ころが、催眠術師が彼女から暗示を聞き出そうとした途端、彼女が 胸を押さえながら苦しみだしてね、それどころじゃなくなってしま ったの。催眠術師の話だと、彼女の心の中に暗示の秘密をしゃべる なというかなり強い禁止暗示がかかっているみたいなの」 「それじゃあ、どうやって犯人を捜すの?」 「そこであんたたちの出番よ」 「は?」 「確かエリナは人間の脳に入って、その記憶も読み取ることが出来 たわよね。悪いけど、エリナに彼女の体に入って、調べてもらいた いのよ」 「なるほど、それはいい考えだわ。エリナ、やってくれる」 美佳は十字架のペンダントに話しかけた。 すると、ペンダントの十字架が金色に輝き、砂金のようになった 。そして、するすると美佳の体を伝って、床に下りると、そのまま 倒れている聡美の耳から入り込んだ。 「うまくいくかしらね」 「大丈夫だと思うけど」 待つこと15分して、金色の粉末が聡美の耳から出てきた。そし て、元の道取りを辿り、再び美佳の胸のところで十字架に変形した 。 「どうだった?」 //何も分かりませんでしたわ 「エーッ」 美佳はがっかりした声を上げた。 「どうしたの?」 奈緒美が尋ねる。 「駄目だったみたい」 「そう……」 「ごめんね、役に立てなくて」 「ううん、別にいいのよ」 奈緒美が笑顔で言った。「私の方こそ悪かったわ。変なことに巻 き込んで」 しかし、そういいながらも奈緒美はしばらく美佳がつけた十字架 のペンダントを見つめていた。 4 催眠銃 //美佳さん、あの女性は催眠術ではなく催眠銃によるものです わ G警察署からの帰り道、エリナがふっと口にした。 「え?な、なに、言ってんの?」 ちょうどバスに乗っていた美佳はびっくりした声を上げた。車内 はがら空きで美佳は人のいない一番後ろの席に座っていたので、特 に美佳の声を不審に思う者はいなかった。 「どういうこと。さっきは分からないって言ってたじゃない」 美佳が小声で言った。 //それは奈緒美さんがいたからですわ 「そんなどうして−−」 //わたくしはあの人は好きになれません、ただそれだけですわ 。でも、美佳さんには嘘はつきたくありませんから 「……仕方ないなぁ。それでさっきの話はどういうことなの?」 //あの女性の記憶を辿ると、ちょうどアルバイト先の喫茶店に 行く20分ぐらい前に途中の路上で白い乗用車に乗った男性に呼び 止められています。そして、女性がその男性の車に近づいた時、そ の女性の首筋にその男性が持っていた銃で何かが撃ち込まれたみた いです。 「何かって?」 //さあ。でも、彼女の表の記憶の中にはこの撃たれた時の記憶 はありませんね。この記憶は裏の深いところにありましたから。 「すると、そいつが犯人ってわけか。男の特徴とか、車の特徴は分 かる?」 //幾分ぼやけていますけど、もう一度見ればわかりますわ 「ようし、こうなったら犯人を捕まえよ」 //美佳さん…… 「大丈夫だって。ナオちゃんには言わないわよ」 //あの、そういうことではないんですけど−− エリナは何か言おうとしたが、諦めた。 5 犯人、現る 午後8時、美佳は小島聡美が何者かに銃で撃たれた通りを行った の来たりして、見回っていた。この道はもともと道幅が狭くて2車 線しかなく、歩道などはガードレールもなくただ段差を付けて、車 道との区別を付けているだけだった。もちろん、道幅も自転車一台 通れるくらいのスペースしかない。 //必ずしも犯人が同じ場所で行うとは思えませんが 「そうでもないわ。この道は凌雲高校の自転車ルートよ。私の友達 がよく近道で利用してるもの」 //それがどう関係ありますの 「今朝、自殺した人、その友達の近くに住んでるのよ」 //なるほど 「だから、犯人はきっとこの道を通った人に限定して声をかけてい ると思うわ。まあ、勘だけどね」 //可能性は高いですね。犯罪者は大抵、一度成功した場所で犯 行を繰り返しますものね などと話しながら、しばらく歩いていると、「すみません」と誰 かが美佳の後ろの方から声をかけてきた。 振り向くと、白い外国製の軽自動車が美佳の歩調に合わせて走っ ている。 あいつだ!! 美佳は直観的にそう思った。美佳が足を止めると、車は美佳の前 に止まった。車には男一人しか乗っていない。 「すみません、道をお聞きしたいんですけど」 と丸い眼鏡をかけた一見30代の温厚そうな男が運転席から優し そうな声を出して言った。 −−エリナ、頼んだわよ //はい 「えっと、どこへ行くんですか」 美佳は心持ち緊張しながら、車の運転席に歩み寄った。 「それがですね−−」 男はそういいながら、ドアの影に隠し持っていた銃をさっと美佳 の前に出した。 「エリナ!!」 美佳が叫ぶと、突然、ペンダントの十字架が眩いばかりに光った 。 「うわっ」 男は目が眩んで、銃を手にした右腕で前にあてがって目を隠した 。 「その銃、貸しなさい!」 美佳が運転席の窓から体を半分突っ込んで、運転席の男の銃を取 り上げようとすると、男はとっさにアクセルを踏んで、車を急発進 させた。 