第22話「怪盗クロノス」前編 登場人物 椎野美佳 高校生。ファレイヌの使い手 椎野律子 美佳の姉。 牧田奈緒美 刑事 クロノス 怪盗 プロフィール 私、椎野美佳、16才。凌雲高校一年生。ひょんなことからファ レイヌという粉末の魔女たちの争いに巻き込まれて、戦うことにな っちゃったの。ファレイヌは、普段は粉末なのに、人間に乗り移っ たり、形を変えたり、魔法まで使っちゃうのよ。一応、私にもエリ ナっていうファレイヌの味方はいるんだけど、はっきりいって無謀 よねぇ…… プロローグ 午後八時。 椎野律子は浴室でシャワーを浴びていた。 −−きゃああああ−− ?。悲鳴? 律子は水の音の中で微かな叫び声を聞いた。 律子はシャワーを止めた。 「誰か、助けて!」 美佳の声だ。さっきまでテレビ見てたはずなのに。 「美佳」 律子は浴室の扉を開けて、居間にいるはずの美佳に呼び掛けた。 返事がない。 「何かあったの」 律子はやや不安になった。タオルかけに掛けたバスタオルを体に 巻いて、慌てて居間に駆けつけた。 居間には美佳が倒れていた。 「美佳!」 律子はびっくりして美佳を抱き上げた。 「しっかりして、美佳!」 律子は美佳を揺さぶった。 「……ん、な、何よ」 美佳は目をこすりながら、目を開けた。 「よかった−−」 律子はほっとする。 「何がよかったよぉ。折角、いい気持ちで寝てたのに」 美佳は不機嫌なそうに言った。 「寝てた?」 「そうよ」 「ちょっと待ちなさい。美佳、あなた、悲鳴を上げたでしょ」 「いつぅ?」 美佳は面倒くさそうに言った。 「今よ」 「悲鳴なんか上げてないよ」 「だって、確かに私、聞いたのよ−−」 その時、つけっぱなしのテレビの方から美佳の声が流れてきた。 『ありがとう、アレック。助かったわ』 『当然のことさ。俺は君のナイトだからな』 『ああ、アレック、愛してるわ』 『俺も愛してるぜ、カレン』 とアニメ番組の姫と騎士の会話シーン。 「あれ?あれ?」 律子はテレビと美佳を見比べた。 「あのアニメのお姫様、私が声、やってるの」 「何だ、まぎらわしい。じゃあ、あの悲鳴はテレビの声だったわけ ?」 「そうじゃないの。全くおっちょっこちょいなんだから」 「そんな言い方ないでしょ。私、心配だったんだから」 律子は真顔で言った。 「大袈裟ねぇ。あまり心配ばかりすると、皺が増えるわよ」 「な、何ですって」 律子は向きになった。 「それより、姉貴、私の演技力、少しは認めた?」 「全然。お姫様の声より豚の鳴き声でもやった方がいいんじゃない 」 「へんだ!お姫様より豚の鳴き声の方が難しいのよ」 「あら、そう」 律子はそういって、浴室へ戻っていった。 「何だか、眠気が覚めちゃった」 美佳は大きく伸びをしてから、テレビを消した。 声優になってから一年。別にどこのプロダクションと契約してる わけでもない。ただ以前、東京の姉のマンションに遊びにいった時 、気まぐれに映画の声優募集のオーディションに参加して、あっさ り主役に抜擢されてしまったのだ。以後、相木美佳という芸名で、 声優業をやっている。仕事は自分が最も信頼しているRTVのプロ デューサー前原昌広の仕事以外は全く引き受けていない。レギュラ ーは週二本とそれほど多くはない。しかし、そのわりには雑誌の人 気声優のベスト5に入ってしまったりして、結構人気がある。その ためか、マスコミには気を遣い、学校にばれないように雑誌であろ うとテレビであろうと絶対に表には出ないようにしている。まあ、 そんな秘密的な部分がアニメファンの支持を得ているのだろう、と 美佳は勝手に推測している。 「なに、ぼんやりしてるの」 律子に言われ、美佳はふっと我に帰った。 律子はガウン姿で、頭にタオルを巻いている。 「私、学校、やめようかな」 「何で?」 「だって、もうすぐ夏休みが終わるんだもん」 「情けない」 律子は溜め息をついた。「そんなことでどうすんのよ。仮にも1 月前まで秘密結社相手に戦ってたんでしょう」 「それとこれは別よ。