第23話「怪盗クロノス」後編 7 意外な行動 午後七時二十三分。 七〇七号室のインターホンのベルが鳴った。 「さあ、来たぞ」 柄島はソファから立ち上がると、壁に備付けのインターホンを取 った。 「柄島だが−−竹下か。すぐにドアを開ける」 柄島は受話器を元に戻すと、美佳の方に目をやった。 「帰ってもらうぞ」 「いやよ」 美佳はソファに座ったまま、横に首を振った。 「それなら部下に追い出させてやる」 柄島は玄関の方へ歩いていった。 −−いまだ! 美佳は柄島が背中を向けた瞬間、テーブルの昇竜の酒瓶を手に取 り、ソファから立ち上がると、部屋の窓を開けた。 その音で柄島が振り向いた。 「何の真似だ」 柄島が驚いた顔で言った。 「ここに置いたってどうせ盗まれるわ。だから、私が予告時間まで この瓶を持って、逃げる」 「何だと、何を馬鹿なことを」 「馬鹿なことじゃないわ。瓶を持って逃げ続けていれば、さすがの クロノスだって盗めないはずよ」 「冗談じゃない。返すんだ」 柄島が恐ろしい形相で美佳に向かってくる。 「おじいちゃん、ごめんなさい」 美佳は背負ったナップザックに酒瓶を入れると、そのまま窓を抜 けて、バルコニーに出た。そして、一瞬躊躇いながらも、美佳は思 い切って手すりを乗り越え、階下に飛び下りた。 「待て!」 柄島もバルコニーに飛び出し、すぐさま手すりを掴んで階下を見 た。 「これは−−」 柄島は思わず声を上げた。 階下の闇の中に突然、金色の三角翼が浮かび上がったのである。 三角翼は真っ逆様に落ちる寸前に風に乗って、ぐんと急上昇した 。そして、そのまま上空へ高く飛び上がった。 それはまさしく黄金のハンググライダーだった。 「一体、いつの間に」 柄島は目を疑った。 ハンググライダーの金色の機影は僅か数秒にして夜の街の中へ姿 を消した。 「驚いたね」 柄島は感心したように呟くと、ガウンのポケットから携帯電話を 取り出し、プシュホンを押した。「−−クロノスだ。計画を変更す る。椎野美佳がブツを持って逃走した。すぐに追ってくれ。私もす ぐに行く」 柄島は携帯電話をしまうと、寝室に行き、壁のキャビネットを開 けた。中には下着一枚で両手両足を縛られ、押し込まれているもう 一人の柄島がいた。 キャビネットの柄島は猿ぐつわをさせられながらも、ウーウーと 唸り声を上げて、もう一人の柄島を睨み付けている。 「君には悪いがね、もう少しそこにいてもらうよ。なに、安心した まえ。殺しやしない。じき、警察が助けてくれることだろうよ」 そういうと、柄島はニヤッと笑ってキャビネットの扉を閉めた。 8 対決 「この辺りがいいわね」 ハンググライダーの美佳は上空から比較的広い空き地を見つける と、操縦桿にしっかりと掴まり体重を移動させながら、ゆっくりと 下降し、空き地に着陸した。 「うーん、我れながら天才ね、わたしって。初めてのハンググライ ディングなのにこんなにうまく飛べるんだもん」 美佳は御機嫌そうに言った。 //美佳さんはただ掴まってただけだと思いますけど エリナはハンググライダーから十字架に戻って、言った。 「掴まってただけなんて、それは言い過ぎじゃない」 美佳は十字架を首にかけて、言った。 //今度、やってみたらいかがです、本物で 「−−気が向いたらね。それより、どこへ隠れようかしら。まあ、 適当に町の中を遊び歩いてれば平気よね」 美佳は楽観的に言った。 美佳の下り立った場所は閑静な住宅街の一角だった。まだ夜の七 時なのに人通りはほとんどなく、シーンと静まり返っている。