第8話「対決」中編 11 対決迫る 「ねえ、私達、いつまでここにいればいいわけ?」 早坂秋乃は少々くたびれた様子で言った。 「仕方ないでしょ。他の場所でもし警備員に見つかったら、どうす るのよ」 「それはそうだけど、トイレの中に二人っきりっていうのも」 秋乃は高い四方の壁を見回した。 「だったら、来なきゃよかったのよ。私一人でよかったんだから」 美佳は小声で文句を言った。 二人はK遊園地内の女性トイレの中にいた。 四方を高い壁に囲まれた狭いスペースに二人で便座の上に腰掛け ている様子は何とも寂しいものがあった。 遊園地の閉園前に入場し、約束の時間までトイレに隠れていると いうのが美佳の計画だったが、実際、やってみるとかなりの無理が あった。 長くいると、やはり普通の部屋の臭いとは違うし、さらに冷える 。季節はもう夏に近いとはいえ、まだ夜は寒い。 「今、何時?」 秋乃は聞いた。 「十一時よ」 美佳は今時珍しい発光ダイオード表示の腕時計を見て、言った。 「後一時間か」 秋乃は溜め息を付いた。遊園地は七時閉園なのである。 「何かお腹減ってきちゃったね」 美佳は腹を押さえて、言った。 「そう?わたしはとてもトイレで物を食べる気にはならないけど」 秋乃は寒そうにコートにくるまった。「わたし、寒いの苦手だな 」 「寒いと思うから、寒いのよ」 「といいつつ、美佳さんだってジャンパーを着てるじゃない」 「これは秘密兵器よ」 「秘密兵器?このジャンパーが?」 「そうよ。それより、本当に何にも食べない?おにぎり、持ってき たんだけど」 といいながら、美佳はリュックから弁当箱を取り出した。 「一人で食べて」 秋乃は美佳に背を向けた。 「あっそう」 美佳は一緒に持ってきたウェットティシュで手を拭いて、おにぎ りにありついた。 しばらく秋乃はピンク色の壁を見つめながら、美佳の食べる音を 聞いていた。 「少々、見直したわ」 秋乃が口を開いた。 「何を?」 「これから、化け物と戦うっていうのに。こんなに落ち着いちゃっ て」 「今更……秋乃が気楽に行こうって言ったのよ」 「そりゃそうだけどね」 「ジュース、飲む?」 美佳は缶ジュースを秋乃に勧めた。 「ありがと」 秋乃はジュースの方は受け取った。 「私だってさ、もちろん怖いよ」 美佳は上を見て、言った。「でも、怖いのと同時に凄くわくわく する気持ちもあるんだ。何かこうジェットコースターに乗る感じ」 「遊びじゃないわよ」 珍しく秋乃が真剣に言った。 「遊びよ。遊び気分でなきゃこんなことやってられない。そうでし ょ」 美佳は強い口調で言った。 「そうね」 秋乃は美佳の方を見た。「わたしの方がどうかしてたわ。わたし の方から戦うのをけしかけておいて、今になって弱気になるなんて 」 「ううん。それはあなたが彼らのことをよく知ってるからなのね。 私は全く知らないから、その怖さが把握できないのよ。歯医者で歯 を削られる時の怖さぐらいにしか考えてないんだから」 美佳は苦笑した。 「美佳さん」 秋乃は美佳の手を握った。 「ん?」 「あなたを絶対殺させやしないわ」 「最初は死んでもいいと思ってたの?」 「そうじゃないけど。とにかく、がんばろ」 「う、うん」 美佳は何だかこれからスポーツの試合でもやるような気分になっ た。 12 奇妙な女 同じ頃、バスの停留所のベンチに一人の若い女が座っていた。年 の頃は二十二、三。顔立ちはまだ子供っぽさが残り、丸い眼鏡をか けている。そして、化粧っけはなく、髪は後ろで束ねている。 彼女は腕のキャラクター時計を見ながら、そわそわしていた。 「全くどこまで探しにいったのかしら」 女は呟いた。