第27話「殺し屋」前編 登場人物 椎野美佳 高校生 椎野律子 美佳の姉 ジェシカ 復讐の女 レイガン 殺し屋 1 夢 ガサッ−− 何かの物音にジェシカはふっと目を覚ました。 部屋は真っ暗だった。 一瞬、自分は寝惚けているのかと思い、しばらく天井を見つめて いた。 ガタッ、バサッ−− −−下の方から聞こえる。何をしているのかしら。 ジェシカはちらっと机の上の時計を見た。まだ午前二時だ。 ぐわあああぁぁ−− −−ひ、悲鳴だ ジェシカはハッとして飛び起きた。 そして、ベッドから慌てて降りると、靴を履いて、寝室を出た。 下の方ではまだ微かな物音が聞こえてくる。 ジェシカは不安げに階段をゆっくりと降りた。一歩一歩、段を踏 みしめるたびに何かが自分に飛びかかってくるのではないかとびく びくしていた。 「お父さん−−」 ジェシカは呟いた。 階段を降りると、物音の方向が次第にはっきりしてきた。ジェシ カはその場で一度深呼吸をすると、勇気を振り絞って、物音のする 方へ歩き出した。 キィ、キィ、キィ−− 廊下の板のきしむ音がジェシカの緊張感を一層高めた。 −−物音はお父さんの書斎の方だわ。お父さんかな、まさか泥棒 なんてことないよね ジェシカはあえて書斎へは行かず、父の寝室へ行った。 ドアを開け、右の壁のスイッチを入れると、ぱっと部屋が明るく なる。しかし、ベッドに父の姿はなかった。 ガシャン!−− 突然の花瓶の割れるような音がした。ジェシカは顔が硬直し、び くっと震え上がった。 「お父さぁん」 ジェシカはたまらなくなって、寝室を出ると、書斎へ向かって走 り出した。そして、ためらうことなく書斎のドアを開けた。 −−!!! ジェシカは目の前の光景に一瞬、言葉を忘れた。 窓の月明かりは、目を見開いて床に仰向けに倒れている父親の姿 を映し出した。 「お、お父さん……」 ジェシカは震えた声で、父へ呼び掛けた。しかし、返事はない。 ジェシカは父親に駆け寄り、激しく父の体を揺すった。 「起きて、起きてよ、お父さん。お父さんってばぁ」 ジェシカは今にも泣き出しそうな声で言った。 その時、ふと自分の手に何かぬるぬるしたものがべっとりとつい た。ジェシカはその手を自分の目の前に持ってくる。 「きゃあああ」 ジェシカは発狂しそうな悲鳴を上げた。思わず父の体から離れ、 床に転がった置物に足を滑らせて、転んでしまう。 「いたた」 ジェシカは顔を顰めて、何気なしに部屋の奥に目をやった。する と、何か人間の形をした影が立っていることに気づいた。 「誰?」 ジェシカはか細い声で言った。 部屋の奥の影は拳銃のようなものを握っていた。 −−お父さん、私を助けて、神様、私を助けて ジェシカは心の中で何度も祈った。 影が一歩こちらへ足を踏み出した。 −−殺す気だわ ジェシカは直観的にそう悟った。 「来ないでぇ」 ジェシカは床に落ちている物を片っ端から影に向けて投げつけた 。しかし、影はゆっくりと近づいてくる。 「い、いや」 ジェシカは首を横に振った。その時、床を探る自分の手に懐中電 灯が握られた。 影はジェシカの手前で足を止めた。 「ジェシカ−−」 影が何かを言いかけた時、ジェシカは懐中電灯のスイッチを入れ 、光を影の顔に当てた。 −−フェリカお兄ちゃん…… 影の顔を見て、ジェシカは呟いた。 「フェリカ!!」 外で声がした。 影はすぐさま、身を翻して、窓を方へ駆け出した。 ジェシカもそれを追うように窓へ駆け出す。 影は走ったまま開いた窓の敷居に足をかけ、そのままの勢いで窓 を抜け出した。 ジェシカも別の窓からすぐに外を覗き込む。 庭にはもう一つの影があった。それはジェシカと同じ背丈の影だ った。 「クレール!!」 ジェシカはその影の姿を見て、叫んだ。 