第28話「殺し屋」後編 7 喫茶店 −−東京霞が関のビル街。空は灰色の雲一色で、今にも雨が降り そうなほど、どんよりと曇っている。 街を歩く人々はビジネス街らしく会社員風の人間が多い。時期は まだ9月だが、このところの肌寒い天候のせいか、薄着の者はいな い。 「確か、ここね」 椎野律子は目の前の喫茶店の看板と手の中のメモを交互に見た。 喫茶店はビルの一階にある。 律子は入口のドアを開け、中に入る。 「おう、寒い……」 律子はぶるっと体を震わした。 店内はまだ夏だと思って、外の気候に構わず冷房をびんびんにき かしているのである。 「これじゃあ、冷蔵庫だわ」 律子は手をさすりながら呟いた。 「いらっしゃいませ」 ウェイトレスが元気のいい声で挨拶した。 律子はすぐに店の奥に入らず、その場で店内を見回している。 「椎野律子様ですか」 ウェイトレスが律子に声をかけた。 「え、ええ」 いきなりウェイトレスに自分の名前を呼ばれて、律子は戸惑った 。 「ジェシカ様からお言づけを承ってます。少し遅れるので、ここで 待っていてほしいと」 「あなたはどうして私の顔を知ってるの?」 「ジェシカ様が今朝、お店にご来店なさって、お言づけと一緒にあ なたの写真を置いていったんです」 そういうと、ウェイトレスは写真を律子に渡した。その写真は確 かに律子の姿を写した写真だった。 「席もお取りしてありますので、こちらへどうぞ」 ウェイトレスは律子を窓際の四人席に案内した。 「二人席でいいわよ」 「いいえ。ジェシカ様より予約の代金を頂いているので、お気にな さらずに」 「そう」 律子は四人席の窓側へ座った。 「ご注文は何になさいますか」 「それじゃあ、コーヒーをお願い」 「わかりました」 ウェイトレスはカウンターへ戻っていった。 律子はコートを脱いで、隣の席に置くと、ウインドーガラスを見 た。 8 侵入者 美佳は律子の部屋に足を踏み入れた。律子の部屋は窓がないので 、真っ暗である。 その時、美佳の背後に人の影が現れた。と同時にその者の手が美 佳の口を塞いだ。 「ん、んん、うぐっ」 突然のことに美佳は一瞬、状況がつかめなかった。ただ、ひたす ら自分をつかまえている者から離れようともがいた。 「どうかお静かに」 美佳の耳元で穏やかな男の声が聞こえた。 だが、最初のその言葉でも美佳は抵抗を止めなかった。 「むぐっ」 美佳は美佳の口を押さえている男の手を強引に噛んだ。 「うわっ」 男は反射的に美佳の口から手を放す。 そこをすかさず美佳は背後の男の腹部に肘打ちを食らわせた。 「うっ」 男が痛みに体を折り曲げる。さらに美佳は間を置かず、振り返っ て思いっきり男の股間を蹴り上げた。 さすがの男も体を折り曲げたまま、股間を押さえて、床にひざま ずく。 美佳はそれを見て、慌てて部屋を出ようとした。 だが、男は寸前で美佳の足をぎゅっと掴んだ。 「きゃっ」 美佳はバランスを失って、倒れてしまう。 「お願いです、私の話を−−」 男が四つん這いで美佳に歩み寄ろうとすると、 「きゃああ、変態、スケベ、来ないで!!」 とわめき散らして、足をばたつかせた。 「お静か−−んぐっ」 美佳の足が男の顔面にヒットした。 美佳は必死の思いで、床から立ち上がると、玄関の方の電話へ駆 け込んだ。そして、受話器を持って、数字ボタンを押す。 「受話器を降ろして下さい」 美佳の前に男が現れた。男の手には拳銃が握られている。 美佳はおとなしく受話器をゆっくりと元に戻した。 「こ、殺すんなら、一発で殺してね」 美佳は緊張した面もちで言った。 「誰も殺しはしませんよ」 男は足蹴りを食らった頬の辺りを撫でながら、サングラスを外し た。 「あ、あなたは−−」 美佳は思い出したように男を見た。「確かジェシカと一緒にいた −−」 「ええ。以前、倉庫でお会いしましたね。私はお嬢様の車の運転手 をやっておりますジム・マックスウェルといいます」 男はそういうと、拳銃を懐にしまった。「決して危害は加えませ んから、おとなしくしていただけますか」 「わかったわ」 美佳は男に殺意がないのを察して、言った。 