大体、戦いは頭使わなくていいじゃない」 「あのねぇ……これじゃあ、あんたにやられた敵は浮かばれないわ よ」 何となく敵に同情してしまう律子であった。 ある屋敷の書斎。一人の男が肘掛け椅子にもたれ、デスクライト を照明に読書をしていた。 男は鼻の高い、眼光の鋭い男で、その顔立ちは西洋風だった。年 の頃は三十後半。背は高く、細身だが、貧弱には見えない。落ち着 きがあるのか、時折机の上のワイングラスを手にする時以外は、体 一つ動かさない。 部屋にはステレオがあるが、彼は静寂を好むのか、それとも読書 に集中したいのか、音楽はかかっていない。窓はこの熱帯夜にも関 わらず締切で、エアコンすらないが、造りがいいのか部屋は思った より涼しい。 彼の目は読書を始めてから、ずっと活字の前に注がれていたが、 入口のドアを二、三度ノックする音を聞いて、初めてドアに目をや った。 「誰かね?」 男はごく穏やかな調子で言った。 「旦那様、執事のホルスでございます」 とドアの外から男の声が聞こえてきた。 「入りたまえ」 男の言葉でドアが静かに開き、中に白髪の男が入ってきた。白髪 の男は額の深い皺からしても六十は過ぎていると思われるが、背筋 の整ったしっかりした男であった。 「用件は?」 男は執事を見て、言った。 「例の少女を発見致しましたので、その調査書をお持ち致しました 」 「ほお、それは素晴らしい。ぜひ見せてくれ」 「はい」 執事は大型の茶封筒を男に手渡した。男は読み掛けの本に栞を挟 んで、テーブルの上に置くと、早速、封筒の中身を取り出した。そ れは数枚のレポートと一枚の写真だった。 「この娘がファレイヌの使い手か。早くそのお手並みを見せてもら いたいものだな」 男は写真の少女を見つめながら、にやりと笑った。 1 朝の会話 翌朝、美佳は律子よりも早く起きていた。しかも、テーブルには 食事の用意も出来ている。 「おはよう、姉貴」 美佳は寝室から出てきた律子を見て、元気に挨拶した。 「おはよう。あんた、早いわね」 「今日は友達と映画に行くのよ」 「こんな早くから?」 「今日から封切りの映画でさあ。大人気だから、早くに行って並ば ないと座れないのよね」 「別に今日限りってわけじゃないんだから、慌てることないんじゃ ない」 「甘いなぁ、姉貴は。他人に先んじて、一番に人気の映画を観る。 これが映画の醍醐味ってもんでしょ」 「要するに優越感に浸りたいだけでしょ」 「鋭い!」 「宿題はどうするのよ」 「大丈夫。英語は全部、エリナにやらせるから」 「あんたねぇ」 「あっ、もうこんな時間」 美佳は腕時計を見て「じゃあ、姉貴、ゆっくり食事とってて」 すでに洋服に着替えている美佳はバックを持つと、「いってきま す」と挨拶してマンションを出ていった。 「大した性格ね、あの子は」 といいつつ、美佳が食事の支度してくれたことが、何か嬉しい律 子であった。 2 謎の男 「ああ、眠い、眠い」 牧田奈緒美はぶつぶつと呟きながら、舗道を歩いていた。 彼女は警視庁殺人課警部補。二十六歳。東大卒で柔道六段、空手 三段。警視正の父を持つキャリア組の刑事である。 彼女は昨夜の事件の引継ぎを終え、ようやく自宅へ帰るところな のである。 「ナオちゃん」 正面から歩いてくる娘が自分の方に呼び掛けている。 「あら、美佳じゃない。今朝は早いのね」 「まあね。今、仕事の帰り?」 「そうよ。律子はまだいるの?」 「うん。食事をしてると思いわ」 「ほんと、じゃあ、私も食事にありつけそうね」 「それじゃあ、急ぐんで」 「いってらっしゃい」 奈緒美は軽く手を振りながら、言った。 「相変わらず、元気だね、美佳は」 美佳の走る後ろ姿を見ながら、奈緒美は呟いた。 奈緒美は律子と中学、高校の頃からの親友で、お互いよく家の出 入りをしていたせいか、家族ぐるみで親しい関係にある。 緩い坂を上って、ようやくマンションの建物が見えるところまで 来た。 −−おや? マンションの前で見掛けない男がじっと立ったまま、マンション を見上げている。 