第11話「ミレーユの罠」 登場人物 早坂秋乃 椎野家の居候。魔法の力を持つ少女。 椎野美佳 高校生。声優。 北条隆司 美佳の恋人 ミレーユ 水銀のファレイヌ 1 メッセージ 東京のとあるビジネスホテル。そのホテルの十二階のある一室に 一人の女が泊まっていた。 その女が宿泊して既に五日が過ぎていた。女は午後十二時に一度 、フロントへ降りてくる以外は片時たりとも部屋を出ることはなか った。朝も昼も夜も、ルームサービスを呼ぶことはなかった。 ホテルの従業員はその女がいつ食事を取っているのかと噂したが 、誰一人としてそのことを女に尋ねるものはいなかった。 女は宿泊費を前払いで百万払っており、かつ誰に迷惑をかけるわ けでもないので、文句を言う必要性がなかったのである。 女がフロントに来る時は決まって黒いワンピースを着ていた。そ して、黒い婦人帽を被り、顔はベールで隠していた。髪は金色で、 全体が黒一色なだけに妙に目立った。 女は今日も正午にフロントに来た。 「何か届いているか」 女はこもった声で受付の女性に尋ねた。 「はい。小包が届いております」 女が事務的な笑顔で答えた。 「頂こう」 女は受付の女性から小包を受け取ると、またエレベーターの方へ と歩いていった。 部屋に戻ると、女は帽子を取った。そこには目も口も耳もないた だ輪郭だけの銀色の顔があった。 女はさらに金髪の鬘も取り、ベッドへ投げた。そして、小包を開 けた。中には小さな壺とカードが入っていた。 女はカードを見た。 『メルクリッサの壺が出来上がったので、送ります セリン・ジャルダン』 とそこには書かれてあった。 「ついに出来たか」 女は壺を興味深げに見つめながら、呟いた。 女は壺をサイドテーブルに置くと、近くの電話に手を伸ばした。 受話器を取り、電話番号を押す。 トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル−− 三回の呼出し音の後、電話が繋がった。 『はい、椎野ですけど』 と十代半ばの少女の声。 「LE MERCURE」 女がそういうと、しばしの沈黙の後、 『ミレーユ様ですね』 「そうだ。例のものが手に入った。そちらの首尾は?」 『うまくいってます』 「よし、今日中に届けるから、午後は外出するな。いいな」 『はい』 「また、明日、連絡する」 ミレーユは電話を切った。 「ふふふ、何もかも順調だわ、このまま邪魔が入らなければね」 ミレーユはテーブルの壺を見やって、にやりと笑った。 2 迷い その頃、椎野美佳のマンションでは−− 「ふう」 秋乃は受話器を電話に戻すと、大きく溜め息をついた。 こんな仕事、やだな……美佳さんを薬でじわじわと苦しめながら 、殺すなんて。 秋乃はキッチンにいた。テーブルの上には冷水とタオルを入れた 洗面器と薬瓶そして、水を入れたコップが用意してある。 秋乃は薬瓶を手にした。 これを飲ませるたびに美佳さんは…… 秋乃の瓶の蓋を開ける手が小刻みに震えていた。何とか一錠だけ 薬瓶から出すと、それをコップと一緒にお盆にのせた。 仕方ないよね。美佳さんと私は敵なんだから 秋乃は涙が出そうになるのを堪え、右手にお盆、左手に洗面器を 手にした。 「うーん、んん、姉貴……ああ、仕事、行かなきゃ……宿題、やら なきゃ……」 秋乃が美佳の部屋に入ると、美佳はベッドでうなされていた。 三日前に秋乃が薬を混ぜた朝食を食べさせ、その後、登校途中で 倒れてからは、そのままマンションへ運ばれて、寝込んでいるので ある。 秋乃の持つ薬はミレーユの調合した特殊なものなので、診察した 医者の目にもただの風邪としか見えなかった。 