口に出してもどうにもならないことがわかっていて も、つい口に出てしまう。 「ああ、もう十一時じゃない」 女はベンチをぽんと叩いて、夜空を見上げた。空は今にも雨が降 り出しそうなほど重い雲でいっぱいだった。 大体、昭夫がいけないのよ。夜の横浜を見に行こうですって。冗 談じゃないわ。だったらちゃんと車の整備ぐらいしとけっての。折 角のデートなのに車がエンストだなんて!バスはもう終わりだし、 タクシーは来ないし。これで雨が降ってきたら、最悪だわ。 女は心の中で文句ばかり言いながら、タクシーを探しにいってる 相手の苦労などこれっぽっちも考えていなかった。 ガリガリガリ…… ふと、どこからか地面を何かで引っ掻くような音が聞こえてきた 。 今までたまに車が通る音を除けば、虫の音一つしない静けさだっ たので、彼女の耳にはその音は妙に耳障りだった。 何かしら。 女は黙って、その音に耳を傾けた。 ガリガリガリ…… その妙な音はやまない。いや次第にはっきり聞こえてくる。 塀の向こうからかしら。でも、塀の向こうは病院だし…… 女は訝しげに顎に手を当てた。 とその時、通りの右側の角から誰かが出てきた。 それは実に妙な光景だった。女が−−その女がスカートを履いて いるところから女と判断したのだが−−中腰で、手に何かをもって それを地面に押しつけながら、後ろ向きに歩いてきたのである。 何をやってるのかしら。 彼女は、その音が女の手にした何かを引きずっている音だと言う ことはすぐに理解した。だが、その理由が分からなかった。 その女は黒いワンピースを着た髪の長い女だった。 女は彼女の方へと歩いてくる。 気味悪いわ。どうしよう、こっちへ来るみたい。早く昭夫、戻っ てこないかな 彼女は急に不安になった。 その女は彼女のことに気付いた風でもなく、黙々と行動を続けて いる。 こんな時、他に人がいれば、彼女も安心したろうが、今、この場 には二人しかいなかった。 どうしたらいいんだろう。 彼女はその場から逃げたかったが、もし相手が襲ってきたことを 思うと、動くに動けなかった。 女は彼女の手前まで来ても顔一つ上げなかった。時間にして僅か 一分たらずに過ぎなかったかもしれないが、女が自分の前を通る間 、彼女は生きた心地がしなかった。 しかし、ここで一つだけわかったことがあった。それは女がチョ ークのような物で線を引いていたという事である。 「よ、お待たせ」 突然、彼女の肩に何者かの手が乗った。 「きゃあ」 彼女は思わず悲鳴を上げ、身を引いた。 「何、驚いてんだよ」 昭夫は呆れた様子で言った。 「び、びっくりするじゃないよ」 彼女は顔面蒼白になりながら、言った。 「おい、そんなに驚いたのか。ごめん、ごめん。それより、タクシ ー、つかまったぜ」 「そう……」 彼女は今のことで呼吸が大きく乱れていた。 「貴美子、大丈夫か」 昭夫はちょっと心配になった。 「私のことより、あれを」 貴美子は振り向いて、黒いワンピースの女を指差そうとした。− −だが、そこにはもう誰もいなかった。 「どうした?」 「変な女がいたの」 「変な女?」 「線を引いていたのよ、チョークで」 貴美子は地面を指差した。 確かに貴美子の一メートル手前に赤い線が引かれている。 「本当だ。道に沿って真っ直ぐ伸びてるな。どこまで続いてるんだ ろ」 「わからないわ。その女は右の角から曲がってきたのよ」 「ふうん、面白そうだな、線を辿ってみるか」 「止めてよ、そんなこと」 貴美子は声を上げて、否定した。 「怖いのか」 「怖いわよ」 「臆病なんだな」 昭夫は馬鹿にしたような笑いをして、赤い線の上を飛び越えた。 「本当に行くの?」 「もちろんだよ」 「嫌よ、私は。