「ジェシカ」 その少女はジェシカの姿に気づくと、顔を背けた。 「クレール、どうして……」 ジェシカは愕然とした顔で少女を見つめた。 「行くぞ」 もう一つの影の言葉に促されて、少女も庭の外へ駆け出した。 「待って。何で、何で、お父さんを殺したのよ!!」 ジェシカは庭へ向かって、思いっきり叫んだ。 しかし、あとには虫の音と闇の静寂だけしか残らなかった。 * * * * 「お嬢様、お嬢様」 誰かに体を揺さぶられて、ジェシカははっと目覚めた。 目の前には運転手のジム・マックスウェルの顔があった。 「ここは?」 ジェシカはまだ意識が朦朧とした様子で、尋ねた。 「お嬢様、車の中ですよ」 運転手は運転席から体を半分乗り出して、後部座席のジェシカに 言った。 「そ、そうだったわね」 ジェシカは頭を重そうに手で押さえた。彼女の額は汗でびっしょ りになっている。 キャデラックにはジェシカと運転手の二人だけだった。車は車道 の脇に停止している。 「ホテルに着きました」 運転手の言葉にジェシカはリア・ウインドへ目をやった。窓を通 してビジネスホテルの入口が見える。 「またあの時の夢をご覧になったのですか」 運転手が心配そうに言った。 「ええ」 ジェシカは疲れた声で言った。 「お嬢様、もう復讐はお止めになった方が−−」 運転手はついジェシカの様子に見兼ねて、口に出した。 「何を言うの!」 ジェシカは鋭い口調で言った。 「私はお嬢様がこれ以上、危険な目に会うのを心配で見ていられま せん。もしお嬢様の身に何かあったら、亡くなられた旦那様に何と お詫びしたらよいのか」 「私に復讐をやめろっていうの。冗談じゃないわ。私は父の復讐の ためだけにこの十五年間を生きてきたの。今更、命なんか惜しくな いわ」 「しかし、エカテリナを警察に持っていかれた今、椎野美佳やフェ リカをどうやって倒すとおっしゃるのですか。むしろ、彼らがお嬢 様を殺さないのが不思議なくらいです」 「それはあいつらが私に対して罪悪感があるからよ。それこそ、父 を殺したいい証拠だわ」 「本当にそうでございましょうか」 「ジム、あんた、フェリカたちに味方する気なの」 「いいえ、私は決してそんなことは。ただお嬢様にはもっと普通の 暮らしを−−」 「もう言わないで!」 ジェシカは運転手の言葉を遮った。「お願いだから、もう言わな いで。今の私から復讐を取ったら、人生がなくなってしまうの」 ジェシカはドアを開けて、車を出た。 「お嬢様……」 マックスウェルは悲しげな表情をして呟いた。 夜空に張った灰雲のように、ホテルの入口へ歩いていくジェシカ の後ろ姿はいつになく重く疲れていた。 2 依頼 成田空港−− 世界と日本の空路を結ぶこの空港では、夜半でも人の波は絶えな い。 一人の男が念入りな税関職員の検閲を終え、税関を出る。 その男は分厚いコートに身を包み、小さな旅行鞄を手に持ってい た。髪は金色で、あまり頭髪は整っていない。目は異様に冷たく、 感情を超越した何かがある。体つきは中肉中背だが、大きく感じら れる。 男はサングラスを外して、周囲をちらりと見た。 公衆電話の傍の壁際にいる一人の男に目が留まった。その男はグ レーのスーツの胸ポケットに赤い薔薇を刺している。 男は口許を軽くなめると、ゆっくりとその赤い薔薇の男の方へ歩 き出した。 「セオドア・レイガンだな」 赤い薔薇の男は低い声で言った。 「ああ」 レイガンはそっけなく答えた。「まさかあんたがじきじきに出迎 えに来るとはな」 「君が日本に来たことを他の誰にも知られたくないのでね」 「ほお、随分と気に入られたものだ」 「時間がない。仕事の話を始めよう」 「おいおい、こんな場所でするのか」 「再び君に会うつもりはない。この場限りだ」 「俺と会っているのを人に見られたくないってわけか。