「ふえぇぇ」 美佳は慌ててドアに掴まった。 「早くおりろ!」 男は先程の優しい表情からうって変わって、怖い顔をしていた。 男は右手に銃を手にしながらハンドルを握り、左手で美佳を車か ら押しだそうとした。 「あんたね、犯人は!!」 美佳は振り落とされまいと必死にドアに掴まりながら、言った。 「うるさい!」 男は猛スピードで左右に急ハンドルを切りながら、蛇行運転を続 けた。美佳の体はその度に左右に振り回される。 「あんた、いい加減にしてよね」 「邪魔なんだよ」 男は窮屈そうに美佳の頭を左手でぐいと押した。しかし、美佳も 負けじと抵抗する。 男の運転で道路の方は大混乱だった。対向車線から来た男の車を よけようとした車は次々と衝突やスリップを余儀なくされ、さらに 後から来た車によって第二、第三の衝突が起こった。だが、男はそ うした後ろで起こってる事故のことなど気に求めず、運転を続けて いた。 「畜生!」 男は左手にハンドルを持ちかえると、右手に持っていた催眠銃を 美佳の目の前に向けた。 「バカ!前にトラックよ」 美佳は思い切って叫んだ。 「なに!」 美佳の声に一瞬、男は前に気を取られた。その瞬間、美佳は掴ん でいたドアから手を放し、男の左手に両手で掴まると、そのまま足 で外のドアを蹴って勢いを付け、車から飛び下りた。 「きゃああぁ」 美佳の体が地面に叩きつけられそうになる瞬間、エリナが美佳の 体を金色の球状の膜で包み込んだ。美佳を包んだボールはぽーんと 一度地面で弾むと、3バウンドして歩道側のラーメン屋に窓を破っ て突っ込んだ。 一方、男の方は左手を思い切り引っ張られた時に車の天井に頭を 打ちつけ、意識朦朧となった。そして、運転手のいなくなった車は 猛スピードで減速することなく、歩道側にある標識の鉄柱に激突し た。 「全くもう許さないんだから」 美佳はラーメン屋を出ると、黄金銃を手にして、激突した車に駆 け寄った。 「……」 中を覗き込むと、前部座席はもう潰されてなかった。美佳は前部 座席の僅かな隙間から男の右手が出ているのを見つけた。そこには 催眠銃が握られている。美佳は男の手から催眠銃を抜き取ると、そ れを懐に隠して、急いでその場を逃げ去った。 エピローグ 「ただいま」 午後11時、美佳は自宅のマンションに戻った。 「今までどこへ行ってたの。心配したでしょ」 玄関に出迎えた律子はかなり怒ったいる。 「ごめん。もう二度としないから、許して」 美佳は頭を下げた。 「今日は随分素直ね。でも、罰は罰よ。顔を上げて、歯を食いしば って」 「はあい」 美佳は顔を上げ、律子の方を見た。 バチーン 次の瞬間、律子の強烈な平手打ちが美佳の頬に飛んだ。 「いたぁ」 美佳は涙うるうる状態で頬をさすった。 「今度やったら、ハエ叩きでやるわよ」 「ふわぁい」 「じゃあ、とっとと寝なさい。明日も学校でしょ」 「うん」 美佳はすごすごと自分の部屋に入ると、どんとベッドに自分の腰 を下ろし、大きく息をついた。 そして、鞄から催眠銃を取り出した。 「それにしても驚いたわね、この銃には」 美佳は催眠銃を見ながら、呟いた。 美佳はあの事故の後から今まで催眠銃の実験をしていたのであっ た。もちろん、動物にであるが−− 催眠銃は、一見するとスピードガンのような形をしていて、ハン マー部分にハンマーの代わりに6インチの液晶表示盤がついている 。そして、グリップの横の蓋を開けると、0から9までの数字のキ ーが並んでいる。銃の電源を入れると、液晶部分に選択肢が表示さ れ、そこで暗示の対象や暗示を受けた時の行動などが選べるのであ る。そして、全てのセットを終えて、銃の引き金を引くと、マイク ロチップを内蔵した針状の弾が発射され、それがうまく対象に命中 し神経系に達すると、弾から発信される電気的な刺激によって対象 に命令を遂行させるのである。 「こんな銃が平然と使われたら、日本は犯罪大国になっちゃうわ」 //一体、誰がこんな銃を作ったのでしょうか フランス人形になっているエリナが聞いた。 「それならすぐにわかるわ。グリップの下の部分に『FN』ってマ ークがあるもの」 //フォルスノワール(世界的犯罪結社の名称)ですか 「恐らくね。型番から見ると試作品みたいだし、多分あの男はこの 銃の効果を見るために、あの道を通る人を狙っていたんだと思うわ 」 //これで一連の衝動殺人や自殺にも決着がつきましたね 「そうだといいけど。でも、フォルスノワールは実験のために第二 、第三の催眠銃を使ってくるかもしれないわ」 //そうですね……この先、どうするんですの? 「この銃は壊すわ。それで、誰にも言わない。もしこの銃が世間に 公表されたら、この銃の宣伝になっちゃうでしょ」 //それがいいと思いますわ。 エリナも諸手を上げて賛同した。 「でも、ナオちゃんには悪いことしたなぁ。明日あたり何か言って きそうな気がする」 美佳はそういいながら、ベッドに寝た。そして、目をつぶると、 あっという間に眠ってしまった。 「催眠効果」終わり