「はーい、美佳さん、代わりのタオルを持ってきたよぉ」 秋乃が美佳のベッドに近寄った。 秋乃は洗面器の中の冷水に浸されたタオルを取り出して、軽く絞 り、既に美佳の額に乗っているタオルと交換した。 「どれどれ熱はどうかな」 秋乃は美佳の脇の下に入れた体温計を取り出して、見た。 「げげッ、38度ぉ。信じられない、全然下がってないよ」 秋乃はわざとらしい驚きの声を上げた。 「ごめんね、美佳さん」 秋乃は美佳の顔を覗き込みながら呟いた。 美佳は始終、うわごとを言い、熱にうなされていた。下着は何度 換えても、すぐびっしょりとなってしまう。 「あ、あきの……」 美佳が目を覚まして、かすれた声で秋乃に呼び掛けた。 「美佳さん」 秋乃は笑顔になった。「大丈夫?」 「ごめんね……普段、風邪なんてひいたことないのに」 「美佳さん、疲れてるんだよ。ゆっくり寝てれば治るって」 「そうも行かないわ、仕事が−−」 美佳は起き上がろうとした。 「ゴホッゴホッ……」 とたんに美佳は苦しそうに咳をした。 「駄目だよ、寝てなきゃ」 秋乃はすぐに美佳の背中をさする。 「けど……」 「学校なら、しばらく休むって連絡もしてあるし、お姉様の病院だ って毎日、私が行ってるから大丈夫。仕事だって、ちゃんと電話し てキャンセルしといたから」 「キャンセル?」 美佳が驚いた顔で秋乃を見た。 「だって、こんな体じゃ、仕事なんて出来ないでしょ」 「どうしてあんたが連絡先、知ってるの?」 美佳はかすれた声で言った。 「電話が来たの。その時に断って……」 秋乃は下手な言い訳をした。 「誰からだった?」 「それは……」 秋乃は言葉に詰まった。 「やっぱり嘘ね」 「ごめんなさい。でも、私、美佳さんが心配でぇ」 「別に責めてないわ」 美佳は苦しそうに言った。 「美佳さん、それより薬、持ってきたから飲んで。今日一日、寝て ればよくなるよ」 秋乃はコップと薬を美佳に渡した。 「どうしたの、手が震えてる」 美佳が不思議そうに言った。 「そんなことないよ」 秋乃は慌てて首を横に振った。 「そう」 美佳は特に気にする様子もなく、薬を口に入れようとした。 「あっ!」 秋乃は思わず声を上げた。 「どうしたの?」 「ううん、何でもない」 秋乃は笑って、言った。 美佳は薬を口に入れ、水で流し込む。秋乃はそれを直接、目にす ることが出来なかった。 秋乃のバカ。美佳さんは私を信じて、ほんの1週間前に知り合っ たばかりの私を信じて薬を飲んでくれてるのに 秋乃は心の中で自分を罵倒しながら、黙って部屋を出ていった。 3 見舞い さらに同じ頃、凌雲高校の1年C組の教室では−− 「美佳、どうしちゃったのかなぁ。今日で三日目よ」 上田由加は食べかけの焼きそばパンを手にしながら、言った。 「誰かさんが美佳が声優だなんてことをばらすから、出てこらんな いんじゃないの」 と園川美枝子。 「何それ、私のせいだっていうの」 と島村智美がつっかかるように言った。「そりゃあ、ちょっと囃 し過ぎちゃったけどぉ。でも、聞いた話だと、美佳は登校途中で倒 れたんでしょ」 「うん。家に電話したら、美佳の従姉妹っていう女の子が出て、そ ういってたよ」 と由加。 「心配ね。美佳んとこ、お姉さんの交通事故で入院してるんでしょ 」 「じゃあ、今日、放課後、美佳んとこ、一緒に行ってみようよ」 由加が提案した。 「そうね」 「じゃあ、決まり」 そして、放課後、上田由加、園川美枝子、島村智美の三人は美佳 のマンションを訪ねた。 五〇三号室のドアの前まで来ると、由加はインターホンのボタン を押した。 少したってから、ドアが開き、秋乃が顔を出した。 「すみません、私たち、椎野さんのクラスメイトなんですけど」 由加がそう言いかけた時、智美が秋乃の顔を見て、声を上げた。 