「無断で家にあがりこんで、申し訳ありません。最初はマンション の前で待っていたのですが、管理人に怪しまれてしまったものです から、やむなくあなたの家にあがらせてもらいました」 「鍵は?」 「以前に律子さんのバックから鍵を拝借しまして、合鍵を造りまし た」 「そうなの」 美佳は鍵を盗まれたことにも気づかないのがいかにも姉らしいな と思った。「なぜ隠れてたの?」 「隠れるつもりはありませんでしたが、人の気配を感じて反射的に −−」 マックスウェルは言い訳に困っていた。 「まあ、いいわ。それで用件は?ジェシカの都合が悪くなったとか 、そういうこと?」 「私がここへ来たことはお嬢様は知りません」 「どういうこと?」 「あなたはこれからお嬢様に会いに行くのでしょう?」 「ええ」 美佳の返事の後、マックスウェルはしばし黙り込んだ。だが、や がて思い切ったように切り出した、「−−美佳さん、お嬢様のとこ ろへは行かないでください」 「?」 美佳にはなぜマックスウェルが突然、こんなことを言い出したの か理解できなかった。「行かないでって言われても−−」 「罠なのです。もしあなたが喫茶店に行けば、必ず死ぬことになる でしょう」 「まさか。白昼で、しかも人のいる喫茶店で私を殺そうと言うの? 」 「お嬢様は喫茶店には現れません。外であなたが喫茶店に来るのを 待って、あなたが席に着いたところで、店内に仕掛けた爆弾をリモ コンで爆破させるつもりなのです」 「そんな……そんなことしたら私だけでなく他の人まで巻き込むじ ゃない」 「お嬢様にはもうあなたを殺すことしか眼中にないのです」 マックスウェルは強く頭を振って、言った。 「狂ってるわ」 美佳はやや感情的に言った。「でも、マックスウェルさん、どう して私にこのことを?」 「私は復讐のために、優しかったお嬢様が次第に残虐になっていく 姿を見るのが忍びないのです。できることなら、お嬢様には人を殺 してほしくありません」 「本当にジェシカのことを愛してるのね」 「私はお嬢様が生まれた時からずっとお世話してまいりました。自 然と親しみ、人には親切で、いつも笑顔を絶やさない子でした。そ れなのに、旦那様が亡くなってからのお嬢様は……お嬢様のお気持 ちがわかるだけに、何もしてさしあげられない自分が情けないので す」 マックスウェルは本当に心を痛めているようだった。 「マックスウェルさんは私を復讐相手と思っていないの?」 「わかりません。私は犯人を見ていませんので」 「ねえ、よかったら、ジェシカのお父さんが殺された事件のこと、 話してもらえない?私にはジェシカの復讐が理解できないの」 「わかりました」 美佳はマックスウェルと律子の部屋を出て、話を居間で聞くこと にした。「どうぞ」 ソファに座るジムの前のテーブルに美佳はコーヒーを入れた白い カップを置いた。 「ありがとう」 「砂糖は二杯しか入れてないけど、いいかしら?」 「構いません」 「なら、よかった」 美佳もマックスウェルの向かい側のソファに座った。 「……」 マックスウェルはしばらく白い湯気が細く立ちのぼってゆくコー ヒーを見つめていた。 「どうかしたの?」 美佳が尋ねた。 「い、いいえ」 マックスウェルは顔を上げ、目にいつのまにか溜まった涙を左手 で拭った。 「マックスウェルさん……」 「すみません。柄にもなく人前で涙など−−」 「いいのよ、別に」 「昔、お嬢様がよくコーヒーを入れてくれたんです。私だけでなく 使用人みんなに。それをつい思い出してしまって」 「そう……」 美佳とマックスウェルの間にまた沈黙があった。 「ジェシカのお父さんの話をして」 「旦那様は30年前、サウスダゴダ州の街ピーアを中心に土地を買 い、わずか一月余りで州でも一二を争う地主になりました。最初は 街の者も決して旦那様をよくは思いませんでしたが、旦那様はそん なことも気にせず、毎日使用人の先頭に立って、牧畜の経営にあた りました。