第15話「標的」前編 登場人物 椎野美佳 ファレイヌの使い手。高校生。 エリナ 黄金のファレイヌ 河野 F・N日本支部K部隊副隊長 レニー 総統親衛隊の一人。K部隊隊長。 プロフィール 私、椎野美佳、16才。凌雲高校一年生。ひょんなことからファ レイヌという粉末の魔女たちの争いに巻き込まれて、戦うことにな っちゃったの。ファレイヌは、普段は粉末なのに、人間に乗り移っ たり、形を変えたり、魔法まで使っちゃうのよ。一応、私にもエリ ナっていうファレイヌの味方はいるんだけど、はっきりいって無謀 よねぇ…… 1 ある酒場 一九八六年六月三十日−− 暗黒の夜を背景に今日も艶やかな色彩のネオンがこの歓楽街を賑 わしている。 もう午前一時になろうとしているのに人通りの衰えるようすはま るで見受けられない。若い高校生くらいの男女から、会社帰りのサ ラリーマンまで行き交う人々は様々である。そんな中で一人の女が メモを片手にきょろきょろと辺りを見回しながら、勇足で歩いてい る。まだ、二十四くらいの若い女であった。 しばらくして、女は店の裏手に入って行った。そこは先ほどの歓 楽街を裏返したようなもの寂しい町へと変わっていた。古いビルや 住宅が立ち並んでいる程度で店らしい店も見あたらない。 しかし、女にとっては捜していた場所を見つけ出したようだった 。真っ先に女の足を向けた場所は一軒の酒場であった。電気のきれ た看板には「峠」と書いてある。 女は少しばかり店の前でためらっていたが、やがて思い切って足 を踏みいれた。 「いらっしゃい」 きれいな白髪のマスターがカウンターから女に声をかけた。 店の中には目付きの悪いやくざ風の男たちが、五、六人で酒を飲 んでがやがや騒ぎながらいやらしい目で女を見ている。 女は男たちには目もくれず、静かにカウンターの椅子に座った。 「ブラッディーマリーを」 女が低い声で言った。マスターは黙ってうなずく。 少しして、マスターが赤い液体で満たされたグラスを女の前に置 いた。 「誰かをお待ちかい」 マスターが聞いた。 「ええ。でも、どうして」 女はマスターを見た。 「あんた、初めて見る顔だし、普通、何か用でもなければ、こんな 店に入ろうとは思わないだろ」 「そうね」 女はブラッディーマリーを口にした。「でも、度胸試しにはちょ うどいいかも」 「代償は高くつくかも知れないよ」 マスターが苦笑して言う。 「大丈夫。腕には自信があるんだから」 女はニコッと笑った。 カラン 入口のドアが開いて、客が入ってきた。 「よっ、先に来てたか」 客は女を見て、小さく手を上げた。 「あんただったのか。こんなお嬢さんを一人で待たせちゃいけない ぜ」 マスターが言った。 「彼女は特別だから、大丈夫」 客は女の隣の席に座った。 「河野さん、背広を着ると別人みたいね」 中原麗子はくすっと笑った。 「それは君だって同じさ」 河野もにやっと笑った。 「旦那、何にします」 「いつものにしてくれ」 そういって河野はコートを脱いだ。 「河野さんは会社の帰り?」 「ああ。君だって、そうだろ」 「まあね」 「それより、何の用だ。隊員同士がプライベートで会うのは、規約 違反だぜ」 「よく言うわ。確か最初に私をプライベートで誘ったのはあなただ と思うけど」 「そうだったかな?」 河野は惚けた。 河野と中原麗子。この二人は、普通の会社員ではない。前者の河 野に関して言えば、数日前に暗殺隊のメンバーを率いて椎野美佳を 襲ったフォルスノワール日本支部K部隊の副隊長である。そして、 後者の中原は、同じフォルスノワールでも、情報部のメンバーであ る。 ところで、ここで出てくるフォルスノワールとは如何なる組織か 。いずれは詳細に語られる日も来るだろうが、予備知識としてここ にあげておく。フォルスノワールは、水銀のファレイヌと呼ばれる 女、ミレーユ・ドナーの作り上げた秘密結社である。その成立は不 明だが、歴史上に現れてくるのは第二次大戦の頃である。その初期 の形態は一種の強盗集団で、ナチスのユダヤ人迫害に便乗し、次々 とユダヤ人の家を襲っては金や宝石、家財道具を根こそぎ奪ってい った。戦後は、金次第でテロを請け負う暗殺組織となり、独立気運 の高まるアフリカ・中東、東南アジア諸国の反政府組織を支援した 。