あなたが行くんなら、私、帰る!」 貴美子はベンチから立ち上がって、帰ろうとした。 「おい、待てよ」 昭夫は貴美子が本気で怒ったのを見て、慌てて追い掛けようとし た。だが−−戻れなかった。 「貴美子、貴美子!」 昭夫の叫びに貴美子は振り返った。 「何よ」 「出られなくなった……」 「何、言ってるの?」 「線の外側に出られないんだ」 昭夫は真剣な顔で言った。 「また、冗談ばっかり。そんなこと言ったって、私は行きませんか ら……」 貴美子は言葉を切った。 昭夫が本気になって線上の見えない壁を叩いているのである。 「本当なの?」 貴美子は信じられない様子で言った。 「いったいどうなってんだ」 昭夫は線を出ようとするが、それはまるで硝子の壁に体を押しつ けているようだった。 「どうしたらいいの?」 「人に知らせてきてくれ。どうやら線の内側に閉じ込められたみた いだ」 「いったいどうしてそんなことが−−」 貴美子は「今の科学の発達した時代にそんな不思議なことが起こ るはずはない」と続けたかった。だが、目の前に光景は明らかに事 実だった。 「し、知らせてくるわ。待ってて」 貴美子は思いを決めて、その場を離れようとした。その瞬間、何 者かが素早く貴美子の前に立ちふさがった。 「!!」 貴美子は思わず声を失った。 そこには黒いワンピースの女が立っていた。 「どこへ行くのかしら」 女は甘い声で言った。 「それは……」 貴美子は一瞬、言葉に詰まったが、「それより、あれは何なの? 昭夫をあの線から出して!」と勇気を振り絞って言った。 「無理な相談ね。悪いけど、あなたにも入ってもらうわ」 女は貴美子を突き飛ばした。その力は物凄く、あっという間に線 の内側まで飛ばされた。 「貴美子」 昭夫は路上に倒れた貴美子をすぐさま、抱き起こした。 「いったい何の真似だ?」 昭夫は女を睨み付けた。 「公にしたくないのよ、明日の六時まではね」 「?」 「大丈夫、明日の朝には出られるわ、生きていればね」 女は笑った。 「昭夫」 貴美子が昭夫に抱きついた。 「一つだけいいことを教えてあげるわ。あなたのいるところは異次 元の世界。常識は通用しないわ。それじゃあ、縁があったらまた会 いましょう」 女はそういうと、二人に手を振って、その場を去っていく。 後に残された二人はしばらく口も聞けず茫然としていた。 あの女はいったい何者なのか。なぜ自分たちはこんなところに閉 じ込められているのか。いや、本当に閉じ込められているのだろう か?見えない壁なんて存在するはずはない。ひょっとしたら、今の 出来事は夢なのではないか。 二人は頭の中にそんな思いが錯綜した。 やがて、二人はお互いに頷きあって意を決すると、二人で一緒に 手を見えない壁に向かって差し延べた。 「ねえ、どうしよう」 貴美子は現実の壁を実感した途端、手を引っ込め、不安げに昭夫 を見た。 「あの女の目的は分からないけど、閉じ込められたのは事実みたい だ」 「私達、もう外へは出られないの」 「わからない、とにかく俺はこの線に沿って、歩いていってみるよ 。ひょっとしたら抜け道があるかもしれない」 「だったら、私も行く」 「貴美子はここにいろ」 「嫌よ、そんなの」 貴美子は首を横に振った。 「おまえはここで人が来ないかどうか見てるんだ。もし来たら、す ぐに助けを呼んでもらえ」 「でも……」 「ずぐに戻ってくる。心配するな」 昭夫はそういうと、優しく微笑んで貴美子の肩を軽く叩くと、赤 い線沿いに走っていった。 13 二人の敵 「そろそろ時間だわ」 美佳は腕時計を見て、呟いた。 午後十一時五十五分。美佳と秋乃はK遊園地内の観覧者乗り場の 前にいた。 