お偉いさん は大変だな」 「君には私の気持ちなどわからんさ」 「わかりたいとも思わんね」 「早速だが、仕事の話だ。ジェシカ・フォードを消してもらいたい 」 「ジェシカだと−−」 レイガンの眉がぴくっと動いた。 「覚えているだろ。我々を裏切ったジョン・フォードの娘だ」 「そんなことは知ってる。それでジェシカは何をやらかしたんだ」 「一般市民に拳銃を発砲したのだよ、父の復讐だといってね」 「へえ、ジェシカはまだ復讐をあきらめてなかったのか。まあ、あ の娘は父親思いだったからな」 レイガンの口許が緩んだ。 「笑い事ではない。ジェシカにこれ以上、日本で動かれては私の立 場が悪いのだ」 「それなら警察へ突き出せばいいじゃないか」 「それが出来るぐらいならおまえに頼んだりしない」 「それもそうだ。ジェシカの逮捕をきっかけにジョン・フォード殺 人事件が公になっては困るものな」 レイガンはにやりと笑った。 「人聞きの悪いことは言わんでもらいたいな−−それより、仕事は 引き受けてくれるのか」 「嫌だ、といいたいんだがね。金次第だな」 「金なら十万ドル用意した」 男は手に持っていたバックをレイガンに見せた。 「前払いか?」 「もちろん。君の相棒の病気を治すには金がいるだろう」 「よく調べてるな」 「私は信用できる相手としか取引はしないのでね」 「いいだろう」 「そういってくれると思っていた」 男はバックをレイガンに手渡した。レイガンはバックのチャック を少し開けて、中の札束を確認する。 「その代わり、道具はそちらで用意してくれないか。あいにく、日 本の税関は厳しくてね。拳銃が持ち込めないんだ」 「それなら、心配ない。それより、他にも頼みがある」 「何だ」 「ジェシカが狙っている椎野美佳という女も消してもらいたい」 「構わんぜ。ただし、もう5万ドル上積みだ」 「わかった。その代わり、1週間以内に仕事を済ませてくれ。それ から、必要なものがあったら、いつでも秘書に言ってくれ」 「O.K」 「では、これで失礼するよ。−−おっと、忘れるところだった。宿 は取っておいたから、そこへ行くといい」 男はホテルの住所をメモした紙をレイガンに渡した。 「それでは、期待してるよ」 男はそういうと、レイガンのもとから立ち去った。 3 電話 翌朝−− 「今日は余裕だわ」 椎野律子は駅の改札を出ると、腕時計で時間を確認した。 律子の勤める加茂川物産は霞が関のビル街の一角にある。 「律子、おはよ」 律子が加茂川物産のある園本ビルの前に来た時、後ろから声を掛 けられた。 「あら、里子、おはよ」 律子は同僚の石田里子に挨拶した。 「今日は早いじゃない」 「妹がきちっと起きてくれるからね」 「妹−−律子に妹なんていたんだ」 「なに、惚けたこと言ってんの。前に話したでしょ」 「え、そうだったかしら」 「そうよ」 律子と里子はそんな話をしながら、ビルに入っていった。 エレベーターで八階まで行くと、二人は更衣室で事務服に着替え 、庶務課の部屋に入った。 律子は周囲の人に一通り挨拶を済ませ、自分の席に座った。 「さてと−−」 律子は書類を取り出そうと、机の引き出しに手をかけようとした 時だった。机の上の電話がけたたましく鳴った。 「はい、庶務課の椎野です」 律子は受話器を取って、応対した。 加茂川物産では社員の席に一台ずつ電話が割り当てられていて、 内線でどの課の社員とでも一度でつながるのである。 「ジェシカ・フォード様から椎野さんにお電話がかかっていますが 、お取り次ぎなさいますか」 と受付の声。 −−ジェシカ……いったい何の用なのかしら 律子はやや不安になったが、 「どうぞ、つないで」 といった。 「わかりました」 と受付。すぐに回線が切り替わる。 「椎野ですけど−−」 律子は先に電話の相手に切り出した。 