その支援とは、人員、食料、武器・弾薬とあらゆる分野において である。そして、その頃から組織が急激に拡大し、世界各地で起こ る紛争には、必ずと言っていいほど、フォルスノワールが介入する ようになった。しかし、一九六〇年代後半からアメリカのCIAと ソ連のKGB双方からのフォルスノワール壊滅作戦が展開され、七 〇年代にはその存在は表舞台から完全に消えた。とはいえ、組織そ のものが壊滅したわけではなく、むしろ組織体系を一新し現在でも 秘密裏にテロ活動を続けている。 「どうぞ」 マスターがウイスキーのグラスを河野の前に置いた。 「それで用件は?」 「なぜ部隊を動かしたの?」 「何のことだ」 「惚けても駄目よ。三日前、あなたのK部隊がマンションに侵入し て、三人の死者を出したそうじゃない」 「地獄耳だな」 「私は情報部の人間よ。そのくらいわかるわ。私が聞きたいのは、 誰の命令でK部隊を動かしたかという事よ。組織の規約で、各部隊 は情報部からの指令なしには動かせないはずよ」 「そんなことは俺ではなく、上の連中に聞いたらどうだ」 「聞いたわ。けど、長官は情報部の質問にただ『特例だ』の一言で 片づけてしまったわ。何の弁明もなしにね」 「その通り。今回の作戦は『特例』だったんだ」 「特例ってどういうことなの?」 「それは話せないね」 「私にも?」 「君にもだ」 「残念ね。こっちもいい情報をあげようと思ったんだけど」 「レニー・ヘンダソンのことか」 河野がそういうと、麗子はやや驚いた顔をした。 「どうしてわかったの」 「昨日、隊長に就任したよ、K部隊のね」 「え?ちょっと待って、どういうこと?」 麗子は河野をじっと見た。 「こういうことだよ」 河野は少し躊躇ったが、組織の秘密事務所で行われたA2計画( 椎野美佳暗殺計画)のミーティングのことを口にした。 会議室では、K部隊17名と隊長の副島、長官の横田との間でテ ーブルを囲み、A2計画の失敗に伴う今後の対応についての話し合 いが行われていた。 「今回のA2計画は原因不明の事態によりメンバー三人を失い、失 敗に終わった。しかし、君らの迅速な事後処理により、事態を大き くせずに済んだことは幸いである。だが、今計画はミレーユ総統自 らの指令であり、今計画の失敗を聞いて総統は大変御立腹だ。本来 であれば、全員懲罰のところであるが、総統より再度、計画の遂行 の指令があった。そこで君らに再度、チャンスを与える。今度こそ 計画を成功させるんだ。三度目はないと思って、やってほしい。以 上」 横田は一息ついてから、席に着いた。 「只今の長官の言葉通り、計画は継続されることになった。そこで 今後のためにA2計画の失敗に関し検討を加えてみたいと思う。河 野、頼む」 副島の言葉で河野が立ち上がった。 「今回のA2計画はそもそも根底から問題があったということが第 一点です」 「根底から?」 副島が少し驚いた顔をした。 「まず本計画の立案が作戦推進部から送られたものではないという 点です。この点に関しては、ぜひ長官にお伺い致したいと思います 」 「先にも言ったようにこれは総統からK部隊への直接の指令であり 、組織においてはあくまでも非公式な活動だ。よって、今回の作戦 は作戦推進部を通していない」 と横田は答えた。 「しかし、それでしたら、本計画を立案したのは誰なのですか。こ の計画はもともと要人暗殺のフォーメーションで、少なくとも椎野 美佳の暗殺に使用すべきではなかったのです。また、本計画は非常 にデータが少なく、特にファレイヌに関しては全くの情報不足です 。そこで長官にはぜひともファレイヌに関する詳細な資料をお願い したいと思います」 「君は計画の失敗を資料のせいにするのかね」 横田が不機嫌に言った。 「ええ。自分が知るかぎりでは、ファレイヌはただの精神銃とは思 えません」 「三人の死もファレイヌのせいだと言うのか」 「ええ。見た目には手榴弾の暴発と転落死に見えますが、どれも人 為的なものです」 「隊員のミスではないのかね」 「K部隊は暗殺専門部隊です。ミスなどするわけがありません」 「長官、私も河野の意見には賛成です」 副島が付け加えるように言った。 「すると、三人を殺したのはファレイヌだというのかね」 「恐らく」 「しかし、どうやって」 「それがわからないから、ファレイヌの資料をお願いしたいのです 。