長身の男で、黒いコートを着て、サングラスを掛けている。 −−この暑い季節に。 奈緒美は刑事の習慣なのか、男を怪しいと思った。 「ちょっとよろしいですか」 奈緒美は男に声を掛けた。 「何でしょう」 男は気味の悪い声で言った。 「私、警察のものですが、このマンションに何か御用ですか」 奈緒美は警察手帳を見せて、言った。 「ええ。あなた、このマンションの方ですか」 「ええ、そうですけど」 「わたくし、七階に住む柄島という方に用があります」 「お知り合いですか?」 奈緒美は男に対し疑惑を深めた。 「いいえ。それより、あなたは刑事さんのようですね」 「どうして?」 奈緒美はちょっと戸惑った。 「わたくしには人の心がわかるんです。あなたはわたくしを怪しい と思っていますね」 「そんなことはありません」 「ちょっと手を貸していただけますか」 「手を?」 「ええ」 男は掌を上にして、手を差し出した。「上にあなたの手を乗せて ください」 「は、はい」 奈緒美はなぜか男の頼みを断ることができず、手を男の掌に乗せ た。 「おお、伝わってきます。なるほど、あなたは七階に住んでいらっ しゃるのですか。ほお、警視庁の警部補ですか。それはちょうどい い」 「あなたは誰なんですか」 奈緒美は男の手から手を引っ込めて、言った。 「わたくしですか。わたくしの名前はクロノス。怪盗のね」 男は薄気味悪い笑みを浮かべて言った。 3 怪盗クロノス 「−−というわけよ」 奈緒美はマンションの前で会った男のことを話した。 「というわけってどういうわけなのよ」 「つまり今夜十時、七〇七号室の柄島さんの部屋にある昇竜の瓶を クロノスが盗むって私に予告したの」 「なるほど」 律子は紅茶を口にしてから、言った。 ここは奈緒美のマンションの台所である。二人はテーブルで食事 を取っている。 「どうして逮捕しなかったの?」 「ただ盗むって予告しただけで、実際に盗んだわけじゃないんだも の、逮捕できるわけないでしょ」 「それもそっか。単なる悪戯かも知れないしね」 「うん。ただ一つ気になることがあるのよね」 「気になること?」 「さっき、話したクロノスっていう怪盗は確かにいるのよ。美術品 ・貴金属専門の泥棒でね、変装の名人なの。数カ月くらい前から頻 繁に都内を荒し回ってるわ。律子は最近まで入院してたから、あま り知らないかもしれないけど、相手に盗みの予告状を出しては、堂 々と盗んでいく憎たらしい奴よ」 「まるで怪人20面相気取りね。そのクロノスって奴はどんな奴な の?」 「全く正体不明。何せ、一度も逮捕したことがないんだから」 「予告してるのに、捕まえられないわけ?」 「そうよ。どんな厳重な警備をひいても、奴は盗んでいくわ。おか げで警察の信用、丸潰れ」 「だったら、柄島さんの−−えっと昇竜の瓶だっけ。守ってあげな きゃ」 「難しいわね」 「どうして?」 「柄島さんが警察に依頼すれば、別だけどね」 「しないっていうわけ?」 「同じ階の人間だから、私も少しは知ってるんだけど、あの柄島さ んって人、人間不信でね、素直に警備をさせてくれるかどうか」 「警察は頼りにならないものね」 律子が皮肉っぽく言った。 「あんたがいうことないでしょ」 「でも、教えておいた方がいいんじゃない」 「もちろん、そうするけどね」 「だったら、今、行こう。一緒についてってあげるわよ」 「結構よ。大体、どうしてあんたがついていくのよ」 「何か面白そうじゃない。こう、身近で事件に遭遇できるなんて」 「散々、酷い目にあってるのに物好きね」 「今回は部外者だもん、平気、平気」 律子はわくわくとした様子で言った。 「やっぱり姉妹ね」 奈緒美は少々、呆れたように言った。 4 柄島との会話 奈緒美と律子はマンションの同じ七階に住む柄島平助の部屋を訪 ねた。 奈緒美はインターホンのボタンを押した。 「すみません」 奈緒美は声をかけたが、返事はなかった。 「留守なんじゃないの?