第9話「対決」中編 15 ティシアの最期 「うっ……」 美佳はまるで二日酔いのような重たい気分で目覚めた。 目の前にはマンホールが見えた。 「どこかしら」 美佳は頭を押さえながら、呟いた。 確かティシアに殺されそうになって、それで……そうだわ、声が したんだ。でも、あの声はどこから。 勝負はどうなったのかしら。まさか、もうここは天国。それにし ちゃ、寝心地が…… 「ああっ」 美佳はばっと飛び起きた。 周囲を見回すと、そこはさっきとは風景が変わっているものの、 依然、園内であった。 美佳はアスファルトの地面にどっしりと腰をつけて、座っていた 。 美佳は視線を落として、自分の手を見た。手には黄金銃が握られ ている。 「これがあるってことはまだ殺されてないってことか。そうよね、 殺されてれば、私がここにいるはずはないし」 美佳はよくわからないことを口にしながら、立ち上がった。 あれ? その時、美佳の頬に冷たい雫が当たった。 雨? 美佳が空を見上げると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。 それは小粒であったが、段々、強くなってくるように思えた。 地面の色も早くも変わり始めている。 本当に勝負はどうなったのかしら。 美佳は首にかけた十字架を見た。 まっ、いいか。この十字架があれば、妙子も助けられるし。いな けりゃ、それにこしたことはないわ。ティシアのことなんか考えて て、また現れたら−− そんなことを考えていると、突然、誰かが駆けてくる足音がした 。それはこちらに次第に近づいてくる。 「まさか」 美佳は音のする方を見た。 雨の降る闇の中から一人の女が姿を現した。ティシアだ。彼女の 額から溢れ出た血で既に顔中が鮮血に染まっている。 ど、どうしよう 美佳がふと振り返ると、すぐそばにミラーハウスの建物があった 。秋乃が開けたのだろうか、ミラーハウスの入口のシャッターは全 開になっている。 いつの間にここに来たんだろ そんなことを考えている間にもティシアが迫ってくる。 ええい、もう一か八かだわ 美佳は覚悟を決めてミラーハウスの中へ入っていった。 「どこへ行った!」 ティシアはミラーハウスの前に辿り着くと、辺りを見回した。 美佳の姿はない。 ミレーユが遠視してから、私がここに来るまで二、三分のはずよ 。とすれば、遠くへ逃げられるはずないわ。 ティシアは考え込んだ。 とその時、ティシアの足下に紙切れが落ちているのが目に留まっ た。 その紙は雨に濡れて、地面に張り付いている。 何かしら。 ティシアはその紙を拾い上げた。 見てみると、それは建物内部の見取図のようであった。その見取 図は家の見取図にしては内部が迷路のように入り組んでおり、その 袋小路のような場所に×が記してある。 これはもしや−− ティシアは目の前のミラーハウスの建物を見た。 ここに逃げ込んで、私をまこうというわけか。面白い。 ティシアはにやっと笑った。 「今度は油断しないわよ」 ティシアは紙をぎゅっと握りしめながら、シャッターが全開とな っているミラーハウスの中へ入ってゆく。 建物内に入るとまず横に長い広間があった。中央に現在無人では あるが、受付があり、右奥の方に入口が、左奥に出口があった。 広間は非常口用のライトがついているだけで、照明はついていな かった。 「さて−−」 ティシアはまず左の出口の扉へと行った。 彼女はポケットから細いロープを取り出すと、両開きの大ドアの 把手部分にロープを通して、ぎゅっと固く結んだ。 そして、結び目に左手人指し指を当て、「METTRE SON SEAU!」と叫んだ。すると結び目がほのかに光った。 「これで出口からは絶対に出られないわ」 ティシアは出口を去り、反対側の入口の方へと向かった。