さらに街を発展させようと祭りや公共設備には際限なく 投資しました」 「そんなにお金持ちだったの?」 「ええ。大変に寛大なお方で、街のためならば、利益を度外視して 、お金を出しました」 「それほどの金持ちがどうして農場の経営を始めたのかしら?」 「旦那様の過去の経歴は−−」 マックスウェルは一瞬口を噤んだ。「旦那様はいつも償いのため にやっているとおっしゃっていました」 「償い……ねえ」 美佳にとっては雲をつかむような話だった。 「その後、旦那様の誠意は街の人々にも伝わり、旦那様を支持する ようになりました。そうして、6年後に旦那様は当時街の酒場で働 いていた奥様と知り会い、数カ月後に結婚しました。ところが、奥 様は翌年、ジェシカお嬢様を出産なされると体の衰弱でお亡くなり になりました。その時の旦那様のショックは大変大きなものでした が、それからというものは終生奥様への愛を誓い、幼かったお嬢様 に愛情を注ぎました」 「本当にいいお父さんだったのね。もしファレイヌの所有者として 殺されることがなければ、今頃は幸せだったのね」 「いいえ、あの事件がなくとも旦那様は殺されていたかもしれませ ん」 「というと?」 「あの男が旦那様の前に現れてから、旦那様は−−」 「あの男?」 「旦那様の殺される2年前のことです。リチャード・ホフマンとい う男が旦那様の屋敷に訪ねてきました。それからです、旦那様が急 に落ち着かなくなり、何かに脅えるかのように弱気になり始めたの は。あの男は旦那様の弱みを握っているらしく、屋敷内に頻繁に訪 れました。その度に旦那様から金をせしめていたようです」 「ひどい男−−でも、その名前、どっかで聞いたことがあるわ」 「ええ。現在の駐日大使です」 「そ、そうよ。どうしてそんな奴が大使になれるわけ?」 「あの男は旦那様を踏み台にして力を付けていったのです。お金だ けでなく、強引に旦那様の土地の一部を自分名義にしたり、旦那様 の会社に幹部として居座るなど、次々と旦那様の財産を奪ってゆき ました。そんな時です、旦那様が殺されたのは」 「でも、それだったら、ホフマンがジェシカのお父さんを殺す可能 性は薄いんじゃない。言い方は悪いけど、ホフマンにとって、ジェ シカのお父さんは大事な金づるだったわけでしょう」 「美佳さん、約束していただけますか。これから、話すことはお嬢 様には決して言わないと」 マックスウェルは神妙な顔つきで美佳を見た。 「−−約束は守るわ」 美佳は静かに言った。 「信じてよろしいですね」 マックスウェルの言葉に美佳はうなずいた。 「旦那様が殺された前の晩、旦那様は私を書斎に呼んで、こうおっ しゃいました」 * * * * 「ジム、頼みがある」 ジョンは運転手のマックスウェルを真剣な目で見つめて、言った 。 「何でございましょうか」 「この先、私の身に万一のことがあったら、ジェシカのこと、頼ま れてくれるな」 「万一のこととは旦那様、どういうことなのです?」 「私は明日、あの男と決着をつけるつもりだ。命をかけてな」 「あの男?」 「リチャードだ。おまえにだけは本当のことを話そう。私は昔、イ ギリスにいた時、悪魔の爪と呼ばれる強盗団のメンバーだった」 「そんな……」 「私は盗みのためには何人もの人間を殺してきた。だが、私は次第 に人殺しが怖くなり、とうとう警察に組織のメンバーの名前を密告 して、自分は組織の金を持って、アメリカへ逃げた。そして、名前 と顔を変えて、償いのため街のために財産と労力をつぎ込んだ。と ころが、昔の仲間だったリチャード・ホフマンに突き止められ、過 去の事実を種に脅され、私は何度となく金をむしり取られた。最初 のうちはまだよかった。だが、奴はついに私の全財産を要求してき た。しかも、従わなければ、娘に私の秘密を暴露すると。しかし、 あんな奴に全財産を渡してしまったら、この町の人達はどうなる。 たちまち、失業だ。それだけはどうしてもくい止めなければならな い」 * * * * 「そうか、ジェシカのお父さんがホフマンを殺そうとして、逆にホ フマンが殺すという事もあり得たわけだ」 「はい」 すでに冷めてしまったコーヒーを喉に流し込んだ。 