敵が分からなければ、徒に仲間を犠牲に晒すだけです」 河野の言葉に横田はしばらく考え込んだ。 「ちょっと待っていたまえ」 横田は席を立ち、部屋を出ていった。そして、五分ほどして部屋 に戻ってきた。 「残念だが、ファレイヌに関する資料は提供できない」 「なぜです」 「ファレイヌは組織のトップシークレットだ。本計画の標的が、フ ァレイヌならともかく、ただの一般人だ。ましてや、計画の失敗が ファレイヌによるものという根拠がない。君達は椎野美佳の部屋に 突入すらしてないのだからな。ゆえに資料の提供は出来ない」 「でしたら、こちらも計画も遂行は出来ません」 河野はきっぱりと言った。 「何だと」 横田はむっとして腰を上げた。 「甘いな、河野副隊長」 その時、一人の女がドアを開け、部屋に入ってきた。その女は、 ヨーロッパ系の顔立ちで、髪にソバージュをかけていた。目は鋭く 、眉は長い。そして、青い瞳は、どこか冷たい印象を与えた。 「あなたは……」 河野は女を見た。 「この方は−−」 「自己紹介なら自分でやる」 横田が慌てて紹介しようとするのを、女が制した。「私はレニー ・ヘンダソン。総統親衛隊の一人だ」 「……総統親衛隊」 室内の隊員たちの目が一斉にレニーへ向けられた。 「私は総統の命を受け、おまえたちの作戦を立案し、かつ経過を随 時、報告する役目を仰せつかった」 「すると、あなたが−−」 隊長の副島は緊張した面もちで、レニーに尋ねた。 「おまえたちK部隊のお手並みはしかと見せてもらった。全く、こ の醜態では恥ずかしくて報告もできまい」 レニーは呆れた様子で言った。 「申し訳ありません」 副島は頭を下げる。 「河野」 レニーが河野を見た。「おまえはファレイヌの情報がなければ、 作戦は遂行できないというが、ならば情報があれば、作戦は達成で きると言うのか」 「はい」 「ほお、高々、三人の人間が死んだくらいでびくついて引き返すよ うな連中がか?」 「お言葉ですが、我がK部隊は暗殺部隊。あくまで組織の存在を知 られずに任務を遂行することこそが第一なのです」 「それが甘いと言ってるのだ。おまえも見ただろ、ファレイヌの力 を」 レニーは意味ありげに言った。 「河野、おまえ、椎野美佳の部屋に侵攻したのか」 副島が聞いた。 「ええ。まさか、見ていらしたとね」 「一部始終を見ていたさ。おまえが椎野美佳にやられたあげく、逃 がしてもらう様をな」 レニーは笑った。 「本当なの?」 香苗は驚いた顔で河野を見た。 「その通りです。だからこそ、ファレイヌの知識なしに椎野美佳の 暗殺は不可能だと言ってるんです」 河野は拳をぐっと固めて、言った。 「なるほど、経験者は語る−−か。いいだろう、ファレイヌの情報 、提供しようではないか。但し、今度の作戦は私が指揮する」 「レニー殿、総統の命令もなくそんなことを−−」 横田が口を挟むと、 「総統は任務の達成を望んでおられるのだ。徒に長引かせることは 、総統の御機嫌を損ねるだけだ」 「しかし−−」 横田は渋った。 「レニー殿、お願いであります。もう一度、我々にチャンスを。今 度は必ず成功させます」 副島が立ち上がり、レニーの前に行くと、深く頭を下げた。 「チャンスはやる。だが、おまえは不用だ」 レニーは副島の頭を右手で鷲掴みにした。そして、ぐっと力を入 れると、くしゃという音とともに頭が潰れ、血がそこらじゅうに弾 け飛んだ。 「無能が」 レニーが右手を広げると、副島はどさっとレニーの足下に倒れた 。 「おまえたちの隊長は今日から私だ。いいな」 レニーは茫然と立ちすくむ隊員一同の顔を見回しながら、にやり と笑った。 「驚いたわ、総統からの直接の指令なんて」 麗子は信じられないといった面もちで言った。 「いいか、絶対、口にするなよ、特に情報部には。これは君の命に も関わるからな」 「わかったわ。でも、最悪ね、あの女の下につくなんて」 「そうでもないさ。むしろ、待ってたくらいだよ」 河野はグラスのウイスキーを口にした。 「よっ!理奈さん、待ってました」 その時、客の一人が声を上げた。 麗子はさっと振り向く。すると、店の奥にまだ一五、六の少女が 現れた。 「あの子は……」 彼女は隅の古めかしいピアノの前の椅子に深く腰を下ろすと、ゆ っくりピアノを弾き始めた。