既に額 の血は服からジーンズにまで広がり、歩くたびにその血が床に飛び 散っていた。 ティシアは入口の前に立つと、扉を大きく開け放った。 ミラーハウスか。うまいところへ隠れたものだわ。 ティシアはもう一度、見取図に目を通した。ティシアは暗闇でも 目が利くので、見取図を見るのに光りは必要なかった。 一歩中へ足を踏み入れると、左右、正面、天井の鏡が一斉にティ シアの姿を映し出した。 ティシアはその場でしばし立ち止まった。 その姿は顔中、血だらけの醜い女の姿だった。 ティシアは四百年来、自分の姿を鏡で見ることはなかった。もう 自分がどんな顔でどんなスタイルだったのかまるで覚えていない。 覚えているのは、少なくとも昔は自分が人間の姿をしていたという ことだけだった。 写真などその当時はなく、絵師にかかせた肖像画も魔女刈りにき た衛兵に焼かれてしまった。 目の前に映るは私を人間に見せるための身代わりに過ぎない。所 詮、ファレイヌは永遠に美を感じることなど出来ないんだわ。 ティシアは正面の鏡を睨み付けた。鏡の女も同じように睨み付け る。それを見ると、一層耐えがたい憎しみが込み上げてきた。 彼女の右手に赤い粉末が集結し、銃になった。 「くたばれ!」 彼女は正面の鏡に向けて拳銃を発砲した。 ガシャーン!! 鏡は一度蜘蛛の巣のような亀裂が入ったかと思うと、一気に下に 崩れ落ちた。 だが、その奥の鏡がまたしてもティシアの姿を映し出す。 「ふふふふ」 ティシアはその鏡の姿を見て、含み笑いをした。 そう、美佳、あなたはわざと私をここへ誘き寄せたのね。私に鏡 を見せれば、動揺して余分な魔力を使うだろうと。 ふふ、いい作戦だわ。でも、このくらいで私が動揺すると思った ら大間違いよ。 ティシアは見取図にそって迷路を進んだ。 もう鏡を見ても、彼女は何も気に留めなかった。ただ次第に彼女 の魔力が落ちていってるのは、彼女の歩き、表情、呼吸どれをとっ ても明らかだった。 もう少しで×印の地点だわ。 ティシアはT字路に差し掛かった。 その時だった。すっと人影が正面の鏡に映った。 「そこか!」 ティシアは銃を発砲した。 正面の鏡が砕ける。 違う。あれは鏡だ。 ティシアは後ろを振り向いた。 しかし、人影はない。 すると今度はティシアの左斜めの鏡に人影が映った。 反対側。 ティシアは素早く振り向いて銃を撃つ。だが、またしてもそれは 鏡を砕いただけだった。 はぁはぁ、いったいどこなの…… 今の二度の発砲でティシアの呼吸が俄然激しくなった。 <ふふふふふ、どこ狙ってんの。こっちよ、こっち> どこからか女の声がした。美佳の声かどうか判別が付かない。た だ部屋全体に声が響きわたっているようだった。 「出てこい、美佳!」 ティシアは叫んだ。 <目の前にいるじゃない。あはは、馬鹿みたい> そのからかうような声と共に鏡に次々と人影が浮かび上がる。そ の姿は四方八方の鏡から破片に到るまで映っていた。 ティシアは所構わず鏡に向けて銃を発砲していった。 うっ! ティシアはついに膝の力を失い、地面に両手と一緒についた。 <なぁに、もうギブアップ。仕方ない、姿を見せてあげよう> そんな声がしたと思うと、ティシアの目の前に誰かが近寄ってく る気配を感じた。 ティシアは顔を上げた。 「おまえは……」 「早坂秋乃でーす、ごきげんいかが」 秋乃がひょいと手を上げ、右目でウインクした。 「貴様ぁ!」 ティシアは懸命に力を振り絞って、赤銅銃の銃口を秋乃に向けた 。 「おお、こわ。逃げよ、逃げよ」 秋乃はジョギングのような足取りでとっとと逃げる。 「待て!」 ティシアも立ち上がり、秋乃のあとを追った。 秋乃はまるで遊んでいるかのように、ティシアとの距離を常に一 定の保ちながら、逃げていた。 