だか らといって留守の家が多いというわけではなく、ほとんどの家には 電気が灯っているが、まだ残暑が続いているせいか、どの家も締め 切りでエアコンを付けているため、家の中の声や音はほとんど聞こ えてこないのである。 「新宿も繁華街を離れると、結構静かね」 美佳は夜道を歩きながら、呟いた。しばらく歌を口ずさみながら 、歩いていると、遠くの方から二つのヘッドライトが美佳の方へ近 づいてくるのが見えた。 美佳はそれを見て、道の脇の方へ寄った。 やがてヘッドライトを灯した乗用車がゆるやかなスピードで美佳 の横を素通りした。 美佳は気にもかけず、そのまま歩いていく。だが、車は美佳の横 を通り抜けてから、15メートルほどのところでゆっくりと止まっ た。そして、前部座席の両側のドアが開き、二人の男が車を降りた 。男は背広姿にサングラスをかけていた。 二人の男は背広の襟を正し、美佳の跡をつけ始めた。 美佳は尾行にも気付かず駅に向かって歩いていた。 //美佳さん しばらくしてエリナが美佳に声を掛けた。 「なぁに」 //先程から誰かに尾行されてますわ 「尾行?うそぉ」 美佳は後ろを振り返ろうとしたが、すぐにエリナが制した。 //駄目ですわ、振り返っては。相手に気付かれます 「あっ、そうか。でも、誰かしら。まさか、クロノスの一味じゃ… …」 //可能性大ですね 「でも、どうして私がここにいるのがわかったのかしら」 //さあ 「一丁、締め上げてやろうかしら」 //危険ですわ 「危険ならいつものことよ」 美佳は突然、勢いよく駆け出した。 「気付かれたか」 尾行をしていた男たちも慌てて走り出した。 美佳はしばらく直線距離を走った後、途中の十字路で突然、右に 曲がった。 男たちもそれを追うようにすぐ右に曲がった。 「いない」 男の一人が呟いた。曲がった先には美佳の姿はなかった。ただ街 灯の灯る一本道が真っ直ぐに続いていた。 「見失ったか……」 「どうする?」 「どうするも何もボスにお知らせするしかあるまい」 二人の男がそんな会話をしている時だった。 「ボスって誰のことかしら?」 どこからか美佳の声がした。 「どこだ」 二人の男は左右を見回した。 「とこ見てるの、上よ」 その声に二人の男が上を見た時、電柱の上から椎野美佳が颯爽と 飛び下りてきた。 「よっと」 美佳は少々ずっこけ気味に着地すると、すぐに持っていた黄金銃 の銃口を男たちに向けた。「さあ、あなたたちの正体を教えてもら いましょうか」 「な、何のことだ、私はただの通行人だ」 男の一人が誤魔化すように言った。 美佳は黙って銃のひき金を引いた。 グォーン−− 光弾が男の右足に命中した。 「うわっ」 男は思わず足を抱えて、飛び跳ねた。 「私、下手な嘘は嫌いなの」 「ちょっと待てよ。実は僕たちは調査員なんだ。君にアンケートを −−」 美佳はまた銃の引き金を引いた。 「ぎやっ」 もう一人の男も右足を抱えた。 「つまんないこと言ってないで、早く本当のこと言いなさいよ。あ んたたち、クロノスの仲間なんでしょ」 美佳の質問に男たちは渋々手を上げた。 「最初からそう言えばいいのよ。で、どうして私の居場所がわかっ たの?」 美佳の次の質問に男たちは首を横に振った。 「知らないですって?」 今度は男たちは首を縦にうんうんと振った。 「ドアホ!」 美佳は頭にきて、銃のひき金を二度引いた。今度は弾丸が男たち の左足にそれぞれ命中した。 「うわっ」 今度はさすがに男たちもうずくまってしまった。 「あんたたち、ギャグやってんじゃないんだからね。