「あれ、あなた、確か……」 「どしたの」 「この間の事件の時、学校に来た子よ。あなたが美佳の従姉妹だっ たんだ」 秋乃はそれには答えず、ちょっと決まり悪そうな顔をして、「何 か御用ですか」と聞いた。 「私たち、椎野さんのお見舞いに来たんです」 と由加が答える。 「今、美佳さんは寝てるんで、また明日にでも来てもらえますか」 「椎野さんの病気、そんなに悪いんですか」 「いいえ、ただの風邪です」 秋乃は伏目がちに言った。 「ただの風邪なら、三日も休むわけないじゃん」 智美がよけいな口を挟んだ。 「ちょっと、智美」 由加が智美を肘でつついた。「ごめんなさい。これ、お見舞いで す。椎野さんに早く元気になるようにって伝えといて下さい」 由加は持ってきた花束を秋乃に渡した。 「どうも」 「それじゃあ」 由加は秋乃に別れを告げると、二人の背中を押して足早にドアの 前から立ち去る。 「ちょっと何なのよ」 五階のエレベーターの前まで来ると、智美が由加に文句を言った 。 「何が?」 「どうして簡単に引き下がっちゃうわけ?」 「引き下がるも何も、美佳が寝てるのに、無理に起こしたら悪いじ ゃない」 「違うわよ、あの子のこと」 「あの親戚の子がどうかしたの?」 「おかしいと思わない?」 「別に。美枝子はおかしいと思った?」 「私も別におかしいと思わなかったけど」 と美枝子が答える。 「あの子は美佳の従姉妹なんかじゃないわ」 「どういうこと?」 「この間の石野さんの事件。あの事件が起こる前に、私、あの子に 廊下で美佳を呼んできてほしいって頼まれたのよ」 「ふうん、そうなんだ」 由加はあっけらかんと答える。 「驚かないの」 「従姉妹が美佳を呼びにきたって別に不思議じゃないわ」 「でもね、あの時、あの子は美佳の友達だって言ったのよ。もし従 姉妹なら、従姉妹だっていえばいいのに」 「何か理由があったんじゃないの」 「理由って何よ」 「さあ」 「さあってね。少しは考えなさいよ」 「考えるっていったって、仮にあの子が美佳の従姉妹じゃないとし て、どうだっていうの」 「美佳、殺されてるかも」 「まさか!」 「最近、そういう事件って多いのよ。大体、美佳が風邪をひくなん て考えられる?私は絶対、怪しいと思うわ」 「考え過ぎよ」 「私もそう思う」 「ちぇっ、信用ないなぁ」 智美がそうぼやいた時、エレベーターの扉が開き、一人の男が出 てきた。 「あっ、北条さん」 由加が男の顔を見て、言った。 「ん、君は確か上田さんっいったっけ」 北条隆司も由加の顔を見て、言った。 「ちょっと、誰なのよ」 智美が由加に聞く。 「美佳の彼氏よ」 「ええっ、美佳に男がいたのぉ」 智美が驚きの声を上げる。 「智美、男って言うのはやめなさいよ」 美枝子がさり気なく言った。 「美佳のお見舞いですか」 由加が北条に尋ねた。 「ああ。昨日、久し振りに電話したら、美佳が風邪だって聞いてね 。お姉さんもいないことだし、心配になってきてみたんだ」 「だったら、私たちもお供させてください」 智美が前に出る。 「君たち、行ってきたんじゃないの?」 「いいえ、今から行くところだったんです」 「そうか、じゃあ、一緒に行こう」 北条は503号室の方へ歩いていった。 「全く調子いいんだから」 由加が小声で智美に言った。 「まあ、いいから、いいから」 北条は503号室のドアの前まで来ると、インターホンのボタン を押した。 「どちらさまですか」 今度はインターホンの方から声がした。 「北条ですけど」 少ししてドアが開き、秋乃が応対に出た。秋乃は北条の他にも先 程の三人がいるのを見て、やや表情を曇らせた。 