ティシアはこのまま行けば、人間を操るどころか、自分の活動魔 力まで使い果たしてしまいそうだったが、目の前の秋乃を追跡する ことに気を取られ、力のセーブを忘れていた。 いったいどこまで行く気なの…… ティシアの足はもうふらふらだった。そして、もうファレイヌと 人間の肉体が分離する直前に来た時、秋乃の姿を見つけた。 秋乃は袋小路に立っていた。ティシアのいる方向以外には逃げ道 はない。 「ついに追い詰めたわ」 ティシアは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 「あ〜あ、追い詰められちゃった」 秋乃は観念した様子もなくペロッと舌を出した。 「美佳は殺れなかったが、おまえだけでも始末してやるわ」 ティシアは赤銅銃の銃口を秋乃に向けた。 「ちょっとちょっと、そんなことしてていいの?」 秋乃が後ろの鏡に立て掛けた杖を手にして、言った。 「何を言っても無駄だ」 ティシアはひき金に指をかけた。 「下よ、下!」 秋乃が杖でティシアの足下を示した。 「ん?」 ティシアは足下を見た。 これは!! ティシアは魔法陣の円の上に乗っていた。 「ティシア、お別れよ。FAIRE DEFLAGRATION! !」 秋乃がえいとばかりに杖を魔法陣の円へ投げ込むと、ゴオォォと いう振動と同時に魔法陣内の地面が盛り上がった。 まさか。 ティシアの顔が恐怖に引きつった。 ドゴオオオオォォーン 次の瞬間、魔法陣が火山のように噴火した。まるで一本の大木が 地面から突き出たかのように激しい炎はティシアを飲み込むと、一 気に天井を突き破り空まで達した。 「たぁまやぁーー」 秋乃は大声で言った。 炎は花火のようにそのまま上空まで昇り詰め、闇の中に消えた。 噴火した場所にはもう魔法陣の跡すら残っていなかった。 穴のあいた天井からは雨が入ってきた。 「いったい何があったの」 少しして美佳が秋乃のところへ駆けつけてきた。 「遅かったじゃない、美佳さん」 秋乃は文句を言った。 「ミラーハウスに入ったはよかったんだけど、見取図をなくしちゃ って。さっきまで迷ってたのよ」 美佳は申し訳なさそうに頭をかいた。 「全くドジねぇ」 「それより今のは何なの。何か物凄い音がしたみたいだけど」 「これが私の作戦よ」 「え?」 「本当は美佳さんにここまで誘き寄せてもらいたかったの」 秋乃は魔法陣のあったところを指差し、「だけど、いつまでたっ ても美佳さんが来ないし、その間にティシアがミラーハウスに入っ てくるしで、しょうがないから私が誘き寄せて始末したってわけ」 「始末?ティシアは死んだの?」 「死んではいないけど、塵になったわ。復帰するには相当かかるん じゃない」 「いったい何をやったの?」 「ティシアが魔法陣の上に乗ったところで、爆裂の呪文を浴びせた の」 「爆裂!!」 「そっ。美佳さんも見たでしょ」 「音だけで見てないわ」 「そっか。まあ、要するにティシアの足下で火山が噴火したと思っ てくれればいいわ」 「何であんたがそんなことできるの?」 「だって、私、魔法使いだもん」 「うそぉ」 「嘘ついてどうすんのよ」 「だったら、何で助けてくんないのよ。自分一人だけ逃げちゃって 。私、殺されるところだったんだからね」 「逃げたんじゃなくて、準備してたの。だから、見取図だってちゃ んと渡したじゃん」 「そんな面倒くさいことしなくたって、直接やってくれればいいで しょ」 「私は間接魔法しか出来ないの」 「不便ね」 「いいじゃん、勝ったんだから」 折角、美佳さんに喜ばれると思ったのに。何で私が怒られなきゃ いけないの 美佳の一言で何となく勝利の解放感を削がれてしまった秋乃だっ た。 