プロのピアニストほどではないにしろ 、腕はかなりのものであった。 寂しげな伴奏に乗って、理奈は歌い始めた。 それは心に安らぎを与え、滑らかで透き通った美しい歌声であっ た。そして、まるで飾りけのない歌詞の中にも遠い追憶の日々を思 い出させる強い力があった。 やがて、歌が終ると、店内は拍手で湧いた。理奈の歌にすっかり 心を奪われた麗子も大きな拍手を贈っていた。 「素敵ね」 彼女はまだ感動の冷めやらぬ様子で言った。「あの子、もしかし て河野さんの……」 「ああ、俺の妹だ」 河野はぽつりと呟いた。 2 電話 同じ頃、美佳は自分の部屋で机に向かい、数学の練習問題をやっ ていた。彼女にしては、珍しい光景であった。 人形に変形している黄金のファレイヌ、エリナはベッドにちょっ こんと座って、勉強している美佳の背中をぼんやりと見ていた。 //期末テスト、もうすぐですね エリナは何気なく言った。 「……」 美佳は聞いているのかいないのか、エリナの呼び掛けには答えず 黙々と勉強を続けた。 美佳を見ていると、頬杖を付いて考えている時間が長く、時々、 ぱっと思いついたようにシャープペンを手に取り、ノートに書き始 めたかと思うと、またシャープペンを置き、深く考え込む。ほぼ3 時間、この繰り返しであった。 「ああ、もうっ!」 美佳はいらいらして、髪の毛を両手でかき散らした。 //美佳さん、少し休憩なさったら エリナはちょっと心配して、言った。 「そうもいかないのよ。前の中間テスト、散々だったから。期末は 少しでも挽回しないとね」 美佳は机に向かったまま、答えた。 //学生って大変なんですね 「まあ、しょうがないわよ」 //でも、美佳さんは偉いですわ。律子さんのお見舞いもして、 仕事もして、学校にも行って、それでなおかつ家で勉強してるんで すもの。 「ついでに『秘密結社にも狙われて』というのを付け加えてほしい わね」 美佳は振り返って、ベッドのエリナに言った。 //そうですね……美佳さん、ごめんなさい 「何でエリナが謝るの?」 //だって、私が謝らなかったら、誰も美佳さんに謝ってくれる 人はいないでしょう 「うふふ、エリナって面白いわね。でも、気にすることないわ。も う何が起こったって絶対に逃げない。私のハッピーな人生を邪魔す る奴は全部、蹴散らしてやるんだから」 美佳は威勢よく言った。 その時、玄関先の電話の鳴るのが聞こえてきた。 「誰だろう」 美佳は席を立って、部屋を出ると、玄関先にある電話の受話器を 取った。 「はい、椎野ですけど」 『あっ、その声は美佳ね』 何やら聞いたことのある女性の声が聞こえてきた。 「どちらさまですか」 『わかんない?牧田奈緒美よ』 「ナオちゃん!」 美佳の顔が急に明るくなった。牧田奈緒美は美佳の姉、椎野律子 の幼稚園来の親友である。そして、女性ながら警視庁捜査一課の刑 事でもある。 『ナオちゃんじゃないわよ、美佳。ここのところ、いくら電話して も出ないから心配したわよ』 「この時間にはいつもいたよ」 『この時間って、あんた、いつも1時頃じゃないと家にいないわけ ?』 「そういうわけじゃないけど、朝8時に起きて、そのまま学校へ行 くでしょ。それから、姉貴の病院へ見舞いに寄ってから、声優の仕 事でスタジオへ行くから、どうしても帰りっていうと、11時過ぎ ることが多いのよね」 『美佳、まだ声優の仕事、やってたの?』 「まだやってたって言い方はないでしょ。これでも週三本のレギュ ラー、持ってるんだから」 『へえ、凄いじゃない。特に声優の養成所に行ってたわけでもない んでしょ』 「中学の時、演劇部と放送部だったってことぐらいかな」 『だったら、高校やめても食べていけるわね』 「とんでもない。給料、安いんだから」 『とにかく、無理しないでね。ちゃんと食事は取ってる?』 「大丈夫。昼と夜はちゃんと食べてるから」 『それならいいけど、叔母さんも心配してるみたいだから、ちゃん と電話するのよ』 「わかってる。全くナオちゃん、姉貴みたいね」 美佳が苦笑して言った。 『律子ほどじゃないと思うけど−−そういえば、昼間、律子の見舞 いに行ってきたわ。まだ意識不明みたいね』 「うん。