「美佳の見舞いに来たんだけど、入っていいかな」 「でも、美佳さんは寝てるから」 「大丈夫、顔だけ見たら帰るから」 「けど……」 秋乃は歯切れの悪い返事をした。 「別に騒いだりはしないよ。それに美佳は俺の恋人なんだ」 その言葉に秋乃はそれ以上、断ることは出来なかった。ドアのチ ェーンを外し、北条たちを中へ入れた。 「美佳は部屋に?」 「ええ……」 北条は由加たち三人をキッチンで待たせて、一人、美佳の部屋に 入っていった。 「美佳−−」 ベッドで寝ている美佳を見るなり北条は呟いた。 ベッドの美佳は顔は死人のように青ざめ、ひどく苦しそうな呼吸 をしていた。そして、何かをうわごとを言っている。 「美佳!」 北条は思わずベッドの美佳に飛びついた。「おい、美佳、大丈夫 か」 北条の大きな声にキッチンにいた三人も部屋に入ってくる。 「美佳ぁ!」 三人も美佳の顔色を見て、愕然とした。 「美佳、起きろ、おい」 北条は美佳を抱き起こし真剣な表情で呼び掛けた。 「ううん、あ、隆司……」 美佳は目を開け、呟いた。 「よかった、気がついて」 「見舞いにきてくれたんだ……」 「大丈夫かよ」 「そんな顔して……ただの風邪よ」 「何言ってんだ、そんな体で。今にも死にそうじゃないか」 「大げさな、ゴホゴホッ」 美佳は激しく咳をした。 「上田さん、あの子を呼んできてくれ」 北条は振り向いて、由加に言った。 「はい」 由加はすぐに部屋を出た。 「美佳、どうしてすぐに病院に行かなかったんだ、こんなになるま で」 「……」 美佳は答えるどころか、気を失っていた。 「大変だ。誰か、救急車を呼んでくれ」 「はい」 北条の声に今度は美枝子が答えた。 「北条さん、あの子がどこにもいないわ」 美枝子と入れ替わりに由加が血相を変えて、部屋に入ってきた。 「逃げたんだわ、きっと」 智美が呟いた。 「逃げたって、やっぱりあの子が−−」 「そうよ。あの子、美佳を殺そうとしてたのよ」 智美は確信したように言った。 4 ミレーユの指令 秋乃はマンションを飛び出すと、すぐに近くの公衆電話に駆け込 み、ミレーユの泊まるビジネスホテルに電話をかけた。 『ミレーユだ。どうかしたのか』 「ミレーユ様、失敗しました」 『失敗した?どういうことだ』 「他の人間に美佳のことがわかってしまって−−」 秋乃はミレーユに事情を説明した。 『馬鹿者!それでおめおめ逃げてきたの』 「すみません」 『おまえは何のために魔法を持っているんだ。邪魔者が来たなら、 なぜ始末しない』 「私には無関係の人間は殺せません」 『ほお、おまえは私の命令より人間の命が大事だと言うのか』 「そんなことは−−」 『秋乃、フォルスノワールの掟はわかっているね。失敗は即ち死だ 』 「はい」 秋乃は力なく返事をした。 『期限は今夜よ。よく頭に叩き込んでおくのね』 ミレーユは電話を切った。 秋乃はそっと受話器を電話に戻した。 「これも運命か」 秋乃は扉を押すと、公衆電話を後にした。 5 病室の中で その夜、秋乃は美佳が救急車で運ばれたJ大付属病院に現れた。 数日前に起きた入院患者の大量死亡事件で、病院内の監視体制は 以前よりも強化されているとはいえ、魔法使いの秋乃の前で焼け石 に水だった。 秋乃は異次元空間の壁を利用して、直接、美佳のいる病室の前に 来たのである。 秋乃は静かに病室のドアを開け、中に入った。 この間、この病院に来た時は美佳たちの味方だった。だが、今は 違う。 病室内は薄暗かった。部屋の右側のベッドで、点滴を受けながら 眠っている。 病室は狭い個室だった。 秋乃は足音を立てず、美佳のベッドへ歩み寄る。 窓から流れる僅かな月の光りが美佳の顔を照らしている。