「久し振りね、律子さん」 その声はまさしくジェシカ・フォードの声だった。 「会社にまで電話して、どういうつもり」 「あなたに話があるのよ。今日の正午、喫茶店「待ちぼうけ」に来 ていただけるかしら」 「ここで話せないことなの?」 「ええ。あなたの妹に関することよ」 「妹……」 「来ないなら来ないで、結構だけど、どうなっても知らないわよ」 ジェシカは意味ありげな口調で言った。 「どういうこと?」 「さあね」 「わかったわ。行くわ」 「最初からそういえばいいのよ。喫茶店の場所は近くだからわかる わね?」 「え、ええ」 「それじゃあ、楽しみにしてるわ」 ジェシカの電話はそれで切れた。 「美佳の話って何なのかしら……」 律子はしばらく受話器を持ったまま、考え込んでいた。 4 思わぬ返答 同じ頃、凌雲高校では−− 椎野美佳は誰もいない校舎の屋上で、ぼんやりと階下のグラウン ドを見ていた。 屋上はもともと広くはないため、どこかのクラブが使うというこ ともない。屋上の周囲は三メートルもある金網フェンスで囲ってあ り、屋上に一人でいると何となく檻の中に入れられているような雰 囲気がある。このフェンスが高い理由と言うのは、数年前、クラブ 活動中の男子生徒が誤って屋上から落ちたためであるのだが、しか しこのフェンスの高さはどうにも気味の悪いものがあり、生徒から の評判もよくない。 校舎の屋上は本当に殺風景な場所だった。各教室のエアコンに風 を送るための大型機械が端に設置されているだけで、これといって 目を引くようなものは何もない。 一方、グラウンドでは野球部の部員がグラウンドいっぱいに散ら ばって守備練習をやっている。 凌雲高校の野球部は都内でもそれほど強いというわけではなく、 全国高校野球大会の地区予選でも最高でベスト8に入ったことしか ない。それでも、部員の数はクラブの中では一番多い。 美佳はその景色を見ているというよりも目のやり場をそこへ合わ せているだけで、頭の中では別のことを考えていた。 「チャッケ、なに、ぼおっとしてんだよ」 美佳の後ろの方で声がした。ふと我に帰り、美佳は後ろを見た。 「……」 美佳はやや表情を曇らせて、また視線を元に戻した。 声の主は田沢吉行であった。 田沢はもう体の方はよくなったのか、松葉杖はついていなかった 。田沢は美佳の隣に立った。 「もう足は治ったみたいね」 「まあな」 「これであんたには二度も借り作っちゃったね」 「チャッケの口からそんな言葉が出るとはな」 「借りはいつか必ず返すから、もう私の前に現れないで」 「ん?」 田沢は美佳の言葉に眉を寄せた。 「別にあんたが嫌いだからとかそんなんじゃないの。ただ、これ以 上、あんたと会うと心が揺らぐのよ」 美佳は田沢の顔を見た。「わたしは隆司以外の男に自分から抱き ついたことなんてなかったのに−−」 「チャッケ……」 「隆司は裏切りたくないの。わかるでしょ」 美佳は真剣な口調で言った。田沢は一瞬、その言葉に表情を強張 らせたが、すぐに大声で笑った。 「おまえ、何か勘違いしてんじゃねえの」 「え?」 「俺がおまえのことなんか好きになるわけねえだろ。おまえを助け たのはおまえが俺以外の奴に泣かされるのが嫌だったからさ」 「何よ、それ」 「それにしても、驚いたぜ。おまえってやっぱり女だったんだな。 抱きしめた時、おまえの胸の感触がもろに伝わってきたもんなぁ」 田沢は茶化すように言った。 「最低!」 美佳は田沢を思いっきりひっぱたいた。 「何だ、元気あるじゃねえか」 「?」 「あーあ、こんな女、からかっても仕方ねえから帰ろ」 田沢はそういうと、昇降口の方へ鼻唄を歌いながら、帰っていっ た。 5 届け物 −−コンコン 「………」 −−コンコン 「……」 −−コンコンコン 「…」 −−コンコン!! 