園内はゴーストタウンのように静まり返っていた。 昼間は子供たちを楽しませる遊園地の乗り物も暗闇の中で全くの 制止状態だと妙に冷たく、不気味に見える。 「何か雨が降りそうね」 秋乃は夜空を見上げながら、呟いた。空はどんよりとした雲で覆 われている。 「秋乃、今ならまだ間に合うわ、帰りなさい」 美佳は言った。 「今更、何言ってんの」 「あんたが戦いに参加しても、無駄死にするようなものよ」 「そんなことないわよ」 「何か作戦でもあるの?あなたの身なりからすると、武器らしいも のも持ってないし」 「武器はこれよ」 秋乃はポケットから赤いチョークを取り出した。 「これってチョークじゃない。ふざけないでよ」 美佳は呆れるどころか、向きになった。 「別にふざけてないわ。私の作戦は一つよ」 「作戦?」 「戦いが始まったら、敵をミラーハウスの中まで誘き寄せて。うま くやってくれたら、美佳さんは勝てるわ」 「どういう意味、それは」 「それはお楽しみ。あっ、そうそうこれはミラーハウスの内部の見 取図よ。どうせなら印をつけてあるところまで誘き寄せてくれると 助かるけどね」 秋乃は美佳に見取図を渡した。 「呑気なこと言うのね。もし誘き寄せられなかったら、どうするの よ」 「それは美佳さん次第。美佳さんだって、作戦があるんでしょ。私 の作戦はそれが失敗したらでいいわ」 「まあ、当てにしてないけどね」 美佳は苦笑して言った。 とその時だった。 遊園地の照明がいっせいに点灯した。同時に観覧車やメリーゴー ランド、コーヒーカップなどが一斉に動き始める。 急に水を打ったような静けさが破られ、騒々しくなる。 「来るわよ」 秋乃が美佳に小声で言った。 遠くの方から二つの人影が現れた。 その影は美佳たちの方へゆっくりと歩いてくる。 「二人……まさか、そんな」 美佳の顔が急に険しくなった。 ティシアとマリーナかしら。どうしよう、二人じゃ勝ち目なんて ないよ。 美佳の不安をよそに影は確実に近づいてくる。その姿は次第には っきりしてきた。一人は青いジーンズに青いチョッキを着た若い女 。もう一人は黒い帽子を目深にかぶり、帽子の鍔で顔が全く見えな い黒いブラウスを着た女。 「あ、秋乃」 美佳はちょっと不安になって、隣にいる秋乃に声をかけようとし た。ところが、いつの間にか秋乃の姿がなくなっていた。 どうなってるの。にげちゃったのかしら。 さっきは帰れといったものの、いざ一人になると美佳は心細くな った。 もう戻れないわね。姉貴、どうやら私の方が先に天国へ行きそう よ 美佳は懐に手をやり、ホルスターの黄金銃のグリップを握りしめ た。 やがて二人の敵は美佳の数メートル前で立ち止まった。 「一人で来たようね。大した度胸だわ」 青いチョッキの女が言った。 「あなたがティシア?」 美佳はゆっくりとした口調で言った。少しでも気を抜くと声が震 えてしまいそうだった。 「そうよ。私は赤銅のファレイヌ。隣にいるのはミレーユ。水銀の ファレイヌよ」 「マリーナじゃないの?」 「彼女は律子を狙ってるんじゃない」 ティシアは悪戯っぽく笑った。 その言葉に美佳はカチンときた。 「約束は守ったわ。妙子の命を返して」 「あなたを殺してから、ちゃんと彼女に生命エネルギーは返してあ げるわ」 「それじゃあ、約束が違うわ」 「どうせあなたは死ぬのよ。今、受け取ったところで返しにいけな いじゃない」 ティシアはくすっと笑って言った。 「返してやれ」 ミレーユがぼそっと口にした。 「え?」 ティシアは意外といった様子でミレーユを見た。 「約束は約束だ」 「わかったわ」 ティシアは特に反発する様子もなく、首にかけた十字架を外し、 美佳の方へ投げた。 