美佳の 顔色は自宅にいた時よりも良くなっているように見えた。 美佳さん、本当ならいい友達になれたかもしれないのに 秋乃は肩にかけたセカンドバックから小型のケースを取り出した 。そのケースを開けると、中には注射器と目薬大の薬瓶が入ってい た。 秋乃は注射器を手にして、薬瓶の中に針を差し込み、中の溶液を 吸い出した。 この薬を注射してから1分後に美佳は死ぬ。その前にクレールが 必ず美佳の体から幽体離脱するはずだ。その時、メルクリッサの壺 を使って、クレールを壺に封印してしまうのだ。 秋乃はミレーユの指令を思い出していた。 「美佳さん……」 秋乃は美佳の寝顔を見つめた。「ほんの少しの間だったけど、楽 しかったわ」 秋乃は毛布を捲って、美佳の左手首から点滴の針を抜いた。それ から、美佳のパジャマの袖を肩まで捲ると、一度唾を飲み込んでか ら、右手に持った注射器を美佳の左腕に近づけた。 「そこまでだ」 その時、病室内がパッと明るくなった。 秋乃は思わず光に目を顰める。 秋乃は注射器を手にしたまま、振り向いた。 「あなたは−−」 病室の入口には北条隆司が立っていた。 「きっと来ると思ってたよ」 北条は怒りを内面に隠したような厳しい顔で言った。 「くっ」 秋乃は自棄になって、手にした注射器を自分の左腕に刺そうとし た。だが、その秋乃の右手をぎゅっと誰かが掴んだ。 「美佳さん……」 秋乃は唖然として呟いた。秋乃の右手を押さえたのは、美佳だっ たのである。 「隆司、悪いけど外へ出てて」 美佳が早口で言った。 「おい、本気か」 北条が聞き返す。 「いいから!!」 美佳が鋭い口調で言った。 「わかったよ。何かあったら、すぐ呼べよ」 北条は部屋を出ていった。 美佳は秋乃の手から強引に注射器を奪い取ると、床に投げつけた 。注射器は砕け散り、中の溶液が床に広がる。 「そこへ座って」 美佳は秋乃の手を引っ張って、傍の椅子に座らせた。それはとて も病人の力とは思えなかった。 「美佳さん、どうして−−」 秋乃はまだ信じられないような顔をしていた。 「信じてたのに−−」 美佳は秋乃をじっと見つめた。「私はあなたのことは何も知らな いけど、でも、同じ一度は命を懸けた者として、あなたを信じたか った」 「……」 秋乃は黙っていた。 「あなたが私に怪しい薬を飲まそうとしてたのは、すぐにわかった わ。最初に私の体の調子がおかしくなって、秋乃から錠剤を貰った 時、私はその薬を半分だけ飲んで、残りを隠しておいたわ。そして 、秋乃が買物に出掛けている時に飼っている金魚の水槽にその薬を 入れてみたのよ。そうしたら、金魚は全て死んだわ」 「じゃあ、美佳さんは始めから私を?」 秋乃の言葉に美佳は小さく頷いた。 「そうなんだ……」 秋乃は俯いて苦笑した。「全ては演技だったのかぁ。まんまと騙 されちゃった……」 「本当はこんな形にしたくなかったわ。秋乃の方から、申し出てほ しかった。だから、三日も待ったのよ。もし入院なんてことがなけ れば、ずっと待ってたかもしれない」 「さすがね、私の完敗だわ」 秋乃はすっと椅子から立ち上がった。 「秋乃、教えて。一度は私の命を救ったくれたあなたがどうしてこ んなことを?」 「救ったですって?」 秋乃はくくっと笑った。「私は別に美佳さんの命を助けたわけじ ゃないわ」 「え?」 「全ては計画だったのよ。ミレーユ様のね」 「ミレーユ?」 「そう。私はミレーユ様の組織するフォルスノワールのメンバーな のよ。ティシアを始末したのは、単にあなたを信用させるため。人 は昔から命の恩人には弱いものね」 「私を殺すことなら、いつだって出来たはずじゃない」 「そうね、ただ殺すのならたやすいわ。