「ジェシカのお父さんの殺された時の状況はどうなの?」 「私は見ておりません。ただ銃声がしたので急いで書斎へ駆けつけ てみると、すでに旦那様が頭と肩から血を流して倒れておりました 」 「じゃあ、フェリカがジェシカのお父さんを殺したところを見たの は誰なの?」 「お嬢様です。私が駆けつけた時、お嬢様は旦那様の傍で泣いてお られました。そして、私が話しかけると、お嬢様はフェリカが旦那 様を殺したとおっしゃいました」 「どうしてジェシカはフェリカやクレールのことを知ってたの?」 「クレールは1月前にお嬢様の学校に転向してきて、お嬢様とは仲 良しだったらしく、よく家に遊びにきていました」 「フェリカは?」 「クレールのお兄様で、お嬢様は彼に大変なついておいででした。 夕方、フェリカがクレールを迎えにきますと、お嬢様は決まって一 緒に夕食を食べていくようにお引き止めになったほどでした」 「ジェシカのお父さんが殺された後の二人の行方は?」 「翌日から、街からいなくなったそうです。お嬢様は人を使ってフ ェリカたちの行方を探させましたが、見つかりませんでした」 「すると、ジェシカはフェリカやクレールはお父さんを殺すために 自分に近づいたと思ってるわけだ」 「はい。私にとしてはお嬢様に普通の暮らしを送っていただきたい 。それだけです」 「マックスウェルさんの気持ち、何となくわかる。でも、このまま じゃ、埒があかないわ。やっぱり決着をつけないと」 「十五年間、復讐に生きてきたお嬢様を説得することなど誰にもで きません」 「マックスウェルさん、一度でいいからジェシカとゆっくり話し合 える機会を作って。もしそれで説得できなきゃ、殺されても仕方な いわ」 「美佳さん……」 「私は今でも自分がクレールじゃないと断言できるわ。それをジェ シカに納得させてみせる」 美佳は力強く言った。 「わかりました。私が何とかしてみます」 「ありがとう」 「いえ、私の方こそ、話を聞いていただいて、感謝しています」 「じゃあ、頼んだわよ」 美佳とジムはぎゅっと握手を交わした。二人の表情はいつのまに か和やかになっていた。 「おい、美佳!!」 その時、玄関のドアが開いて、北条が息を弾ませて入ってきた。 「どうしたの?」 美佳は尋ねた。 「どうしたじゃないだろ、いつまで待たせるんだよ」 「ああ、そうだっけ。実は喫茶店に−−」 美佳が北条にジムから聞いた話を言おうとした時、 「しまったっ!!」 と突然、マックスウェルが声を上げた。 「どうしたの?」 「美佳さんだけじゃないんです、お嬢様が喫茶店に呼んだのは」 「え?」 「律子さんも呼んだのです」 「そんな!じゃあ、今ごろ」 美佳の顔からさっと血の気がひいた。 「一体、どうしたんだ」 北条には事情がさっぱりわからない。 「私、行ってくる。マックスウェルさんはここにいて」 美佳はそういうと、北条の背中を押して、慌てて玄関を飛び出し ていった。 9 爆弾 「ここですね」 女は喫茶店の看板を見て、レイガンに言った。 「そのようだな」 二人は店の入口のドアを開け、中に入った。 「いらっしゃいませ」 さっそく、ウェイトレスの挨拶の声が掛かる。 レイガンは特に迷いもなく、カウンターの席の方へ座った。女も 続いてレイガンの隣の席に座る。 「モカを頼む」 レイガンはろくにメニューも見ずに、マスターに注文した。 「私も同じのをお願いします」 女も慌てて付け加えた。 「ジェシカは来てるんでしょうか」 女は店内をきょろきょろと見回した。 「おい、やめとけ」 レイガンは女に注意した。 「すみません、人の見張りなんてしたことないから、心配になっち ゃって」 「店にジェシカは来ていない」 「わかるんですか」 「店の奥の窓際の席を見てみろ」 レイガンの言葉に女はその席の方を見た。 「女の人がいますね」 「椎野律子だ」 「え!」 「君は秘書のくせに資料の写真にも目を通してないのか」 「私は秘書じゃなくて、通訳です」 と女は言った。 