全く!」 美佳は呆れ顔で言った。 「何してるの?」 その時、美佳の背後で声がした。振り向くと、牧田奈緒美が立っ ていた。 「ナオちゃん、どうしてここに?」 「美佳こそどうしたのよ、こんなところで。柄島さんの警備はどう したの?」 「どうせクロノスの狙いはこの酒瓶だから、私が持って逃げること にしたのよ」 「柄島さんは承知したの?」 「するわけないでしょ、あの頑固じじいが。私が強引にナップザッ クに入れて持ってきたの」 「この男たちは?」 「クロノスの仲間よ。私が歩いてたら、つけてきたのよ。だから、 逆に誘き寄せてやったの」 「そう」 「ナオちゃんが来たんなら、ちょうどいいわ。こいつらを逮捕して 警察へ連れてってよ。こいつら、きっとクロノスの居場所を知って ると思うわ」 「そうね」 奈緒美は肩にかけたバックから拳銃と手錠を取り出した。 「私が見張ってるから、二人に手錠をはめて」 「わかったわ」 奈緒美はゆっくりと男たちに歩み寄った。 「これでひとまず安心かな」 美佳はほっと息を付いた。 その時だった。 突然、奈緒美が身を翻して美佳に向かってきた。 「あっ」 不意をつかれた美佳に奈緒美は手にした拳銃の底板で美佳の右手 首を叩いた。痛みで思わず美佳が黄金銃を落とすと、すかさず地面 に落ちた黄金銃を横に蹴った。 「何の真似?」 美佳は右手首を押さえながら、言った。 「まだわからないの?」 奈緒美はにやっと笑って、銃を美佳へ向けた。 「あなた、ナオちゃんじゃないわね」 「そういうこと。浜崎、早く銃を拾うのよ」 奈緒美の言葉に、浜崎はすぐに黄金銃を拾い上げた。 「あなたがクロノスなの?」 「ふふふ、クロノスは男よ。私の名はシルフィー。彼の同業者って とこね」 「ということは泥棒?」 「怪盗っていってほしいわね」 「この酒瓶が狙いなら絶対に渡さないわよ。おじいちゃんと約束し たんだから」 「いらないわ」 奈緒美に化けたシルフィーはあっさりと言った。 「え?」 「私たちの狙いはファレイヌよ、椎野さん」 「ファレイヌって……」 美佳は頭が混乱した。 「全てはファレイヌを盗むためのお芝居だったのよ。あなたが信じ ている柄島の正体もクロノスよ」 「嘘だわ、そんなこと」 「嘘じゃないわ。私が牧田奈緒美に変装して、まずクロノスが柄島 の昇竜の酒瓶を盗む予告をしたことを律子に信じ込ませ、その上で 警察を呼んだ。その後、本当は律子に柄島のところへ行って瓶を守 るように言ってもらって、あなたを柄島のところへ行かせる手筈だ ったけど律子が出掛けたきり帰ってこない御陰で私がやることにな ったわけ。疑われたらどうしようかと思ったけど、あなたが単純で 助かったわ」 「私が逃げることも計画のうちに入ってたの?」 「それは例外だったわ。柄島が部下を部屋に入れて、あなたを追い 出そうとした時があったでしょう。あの時、本当は外で警備してい た刑事も中に入れて、全員が部屋に入ったところで部屋の電気を消 し、その混乱に乗じてあなたからファレイヌを盗み出す計画だった のよ」 「どうして私の居場所が分かったの?」 「あなたのナップザックの中身を調べてみたら」 美佳はナップザックを下ろすと、中から昇竜の酒瓶を取り出した 。 「これは贋物だったの?」 「ええ」 「くっ」 美佳は悔しくなって、昇竜の瓶を地面に叩きつけた。瓶が砕け散 って、破片が地面に散乱する。その破片の中に黒い正方形の箱があ った。それを拾ってみると、その箱から微かだが電波音がする。 「発信器……」 「そう。