「……ん?」 再三に渡りドアを叩く音にレイガンはようやく目を開けた。 「何だ、朝っぱらから」 ベッドで枕を抱いて寝ていたレイガンは窓から入ってくる日差し に目を細めながら、壁に掛かった時計を見た。時計は十時を回って いる。 「あらぁ、もうこんな時間か−−」 レイガンは目をこすりながら、重たそうな動きで起き上がろうと した。その瞬間、腕の関節が力なくガクンと曲がった。 −−ドサッ レイガンの体はバランスを失ってベッドから転がり落ちた。 −−コンコン ドアを叩く音は大分、苛立ってきている。 「うるせぇな」 レイガンは絨毯の床から体を起こすと、枕を小脇に抱えたまま、 ふらふらした足取りでドアへと歩いた。 「誰だぁ」 レイガンはドアの外の相手に声をかけた。 「ボスからの使いの者です」 と女の声。 「何の用だ?」 「頼まれたものをお届けにあがりました」 「頼まれたもの……あ、そうだった」 レイガンはチェーンを外し、ロックを外して、ドアを開けた。 そこにはいかにも秘書風の女が立っていた。年は20代半ばで、 髪はワンレングスで腰の辺りまで伸ばし、顔立ちは美人だが、やや 口許に気のきつい印象がある。化粧は薄く、縁のある眼鏡をかけて いる。服装は紺のワンピースで、背が高いと言うか、プロポーショ ンが整っているせいか、一応は似合っている。 「御苦労だったな」 「いいえ、仕事ですから」 女は上半身裸のレイガンに対し、やや目のやり場に困っていた。 無論、下半身はショートパンツ一枚である。 「なに、顔、赤くしてんだ」 「いえ、私は別に−−」 女は落ち着かない様子で、左手に持っていたアタッシュケースを レイガンに渡した。 レイガンはアタッシュケースを開いた。中にはライフル銃がバレ ルやスコープなど分解して収納されている。 「確かモーゼルM66SPでよろしいんですよね」 女は銃のことはあまり知らないらしく自信がないようだった。 「ああ」 レイガンは中身を確認してケースを閉じた。 「それから、こちらがジェシカ、椎野姉妹の資料です」 女はやや厚めの大型封筒をレイガンに渡した。 「どうも」 レイガンは資料を受け取ると、部屋の奥へ放り投げた。 「他に御用はございますか」 「いや」 「では、これで失礼させていただきます。何かございましたら、私 の方へご連絡下さい」 女は一礼すると、すぐにその場を去ろうとした。 「待ちなよ」 レイガンはすぐに女を呼び止めた。 「は、はい、何でしょう」 女は立ち止まって、レイガンの方を見た。 「せっかく来たんだ。ちょっと寄ってかないか」 とレイガンが言った。 「け、結構です。すぐ戻らないと叱られますから」 女は早く帰りたい様子だった。 「真面目だな−−じゃあ、ちょっと待ってな」 レイガンはいったん部屋に入って、すぐにまたドアの外に顔を出 した。 「持ってけよ」 といってレイガンは女の方に財布を投げた。女も不意をつかれ、 つい財布をキャッチしてしまう。 「これは?」 「やるよ」 「困ります、そんなことしたら私−−」 「ボスに叱られるって言うんだろ。だったら、黙ってればいいじゃ ねえか」 「でも−−」 「気にするな。どうせ大した給料、もらってねえんだろ。本当なら もう少しやりたいが、あいにく日本円がないんでね」 「す、すみません」 女はまた頭を下げる。 「それじゃあ、またよろしく頼むぜ」 「はい」 女は元気に返事をして、エレベーターの方へ歩いていった。 だが、すぐに立ち止まってレイガンの方へ慌てて戻ってきた。 「どうした?忘れものか」 レイガンは尋ねた。 「いいえ、大事なことを言うのを忘れました」 と女は言った。 「大事なこととは?」 