16 死の境界線 一方、J大付属病院では−− 警備事務室の入口では、貴美子が警備員の死体を前に茫然と立ち 尽くしていた。 警備員は胸に細いナイフを突き立てた状態で仰向けに倒れていた 。胸の傷以外は外傷はなく、抵抗した様子もない。ただ恐怖に引き つるかのように目を見開き、口を開けていた。 室内は全く荒らされていない。 「警察に報せなきゃ」 貴美子は死体を避けながら、遠回りに事務机の上の電話に手を伸 ばした。 死体を横目に、貴美子は受話器を手にして「110」とプッシュ ボタンを押した。 トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル…… 三回の呼出し音の後、電話がつながった。 「もしもし、警察ですか。人が殺されてるんです」 貴美子は早口で言った。 『そちらの名前は?』 「私は……」 名前を言いかけて、貴美子は言葉を止めた。 名前か……困ったわ 「あのぉ、名前は言えません。とにかくJ大付属病院の警備員室で 警備員が胸を刃物で刺されて殺されてるんです。早く来てください 」 貴美子は無理矢理、電話を切った。 ちょっと強引だったかな。でも、これで警察が来てくれるわ。さ ぁて、早く昭夫のところへ行かなくっちゃ 貴美子は急いで警備事務室を出た。 外へ出ると、サーという雨の降る音が聞こえてきた。かなり強い 音だ。 あれ、雨かしら。 貴美子は空を見上げた。しかし、雨が落ちてくる様子はない。空 はただ闇に包まれている。 おかしいわね 貴美子は耳を澄ました。すると確かに雨の音が聞こえてくる。し かも、門の外からだ。 「変ね」 貴美子は不思議に思い、門の外へ出てみた。 これは…… その瞬間、貴美子はまた口を手を覆うような衝撃的な場面に出く わした。 何と赤い境界線の向こう側でどしゃぶりの雨が降っていたのであ る。しかも、その雨は境界の内側には全く入ってこない。 どうなってるの。ここがあの女の言っていたように異次元の世界 だってこと?でも、警察にはちゃんと電話でつながったじゃない。 貴美子は何が何だかわからなくなった。 その時、パトカーのサイレンが貴美子の背後で突如鳴り響いた。 貴美子はびっくりして、振り向く。見ると、一台のパトカーが止 まっている。 いつの間に来たんだろう。それに電話してから、一分もたってな いわ。 貴美子は訝りながらも、パトカーの方へ近づいた。 パトカーの右のドアが開いた。運転席から一人の制服を着た警官 が現れた。警官は制帽をやや深く被り気味というくらいで、特に変 わった様子はない。 「あなたが通報された方ですね」 警官は無表情で尋ねた。 「え、ええ」 そう聞かれては違うとも言えず、貴美子は頷いた。 「パトロール中に無線で報せが入り、すぐに駆けつけたんです」 「そうだったんですか」 貴美子は心強い仲間が出来たように安堵感が広がった。 「失礼ですが、現場はどこですか」 「あ、こっちです」 貴美子は率先して警官を案内しようとした。 「この警備員室です」 貴美子が警備事務室のドアを開けようと、警官に背を向けた時だ った。 これまで無表情だった警官の顔が狂気に変わった。 右手に隠し持っていた小型のナイフを振り上げ、背後から貴美子 に襲いかかった。 「きゃあああああ!!!」 J大病院で第二の悲鳴が暗黒の空に轟いた。 「ああ、眠れなぁーい」 律子は隣の病室に聞こえるほどの大声を上げ、飛び起きた。 すでに消灯となった病室。 律子はベッドで一人、眠れない夜を過ごしていた。 大声を上げても、すぐにしーんと静まり返る。誰一人、文句を言 う者もいない。 律子は極度にいらいらしていた。 今夜、自分が殺されるかもしれないというのに、相変わらずギブ スに固定されてベッドの上。動くに動けずただ待つだけ。 ああーん、これじゃあ死刑を待つ囚人みたいじゃない。