美佳はしっかりと受け取る。 「この十字架にその子の生命エネルギーを封印してあるわ。この十 字架の下の方をその子の口に入れて、『VOTRE VIE,RE VENIR CHEZ VOTRE PHYSIQUE』と三度唱 えれば、封印は解けるわ。まあ、もっともそう教えたところで無駄 でしょうけど」 美佳は十字架を首にかけた。 「一つだけ聞かせて」 「いいわ」 ティシアが答えた。 「あなたたちが私を狙う理由は何なの?」 その質問にティシアはすぐミレーユの方を見た。 「それをおまえが知る必要はない」 ミレーユはそっけなく答えた。 「私は死ぬかも知れないのよ。理由をきかなきゃ、死んでも死に切 れないわ」 「死なないかもしれんだろ」 ミレーユは不気味に笑った。 美佳は自分を殺そうとする相手からそんな言葉を聞こうとは思っ ても見なかった。 「さあ、もう話し合いは終わりよ。勝負を始めるわ」 ティシアの手にすうっと赤い粉末が集結して、赤銅の長剣を作り 上げた。 美佳は二、三歩、あとずさった。 ミレーユは微動だにせず、ただじっと美佳を見ていた。 「あなたには恩があるけど、これも宿命と思って、諦めてね」 ティシアは美佳の方へ足を進めた。 「恩があるなら、助けてくれてもいいでしょ」 美佳はさらにあとずさる。おもいっきり走って逃げたくても、一 度背中をティシアに見せたらやられる。そんな思いが美佳にはあっ た。 「あいにく、私は公私混同はしないたちなの。悪いわね」 ティシアは長剣の先を真っ直ぐ美佳に向けて、歩いていた。 何とかしなくちゃ、何とか 美佳は頭の中で考えを巡らした。 そうだわ 「あなたの剣は銃には変化しないの?」 「何ィ」 「黄金のファレイヌは拳銃だけど、あなたのは剣。同じファレイヌ でもレベルが違うのね」 美佳はずっとジャンパーの懐に右手をいれながら、あとずさって いた。 「馬鹿言うな、私にだって拳銃ぐらいにはなれる」 ティシアがそういうと、赤銅の剣がぐんにゃりと粘土のように曲 がると、今度はそれがリヴォルバーに変化した。 今だ!! 美佳はその変化の合間を縫って、ティシアに背を向け、思いっき り駆け出した。 「させるか!!」 ティシアは赤銅のリヴォルバーを両手で構え、美佳の背中に向け て、ひき金を引いた。 グォーン−− うねるような音と共に光弾が逃げる美佳へ向かって発射された。 「ああっ」 弾丸は数十メートル先を走っていた美佳の背中に命中し、美佳は 顔から突っ込むようにして前のめりに倒れた。 「余計な手間を取らせて」 ティシアはゆっくりと倒れている美佳の方に歩み寄った。 その間、美佳はぴくりとも動かなかった。 「どうやら死んだみたいね」 ティシアは美佳の前に立つと、赤銅のリヴォルバーを体に収めた 。 そして、右足で美佳の体を仰向けにしようとした。 その時だった。 仰向けになった美佳の両手には黄金のリヴォルバーが握られてい た。そして、その銃口ははっきりティシアの胸を捉えていた。 「なっ!!」 ティシアは驚愕の色を表した。 「もらったぁ!」 美佳は目をぱっと目を開け、リヴォルバーのひき金をひいた。 まさにティシアの絶体絶命の瞬間だった。 だが、黄金のリヴォルバーから弾丸は発射されなかった。美佳の ひき金を引く指が途中でとまっていた。 わざとひき金を止めたわけではない。いくら力をいれてもひき金 が動かなかったのである。 「う、うそぉ……」 美佳は思わず頼りない声を上げた。 「よくも私をこけにしてくれたわね。許さないわ!」 ティシアの怒りは頂点に達していた。「ただ殺すだけじゃ済まな いと思いなさい」 ティシアの手に再び赤い粉が集結し、長剣を作った。 