もう会社に行ってるとか」 「あんたが今、行こうって言ったんでしょ」 「それはそうだけどさ」 その時、インターホンのマイクから声がした。 『どちら様だね』 「すみません、警察の者ですが、柄島さんにお話があるんですけど 」 『どんな用だ』 「実はですね、今夜10時、怪盗クロノスがあなたの持っている昇 竜の瓶という美術品を盗むという予告が入りまして」 『だ、誰がそんな情報を?』 インターホンの声が少し動揺した。 「本人、いえ、クロノスと思われる男性がこのマンションの住人に あなたに伝えるように言ったそうです」 『そんなのはただの悪戯だ』 「それならいいんですが、クロノスという怪盗は最近、都内を荒ら している怪盗です。もしお心辺りがあるなら−−」 『そんなものはない!帰れ』 「柄島さん、あなたが申し出てくだされば、警察としてもそれなり の対処をします」 『警察に何が出来る。いつもしてやられてるじゃないか』 「しかし、警備するのとしないとでは−−」 『うるさい!』 インターホンの声はそこで打ち切られた。 「信用がた落ちみたいね、警察は」 奈緒美の後ろで黙って二人のやりとりを聞いていた律子が言った 。 「それだけかしら、何か動揺してたわ。とにかく、外の警備だけは しといた方がいいわね」 5 二人の刑事 夕方、奈緒美のマンションに二人の刑事がやってきた。 「あら、よく来てくれたわね」 と玄関に出迎えた奈緒美が言った。 「牧田警部補ですね、恐れ入ります」 二人の刑事は敬礼した。 「悪いわね、無理言って」 「とんでもありません。今月になってクロノスの犯行は四件なんで す。ですから、クロノスという名前を聞いた以上はほっておけない んですよ」 「それは、どうも」 「自分は警視庁捜査3課の羽山。隣が中里です。クロノスの事件の 担当をやってます」 「よろしく」 「ところで柄島さんの部屋はどこですか」 「七〇七号室よ。ただ彼は警察の介入を拒否しているわ」 「柄島さんについて、何かわかりますか」 「調べておいたわ」 奈緒美は手帳を開いた。「柄島平吉、七十才、独身。3年前まで K貿易の社長をやっていたけど、今は息子に社長を譲って、会長職 についているわ。奥さんは5年前に亡くなって、子供は社長の達夫 一人。息子には妻と二人の子供がいるんだけど、柄島さんは息子の 家族との折り合いが悪いのか、2年前に家を出てこのマンションに 一人で引っ越してきてるわね。管理人の話だと、秘書が一日に2度 、訪ねてくるだけで、外出はあまりしないみたいね」 「そこまで調べてくれたんですか。助かります」 「クロノスの目的である昇竜の瓶についても調べたんだけど、こっ ちの方は時間がなくてわからなかったわ。ところで、警備の方はど うするの?」 「一応、柄島さんともう一度、交渉してみまして、もし駄目なよう なら柄島さんの部屋の前とマンションの外で見張ります。しかし− −」 「何?」 「本当なら警官をもっと配置したいのですが、今回は予告状ではな かったので、課長の許可が下りず、残念です」 「私が聞いたというだけでは、信憑性が薄いってわけね」 「すみません」 「謝らなくてもいいのよ」 「では、警部補、自分たちはすぐに準備に掛からなければいけませ んので、失礼します」 と羽山が言った時、美佳が帰ってきた。 「ただいま。あれ、誰、この人?」 美佳は二人の刑事の顔を見た。 「お帰り。この人たちは刑事さんよ」 「同業者かぁ」 「この子は友人の妹の美佳です」 奈緒美が美佳を紹介した。 「中里です」 「羽山です」 二人の刑事が敬礼した。 「どうも」 美佳もつられて敬礼してしまう。 「何かあったの?」 部屋に入ってから、美佳が尋ねた。 「クロノスって泥棒がね、七〇七号室の柄島さんの持ってる美術品 を盗むって予告してきたの」 「本当に?」 美佳が歓喜の声を上げた。「クロノスといえば、今、世間を騒が せてる怪盗じゃない。そいつがこのマンションに来るわけ?何かド キドキしちゃう」 「感激してる場合じゃないでしょ」 「ねえ、いつ盗みにくるの?」 「今夜10時」 「今夜!