どうせ死 ぬなら愛する男の人に抱かれて死にたかったのにぃ。黙って殺され た挙げ句、そこが病院で、そのまま死体解剖へ直行なんて冗談じゃ ないわ。 律子は頭を掻きむしった。さっきから何度も同じ事の繰り返しで ある。 「今頃、美佳、どうしてるかしら」 律子はまた体をベッドに戻し、閉まっている窓を見つめながら、 呟いた。 時は午前十二時二十分。 病院内はまだ至って静かであった。 「もう寝よ。あと、僅かの命だもん」 律子は布団を被った。どうせ眠れないとはわかっているものの、 いつ来るとも知れないその時を待つだけの図太い神経は律子にはな かった。 カツーン、カツーン とその時、廊下を歩く靴音が聞こえてきた。昼間なら気にもとめ ないような音だが、深夜でははっきりと聞こえる。 律子はその靴音を黙って聞いていた。特に意識しなくても、耳に 入ってくる。 靴音は律子の隣の病室で止まった。そして、ドアのノブを回す音 。ドアを開ける音。それから、また中へ入ってゆく靴音。 いったい誰かしら。看護婦の見回りにしては早いし。ナースコー ル?それにしても随分、ゆっくりした足音だわ。 確か隣の病室は私と同じ足を骨折した女の子だったわよね。 律子は隣の病室の物音にじっと耳を傾けている。何かやっている ような音がするが、よくわからない。 やがてまた靴音が聞こえ、それは部屋を出ていった。 そして、その靴音は今度は律子の方へ近づいていった。 やっぱり看護婦の見回りかしら。 律子は唾を飲み込んだ。何か割り切れない不安が胸に渦巻いてい る。 その靴音は律子の病室の前で止まった。 ドアのノブを回す音と共にドアが静かに開く。カーテンに看護婦 らしき人影が映った。 何だ、やっぱり看護婦さんか。 律子は目を細めにして、眠ったふりをした。 その影はやはり看護婦だった。看護婦は病室に入ってくると、ベ ッドに寝ている律子の傍に近寄った。 律子は何をするのだろうと伺っていると、突然、看護婦はポケッ トから小型のナイフを取り出し、振り上げた。 な、なによぉ 律子は思わず目をぱっと開けた。 看護婦は一気にナイフを律子の胸に向けて、降り下ろす。 「きゃあああ」 律子は悲鳴を上げた。それと同時に律子は反射的にギブスをした 足を思い切りひねって、看護婦にギブスキックを浴びせた。 岩のように固いキックを顔に浴びた看護婦はナイフを落としたば かりか壁に叩きつけられ、気絶した。 「何すんのよ、あんた」 律子は倒れた看護婦に文句を言った。 だが、次の瞬間、看護婦はガス化し、肉体が消えてなくなってし まった。 「あ、あわわ」 律子はあまりの出来事に声にならなかった。 「ははははは、律子、とうとう地獄へ行く時間よ」 病室の入口に一人の女が姿を現した。 「マリーナ……ね」 律子はその女を睨み付けた。 「あなたを殺すために私は最高のアトラクションを用意したわ。名 づけて”CONFINS DE MORT”よ」 「日本語で言いなさい、日本語で」 「ふふふ、そんな呑気なことがいってられるのも今のうちよ。ここ は死者の世界。あなたたちは全員、死者によって死者となるのよ」 「どういうこと?」 「私はこの病院の敷地内に死線を張り巡らしたわ」 「死線?」 「そう、人間の生と死の境界線。私は現世の病院をその対局にある 霊界の病院と場所だけ移し変えたの。人はそのままにね」 「?」 「まだわからない。あなたのいる病室は数時間前までいたあなたの 病室とは違うのよ。つまりあなたは死者の世界の病院に勝手に入っ てきた侵入者。だから、当然、その領域を侵した侵入者に死者たち は罰を与えるわ」 「罰って……」 「この世界の住人になってもらうことよ、死んでね」 マリーナはにやりと笑った。 