でも、あなたを普通に殺し たら、あなたの体に同化しているクレールに逃げられてしまうのよ 。こんな面倒な手を使ったのも、全てはそのためよ」 「嘘だわ、そんなこと」 「事実よ。そうでなきゃ、誰が好き好んで、こんなことするもんで すか」 「秋乃……」 「まあ、どっちにしてもこの計画は終わりね」 秋乃は二、三歩後ろへ下がった。そして、バッグに右手を忍ばせ 、中から拳銃を取り出した。 「どうせ私は死ぬんだし、美佳さんにも一緒についてきてもらおう かしら」 秋乃は拳銃の銃口を美佳に向けた。 「私を殺せるの」 美佳は秋乃の顔を見た。秋乃は一瞬、表情を強張らせたが、すぐ に笑って、 「当たり前じゃない」 といった。 「あの男が来る前に死んでもらうわ」 秋乃は拳銃の引き金に人差し指をかけた。その時、美佳の右手に は金色の粉が集結し、黄金銃を形作っていた。 「さよなら」 秋乃は引き金を引いた。同時に美佳も黄金銃の銃口を秋乃に向け た。 パンッ! グォーン! 二つの銃声がほぼ同時に起こった。 「うっ」 秋乃の弾丸が美佳の肩を掠める。そして、美佳の弾丸が秋乃の胸 を貫通した。 「秋乃……」 ベッドから転げ落ちた美佳は、ベッドから顔を上げた。 秋乃は胸を手で押さえ、壁に背をもたれていた。 「あなた、わざと狙いを……」 美佳は秋乃に歩み寄ろうとした。 「来ないで!」 秋乃は掠れた声で言った。「指令に失敗したものは死だっていっ たでしょ。これでよかったのよ」 秋乃はよろよろと窓に近づくと、窓を開け放った。 「美佳さん、フォルスノワールを甘くみちゃ駄目だかんね」 秋乃はそういうと、窓から飛び降りた。 「駄目!」 美佳は窓に飛びついた。 そして、間一髪、秋乃の服を美佳が掴んだ。 「秋乃、死んじゃ駄目ぇ」 美佳は両手で服をぎゅっと掴み、懸命に秋乃の体を引き上げよう としていた。だが、そう長くは持っていられないことが美佳にもわ かっていた。 「美佳さん……ありがとう」 秋乃は美佳に顔を伏せたまま、呟いた。 シューッ すると、突然、秋乃の体からガスが吹き出した。秋乃の体が溶け 出したのである。 美佳はどうすることもできず、ただ秋乃の服を持ったまま、見て いるしかなかった。 急速に秋乃の体は軽くなったかと思うと、秋乃の白骨と化した頭 蓋骨が地面に落ちた。美佳はそれを見て、思わず掴んでいた秋乃の 服からを手を放してしまった。 「美佳!」 北条が病室に入ってきて、美佳のもとに駆けつけた。 「隆司……秋乃が、秋乃が」 美佳は北条の胸に飛び込むと、込み上げていたものが一気に噴き 出したように泣きじゃくった。 エピローグ その頃、ビジネスホテルでは、ミレーユが肘あてに手を乗せ、椅 子に深くもたれた姿勢で、机の上に置かれた八つの真紅の宝石を見 つめていた。 「やはりしくじったか」 八つの宝石の一つが黒く沈んだ色に変化するのを見て、ミレーユ は呟いた。 「ティシアを倒したほどの魔法使いも人間の情には弱かったか。ま だまだ甘いな」 ミレーユは椅子を回転させて、机に背を向ける。 「レイラ!」 ミレーユが呼び掛けると、先程まで浴室の方でしていたシャワー の音がぴたりと止まった。 「秋乃の仕事、おまえが引き継ぐのだ」 ミレーユは静かに言った。 「かしこまりました」 浴室から女の返事。 「もうクレールのことなど気にする必要はない。美佳を殺せ」 「ふふふ、それならたやすいこと」 バスタオルを巻いた女が浴室のドアを開けて、出てきた。女は色 白の細身で、床にまで届く紫色の長い髪を持っていた。 「すぐにでもミレーユ様のもとに美佳の首を持ってまいりますわ」 女はそういうと、紫の唇に薄気味悪い笑みを浮かべるのだった。 「ミレーユの罠」終わり