これでわかったでしょう」 「汚い手を使うのね」 「汚い……」 シルフィーは眉を顰めた。 「そうよ。怪盗なら怪盗らしくファレイヌを盗む予告を出したら。 こそこそしないでね」 「騙されといて、よくそんな大きな口が聞けるわね。まあ、いいわ 。目的のものは頂いたし、あなたとはこれでお別れよ。おまえたち 、早く車を持ってきて」 「はっ」 浜崎たちがファレイヌを持って、車のところへ行こうとした。 「そうはいかないわ。チェーンジ ブーメラン!」 美佳が叫ぶと、突然浜崎の持っていた黄金銃がブーメランに変形 した。ブーメランは激しく回転して、浜崎の手から離れると、流線 を描いて美佳の手に戻ってきた。 「何なの、一体」 今の出来事にシルフィーは唖然とした。 「ファレイヌはただの道具じゃないわ。生きてるのよ」 「冗談じゃないわ。そのブーメランを早く渡しなさい」 シルフィーは拳銃の銃口を美佳へ向けた。 「お断り」 「だったら、撃つわよ」 シルフィーはひき金に指の力を入れた。 パシッ! 「イタッ!」 その時、パチンコ玉がシルフィーの額に当たった。 美佳はその隙を付いて、シルフィーに飛び掛かると、彼女の銃を 持つ手にガブッと噛みついた。 「何すんのよぉ」 シルフィーは思わず銃を落とした。そして、手を激しく引っ張っ て、美佳の噛みつきから逃れると、後ろへ数歩、下がった。 「このワニ女!」 「じゃかあしいわよ、このウソツキ女!」 「このチビ!」 「デカ女よりましでしょ」 二人が言い争っているところへ美佳の後ろから一人の女が歩いて きた。 「もうすぐ警察が来るわよ、怪盗さん」 その言葉に美佳が振り向いた。 「姉貴!」 美佳が笑顔になった。律子の手にはパチンコが握られている。 「あんたね、私の顔にパチンコ玉を当てたのは」 シルフィーは奈緒美の怒った顔で言った。 「手を狙ったんだけどね、まだ素人だから勘弁してね」 「こんな奴に頭なんか下げなくていいわよ」 美佳が向きになって言った。 「どうしてここがわかった?」 シルフィーは美佳が尋ねたのと同じ質問を律子にぶつけた。 「私と奈緒美とは長い付き合いよ。美佳は騙せても、私は騙されな いわ」 「気付いてたのね」 「ええ。本物の奈緒美はマンションの地下の物置で見つけたわ。薬 でまだ朦朧としてたけど」 「どうやら計画は失敗したみたいね」 「そうよ。明日の新聞の社会面にはあんたのブスな顔がどかんと出 るわね」 美佳が勝ち誇ったように笑った。 その時、一台の赤い車が物凄い勢いで美佳たちの背後から走って きた。美佳たちが思わず道の脇へ避けると、車はシルフィーの前で 急停車した。 「乗れ!」 運転席から男の声がした。 「クロノス!」 シルフィーの顔が輝いた。シルフィーは助手席に、二人の男は後 部座席にすぐに乗り込んだ。 「待ちなさい!」 美佳が車に近寄ろうとすると、運転席のクロノスが声をかけた。 「お嬢さん、君と一緒にいた時間、楽しかったよ。またどこかで会 えることを楽しみにしてる」 クロノスは美佳にウインクした。 「あっ……」 その時、クロノスの顔を見た美佳は胸がキュンとときめいた。 クロノスは車を急発進させた。美佳が追い掛ける暇もなく、車は 闇の中へ消えた。 美佳はしばらく茫然と道の真ん中に立ち、車の去っていった方向 を見送っていた。 「美佳、どうしたの?」 律子が声をかけた。 「ううん、何でもない。ねえ、姉貴」 「何?」 「クロノスって素敵ね」 「ええっ!」 律子は驚いたが、美佳の表情は恋する乙女の顔になっていた。 「怪盗クロノス」終わり