「まさか、それじゃあ、この病院の人達は−−」 「そうよ、みんな死ぬわ」 「ひ、ひどい、気違いよ、あなたは」 律子は言葉が震えた。 「何とでも言うがいい。これも全ておまえが死ななかったのが悪い んだ」 「許せない」 律子の目には涙が溢れていた。 「許せなかったら、どうするというの。ここは死者の世界。フェリ カはこの世界へは入れないわ。なぜなら、彼が一度、この世界に足 を踏み入れたら、二度と現世へは戻れないんですものね」 「彼の助けなんかいらないわ。私は、あなただけは絶対許さない。 本当は今夜、あなたに殺されてもいいと覚悟してた。けど、気が変 わったわ」 律子の憎しみのこもった瞳にマリーナは一瞬、怯んだ。 「ふっ、そういうことはこの世界を出られたら言うのね。そうした ら、相手になってあげるわ」 マリーナはそういうと、病室を出た。 「待ちなさい」 律子は追いかけようとした。だが、とたんに足に激痛が走り、の バランスを失って、前のめりに倒れ込んだ。 17 恐怖の病院 「随分と雨が降ってきたわね」 美佳はゴォーという雨の音に耳を傾けながら呟いた。 雨はいつしか機関銃のように地面を叩きつけていた。すでに雨水 は地面に川のように流れている。 秋乃と美佳はミラーハウスの正面広間に二人で並んで立っていた 。 「姉貴、心配だなぁ」 「そうね」 二人は豪雨の空を見つめた。空はもう雨で暗い色という以外はよ くわからなかった。 「どうする?」 しばらくの沈黙の後、秋乃は美佳に聞いた。 「すぐに姉貴のところへ行きたいよ。凄く心配だもん。それに早く 妙子も助けてあげたいし−−でも」 「ミレーユのこと?」 秋乃が美佳の顔を覗き込んだ。 「そう。まだ園内にいると思うと、迂闊に飛び出せないし」 「ミレーユならもう逃げたんじゃない。襲う気があるなら、とっく にここへ来てるもの」 「待ち伏せしてるかもよ」 「怖いの?」 「怖くなんかないわ」 美佳は秋乃の方を見た。 「だったら、迷うことないじゃん。行こう、J大病院へ」 秋乃が右目でウインクする。 「そうね」 「よし、決まった」 「じゃあ、園の入口まで競争よ」 「うん」 美佳と秋乃は一斉にミラーハウスを飛び出した。 この時、豪雨の中を走る二人には、J大病院で何が起こっている かなどまるで想像もつかなかったに違いない。 「全くどうなってるんだ」 昭夫は病院の更衣室に逃げ込むと、すかさず鍵をかけ、そばにあ った机や椅子をドアの前に重ねた。 こんなことがあっていいのか、こんなことが 昭夫にはまだ十数分前まで起きていた出来事が信じられなかった 。 警備事務室のところに貴美子といた時、悲鳴を聞いて慌てて病院 の正面入口の前に駆けつけてみたら、警備員が倒れていた。彼は胸 にナイフを突き立てて、仰向けになって死んでいた。そう、確かに 死んでいたんだ。 俺は誰か呼ぼうと正面入口の自動ドアを叩いた。そうしたら、あ の警備員が突然、起き上がって俺を後ろからナイフで刺そうとした んだ。 あいつは人間の目じゃなかった。何か化け物の目だ。 俺が奴を殴り倒すと、奴はガスになって、服だけ残しどこかへ消 えてしまった。 それで済んだのなら、どれだけ救われたか。今度は正面の自動ド アが開いて、異様な赤い目をした人間どもが一斉に俺に襲いかかっ てきた。 そいつらが何者で、何のために俺を狙うのか、そんなこと、俺に はわからない。ただわかっているのは、じっとしていたら、俺はや つらの仲間にされるということだ。 やつらは俺が逃げる途中でも他のまともな人間を襲っていた。 きっとやつらはゾンビが何かなのだろう。 ああ、貴美子はどうしてるんだろう。無事ならいいけど。 昭夫は壁にもたれた。 ドンドンと外からドアを叩く音が何度も続く。 「畜生、どうしたらいいんだ」 昭夫は左手の平に右拳を打ち込んだ。 <アハハハ……ウフフフ……ヘヘヘヘ……> 更衣室の天井から何人かの笑い声が聞こえてきた。 急についていた電灯がちかちかとつきが悪くなり、ついに消えて しまった。 <アハハハハ> 幾つもの青白い霊体が天井を飛び回っている。 霊体は昭夫をからかうように、時々、昭夫の顔の前を飛んでは、 その恐ろしい形相で驚かしていた。 「もうやめてくれ」 昭夫はしゃがみこみ頭を抱えた。 その時、すうっと何かが昭夫の回りを囲んだ。 昭夫が少し顔を上げると、いつの間にか昭夫は四方を何十体とい う化け物に囲まれていた。 「昭夫、昭夫」 どこからか聞いたことのある声がした。 昭夫が声の方を見ると、そこには貴美子が立っていた。 彼女は生気のない青白い顔をし、眼鏡をしていなかった。 「貴美子……」 昭夫は呟いた。 「昭夫、会いたかったわ」 貴美子は笑った。 「お、おまえ」 昭夫は反射的に体を引く。 「昭夫、この病院はね、生きてる人間がいちゃいけないんだって。 ほら、バスの停留所であの女が言ってたことってそのことだったん だよ。でもねえ、心配しなくてもいいのよ。死ねば、ここにいられ るんだから。私も死んじゃったし、昭夫も早く死んで」 貴美子が昭夫に近づいた。 「い、嫌だ」 「私のこと、嫌い?一緒にいたくないの」 貴美子は昭夫の前でしゃがんだ。 「貴美子、俺は死にたくない。助けてくれ」 昭夫は懸命に祈るように手を合わせた。 「大丈夫、痛みなんてほんの一瞬なんだから」 貴美子はどこからかナイフを取り出した。 「やめろぉ!」 昭夫は目をつぶって貴美子を殴った。 「あっ……」 貴美子の顔が昭夫の拳で歪んだ。「顔が……」 その瞬間、貴美子の顔が崩れ、ガス化した。そして、天井を舞う 霊体に変化した。 「貴美子……」 昭夫は目は涙でいっぱいになった。 だが、昭夫にはもう生への猶予は残されていなかった。 昭夫を取り囲む死者たちが一斉にナイフを抜いたのである。 一方、同じ病院内の律子は松葉杖をつきながら、懸命に廊下を歩 いていた。 どれだけの人間が残ってるのかしら 律子は病室のドアを通り過ぎるたびにそう思った。 廊下の天井には気味の悪い笑い声を発している浮遊霊でごった返 していた。特に律子を襲う様子はないが、律子の前や後ろを横切っ たり、律子の足にまとわりついたりと、決して律子にとっては気分 のいいものではなかった。 こいつら、いったい何なの 律子は歩きながら、時折、浮遊霊を追い払おうと手を出すが、全 て素通りしてしまう。 どうなってるのかしら。さっき、私を襲った看護婦とこの幽霊は 別物ってこと?でも、あの看護婦も私の蹴りで浮遊霊になってしま ったのよね。ということは−− 「誰か、助けて!!」 ちょうど通りがかった病室の前で律子は悲鳴を聞いた。 中から激しい物音がする。 ここは一般病棟だわ。 律子は少し躊躇いながらも、ドアを開けた。 「いっ!!」 律子は思わず呼吸が止まった。 病室内にいた五、六人の男が一斉に律子へ顔を向けたのである。 その男たちは三十から五十才くらい、寝巻姿で、明らかに数時間前 までは患者だったはずである。しかし、今は死体と化していた。 「はは、お邪魔だったかしら」 律子はゆっくりあとずさる。 「ぐわぁぁ」 男たちは右手にナイフを手にし、一斉に律子に襲いかかった。 「冗談でしょ」 律子は慌ててドアを閉める。 だが、所詮、多勢に無勢。律子はドアを支え切れず、押し返され てしまった。 「いたぁい」 律子は床に尻餅を付いた。「少しは手加減を−−」 目の前には五人の死者が立っていた。みな既に生気はなく真っ白 い顔をしており、胸は血で滲んでいる。それぞれが手にした小型ナ イフは不思議なことにどれも同じ型だった。 「お話しましょ」 律子が無理に笑顔を作って、言った。 