美佳はその間にも顔を引きつらせて、懸命にリヴォルバーのひき 金を引こうとしていた。 何で動かないのよ。そういえば、姉貴がファレイヌは感情が高ぶ った時にしか撃てないって言ってたっけ。でも、こんな時くらいま けてくれたっていいじゃない 美佳は頭の中で文句を口走っていた。 ティシアは長剣を逆手に持ち、刃を真下の美佳へ向けた。真っ直 ぐ突き刺すつもりだろう。 ああ、もう駄目。神様、どうか苦しまずに死なせて 美佳は心の中で祈った。 //美佳さん、心を私に預けて え? //こころを無にするの 幻聴かしら。でも、従うしかなさそうね 美佳は目をつぶった。そして、全ての思考を止めた。 「死ね!」 ティシアが長剣を突き降ろそうとした瞬間、美佳の黄金銃のひき 金にかけた指が自然と動いた。 グォーン−− 黄金銃の銃口がほのかに光り、光弾が発射された。 それは剣よりも速く、ティシアの脳天を撃ち抜いた。 「ぐはぁ」 ティシアは後ろへ飛ばされ、倒れた。 美佳は素早く起きて、立ち上がる。 「このぉ」 額から血をたらしたティシアが剣を杖にしてむっくりと起き上が る。 「そう簡単に美佳さんは殺させませんわ」 美佳は強い口調で言った。 「魔気を感じるぞ。そうか、おまえは……エリナ。美佳に乗り移っ たのか」 ティシアもようやく立ち上がる。 ファレイヌは本体が粉末であるだけに操る人間の体は本来、やら れても平気だが、その人間の脳をやられた場合はその制御能力が落 ちてしまうのである。 「わたくしは争いは嫌いです。ティシア、勝負から手を引きなさい 」 「冗談じゃないわ、もう壺の中は真っ平よ」 ティシアがそういった時、ミレーユが二人のところへ近寄ってき た。 「だったら、わたくしから勝負を引きます」 そういうと、美佳はその場を走り去った。 「しくじったようね」 ミレーユがティシアに声をかけた。 「まさかエリナがいるとは……」 「エリナは魔気を隠すのが得意だ。仕方あるまい」 「私はもうこの体をうまく操れないわ。ミレーユ、後はお願い」 「ふふふ、本気?」 ミレーユが笑って、聞き返した。「おまえはまた負け犬になる気 。昔からちっとも変わってないわね。戦況が悪くなると、すぐに逃 げ出す」 「そんなことないわ」 「だったら、追うのよ。そして、美佳を殺すの。美佳を殺さないか ぎり、おまえは永久に仲間から負け犬と貶まれるのよ」 「でも、美佳がどこへ行ったのか……」 「奴の居場所ならわかるわ。ミラーハウスよ」 「ミラーハウス?」 「そう、私の遠視能力で奴がミラーハウスの前にいるのが見えるわ 」 ミレーユは目をつぶり、顔を空へ向けながら言った。 「わかったわ。美佳を必ず仕留めてやる」 ティシアはそういうと、少しふらふらとした足取りで、ミラーハ ウスの方へと走り出す。 「期待してるわよ、ティシア」 ミレーユはニタッと笑いながら、走り去るティシアの背中を見送 った。 14 恐怖の始まり 三十分後、昭夫は少し息を弾ませながら、走って貴美子のところ へ戻ってきた。 「どうだった?」 貴美子は早速、尋ねた。 「誰か人は来たか?」 昭夫は貴美子の質問に答えず、逆に聞いた。 「ううん、誰も来なかったわ」 「そうか……」 昭夫はその言葉を聞くと、急に疲れが出たかのように両手を膝に ついた。 「何かあったの?」 「いろいろね」 昭夫は少し呼吸を整えてから話し始めた。 「まずこの赤い線だけど、これはこの病院一帯を取り囲んでるみた いだ」 「J大学病院全部を?」 「そう」 「一体、何のために?」 「さあね」 「助けは呼べたの?」 「表門へ行ってみたけど、完全に閉まっているし、叫んでも警備員 さえ来やしないんだ。