ねえ、私も一緒に警備していい?」 「駄目よ。あんたはおとなしく部屋にいなさい」 「ちぇっ」 美佳は不満げな顔をした。 「では、失礼します」 刑事は部屋を出ていった。 「美佳」 刑事がいなくなると、奈緒美が神妙な顔つきで美佳の傍に近寄っ てきた。 「どうしたの?」 「あんたに頼みがあるわ?」 「頼み?買物ならやあよ、もう疲れちゃったんだから」 「そんなんじゃないわよ。柄島さんの部屋に忍び込んでほしいの」 「柄島さんの部屋に?どうして」 「彼は警察を中に入れてくれないのよ」 「ちょっと待って。今、おとなしく部屋にいろって言ったじゃない 」 「あれは刑事がいたから」 「じゃあ、警備を手伝ってもいいわけ?」 「もちろんよ」 「やったぁ。でも、何で私にそんなこと、頼むわけ?」 「柄島さんはクロノスの変装に関してかなり神経質になってるわ。 だから、絶対にクロノスが変装することの出来ないあんたがいけば 、少しは心を開いてくれるでしょ」 「なるほど。けど、どうやって部屋に入ったらいいの」 「屋上から降りればいいわ」 「嫌よ、そんなの。落ちたら、どうすんのよ」 「美佳には便利な道具があるでしょ」 「道具って−−まさか、ファレイヌ?」 「そう」 「でも、部屋に侵入して、もし追い出されたらどうするの?」 「大丈夫よ、外の刑事と顔を合わせたくないだろうから、追い出し たりはしないわ」 「でもさ」 「あんた、興味があるって言ってたでしょ。とにかく時間がないん だから、早く行って。ついたら、連絡するのよ」 「わかったわよ。でも、何かうまくのせられた感じだなぁ」 6 柄島の部屋 七〇七号室。 柄島はリビングルームのソファに座り込み、両手を組んで、じっ と考え込んでいた。 彼の前のテーブルの上には、酒瓶があった。それは龍の彫刻を施 したジェダイトの酒瓶だった。 「一体、なぜクロノスがこの瓶のことを……これをわしが持ってる ことは息子も知らないというのに」 柄島は頭を抱えた。 「くそお、どうしたらいいんだ。警察に頼めばあのことがばれてし まうし、かといって盗まれるのはごめんだ」 柄島は傍の電話に手を伸ばした。「こうなったら、部下を呼んで −−」 「わあっ、きれーい」 その時、突然、バルコニーの窓が開くと、ナップザックを背負っ た少女が中に押し掛けてきた。少女は目を輝かせながら、テーブル の上のエメラルドグリーンの酒瓶に見入っている。 「何だ、おまえは」 柄島は驚いた様子で言った。「さてはおまえがクロノスか!」 柄島はすぐに杖を手にした。 「NO、NO、私はクロノスじゃないわ。七〇一号室の椎野美佳。 よろしくね」 美佳はニコッと笑った。 「ふざけるな!」 柄島は興奮して杖を振り上げた。 「駄目よ、おじいちゃん。下手に杖なんか振り回して、瓶が壊れた らどうするの?」 美佳は平然とした顔で言った。 「うぬっ!」 その言葉に柄島は杖をゆっくりと下ろした。 「心配しないで。私は泥棒じゃないんだから」 「どうやって入ってきたんだ?」 「屋上からロープでよ。驚かせてごめんね。だって、この瓶、きれ いなんだもん」 美佳はまた瓶に目をやった。「ねえねえ、これってエメラルドで 出来てるの?」 「そんな大きなエメラルドがあるか!翡翠だ」 「ふうん、翡翠かぁ」 「何をしに来た。わしは今、おまえなんかと遊んでる暇はない」 「私は遊びに来たんじゃないわ。クロノスから昇竜の瓶ってのを守 りにきたのよ」 「おまえが?冗談じゃない。とっとと帰れ」 「そうはいかないわ。折角、来たのに」 「誰も頼んでないぞ!」 「私は好きでやってるの」 「何だと。どうしても帰らないというのなら−−」 柄島は立ち上がった。 「どうするの?警察に突き出す?そうなったら、やばいんじゃない の」 美佳がからかうように言った。 「わしを脅す気か」 「そうじゃないわ。私はおじいちゃんの助けになりたいのよ」 「おまえに何が出来る」 「一人で守るよりはいいと思うけど」 「そんなこと言って、本当はおまえがクロノスなんじゃないのか」 「それだったら、とっくに盗んでるわよ。