「今朝、ジェシカの部屋の電話に仕掛けた盗聴器からジェシカが今 日の正午、霞が関にある「待ちぼうけ」という喫茶店で椎野美佳に 会うそうです」 と女が小声で言った。 「ほお、それで?」 「そ、それだけです」 「とても素晴らしい情報だ」 レイガンは女の両肩に手を置いた。 「い、いいえ、私はただボスから言われただけですから」 「俺は方向音痴でね。どうせなら、その喫茶店まで案内してくれな いか」 レイガンは女をじっと見つめた。 「で、でも……」 女は困惑した。 「任務ならボスだって文句言わないぜ」 「けど……」 「そんなにボスのことが怖いなら、後で俺が言っとくよ」 「はあ」 「たまには羽をのばすことも必要だ」 「本当にいいんでしょうか」 「俺は大歓迎さ」 「わかりました。ご案内します」 女は少し笑顔になって、言った。 「そうこなくっちゃ」 レイガンはそういうと、さっそく部屋に女を招き入れた。 6 マンション前 「ついたよ」 北条隆司は「スカイパーク」マンションの前の車道脇で、バイク を止めた。 「ありがと」 北条の後ろに乗っていた美佳はヘルメットを外して、バイクを降 りる。「迎えにきてくれてうれしかったわ」 「たまたま凌雲高校を通りかかって、そろそろ美佳の下校時間かな と思って」 「そういって、1時間も待っててくれたんだ」 美佳は北条にヘルメットを返した。 「え、何言ってんだよ」 ドキッとした顔をして言った。 「別に」 「美佳、これから暇か?」 「何で」 「今日、うちのサークルでコンパやるんだけどさ」 「今日は駄目。これから人に会う約束があるの」 「人って?」 「隆司の知らない人よ」 「マンションでか」 「ううん。姉貴の会社の近くの喫茶店」 「ふうん。だったら、乗せてってやろうか」 「いいよ、別に。隆司だって、忙しいんでしょ」 「忙しかったら、美佳の帰りを学校の前で待ってたりなんかしない よ」 「じゃあ、お願いしようかな。もし用が早くすむようなら、コンパ に付き合うわ」 「そうこなくっちゃ」 美佳は鞄をもって、マンションに入っていった。 エレベーターで美佳はそのまま五階まで行った。 五〇三号室のドアの前。美佳は鍵を鞄から取り出して、ドアのノ ブの鍵穴に差し込んだ。 −−あれ、鍵がかかってない 美佳は鍵を回してみて、気づいた。 美佳は鍵を鍵穴から抜いて、ドアを開けた。 真先に玄関の足下を見る。美佳と律子の靴以外、見慣れない靴は ない。 −−気のせいかしら 美佳はそっと靴を脱いで、部屋にあがった。部屋はシーンと静ま り返っている。いつもなら、鍵がかかっていなくても大して気にし ないのだが、ここのところ、ジェシカに狙われていることもあって 多少神経質になっていた。 美佳は音を立てないようにそろりそろりと足を進めた。そして、 最初に奥の居間と台所を覗いた。−−誰の姿も見えない。また、特 に荒らされた様子もなく、いつもの部屋の風景である。 −−後は姉貴と私の部屋ね。 律子や美佳たちの部屋は間仕切りされていて、各部屋にドアが付 いている。 美佳はまず自分の部屋のドアへ歩み寄った。そして、ぎゅっとド アのノブを握って、ゆっくりと右へひねる。 −−誰もいませんように 美佳は思い切って、ドアを後ろへ引いた。 「ふうっ」 美佳は深い息を付いた。美佳の部屋には誰もいなかった。全く変 わった様子もない。 美佳はこの緊張感が急に馬鹿馬鹿しくなった。単に鍵を掛け忘れ ただけで、実際には部屋には自分以外は誰もいないような気がして きた。 −−気にしすぎね。ようし、あと、姉貴の部屋だけ見たら、終わ りにしよ 美佳は自分にそう言い聞かせて、律子の部屋のドアの前に歩み寄 った。 −−もし誰かがいたらどうしよう。エリナはこのところ、姉貴が 持ってるし。 美佳はドアのノブを握って右にひねると、静かにドアを開けた。 続く