裏門も行ってみたけど、こっちも閉まってる 。道の途中でも人っ子一人会わないし、お手上げさ」 「それで戻ってきたの」 貴美子は急に不機嫌な顔をした。 「何だよ」 「どうして病院に忍び込んででも入らないのよ、一大事でしょ」 「そんなことしたら、つかまっちゃうよ」 「この際、捕まるとか捕まらないとかの問題じゃないでしょ。全く 呆れたわ」 「じゃあ、どうするんだよ」 「忍び込むのよ、こうやって」 貴美子は突然、ハイヒールをその場に脱ぎ捨てると、ジャンプし て塀の上に掴まり、足で塀を登り始めた。 「危ないぞ」 「だったら、そこに一人でいなさいよ。全く待ってて損した」 貴美子は塀の上まで昇ると、後は塀の内側へ一気に飛び降りた。 「来ないなら、先に行くわよ」 塀の内側から貴美子の声がした。 急に活動的になった貴美子に少々戸惑いながら、昭夫も塀を登り 始めた。 「やばくないかな」 病院の敷地内に侵入してからも、昭夫はまだそんなことを口にし ていた。 「昭夫って臆病なのね」 貴美子はきょろきょろ辺りを見回しながら、言った。 「馬鹿言え。俺はだな……」 「しっ!大きな声を出さないでよ」 貴美子は昭夫の言葉を制した。「ねえ、警備室ってどこにあるの かしら」 「正門のとこだろ。さっき、声をかけたけど、誰も出てこなかった ぜ」 「見回り中だったんじゃない?」 「多分な」 「行ってみよう。案内してよ」 「ああ」 昭夫を先頭にして二人は、正門の方へと歩いていった。 それから、十分が過ぎた。病院の建物があちらこちらと入り組ん でいるので、少々手間取った。 「あれだよ」 昭夫は門の傍にある警備事務室を指差した。 「何だ、電気がついてるじゃない」 貴美子は警備員室の窓から明かりが漏れているのを見て、言った 。 「やっぱり中から警備員室を訪ねるなんてまずいよ」 「何いってんの、今更」 貴美子は昭夫の言葉など気にも留めない様子で、警備事務室の方 へ歩いてゆく。その部屋の窓は閉まっていた。 貴美子は警備事務室の窓のところに来ると、一呼吸置いてから、 軽く窓ガラスをノックした。 「すみません」 貴美子は大きな声で言った。 しかし、返事はない。 貴美子はもう一度、ノックして声をかけた。 それでも、返事はない。しばらく待ってみたが、部屋から出てく る様子もなかった。 「どうした?」 遠くで見ていた昭夫も貴美子の方へ近づいてきた。 「出ないのよ。やっぱり見回りに出てるみたい」 「そうか、諦めて外で待とう」 昭夫はちょっとほっとした様子だった。 「何で?中に入って、待たせてもらえばいいじゃない。どうせ戻っ てくるんだから」 「ええっ、そりゃやばいよ」 「別に悪いことしてないんだからいいじゃない」 貴美子は図々しくそういって、警備事務室の脇へ回り、入口のド アへ手をかけた。 ぎゃああああぁぁぁ!!! その時、突然の悲鳴が闇夜を引き裂いた。 「な、何?」 貴美子はその悲鳴をすぐに理解できなかった。 「病院の方からだ」 昭夫が言った。 「何が?」 貴美子は聞き返した。 「悲鳴だよ、聞かなかったのか」 「そうだわ」 貴美子もようやく理解した。「何かあったのかしら」 「行ってみるか」 「その前に警察に電話しなきゃ」 「じゃあ、俺は先に行ってるぞ」 「うん。気をつけて」 「ああ」 昭夫は病院の建物の方へ走っていった。 「こういう時には頼りになるのよね」 貴美子はちょっと昭夫を見直した。「さてと−−」 貴美子は警備事務室のドアを開けた。 「すみません−−」 その瞬間、貴美子は口を右手で覆った。 しばらく声も出なかった。 警備事務室の中では警備員が胸に刃物を刺されて、殺されていた のである。 続く