「話?話はいい、おまえとやらせろ」 一人の死者が言った。 結婚前の乙女に向かって何てこと言うのよ。でも−− 「いいわ、一人ずつよ」 「よし、俺だ」 一人の死者が前にでる。 「待て、俺が先だ」 すぐにもう一人がしゃしゃりでる。 「何だとふざけるな」 「うるせえ、俺が先に言い出したんだ」 などと言いながら、五人の死者がほとんど生前と変わらないよう な喧嘩を始めた。 チャンス、チャンス 律子はそおっと立ち上がり、杖を手にした。そして、杖を水平に 構えると、思いっきり振り回した。 杖が何人かの頭に直撃する。 「ぐわぁ」 不意打ちを食らって、何人かが倒れた。 一人の死者がショックでナイフを落とすと、途端にその死体がガ ス化し、浮遊霊に変わった。 そうか、ナイフが弱点ね。 律子は間髪を入れず、杖で倒れた男の手を叩き、ナイフを取り払 った。するとその男は思ったとおり、ガス化して浮遊霊と化した。 残るは三人ね。 そう思った時、突然、足に激痛が走り、ガクッと膝を落とした。 死者たちは表情を変えず、ゆっくりと向かってくる。 こりゃあ、THE・ENDだわ 律子は死を前にして苦笑した。 「やめろぉ」 その時、死者の背後から声が聞こえた。と突然、死者たちの一人 が頭を抱え、律子の方へ倒れてきた。 「いやぁ」 倒れてくる死者の顔に律子はショートフックを打ち込んだ。 プシュー その死者もガス化し、浮遊霊となる。 「このぉ、このぉ」 その声に律子がその声の方を見ると、八才くらいの少年が律子の 持っていたもう一つの松葉杖で死者を殴っている。 さすがの二人の死者もその攻撃にナイフを落とし、ガス化した。 「ふぅ、助かった」 律子は額の冷汗を拭いた。 「お姉ちゃん、助けてくれてありがとう」 その男の子が律子のところへ寄ってきて、言った。 「お礼を言うのは、お姉ちゃんの方よ。君の名前は?」 「ボクは野村勇太。お姉ちゃんは?」 「私は椎野律子。それより、さっき助けを呼んだの、キミ?」 「うん。ボクが寝てたら、何か騒がしくなって、それで起きたら、 みんなが喧嘩してるんだ。ボク、何してるのかと思って見てたら、 おじさんたちがボクを殺そうとしたんだ。だから、ボク、ベッドに 隠れたんだ」 少年の説明は決してわかりやすいものではなかったが、律子にも 何となく理解は出来た。 「勇太君は何の病気で入院してるのかしら」 「わかんない」 勇太は大きく首を横に振った。 「そう」 「はい、お姉ちゃん」 勇太は律子に片方の松葉杖を渡した。 「どうも」 律子は松葉杖を使って、立ち上がった。 さて、これからどうしようかしら。まだきっとこの子みたいに生 きてる子がいると思うけど、この体でまた死者たちと戦えるかどう か。 律子はちょっと考え込んだ。 「お姉ちゃん、こわいよぉ。早く逃げようよぉ」 勇太は天井を彷徨う浮遊霊に脅え、律子のパジャマのズボンを引 っ張った。 そうね、今はあれこれ考えてる暇はないわね 「わかったわ。行きましょう」 律子は勇太と共にエレベーターへ向かって歩き出した。 その間、さらにいくつかの病室のドアの前を通り過ぎたが、もは や律子にそのドアを開ける勇気はなかった。 律子たちがエレベーターの前に来た時、エレベーターの階数ラン プは上昇していた。 二階、三階、四階−− エレベーターの階数表示を見るに付け、律子の脳裏に不安が過っ た。 「勇太君、上に行くわよ」 律子は勇太の肩を叩いた。 「でも、お姉ちゃん、足は……」 勇太が律子を見上げる。 「いいのよ」 律子は無理矢理、勇太を急かせ、すぐ隣の階段を昇り始めた。 それと同じくして、エレベーターのドアが開く。 「ぐわぁ」 中からは死者たちが奇声を上げて、一斉に溢れでた。 律子はそれを耳にしながら、懸命に階段を昇っていた。 つづく