意識さえ回復すれば、お医者さんは大丈夫だって言うんだ けど」 『全くついてないわよね、律子も……ねえ、美佳』 奈緒美がふいに思いついたように言った。 「なぁに」 『律子が退院するまでうちへ来ない?』 「ナオちゃんのうちへ?」 『今の生活じゃ美佳だって体がまいっちゃうだろうし、第一、生活 費だってばかにならないでしょ。今すぐとはいわないけどさ、うち へ来なよ』 「でも、迷惑じゃ−−」 『水臭いこと言わないでよ。私は独身だし、どうせうちには寝る時 しか帰ってこないんだから、何にも気にすることなんてないのよ』 「ナオちゃんのうちってマンションだったよね。新宿だっけ」 『そうよ』 「……悪いけど、行けないよ」 『どうして。新宿じゃ、都合が悪いとか』 「そんなことない」 『じゃあ、どうして?』 「それは−−」 まさかミレーユに狙われてるからとも言えなかった。 『どうせこのままでも、いずれは叔母さんが来て、美佳を仙台に連 れ戻しにくるわ。そうなったら、東京にも住むことは出来ないのよ 』 「うん……」 美佳は悩んだ。 『どうするの?』 「もしナオちゃんがいいんだったら、お願いしようかな」 しばらく考えた後、美佳は答えた。 『じゃあ、決まりね。今からいらっしゃいよ』 「あのね、いくら何でもそれは−−」 『冗談よ。いつ来る?』 「いろいろ用意があるから、三日後ってことで」 『手伝いに行ってあげようか』 「ううん、いいよ。ナオちゃん、忙しい体だし」 『そう。それじゃあ、待ってるから。前の日に−−そう、この時間 に電話して』 「わかった。じゃあお休みなさい」 『お休み』 美佳は受話器を置いた。 「三日後かぁ、それまでにも何もかも片づかないかなぁ」 美佳は壁のあちこちに撃ち込まれた銃弾の穴を見ながら、溜め息 交じりに呟いた。 3 盗聴 「三日を待つまでもなく、あなたは死ぬわ」 椎野美佳のいるマンションの向かいのビルの屋上に、一人の野戦 服の女が立っていた。女はヘッドホンをつけたまま、向かいのマン ションの5階、ちょうど椎野美佳の部屋の窓のあたりを双眼鏡で見 ていた。窓には厚いカーテンがかかっており、明かりがついている ことしかわからない。女の足下には受信機があり、ヘッドホンのケ ーブルはそこへ繋がっている。彼女は先程まで椎野美佳の電話の会 話を盗聴していた。 女はヘッドホンを外しその場にほおり出すと、ベルトのサイドケ ースからトランシーバーを取り出し、スイッチを入れた。 「こちら、吉田、応答願います」 『こちら、大久保、どうした?』 「そろそろ時間よ。交代をよこして」 吉田香苗は言った。 『了解。林を送る』 「大久保さん、A3作戦は何時からだったかしら?」 『忘れたのか。午前2時だ。しっかり覚えておけよ』 「確認しただけよ」 香苗はトランシーバーのスイッチを切った。「午前2時か、あま り楽しい時間じゃないわね」 4 妹 「いつからここに?」 麗子は河野に聞き返した。 「一年くらい前かな」 河野は演奏を終え、店の奥に戻っていく理奈の後ろ姿を見ながら 、言った。 「よく日本に連れてこれたわね」 「簡単ではなかったけどね」 「写真でしか見たことなかったけど、きれいな妹さんね。あなたの こと、わかるの?」 「いや」 河野は首を横に振った。 「そう……」 「でも、一緒にいられるだけで幸せな方さ。六才の時、一才の妹と 共に組織に拾われて以来、一八年。正直言って、妹とこうして一緒 に居られること自体、奇跡だからね」 「レニーに復讐するの?」 麗子がぽつりと言った。その言葉で河野の顔が険しくなった。 「もちろん。あいつだけは同じ組織の人間でも許すわけにはいかな い。あいつは妹を見殺しにしたんだ。奴のせいで、妹は廃人同様に なってしまった……」 「でも、上官を殺せば、ただじゃ済まないわよ。あなたが死んだら 、妹さんが悲しむわ」 「妹は、僕が誰かわからないんだ。また、言ってみたところで、そ れを理解する力も感情もない。だから、死んだところで悲しみはし ないさ」 「そんなことないわよ」 麗子は真剣な眼差しで河野を見つめた。「私だってあなたが死ん だら……」 「麗子、用が済んだんなら帰ってくれないか」 「河野さん……」 「これから、仕事があるんだ」 河野は席を立った。 「河野さん!待って」 麗子の呼び掛けに答えず、河野は黙って店の奥へ入っていった。 続く