「通訳……そういえば、まだ名前も聞いてなかったな」 「矢上典子です」 「君はボスとはどういう関係なんだ」 レイガンは率直に聞いた。 「どういう関係と言われましても−−」 女はやや返答に困った。 「ただの関係ではあるまい。でなきゃ、君にライフルを持たせたり 、重要な資料を預けたりしないからな」 「それはお答えできません」 「肉体関係か」 「違います」 矢上は首を振って、否定した。 「まあ、いいさ。今夜にでもベッドの中でじっくりと聞くとしよう 」 レイガンは矢上を見た。 その時、レイガンと矢上のテーブルに注文のコーヒーが来た。 「もう十一時五十五分ですね」 矢上は腕時計を見て、言った。 「ジェシカは来ると思うか?」 レイガンはコーヒーを口にしてから、尋ねた。 「会うと連絡してきたのはジェシカの方ですよ」 「それだから、余計に気になると思わないか」 「どういうことでしょう?」 「ジェシカは十五年間、復讐相手を追ってきたんだ。今更、話し合 いなんかすると思うか」 「それはそうですけど−−」 「まあ、時間になってみればわかることだな」 レイガンは律子の席の方を見た。 「ん!?」 次の瞬間、レイガンの目が険しくなった。 「どうかしたんですの?」 「律子の席のテーブルを見てみろ」 レイガンが小声で言った。 「何かあるんですか」 矢上は律子の席のテーブルの上を見たが、まるでわからない。 「上じゃない、テーブルの裏だ」 レイガンに言われ、矢上はテーブルの視線をやや下に落とした。 「何か箱みたいな物がくっついてますね」 矢上もようやく気づいた。 「ジェシカの狙いがわかったぞ」 「?」 「いいか、君はすぐこの店を出るんだ、わかったな」 そういうと、レイガンはコーヒーを一気に飲み干して、店を出て いった。 10殺し屋 「後二分ね」 ジェシカ・フォードは腕時計を見て、呟いた。 ジェシカは律子のいる喫茶店の、車道を挟んで向かい側のビルの 屋上にいた。 屋上にはジェシカの他に人気はない。 ジェシカは双眼鏡で、ビル一階の喫茶店を見た。 喫茶店のガラス窓を通して、律子の姿が見える。 −−美佳が来ていない。 ジェシカは双眼鏡から目を離した。 −−罠だと気付かれたのかしら。いや、だとしたら、律子も喫茶 店に呼んであることは知っているはず。もう少し、待ってみるか ジェシカはしばらく双眼鏡で、喫茶店の律子の様子を伺った。 律子は席に座って、雑誌を読んでいる。 ピピッ!−− ジェシカの腕時計のアラームが鳴った。 −−十二時か ジェシカは足元に置いたバックのチャックを引いて、中から黒い 金属性の小箱を取り出した。その箱の側面に赤いボタンが埋め込ま れていて、さらにその上に誤作動を防ぐためのプラスチックカバー が被せてある。それはまさしく喫茶店に仕掛けた爆弾を爆破させる ためのリモートコントローラーだった。 ジェシカはそのプラスチックカバーを外した。 −−後五分で来なかったら、律子には死んでもらうわ ジェシカは腕時計のアラームを五分後にセットすると、再度、双 眼鏡を覗き込んだ。 時間がたつに連れ、ジェシカの胸の鼓動が秒刻みで波打ち、リモ コンを持つ手に力が入る。 二分、三分と過ぎていく時間の経過がジェシカの心にはっきりと 感じられた。 −−早く来い、美佳。あなたが来なければ、身代わりに姉が死ぬ ことになるのよ。 ジェシカは双眼鏡から全く目を離さず、喫茶店だけを見つめてい た。 ジェシカにとって今度の計画は一か八かの最後の賭けだった。エ カテリナを失い、実質的にフェリカとクレールを倒すことが出来な くなった今、椎野姉妹のいずれかを殺すことしかない。十五年間、 温めてきた復讐がこの程度で終わってしまうことはジェシカにとっ て不本意以外のなにものでもなかったが、彼女自身、もう復讐の機 会が二度と来ないことを承知していた。このまま、何もしなければ 、フェリカに殺される。そんな恐怖の念が即座にこの本意に反する 計画を思いつかせたのだった。この計画で椎野姉妹のどちらかを殺 し、片方に悲しみの苦痛を与える。