そんなことより、昇竜の 瓶って、この瓶のこと?」 美佳はエメラルド・グリーンの瓶を指差した。 「そうだ。ジェダイトの中でもこの壺ほど全体がエメラルド・グリ ーンの翡翠はないぞ」 「ジェダイトって何?」 「あそこにランプがあるだろう」 柄島は壁の陳列棚を指差した。 「うん」 美佳は陳列棚の方へ行って、ランプを見た。 「あのランプの赤褐色の台がネフライト。翡翠のもう一つの種類だ 」 「同じ翡翠でも全然、違うんだね」 美佳は感心して言った。 「それより、おまえ、どうしてわしの昇竜の瓶がクロノスに狙われ ていることを知っているんだ」 「警察から聞いたの」 「警察から?」 柄島は顔を顰めた。 「あっ、心配しないで。私は警察の回し者でも何でもないから」 「どうだか」 柄島は美佳を追い出すことをすっかり諦めて、ソファに座り込ん だ。 ピルルルル その時、インターホンのベルが鳴った。 「誰か来たみたいよ」 「どうせ警察だろ」 柄島はそういって、ベルを無視した。しかし、ベルの方はしつこ く鳴る。 「ねえ、私が出ようか」 「別に構わんが、おまえさんが玄関に応対に出たら、警察はどう思 うかね」 柄島はテーブルのウイスキーをコップに注いで、言った。 「それもそうね」 美佳は柄島の向かいのソファに座った。その際、ちらっと壁の時 計に目をやり、時間を確認した。「まだ6時ね。10時まで4時間 もあるわ」 「それがどうした」 柄島はコップのウイスキーをぐいっと飲み干した。 「別にどうってことないけど、退屈だなと思って。ねえ、テレビ、 見ていい?」 「駄目だ。こんな時にテレビなど見ていられるか」 柄島は美佳の言葉を一蹴した。 「それじゃあさ、料理作ってあげようか」 「バカ娘の料理など食えるか」 「だったら、私の分だけ作るわ」 「材料は自分で買ってこいよ」 柄島は冷たく言った。「ただし、一度、部屋を出たら、もう入れ ないからな」 −−ううっ、にくたらしい 美佳は心の中で歯ぎしりした。 かくして七〇七号室のリビングルームではしばし無言の時が流れ た。柄島はただただ酒を煽り、美佳はソファに寝そべって、天井を ぼんやりと見つめていた。 −−ああ、こんなことなら家で宿題でもしてればよかったな 美佳が心の中でぼやいていると、柄島が電話の受話器を取り、ど こかへかけ始めた。 「柄島だが、竹下を呼んでくれ−−おう、わしだ。おまえに緊急の 用がある。すぐにわしのマンションヘ来てくれ−−」 そんな感じで会話がしばらく続き、「−−いいか、わかったな」 と言って電話を切った。 「ねえ、誰にかけたの?」 「おまえには関係ない」 「何にも話してくれないのね」 「当たり前だ。それよりもうすぐわしの部下が来る。そうしたら、 帰ってもらうぞ」 「ええ!そんなぁ」 美佳はソファから起き上がった。「外部からの人間は危ないわ」 「おまえだって外部の人間じゃないか」 「それはそうだけど、クロノスは変装の名人よ。今の電話を盗聴し ていたとしたら、おじいちゃんの部下になりすましてくるってこと もありえるわ。現に警察を部屋の中に入れないのだって、そのため なんでしょ」 「それは−−」 柄島は一瞬、言葉に詰まった。「とにかく、出ていってもらう。 いいな」 「わからずや!」 「何とでも言え」 柄島はそれきり黙り込んだ。 「ちょっとトイレ借りるわね」 美佳はリビングルームを出て、トイレに入った。 「全くむかつくなぁ、あの爺さん」 美佳はトイレの便座に座って、大きく息を付いた。 //美佳さんのことを考えての事じゃありません? 美佳の首にかかった十字架、エリナが言った。エリナは説明する までもなく金のファレイヌである。 「私のことを?まさか」 //でも、そうでなかったらわざわざ危険を冒してまで部下を呼 びますか 「そうかぁ。それなら、なおさら後にはひけないわ。私、何として も昇竜の酒瓶を守ってみせるわ」 美佳はトイレの中で力強く決心した。午後七時。予告時間まであ と3時間である。 続く