しかし、それは復讐の達成では ない。だが、焦るジェシカにとってはどうせ死ぬなら、その前に結 果が欲しい。ただ、それだけ。そう、今度の計画、つまりジェシカ の最後の復讐は実に自分が何かをしたという事実を残すだけに過ぎ ない。それでも、あえて計画を遂行しようとするジェシカにはもは やこれから先の考えなど何もなかった。 ピピッ!!−− 時計のアラームが十二時五分を告げた。 −−やっぱり来なかったわね。律子には死んでもらうわ ジェシカは双眼鏡を覗きながら、リモコンのボタンに親指を乗せ た。 −−あれは!! ジェシカの双眼鏡の視界の中で、喫茶店の前の車道脇に左から走 ってきた一台のバイクが急停車した。そして、ドライバーはバイク を降りると、ヘルメットをつけたままガードレールを飛び越えて歩 道に入り、すぐ目の前の喫茶店へ入っていく。 −−美佳だ! 直観的にジェシカはそう察した。 −−ヘルメットはつけているが、美佳に間違いないわ ジェシカは口許に不思議と安心した笑みが浮かんだ。 −−これで美佳を殺せるわ ジェシカは胸が踊る気持ちを抑えながら、美佳が律子の席まで来 るのを待った。美佳が律子のいる席へ来たら携帯電話で律子を店の カウンターの電話まで呼出し、その隙に席に座っている美佳を殺す 。それが計画だった。 −−ん? ジェシカは一度、目を擦って、喫茶店を見た。 喫茶店の窓際の席の律子が立ち上がり、店の入口へ歩いていく。 ドライバーの方を見ると、ドライバーが律子の方へ手を振っている ではないか。 −−どうなってるんだ その時、ドライバーがヘルメットを外した。そこには美佳ではな く、若い男の顔があった。 −−気付かれたか! ジェシカは律子だけでも殺さねばと反射的にリモコンのボタンを 押す指に力をかけた。 パシッ!! その時、何かがジェシカの左手の甲に当たり、ジェシカは手にし ていたリモコンを落としてしまった。 「イタッ」 ジェシカは右手で左手を押さえた。ジェシカの足下にパチンコ玉 が転がっていた。 「誰!」 ジェシカは周囲を見回した。 すると、十メートル先に一人の少女が立っていた。少女の手には パチンコが握られている。 「椎野美佳……どうしてここにいるのがわかった?」 「それはノーコメントよ。それより、ジェシカ、爆弾で私を殺そう なんてずいぶん卑劣なことするのね。喫茶店には他にも人がいるの よ」 「おまえとフェリカを殺せれば、何人死のうと関係ない」 「何ですって」 美佳がジェシカに詰め寄った。 「止まれ、近づくと撃つぞ」 ジェシカは腰のホルスターから拳銃を抜き、美佳に銃口を向けた 。 「止まらなくたって、撃つくせに」 といいつつ、美佳は立ち止まった。 「それにしても、私の計画まで知っていながら、のこのこ私の前に 姿を現すとはね。あなたはもう少し頭がいいと思ったけど」 「あなたと話すために来たのよ」 「話す?今更、何を。私は今の考えを改める気はないわよ」 「そんなことじゃないわ。私はあなたがどうしても殺したいという のなら、殺されてもいいと思ってる」 「面白いこというのね。つまり、フェリカが父を殺したことは認め るのね」 「認める?どうしてそんなに認めさせたいの?あなた、フェリカが お父さんを殺すのを見たんでしょ。確認を取る必要がどうしてある わけ?」 「それは−−」 ジェシカは言葉に詰まった。 「あなた、本当に殺人の現場を見たの?」 「……」 「まあ、いいわ。私の聞きたいことはそんなんじゃないから。ジェ シカ、私を殺すっていうけど、私とフェリカを殺した後、どうする の?」 「そんなことを聞いてどうなる」 「ぜひ聞いてみたいのよ。そうでないてと気になって死ねないから 」 「いいわ、教えてあげるわ。私はあなたたちを殺したら自殺するわ 。復讐が私の生き甲斐ですもの」 「そう」 美佳は急に怒りがこみ上げてきたように拳をギュッと固めた。「 失望したわ。あんたってやっぱり最低ね」 「何ィ!」 「自殺するですって。あんた、わがままもいい加減にしてよね。ジ ェシカ、あなた、自分の生まれ故郷のこと、考えたことがある?あ なたの生まれ故郷はジェシカのお父さんが一生懸命に作った街なの よ。あなたが死んだら、あなたの農場や会社で働く人達はどうなる の?あなたはその人たちを見捨てて、さっさと自分だけ楽をしよう って言うわけ。冗談じゃないわ。そんなこと、私が絶対に許さない わよ」 美佳は一気にまくし立てた。 「黙れ!おまえにそんなことを言われる筋合いはないわ!」 「いいえ、言わせてもらうわ。あんたのは復讐じゃないわ。人生か ら逃げてるのよ」 「よくも!」 ジェシカは怒りに任せ、拳銃のトリガーを引こうとした。 「おっと、そこまでだ」 その時、ジェシカの背後から声がした。 「だ、誰?」 ジェシカが振り向くと、昇降口に一人の男が立っていた。その男 の手には拳銃が握られている。 「誰と聞かれて、答える殺し屋がいるかね。さあ、拳銃を捨てても らおうか」 男の言葉にジェシカは仕方なく拳銃を下に置いた。 「そっちのお嬢さんもだ」 「私はパチンコしか持ってないけど」 そういいつつ、美佳も手に持っていたパチンコを捨てた。 「こちらへ蹴りな」 男が言うと、ジェシカは拳銃を男の方へ蹴った。 「本当なら君には復讐をさせてやりたいが、そうするとこちらの取 り分が減るんでね。まあ、安心しな。二人ともすぐにあの世へ送っ てやるよ」 「一体、誰に頼まれたの?」 ジェシカが強い口調で男に聞いた。 「そいつは答えられないね。企業秘密ってもんだ。さて、どちらに 先に死んでもらおうか」 男はジェシカと美佳に相互に銃口を向けた。 ジェシカはごくりと唾を飲み込む。 「殺すんなら、私を先にやりなさいよ」 美佳が後ろに両手を回して、大きな声で言った。 「美佳−−」 ジェシカは驚いて美佳を見た。 「どうせ死ぬんなら少しでも長生きできた方がいいでしょ、ジェシ カ」 美佳はにこっと笑って、ウインクした。 「いい度胸だ。それなら、おまえを先にしよう」 男は銃口を美佳に定めた。 ジェシカは美佳の行動を理解できなかった。 「ジェシカ、お願いがあるんだけど」 美佳は小声でジェシカに言った。 「さっきは言いすぎたわ、ごめん」 「な、何なの……」 ジェシカは戸惑いの表情を浮かべた。 「ちょっと言っておきたかったの」 美佳は微笑んだ。 「何、しゃべってるんだ。行くぞ」 男は拳銃のトリガーを引く指に力を入れた。 グォーン!! その時、美佳の背後が突然、光ったと思うと、光弾が美佳の肩を かすめて、男の方へ飛んでいった。そして、男が銃のトリガーを引 ききった瞬間、流線を描いた光弾が男の拳銃の銃口に飛び込んだ。 バンッ!! 拳銃が爆発した。 「うわっ」 男は銃の破裂した勢いで吹っ飛ばされ、コンクリートの地面に背 中から倒れた。 「何があったの?」 ジェシカは驚いて、美佳の顔を見た。 「エリナが間に合ったってことよ」 美佳は後ろ手に持っていた黄金銃を前に持ってきた。 「いつのまに」 「3分前までに来るもんだから、ひやひやしたわ」 美佳は苦笑して言ったが、ファレイヌが人間同様生きている事を 知らないジェシカには何のことだがわからなかった。 「くそっ」 男は起き上がると、血だらけの右手を左手で抱きながら、昇降口 へ逃げていった。美佳はそれをただ目で追っていた。 「さてと」 美佳はジェシカの方を見た。 「殺るなら殺るがいいわ」 ジェシカは美佳を睨み付けていった。 「じゃあ、そうしようかな」 美佳は黄金銃の銃口をジェシカに向け、トリガーを二度、引いた 。 グォン、グォン!! 黄金銃から発せられる音にジェシカは思わず身をすくめた。 だが、黄金銃の弾丸が破壊したのは、地面に転がったリモコンと ジェシカの拳銃だった。 「ジェシカ、また会いましょう、今日は引き分けってことで」 美佳はそういうと、昇降口へ姿を消した。 一人屋上に残ったジェシカはしばらく呆然と立ち尽くしていた。 「私、震えてる」 ジェシカは両手で体を抱きしめながら、その場に座り込んだ。生 まれて初めて死の恐怖を味わったジェシカであった。 「殺し屋」終わり